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	<title>大和時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>大和時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>日本という名前の由来とは？　国号の由来とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/685</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 00:39:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[都市伝説]]></category>
		<category><![CDATA[国号]]></category>
		<category><![CDATA[由来]]></category>
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					<description><![CDATA[日本がいつから日本と呼ばれるようになったのか、日本の歴史を紹介します。 「古事記」とか「日本書紀」などという古い本には日本のことを「豊葦原瑞穂国」とか「大八洲（おおやしま）」などと書いてあります。 「豊葦原瑞穂国」という [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本がいつから日本と呼ばれるようになったのか、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>「古事記」とか「日本書紀」などという古い本には日本のことを「豊葦原瑞穂国」とか「大八洲（おおやしま）」などと書いてあります。</p>
<p>「豊葦原瑞穂国」というのはアシのよく生える瑞々しい稲の実る国という意味です。<br />
ところで実際にこの日本を1つにまとめたのは大和地方（奈良盆地）からおこったヤマトの国です。<br />
そのため古くは我が国のことをヤマトと呼んでいました。</p>
<p>しかし聖徳太子が天皇のことを日出処天子（ひいづるところのてんし）（太陽がのぼる東の方の国の天子）といったことなどから、やがて日本という国号（国の呼び名）が生まれてきました。</p>
<p>日本、つまり日のでる本の国というわけでしょう。<br />
日本という国号を正式に使ったのは大化の改新のときです。</p>
<p>しかし、この頃でも日本と書いてヤマトと読んでいたようです。<br />
これが時を経るにつれてニホンと発音されるようになり、室町時代頃からニホンとニッポンの両方の発音が行われてきたのです。</p>
<p>日本という呼び名の由来は諸説あり、都市伝説のような説もあります。<br />
例えば、「日」は太陽をあらわし、天照大神のことで神をあらわします。</p>
<p>「本」は漢字を分解する（漢字破字法）と「大」+「十」となり人がはりつけになった姿をあらわし、イエス・キリストを象徴としこれも神を表すのだそうです。</p>
<p>また日本の国旗からわかるように紅白で陰陽を象徴し、かつニホンという言葉は「二本」から来ていて日本アルプスを境に東の国と西の国が合わさったものが日本であるという考えもあったりします。</p>
<p>最近の都市伝説の定番となっているフリーメイソンとの関係もあるのだという説もあったりします。<br />
日本はフリーメイソンによって作られた国だというのです。</p>
<p>それは日本の国旗をみるとわかるそうで日本の国旗を綺麗に書こうと思ったら何を使うか想像してみるとまず国旗を四角で書くので定規が必要です。</p>
<p>次に中心に円を描きたいのでコンパスが必要です。<br />
コンパスと定規はフリーメイソンの象徴だとか……。</p>
<p>それならバングラディシュも同じなのでは？　<br />
と思ったりもしますが関係はよくわかりません。<br />
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		<title>天皇と豪族の関係とは？　大伴氏の勢力、物部氏と蘇我氏の争いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/684</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 22:28:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[天皇]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大和時代（古墳時代）の頃の天皇と豪族の関係について、日本の歴史を紹介します。 仁徳天皇陵を見てもわかるように五世紀頃の天皇の力はかなり強いものでした。 しかし、後に皇室の中で天皇の位をめぐって内輪もめが起こったため [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和時代（古墳時代）の頃の天皇と豪族の関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>仁徳天皇陵を見てもわかるように五世紀頃の天皇の力はかなり強いものでした。<br />
しかし、後に皇室の中で天皇の位をめぐって内輪もめが起こったため次第に天皇の力は衰えていきました。</p>
<p>一方ではこの隙に豪族が力を伸ばしてきて皇室の内輪もめを利用しました。<br />
その結果、天皇の地位も力の強い豪族の助けがなくては危ないような時代がやってきました。</p>
<p>まず葛城氏が仁徳天皇の3人の子どもを次々に天皇にして勢いを奮いました。<br />
これが履中・反正・允恭（いんぎょう）の三天皇です。</p>
<p>やがて平群氏（へいぐりうじ）がこれに変わって勢いを奮いました。<br />
平群真鳥・鮪（しび）父子などは武烈天皇に負けないくらいの勢いをみせました。</p>
<p>武烈天皇がなくなると皇室にはこれまで続いた内輪争いのために後継がなくなってしまいました。<br />
豪族たちは誰を後継にしたらよいのかと集まっていろいろ相談をしました。</p>
<p>その結果、大伴金村という人の努力で遥かに遠い皇室の親戚を天皇にしました。<br />
この天皇は五代も前に皇室から別れ、そのころ越前国（福井県）に住んでいたのかを探し出したのです。</p>
<p>これが継体天皇で六世紀の初め頃のことです。<br />
この大伴金村の努力がきっかけとなって大伴氏の勢いはにわかに伸びてきました。</p>
<p>ところがこの勢いもまもなく衰えてしまいます。</p>
<p>というのも金村が百済（朝鮮半島の国）の願いを聞き入れて任那（みまな）の一部をわけてやってしまったからです。</p>
<p>任那の人々は大伴氏の勝手なやり方に腹を立てました。<br />
そればかりか朝廷の中でも物部氏などが大伴氏をせめました。</p>
<p>任那をわけてやったのは大伴金村が百済から賄賂をもらったからだと言うのです。<br />
このため金村はたまらなくなって、ついに難波（大阪）に引っ込んでしまいました。</p>
<p>こうして大伴氏の勢いもわずかな間に衰え、物部氏がこれに代わって勢いを増してきました。<br />
この頃、わが国では大陸や朝鮮半島との交通が益々盛んになり、朝廷の財政も次第に大規模になってきました。</p>
<p>そのためこれを扱うのは読み書きや計算がよくできる人でなければなりませんでした。<br />
それでこういうことにはなれた帰化人が大勢用いられるようになりました。</p>
<p>こういう帰化人を率いて朝廷の倉庫の取り締まりをしたのが蘇我氏です。<br />
蘇我氏は膨れ上がる朝廷の財政を握り次第に実力を蓄えていきました。</p>
<p>このため大伴氏が衰えた後は蘇我氏と物部氏が朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合うようになったのです。</p>
<p>蘇我氏と物部氏はその性格がたいへん違っていたので仲の悪いことも一通りではありませんでした。<br />
物部氏は古くから朝廷に仕える武将の家柄でどうしても古くからのしきたりを大切にします。</p>
<p>蘇我氏の方は家柄も新しいし、しかもその頃としては進んだ職業に就いていたので新しい考えを持っていました。</p>
<p>こういう正反対の性格を持つ二つの豪族が仲良く手を取り合って政治をやっていくことはとても臨めません。</p>
<p>そこへこの二つの豪族のにらみ合いを一層激しくするような事件が起こりました。<br />
それは538年、百済の聖明王が朝廷に仏像を奉ったこと、つまり仏教の伝来です。</p>
<p>そのときの天皇は仏教を反対し進歩的な蘇我氏は賛成しました。<br />
このため朝廷の議論はまっ二つに割れてしましました。</p>
<p>物部氏と蘇我氏の争いに仏教が巻き込まれてしまったというわけです。<br />
587年、用明天皇がなくなるとその後継のことで蘇我氏と物部氏の間に争いが起こりました。</p>
<p>蘇我馬子は泊瀬部皇子（はつせべのみこ）を推し、物部守屋は穴穂部皇子（あなほべのみこ）を推したのです。</p>
<p>争いの結果、蘇我馬子は穴穂部皇子と物部守屋を殺して臨み通り泊瀬部皇子を位に就けました。<br />
これが崇峻天皇（すしゅんてんのう）です。</p>
<p>これから後はもう朝廷の中で蘇我氏と張り合う豪族は一人もいなくなりました。<br />
馬子はますます権力を奮いました。</p>
<p>やがて天皇と仲が悪くなるとこれを襲って殺してしまいました。<br />
592年、蘇我氏の後押しで推古天皇が位に就きました。</p>
<p>推古天皇は蘇我馬子の親戚で女の天皇でした。<br />
男の天皇では争いが起きやすいので女の天皇をたてたのでしょう。</p>
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		<item>
		<title>帰化人とは？ 日本に漢字が伝わったのはいつ頃？ 日本に仏教が伝わったのは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/683</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 06:50:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[漢字]]></category>
		<category><![CDATA[帰化人]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は帰化人とは何か、日本に漢字が伝わったのはいつ頃のことなのか、 日本に仏教が伝わったのはいつ頃のことなのか？ この3点について、日本の歴史を紹介します。 大和の国は朝鮮を通じて大陸の優れた文化を取り入れようとしました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は帰化人とは何か、日本に漢字が伝わったのはいつ頃のことなのか、<br />
日本に仏教が伝わったのはいつ頃のことなのか？<br />
この3点について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>大和の国は朝鮮を通じて大陸の優れた文化を取り入れようとしました。<br />
そのために朝廷ではいろいろな産物を日本に取り寄せるだけでなく学問や技術に優れた朝鮮の人々をたくさん呼び寄せました。</p>
<p>その中には百済の人が多く戦争を避けて日本に住み着く人もかなりありました。<br />
こういう人々を帰化人と呼びます。</p>
<p>帰化人はその頃の産業や文化の発達に大きな役割を果たしました。</p>
<p>日本にやってきた帰化人たちは部（べ）の仕組みに組み入れられ、それぞれの持っている技術によって朝廷に仕えました。</p>
<p>この人々の伝えた技術は実に様々でした。</p>
<p>例えば蚕を飼い、糸を紡ぎ、はたを織る技術、綾や錦（どちらも布の一部）の織り方、馬のくらを作る技術、鉄の鍛え方、陶器の作り方などです。</p>
<p>こうして中国や朝鮮の進んだ技術がいろいろと伝えられました。</p>
<p>帰化人の中でも勢いのあったのは東漢氏（やまとのあやうじ）と秦氏（はたうじ）でした。<br />
東漢氏は今の奈良盆地の南部に、秦氏は京都府に住み、それぞれの地方で大いに勢いを伸ばしました。</p>
<p>帰化人は技術の面ばかりではなく、学問の発達の上でも大きな役割を果たしました。<br />
ことに大切なのは帰化人が漢字を使い、文を作るのに慣れていたことです。</p>
<p>もともと日本には自分の文字というものがありませんでした。</p>
<p>ところが朝鮮や中国と交わりを結んでいくためには漢字で書かれた文章をやり取りしなければなりません。</p>
<p>しかし漢文を書いたり、読んだりすることは慣れない日本人にはたいへんでした。<br />
そこで、こういうことに慣れている帰化人がたいへん便利がられてその仕事を任されました。</p>
<p>大和の国の勢いが盛んになり、国の仕組みが大きくなってくると政治の仕事も簡単にはいかなくなってきます。</p>
<p>様々な文章を作ったり、計算をしたりする必要ができてきます。<br />
読み書きに優れた帰化人はこの方面でも大切な働きをしました。</p>
<p>読み書きの面で働いたのは東漢氏や西文氏（かわものふみうじ）などでした。<br />
また、国々から朝廷の倉庫に納められる貢物の取り扱いにも帰化人が活躍しました。</p>
<p>この面で有名なのは秦氏です。</p>
<p>こうして文章を書いたり、読んだりする仕事は初めの内は帰化人ばかりがしていたようです。<br />
しかし、日本人も段々漢字を覚え始め実際に使うようになりました。</p>
<p>熊本県の江田船山古墳から掘り出された刀は、５世紀に作られたものですがこれには漢字で文が刻みつけられています。</p>
<p>また和歌山県の隅田八幡宮に残っている銅の鏡は六世紀初めに作られたものですが同じように文字が刻みつけられています。</p>
<p>このことから５世紀にはもう日本で漢字が使われていたことがわかります。<br />
日本人が漢字を読んだり、書いたりすることができるようになったために外交や政治の仕事がすらすら進むようになりました。</p>
<p>そればかりではりません。漢字で書かれた書物を通じて日本人は大陸の進んだものの考え方や、学問・宗教などを学び取るようになりました。</p>
<p>そして、人々の暮らしが楽になり人々の考え方も進んでくると大陸の優れた思想や宗教を取り入れようとする気持ちが次第に固まってきました。</p>
<p>朝鮮からは様々な産物と一緒にたくさんの書物が日本に運ばれて来ました。<br />
中国の儒教という教えもこうした書物によって日本に伝わりました。</p>
<p>儒教とは、孔子という人が政治をするときの心構えや立派な人間になるための行いを示した教えです。<br />
百済からは五経博士という儒教の学者も日本に渡ってきたようです。</p>
<p>また、占いや暦・医術などの学者も日本に来ました。<br />
仏教が日本に伝わったのも丁度この頃のことです。</p>
<p>仏教というのは紀元前５世紀の頃、インドばかりでなく北の方では中央アジアを越えて中国にまでも伝わり広く行き渡りました。</p>
<p>中国で広まった仏教はやがて朝鮮に伝えられ六世紀には海を渡って遥々日本にも伝わってきたのです。<br />
仏教がいつ日本に伝わってきたのかはっきりとはわかりません。</p>
<p>けれども538年、百済の聖明王という国王が仏教とお経を送ってきたのがその始めとされています。<br />
それまでの日本人はたくさんの神を信じていました。</p>
<p>太陽や月、山や川、雷や嵐のようなものから、鳥や獣のような動物にまでも神がいると思っていました。<br />
八百万の神という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか？</p>
<p>そして神を祀り占いやまじないをしました。</p>
<p>そういう神しか知らなかった日本人は金色に輝く仏教を見てお経に書かれてある仏教の深い教えを聞いてどんなに驚いたことでしょう。</p>
<p>実際、仏教ほど日本人の考え方に大きな影響を与えた教えは他にないといってもよいでしょう。<br />
仏教の教えは次第に深く日本人の心に入り込み、やがて飛鳥時代の見事な仏教文化を生み出したのです。</p>
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		<item>
		<title>大和時代の社会の仕組みとは？　屯倉・国造・県主とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/682</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 04:49:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天皇]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
		<category><![CDATA[部]]></category>
		<category><![CDATA[氏]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大和時代の社会の仕組みについて、日本の歴史を紹介します。 ヤマトの国の政治を進めていたのは力の強い豪族たちでつくっていた大和朝廷です。 その中心となったのが天皇でした。 天皇も元々は普通の豪族の一人でしたが最も勢い [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和時代の社会の仕組みについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<div class="m30-b"></div>
<p>ヤマトの国の政治を進めていたのは力の強い豪族たちでつくっていた大和朝廷です。<br />
その中心となったのが天皇でした。</p>
<p>天皇も元々は普通の豪族の一人でしたが最も勢いが強かったので他の豪族の上に立って大王（おおきみ）と呼ばれるようになったのです。</p>
<p>ヤマトの社会では支配するものと支配されるものとの違いがはっきりしていました。<br />
普通の農民たちはみな大王、つまり天皇や豪族たちに従って、その下で働いていて政治に口を出すことなどは、とてもできませんでした。</p>
<p>豪族たちはそれぞれ氏（うじ）と呼ばれていました。<br />
氏というのは同じ祖先から出たと信じている人々の集まりのことです。</p>
<p>氏の中心になると人を氏上（うじのかみ）といい、その氏の人々を氏人といいます。</p>
<p>氏人は氏上を中心に固く結びついていました。<br />
氏人の下には奴や部と呼ばれる人々がいました。</p>
<p>奴（やつこ）は家々で使われる奴隷で親も子も一生の間、氏人のために田畑を耕したり、様々な仕事に使われてきました。</p>
<p>豪族に従う部（べ）は部曲（かきのたみ）といって、ほとんどが農民でした。<br />
彼らは作った米を氏に納めたり、玉や飾りを作ったりなどをしていました。</p>
<p>力の強い氏は、こうした部や奴をたくさん従えていたのです。<br />
力の強い氏はそれぞれ姓（かばね）を持っていました。<br />
姓というのは氏の力の強さを示した呼び名です。</p>
<p>これは氏どうしの間の家柄の高さ低さを、はっきりさせるために天皇が与えたもので臣（おみ）・連（むらじ）・史（ふひと）・首（おびと）・造（みやつこ）・直（あたえ）など様々な種類がありました。</p>
<p>例えば蘇我氏は臣という姓をもらって蘇我臣といい、大伴氏は連という姓をもらって大伴連と呼ばれていました。</p>
<p>姓ははじめ氏人たちが氏上を敬って付けたり、その氏の職業を表すために付けたりした呼び名です。<br />
ところが、後になると氏の家柄の高さを表すために天皇が姓を授けるようになりました。</p>
<p>姓の中でも特に特に尊いと思われていたのは臣と連でした。<br />
臣と連は最も勢いの強い豪族たちに授けられました。</p>
<p>そうした豪族の代表者は大臣、大連といって天皇と一緒に国の政治を進めていく大事な役に就きました。</p>
<p>葛城臣（かつらぎのおみ）・平群臣（へぐりのおみ）・大伴臣・物部連・少し遅れて蘇我臣などいう氏の代表者が次々に大臣、大連としてその勢いを奮いました。</p>
<p>力の強い豪族はそれぞれたくさんの部の民を抱えていました。<br />
これを部曲（かきのたみ）といいます。<br />
また、天皇や皇子たちも部の民を持っていました。</p>
<p>これを名代（なしろ）。子代（こしろ）といいます。</p>
<p>これらの人々は天皇や皇子たちのために貢物を納めたり、力仕事をしたりしました。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>この他、朝廷の下にはたくさんの部の民がいました。<br />
この人々は品部（ともべ）と呼ばれました。</p>
<p>品部には神の祭りをする人の部や土器を作る人の部、朝廷を守る兵士の部など様々なものがありました。<br />
品部は伴造（とものみやつこ）と呼ばれる豪族らに率いられそれぞれの仕事をして朝廷に仕えました。</p>
<p>品部の仕事は豪族によって決まっていました。<br />
豪族たちはその仕事を親から子へ次々と伝えました。</p>
<p>こうして大和朝廷の中の様々の仕事は品部を率いた豪族たちが受け持ち、推し進めていったのです。<br />
豪族たちはそれぞれ自分の田畑を持ち部の人々に耕させていましたが皇室もまたたくさんの田畑をもっていました。</p>
<p>これを屯倉（みやけ）といいます。</p>
<p>屯倉は皇室の田畑ですから作物のよくできる豊かな土地に置かれました。<br />
また、朝廷が地方を治めるための拠り所ともなりました。</p>
<p>そこで、屯倉は交通の便利なところや戦争をする場合に大切なところなどにも置かれました。<br />
ヤマトの国の勢いが盛んになってくると屯倉も各地にたくさん置かれるようになり、関東地方から<br />
九州地方にまでも広がりました。</p>
<p>屯倉の仕組みも大きくなりたくさんの人々を駆り立てて広い荒地を開墾させるようになりました。<br />
屯倉が広がるにつれて地方を治めるための政治の仕組みも次第に整えられていきました。</p>
<p>ヤマトの国は地方の小さな国々を次々に従えて大きな国になったものです。</p>
<p>朝廷はそうした国々を幾つか合わせて一つの国をつくり、国造（くにのみやつこ）という役人にそれを治めさせました。</p>
<p>また、ところによっては県（あがた）を置いて県主にそれを治めさめました。<br />
大抵の場合、朝廷は地方を直接治めるようなことはしませんでした。</p>
<p>その代わり今までの小さな国の王を国造や県主にして、その地方を治めさせ貢物をとったようです。</p>
<p>ですから国造の中には昔からその土地に勢力をはっていたものがいて、中々朝廷の命令に従わないことがありました。</p>
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		<title>古墳から出土されものとは？　埴輪とは？　古墳が作られなくなったのはいつ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/681</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 01:01:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[古墳]]></category>
		<category><![CDATA[埴輪]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は古墳から出土されもの、古墳からでるものを簡単に紹介します。 それに加え、埴輪（はにわ）とは何か、それと古墳が作られなくなったのはいつ頃のことだったのか、日本の歴史を紹介していきます。 古墳の内部には死体を入れるとこ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は古墳から出土されもの、古墳からでるものを簡単に紹介します。<br />
それに加え、埴輪（はにわ）とは何か、それと古墳が作られなくなったのはいつ頃のことだったのか、日本の歴史を紹介していきます。</p>
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<p>古墳の内部には死体を入れるところが作られています。<br />
初めの頃は木や石や粘土で作った棺の中に死体を入れ棺の上にすぐ土をかぶせたり、あるいは簡単な石の囲みを作って土を被せたりしていました。</p>
<p>しかし後には棺も石をくり抜いたり、組み合わせたりして作った石棺となりました。<br />
また、棺の周りには石で部屋を作り、その上に土を被せるようになりました。</p>
<p>石棺に形もいろいろで組立式の箱のような形をしたもの、家の形をしたもの船の形をしたものなどがありました。</p>
<p>六世紀頃になると古墳の外から棺の入っている石室までせん道という通り道を掘り抜いた横穴式石室というものができました。</p>
<p>また、北九州地方では石室や棺に色とりどりの絵や模様を描いた装飾古墳は日本では北九州に多く見られ中国や朝鮮の影響があるようです。</p>
<p>棺の中やその側には銅製の鏡や勾玉・くだ玉などの玉類。<br />
それに剣など様々なものが置かれました。<br />
今でも古墳を掘るとこのようなものが堀だされることがあります。</p>
<p>鏡や玉は死んだ人が生きていたときに何時も身に付けたり、傍に置いたりしていたもので、その人が死んでからも寂しがらないようにと一緒に埋めたのです。</p>
<p>また、鏡や玉はその頃の人にとって不思議な力を持つものと考えられ支配者の力の強さを表す印ともなっていました。</p>
<p>５世紀頃になると鉄で造られた鎧・兜・剣・刀・くわなどの武器や農具が古墳にたくさん納められるようになりました。</p>
<p>その頃のヤマトの国の天皇や豪族にとって、鉄の武器や農具は大切なものだったのでしょう。<br />
それは勢いを強め暮らしを豊かにしてくれる道具だったのです。</p>
<p>だからこそ墓の中に一緒に埋めたのです。<br />
また、さらに後の古墳になると金や金銅（銅に金のメッキをしたもの）の耳飾りや冠、馬のクラやクツワ。</p>
<p>あぶみ、それに柄を金でこしらえた刀など細かい細工を凝らしたきらびやかなものが収められるようになりました。</p>
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<p>これはみな朝鮮や中国の優れた技術を使ったものです。<br />
これを見ると大陸の文化がどんどん日本に伝わり日本の技術が進んできたことがわかりますね。</p>
<p>古墳の上にはふき石が被せられ埴輪が並べられました。<br />
埴輪は粘土で作って焼いた焼き物です。</p>
<p>埴輪はもともとは盛り上げた古墳の土が崩れるのを防ぐために並べられてたものです。</p>
<p>はじめは丸い筒の形をしたものばかりでしたが後には家の形をしたもの、船の形をしたもの、そのほか人間をはじめ、馬や鳥・猿・犬などさまざまな生き物の形を表したものが作られるようになりました。</p>
<p>人間の埴輪といっても様々で男もあれば女もあり、鎧を付け兜を被って刀を下げた兵士もあります。<br />
琴を弾いている人もあれば楽しそうに歌ったりしている姿を現したものもあります。</p>
<p>こういう埴輪によって古墳時代の人々の家や着物の様子を知ることができるのです。<br />
埴輪をみると男も女も細い袖の上着を着て、合わせは紐で結んでいます。</p>
<p>男は足首の辺りを紐で結んだ太いズボンのようなものを履き、女はスカートのようなものをつけています。</p>
<p>そんな驚きと魅力をもった古墳ですが六世紀の中頃を過ぎると古墳を作ることが段々と衰えてきます。<br />
もうこの頃には大きい古墳は作られなくなり小さなものだけが作られるようになりました。<br />
そして、８世紀の初め頃までには古墳は全く作られなくなりました。</p>
<p>これは大陸から優れた文化が伝わってきて人々の考え方が進んだからです。<br />
特に仏教が伝わってきて、死体を火葬する習わしが広まったころが一番の原因ではないでしょうか？</p>
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		<title>古墳とは？　古墳の種類と古墳の分布についてまとめて解説！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/680</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 00:22:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[古墳]]></category>
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					<description><![CDATA[古墳と一口に言っても様々な種類の古墳があります。簡単に紹介していきます。 日本の歴史は古墳にありです。 今でも各地で木のこんもり茂った何となく、厳かな感じのする古墳を見かけることがあります。 古墳というのはヤマトの国の支 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>古墳と一口に言っても様々な種類の古墳があります。簡単に紹介していきます。<br />
日本の歴史は古墳にありです。</p>
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<p>今でも各地で木のこんもり茂った何となく、厳かな感じのする古墳を見かけることがあります。<br />
古墳というのはヤマトの国の支配者である天皇や豪族たちの墓のことです。</p>
<p>その中には棺や石の部屋があり死体がおさめられています。</p>
<p>古墳には様々な形のものがありますが最も一般的なのは円墳と前方後円墳です。<br />
円墳は上から見ると丸い形をしており前方後円墳は丸と四角を継ぎ足したような形をしています。</p>
<p>そのほか四角い形をした方墳というのもあります。</p>
<p>古墳は元々は大陸の墓を見習ったもののようですが前方後円墳は日本にはだけ発達した特別な形です。<br />
古墳の大きさも様々で前方後円墳の中には今でも大阪府にある仁徳天皇陵のように、すばらしく大きなものがあります。</p>
<p>古墳は元々、山すそや丘などの地形を利用して作られました。<br />
そうすれば、わざわざたくさんの土を盛り上げなくても住んだからです。</p>
<p>ところが後には平野に人の力で土を盛り周りに堀を作ったりするような大掛かりなものになりました。<br />
このような大きな墓を築くためには多くの年月とたくさんの人の力が要ります。</p>
<p>たくさんの人々を長い間働かせることの出来た大和朝廷の勢いはたいへん大きなものでした。<br />
ヤマトの社会はこのように力の強い少数の支配者とその下に付くたくさんの人々にわかれていました。</p>
<p>ヤマトの国の天皇や豪族たちの勢いがどんなに強かったかが、これらの古墳から想像することができます。<br />
古墳は北は東北地方の南部から、南は九州南部まで全国各地に見ることができます。</p>
<p>その中でも関東地方の北部や島根県・岡山県・福岡県・宮崎県などは特に古墳のたくさん固まってあるところです。<br />
そこでこうした地方には力の強い豪族がいたことがわかります。</p>
<p>けれども立派な古墳が数多くあるのは何といっても奈良県や大阪府など大和朝廷が直に支配していた地方です。<br />
古墳は三世紀の頃に大和の地方で初めて作られ四世紀になると各地に広まっていきます。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>この古墳の広まり方はヤマトの国の勢いが広まっていったのとよく時代が合っています。<br />
ヤマトの国も三世紀の中頃から勢いを広げはじめて四世紀の末頃には大体日本を統一しています。</p>
<p>つまり古墳の広まった地方は大和朝廷の勢いの届いていたところです。<br />
だから古墳の広がりはヤマトの国の広まっていった様子をよく現していると言っていいのではないでしょうか。</p>
<p>このような古墳の中でもとりわけ大きく立派なのは仁徳天皇陵や応神天皇陵という５世紀に作られた前方後円墳です。</p>
<p>仁徳天皇陵は大阪の南、堺市にあります。</p>
<p>縦の長さ475メートル、丸い部分の直径245メートル、高さ35メートルという大きさで周りには三重に堀が作られています。</p>
<p>これを調べた学者の計算によると盛り上げる土を運ぶだけでも１日に1000人の人を使って四年は掛かっただろうということです。</p>
<p>また、古墳を作り上げるためにはただ土を盛り上げるだけではたりません。<br />
周りには堀を作り土手を築き形を整えなければなりません。</p>
<p>そのほか古墳の上にはふき石というものを被せ丘の周りには埴輪も並べます。<br />
仁徳天皇陵のふき石はその近くのものではなくて、かなり遠くの川から運ばれたもののようです。</p>
<p>それはトラックで運んでも何千台かが必要なほどのたいへんな数だと言われています。<br />
また丸い筒の形をした埴輪が丘の周りや堀に沿ってぎっしり並べられていますがその数は二万以上にもなるだろうと言われています。</p>
<p>古墳を造る仕事がどんなにたいへんだったかがわかるりますね。<br />
仁徳天皇陵のような大きな墓を作るにはたいへんな人手と年月が掛かります。</p>
<p>ですからこうした墓は天皇のまだ生きている内から作りはじめられました。<br />
その頃の人々はこのように大きな古墳を見て天皇や豪族たちの勢いの強さにさぞ驚き恐れたことでしょう。</p>
<p>また天皇や豪族たちはヤマトの国の盛んな勢いをこの古墳によって外国の人に見せようとしたものかもしれませんね。</p>
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<div class="m30-b"></div>
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		<item>
		<title>大和時代に朝鮮への進出！ 任那の日本府とは？ 神功皇后ってどんな人？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/679</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Jan 2014 22:53:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[朝鮮]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大和時代（古墳時代）の頃に朝鮮へ進出したときの日本の歴史を紹介します。 朝鮮への進出について紹介します。まずは４世紀頃の朝鮮ついてです。 四世紀以前の南朝鮮は楽浪郡（朝鮮の北部）を主な根拠地とする中国の王朝の勢いに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和時代（古墳時代）の頃に朝鮮へ進出したときの日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>朝鮮への進出について紹介します。まずは４世紀頃の朝鮮ついてです。<br />
四世紀以前の南朝鮮は楽浪郡（朝鮮の北部）を主な根拠地とする中国の王朝の勢いに押されて小さな国々にわかれていました。</p>
<p>一方、北朝鮮では一世紀頃から高句麗という国がおこり次第に日本海側に勢いを伸ばしていきました。<br />
そして、四世紀の初めにはその勢いは南に伸びてとうとう楽浪郡を滅ぼしてしまったのです。</p>
<p>また同じ頃南朝鮮では百済と新羅という2つの国がおこり、それまであった小さな国々をほとんど従えました。</p>
<p>こうして、四世紀の初めには朝鮮は高句麗・百済・新羅の3つにの国にほぼまとめられました。<br />
高句麗の勢いは楽浪郡を滅ぼした後も益々盛んでした。</p>
<p>ことに四世紀の終わり頃の好太王という国王のときはたいへん領土を広げました。<br />
西は満州の南の地方から、東は日本海の沿岸にまで領土を広げ、さらに海岸沿いに北へ勢いを伸ばしました。</p>
<p>高句麗の勢いは南朝鮮にも伸び百済に迫ってきたのです。<br />
ところが南朝鮮にはすでにヤマトの勢いが入り込んでいました。</p>
<p>日本は百済と力を合わせて北から南へと勢いを伸ばしていた高句麗と激しく戦うことになりました。<br />
今、中国と朝鮮の国境にあるヤールー川の傍に好太王の碑と呼ばれる大きな石碑がたっています。</p>
<p>これは好太王の子の長寿王が父の手柄を記念して、その都のあったところに建物で高さが7メートルもあります。</p>
<p>この石碑の表面には好太王の建てた数々の目覚しい手柄のことがぎっしりと刻みつけられています。<br />
その文をみると日本の軍隊は高句麗の軍隊と14年もの長い間、何度となく激しく戦ったことがわかります。</p>
<p>あるときには日本軍は高句麗の領土の奥深く北朝鮮のピョンヤンの辺りにまで攻め込んだようです。<br />
このように長い間、たくさんの軍隊を朝鮮の奥深く送り込んだほどですからヤマトの国が日本の国内を<br />
大体統一していたろうということも考えられます。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<h2>任那の日本府</h2>
<p>任那というのは朝鮮でも一番南の端の地方で昔からたくさんの日本人がここに移り住んでいました。<br />
ですからヤマトの国の勢いが朝鮮に伸び始めると、その根拠地としてここに日本府が置かれました。</p>
<p>日本府はまた任那の宮家とも呼ばれました。</p>
<p>日本府にはヤマトの国から遣わされた役人がいて任那の地を治め百済や新羅などの国々との外交の仕事をしました。</p>
<p>また城を築いて軍隊が守りを固めていました。<br />
けれども盛んだったヤマトの国の朝鮮進出も５世紀の終わり頃になると次第に上手くいかなくなりました。</p>
<p>高句麗の勢いは益々盛んになり、その上新羅の力もだんだん強くなってきたのです。<br />
しかも、日本の方では外交の失敗や将軍たちの仲間割れが続くという有様でした。</p>
<p>さらに六世紀になると北九州に勢いを持っていた磐井という豪族が新羅と組んでヤマトに背くという事件が起こりました。</p>
<p>磐井は朝鮮に渡ろうとするヤマトの軍隊を一年以上も防ぎ止めましたがついにヤマトの軍隊に敗れました。<br />
こうして、200年も続いた任那の日本府も六世紀の中頃にはとうとう新羅のために滅ぼされてしまうのです。</p>
<h3>神功皇后</h3>
<p>神功皇后は第１４代仲哀天皇の皇后と言われています。<br />
天皇とともに九州へクマソ征伐に行ったとき皇后に神が乗り移り「まず、海の向こうの新羅を討て」と天皇に言いました。</p>
<p>しかし、天皇はこのお告げに従わなかったので神の怒りを受けて急に死んでしまいました。<br />
皇后は神を男のようにみずらにゆい、たくさんの軍隊を率いて船に乗り勇ましく新羅征伐に出かけました。</p>
<p>新羅の王は驚いて「東の方には日本という神の国があり天皇という方がいると聞いていました。<br />
神の国の兵にてむかっても、とても勝てません」と言って降伏しました。</p>
<p>皇后は新羅王に毎年、貢物を持ってくることを誓わせ日本に帰って九州で応神天皇を生んだということです。</p>
<p>この話は事実かどうかわかりませんが四世紀の末頃、日本の力が朝鮮の南部にまで伸びていたことは確かです。</p>
<p>だから、この頃朝鮮問題に熱心な皇后がいて、それが神功皇后の話のもとになったのかもしれませんね。</p>
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		<item>
		<title>大和朝廷とは？　大和朝廷の統一って？　皇室の祖先とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/678</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Jan 2014 21:12:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
		<category><![CDATA[大和朝廷]]></category>
		<category><![CDATA[日本武尊]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天皇]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/678</guid>

					<description><![CDATA[今回は大和朝廷について、日本の歴史を紹介します。 三世紀中頃まで日本にはたくさんの小さな国々にわかれて、お互いに結びがあったり戦争をし合ったりしていました。 けれども、その内に力の強い国は段々と周りの国を従えて大きな国を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和朝廷について、日本の歴史を紹介します。</p>
<p>三世紀中頃まで日本にはたくさんの小さな国々にわかれて、お互いに結びがあったり戦争をし合ったりしていました。</p>
<p>けれども、その内に力の強い国は段々と周りの国を従えて大きな国を作り上げていきました。<br />
そして、やがて日本お大部分は一つの国に統一されました。</p>
<p>それがヤマト（大和）の国です。</p>
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<p>ヤマトの国は今の奈良盆地から起こりました。<br />
ここは四方を傾らかで美しい山々に囲まれた平地で米やいろいろな農作物がよくできました。<br />
その上、交通も便利で木津川や大和川を下って難波（大阪）の港から海に出ることにも出来ました。</p>
<p>そのため古くから文化も進み弥生文化の時代にも、この地方は北九州とともに最も文化の進んだところでした。<br />
ヤマトの国を納めていたのは勢いのある豪族たちで、その中心となったのは今の皇室の遠い祖先です。</p>
<p>皇室の祖先の力は次第に強くなり、やがて天皇として豪族たちを従えるようになっていきました。<br />
天皇や豪族たちは、たくさんの人々を仕事に駆り立てました。</p>
<p>田に水をひくために池や溝を掘らせたり、大水を防ぐために川に堤防を作らせたりしていました。<br />
こうして幾度も大工事が行われました。</p>
<p>田を耕すためには便利な鉄のクワも使われ始めました。<br />
農地は広くなり米もたくさん採れるようになって豪族たちの暮らしは益々豊かになっていきました。</p>
<p>ヤマトの国は次第に周りの国々を合わせながら大きな国になっていきました。<br />
そして四世紀の末頃までには東北地方を除く日本の全部が統一されることになったのです。</p>
<p>中国の歴史の本によると５世紀頃、讚・珍・済・興・武という倭の五王が次々に中国へ使いを送ってきたことが出ています。</p>
<p>五王のひとり武は雄略天皇に当たるのではないかと、考えられていますが武から宋（中国）の国王に差し出した文があります。</p>
<p>それには武の祖先が自ら軍隊を率いて各地を攻め、東の毛人の国を55も平らげ西の衆夷（クマソと思われる）も66国、さらに海を渡って南朝鮮に攻め込み95国も従えたと述べています。</p>
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<h2>日本武尊</h2>
<p>日本武尊は第１２代の天皇と言われる景行天皇の皇子で武勇に秀れ天皇の命令を受けて西へ東へ兵を進め国内統一のために尽くしたと伝えられています。</p>
<p>まず九州のクマソ征伐に出かけ女の姿をしてクマソの頭クマソタケルの家に忍び込み、タケルが酒に酔いつぶれてるところを刺殺しました。</p>
<p>九州から帰るとすぐに東国征伐に出かけ族に騙されて危なく野原の中で焼き殺されそうになりましが剣で周りの草を切り払って助かりました。</p>
<p>また三浦半島から船で房総半島へ渡るとき嵐に会いましたが妃の弟橘姫が尊の身代わりになって海に身を投げ波風を沈めました。</p>
<p>こうして東国を従えた尊は大和へ帰る途中で病気に掛かり都を目の前にして死にました。</p>
<p>このような日本武尊の物語はそのまま事実であったとは思えませんが日本統一のために尽くしたいく人かの英雄の活躍が一つの美しい物語にまとめられ語り継がれてきたのでしょうね。</p>
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		<title>大和時代のあらまし！　大和朝廷の統一や大化の改新とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/677</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Jan 2014 19:41:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<category><![CDATA[大化の改新]]></category>
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					<description><![CDATA[大和時代とはどのような時代だったのか、 この頃の日本の歴史を簡単なまとめを紹介します。 大和朝廷の統一 三世紀の中頃まで我が国には、たくさんの小さな国がありました。 これらの国々は四世紀の半ば頃にかけて次第に統一されてい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>大和時代とはどのような時代だったのか、<br />
この頃の日本の歴史を簡単なまとめを紹介します。</p>
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<h2>大和朝廷の統一</h2>
<p>三世紀の中頃まで我が国には、たくさんの小さな国がありました。<br />
これらの国々は四世紀の半ば頃にかけて次第に統一されていました。</p>
<p>その中心となったのは近畿地方の大和（奈良県）に起こり天皇を中心にまとまっていた大和朝廷です。<br />
大和朝廷は大和地方を根城にして次第に勢力を広げ、やがて西は九州から東は関東あたりまでを一つにまとめました。</p>
<p>その上、四世紀半ば過ぎには朝鮮半島にも勢いを伸ばすようになりました。<br />
この大和朝廷の中心となった天皇の勢いは５世紀頃になると非常に強くなりました。</p>
<p>このことは大阪府堺市に残っている小山のような仁徳天皇陵を見てもよくわかります。<br />
また、大和朝廷の時代にはたくさんの古墳が作られました。</p>
<p>古墳を作ったのは天皇をはじめとする勢いの強い豪族たちでした。<br />
天皇や豪族たちはたくさんの人々を使って古墳を作り上げたのです。</p>
<p>大和朝廷は中国や朝鮮とも盛んに付き合いをし、その優れた文化取り入れようと努力しました。<br />
この頃に伝えられた文化の中で特に目立つのは文字・仏教・儒教などや建築・鍛冶・織物・養蚕など様々でした。</p>
<p>これらの文化は主に帰化人によって伝えられ、また広められました。<br />
大和朝廷は天皇を中心にして有力な氏がより集まって作っていました。</p>
<p>有力な氏としては大伴氏・物部氏・蘇我氏などが挙げられます。<br />
５世紀の終わり頃になると、これらの氏の勢力争いが次第に目立ってきます。</p>
<p>この勢力争いの中心になったのが物部氏や蘇我氏です。<br />
このような豪族の間の争いのために天皇の勢いは次第に衰えていきます。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>このような有様を改め争いを鎮めて、再び天皇中心の世の中にしようとしたのが聖徳太子です。<br />
聖徳太子は摂政になってから、まず冠位十二階や憲法十七条を作って国の政治を整えようとしました。</p>
<p>また、仏教を盛んにして国内の平和を築こうと努力しました。<br />
今、斑鳩（いかるが）の里（奈良県）に残る法隆寺は太子の優れた仕事をよく物語っています。</p>
<p>一方、聖徳太子は隋との交わりには特に力を入れ遣隋使を送って盛んに大陸の文化を取り入れようとしました。</p>
<p>しかし、このような努力もよく実らない内に聖徳太子は亡くなってしまいました。</p>
<h2>大化の改新</h2>
<p>聖徳太子の考えを引き継ぎ、天皇中心の国の仕組みを整えようとしたのが中大兄皇子や中臣鎌足らでした。</p>
<p>中大兄皇子たちは蘇我氏を滅ぼして公地公民や班田収受の仕組み、租税の決まり、地方政治の仕組みなどを次々に整えていきました。</p>
<p>これが大化の改新です。</p>
<p>やがて、これらの仕組みは律令としてまとめられ、そのあと長い間、律令による政治が行われるようになるのです。</p>
<p>七世紀の半ば過ぎには天皇の位を争って壬申の乱が起こりましたが、その後は天皇中心の国の仕組みは一層固まりました。</p>
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