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	<title>弥生時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>弥生時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>邪馬台国の卑弥呼とは？　「魏志倭人伝」と「前漢書」を比べると当時の日本がわかる？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/676</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jan 2014 22:31:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[邪馬台国]]></category>
		<category><![CDATA[卑弥呼]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は邪馬台国と卑弥呼について、日本の歴史を紹介します。 漢の後に中国では魏という国（220年～265年）が起こりました。 この国の歴史の本を「魏志」と言いますが、これにも日本のことを書いたところがあります。 それは「魏 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は邪馬台国と卑弥呼について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>漢の後に中国では魏という国（220年～265年）が起こりました。<br />
この国の歴史の本を「魏志」と言いますが、これにも日本のことを書いたところがあります。</p>
<p>それは「魏志東夷伝」の中の倭人について記したところで一般的には「魏志倭人伝」と呼んでいます。</p>
<p>この本の中で「日本には邪馬台（ヤマトのこと）国という国があり卑弥呼というその国の女王が他の多くの国を従えている」と書かれています。</p>
<p>そのほか「魏志倭人伝」には邪馬台国へ行く道筋や人々の生活などが書かれています。<br />
けれど、何せ交通の便が悪い頃の中国の書物ですからはっきりしないところが多く邪馬台国がどの辺にあったのかもよくわかりません。</p>
<p>学者の間でもいろいろな議論が出されていますが九州にあったという人と大和（奈良県）にあったという説があります。</p>
<p>また。「魏志倭人伝」と「前漢書」を比べると日本の様子が少し違っています。<br />
漢の時代には日本は100あまりの国に分かれていたと書かれています。</p>
<p>しかし「魏志倭人伝」が描かれた時代には邪馬台国という大きな国があって、その下に小さな国々が従えられていると書かれています。</p>
<p>これは方々にあった小さな国々が段々力の強い国に従えられていく姿を現しているものと思われます。<br />
もちろん、この邪馬台国が日本全部を統一されるのはもう少し後の時代になってからです。</p>
<p>そしてこの統一を成し遂げたのが奈良県のヤマト（大和）の国です。<br />
しかし、このヤマトが邪馬台国のことかどうかはわかりません。</p>
<p>なぜならヤマトという地名は奈良県のヤマトばかりでなく北九州にもあり邪馬台国は九州のヤマトのことだとも言えるからです。</p>
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<h2>魏志倭人伝</h2>
<p>「魏志倭人伝」は中国の使いが邪馬台国へ来て、見たり聞いたりしたことや倭人（日本人）が中国に行って話したことを書いたものです。</p>
<p>この邪馬台国は九州のヤマトか奈良県のヤマトかはっきりしませんが、この本によるとこの国にはよく整った制度があったようです。</p>
<p>以下は「魏志倭人伝」の主な内容を簡単に書いたものです。</p>
<p>倭国（日本）は朝鮮の東南の海の中にある国です。<br />
山や島が多くもとは100あまりの国がありましたがこの時には30ほどの国に分かれていました。</p>
<p>この中でも特に大きな国が邪馬台国で他の国々を従えていました。</p>
<p>邪馬台国にはもと男の王様がいましたが7、8年経つと倭国の国中が乱れて戦争が繰り返されました。<br />
そこで卑弥呼という女の人を女王にすると国中の乱れはようやく治まりました。</p>
<p>卑弥呼は策を巡らした大きな屋敷に住み1000人もの女の召し使いを使っていました。<br />
屋敷の周りは兵士たちが守っていました。</p>
<p>けれど卑弥呼は一人の弟以外には誰にも会いませんでした。</p>
<p>いつも屋敷の奥の方で占いをし、神のお告げを受けてそれを人々に伝えました。<br />
この神のお告げを伝える役目をしたのが卑弥呼の弟でした。</p>
<p>卑弥呼が死んだとき人々は悲しんで大きな墓を作りました。<br />
その内すぐ男の王様が位に就きましたが人々はこの王様には従わず倭国の国中が再び乱れました。<br />
そこで卑弥呼の一族であるトヨという13歳の少女が位に就きました。</p>
<p>こうして国中はようやく治まりました。<br />
邪馬台国では人々は体に刺青をして裸足で歩いていました。</p>
<p>着物は縫い合わせをせず布を体に巻きつけたり敷布のようなものに穴を空けてこれに首を通していました。</p>
<p>人々は稲を作ったり海に潜って魚を獲ったり、蚕を飼って絹織物うぃ織ったりしました。<br />
人が死ぬと死体は棺に入れて埋め、土をもって塚を作りました。</p>
<p>また、この国は泥棒をするような人はいませんし、争いや訴えごともあまりありませんでした。<br />
けれど、掟を破ると一族が皆殺しにされることもありました。</p>
<p>以上が「魏志倭人伝」の主な内容ですが何分よその国の人が書いたものですから言葉がよくわからなかったり、書いた人の思い違いもあったと思います。</p>
<p>しかし文字に書かれたもので、その頃の日本の様子を知る手がかりになるものは、この本しかないのです。</p>
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		<item>
		<title>身分の違い・格差が生まれたのは弥生時代から？　いつから始まったのか？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/675</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jan 2014 21:40:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
		<category><![CDATA[身分]]></category>
		<category><![CDATA[格差]]></category>
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					<description><![CDATA[弥生時代の初め頃には村の人たちはみんなで協力して田や畑をつくるだけではなく、採れた作物も みんなで分け合って暮らしていたようです。 そのため豊かな人と貧しい人との違いなどはほとんどありませんでした。 しかし、各地で出来た [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>弥生時代の初め頃には村の人たちはみんなで協力して田や畑をつくるだけではなく、採れた作物も<br />
みんなで分け合って暮らしていたようです。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>そのため豊かな人と貧しい人との違いなどはほとんどありませんでした。<br />
しかし、各地で出来た村を比べるてみると土地の質や広さの違いによって豊かな村と貧しい村との違いがありました。</p>
<p>この違いがわかってくると貧しい村は少しでも土地も広げ、作物を増やそうと努力するようになり村同士の競争が始まりました。</p>
<p>このように競争が始まると村の中を上手く治めたり、他所の村との争いを上手く解決するために村の人たちえお指図する指導者が現れてきました。</p>
<p>村の人たちはこの指導者の言うことを聞くようになりました。<br />
こうして、指図する人と指図される人ができ身分の違いが現れてきたのです。</p>
<p>この頃の人々の墓を比べると身分の違いや貧富の差が現れてきたことがよくわかります。</p>
<p>一つの墓地の中の同じようなかめ棺であっても、中に入っているものに色々な違いが見られます。<br />
死体の他に立派な品物がたくさん入っているものもあれば死体の他には何も入っていないものもあります。</p>
<p>死体と一緒に埋められている品物が多いほど、また立派な品物があるほど身分の高い人であったと考えられます。</p>
<p>福岡県の須玖というところでは掘り出された棺からは漢代の鏡・銅剣・銅はこ・ガラス製の玉などが発見されています。</p>
<p>道具が発達し農業の仕方が進んでくると村は次第に大きくなっていきました。<br />
奈良県の唐古や大分県の安国寺前の遺跡などは大きな村の遺跡として有名です。</p>
<p>こういう大きな村が勢いを増し周りの小さな村を合わせて一層、大きな村になっていきました。<br />
特に北九州は大陸に近いので進んだ金属の道具などをわりあい容易く手に入れることができました。</p>
<p>そのためこの地方には大きな力の強い村がたくさんあったと思われます。<br />
こうして各地に力の強い村が幾つもでき、これらの村が段々と結びついて国へ発展していったのでしょう。</p>
<p>しかし、その国は後にヤマトの国のような大きな国ではなく、まだ地方に散らばっている小さな国でした。</p>
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<p>この時代の日本の様子を知る手がかりになるのは、中国の歴史の本です。<br />
この頃中国には漢という国が起こり、非常な勢いで周りの地方へどんどん勢力を伸ばしていきました。</p>
<p>朝鮮半島も北の方は漢の支配を受けるようになりました。<br />
その中心地は今の北朝鮮のピョンヤンでそこの「楽浪」と呼ばれていました。</p>
<p>この漢の国の歴史を書いた本に「前漢書」「後漢書」というのがあって、その中にその頃のことが書かれている部分があります。</p>
<p>例えば「前漢書」には「楽浪の向こうに倭人がいる。<br />
100以上の国にわかれ、毎年貢物を持ってくる」ということが出ています。<br />
倭人というのはその頃の日本人のことを「倭」と呼んでいたのです。</p>
<p>また、ここで出てくる国というのは北九州にあった小さな国を指しているものと思われます。<br />
今、私たちが使っているような国とは大きな違いです。</p>
<p>「後漢書」は「前漢書」より後に作られた本ですがこの中には「倭の奴国が57年に貢物を持ってきたので金の印を授けた」ということが書かれています。</p>
<p>1784年（天命4年）に北九州の博多湾の入口にある志賀島というところから珍しい金の印が発見されました。</p>
<p>それには「漢委奴国王」という五つの文字が刻んでありました。<br />
これは「後漢書」に出ている57年に漢の王様から授けられた金印ではないかと考えられています。</p>
<p>この金印の文字は「漢の委の奴の国王」と読み漢からの奴国の王様に与えられたものと考えられています。</p>
<p>奴国というのは北九州にたくさんあった小さな国々の中の1つの名であると思われます。<br />
日本の歴史を見ると文化が進んでいないころのほうが理想と言われるような平等社会なのは何故なんだろう……。</p>
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		<item>
		<title>日本に金属が伝わってきたのはいつ？銅剣・銅矛と銅たく（銅鐸）の分布とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/674</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jan 2014 19:44:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
		<category><![CDATA[金属器]]></category>
		<category><![CDATA[青銅器]]></category>
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					<description><![CDATA[縄文時代の人々は道具として主に石器を使っていました。 ところが、弥生時代じなると金属器（金属で作った道具）が現れてきました。 しかし、この金属器を最初から日本で作り出されたものではなく米と同じように他所から伝えられたもの [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>縄文時代の人々は道具として主に石器を使っていました。<br />
ところが、弥生時代じなると金属器（金属で作った道具）が現れてきました。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>しかし、この金属器を最初から日本で作り出されたものではなく米と同じように他所から伝えられたものでした。</p>
<p>特に初めのうちはみんな道具になって渡ってきたようです。<br />
地金のままで渡ってきて日本で道具に作り変わったのは少し後のことだと考えられます。<br />
金属器は切れ味がよく、しかも丈夫で石器などより遥かに便利でした。</p>
<p>そのため金属器が広まるにつれて石器は段々と使われなくなってしまいました。</p>
<p>この頃の日本で使われていた金属器は青銅器と鉄器です。<br />
世界の文化の発展の仕方は石器時代から銅器時代・青銅器時代・鉄器時代と移り変わっていくのが一般的です。</p>
<p>けれど、日本へは他所からかなり進んだ文化が入ってきたため普通の発展の仕方とは大分違っています。</p>
<p>北九州では弥生時代の一番古い時期にはもう鉄器が使われていたようです。<br />
恐らく鉄器と青銅器はほぼ同じ頃に作られたか、あるいは寧ろ鉄器の方が幾分か早くに伝えられたと考えられます。</p>
<p>金属器にはクワ・スキの先に付けるものや、カマや剣・矛・矢じり・鏡などたくさんの種類があります。<br />
この他、中国から渡ってきた銅の貨幣も金属器の一種と言えます。</p>
<p>銅剣には大体、二種類あります。</p>
<p>その1つは、すらりとした小型のもので先が鋭く実用品として使われていたと思われます。<br />
おそらく中国か朝鮮から渡って来たものが多いでしょうが日本で作られたものもあります。</p>
<p>もう一つは全体が平たい形をしていて先も鋭くありません。</p>
<p>また、刃の幅が広く非常に大きくて実用品とは考えられないものです。<br />
これは恐らく日本で作られたもので儀式の時に飾りとして使われたものと思われます。</p>
<p>矛というものは槍と同じように突く武器の一種です。</p>
<p>根元が袋のようになっていて柄を差し込むように作られています。<br />
この銅矛にも刃の幅が細くて先が鋭い実用品と思われるものと刃の幅が広く先が鈍くて実用品にはならないようなものとがあります。</p>
<p>そして銅剣と同じように先の尖っているものは大陸から伝わったものが多く先の鈍いものは日本で作られたものと考えられています。</p>
<p>銅たくは日本独特の金属器です。</p>
<p>今までにはおよそ300の銅たくが発見されていますが全部日本で作られたものと考えられています。</p>
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<p>形は大体は釣鐘に似ていて小さなものは高さがわずか10センチあまりですが、大きなものになると高さが150センチもあります。</p>
<p>今のところ銅たくは何に使われていたのかよくわかりません。</p>
<p>楽器であったという説もありますが、それにしては非常に大きなものもあります。<br />
これも儀式やお祭りの道具であったのかもしれません。</p>
<p>この頃の鏡は大陸から渡ってきたもので銅で作られています。</p>
<p>そして、そのほとんどが当時中国にあった漢という国（紀元前202年～紀元後220年）のものであることが鏡に入っている年号によって日本の弥生文化の年代を知ることができます。</p>
<p>この鏡は主に北九州の遺跡から発見されています。</p>
<p>鏡は表をよく磨いてものを写すようにしたものですが、この頃の人々はこの鏡を非常に不思議なものと考えていました。</p>
<p>そのため極わずかの人々が持っていただけで宝物のように大切にされていました。<br />
貨幣は鏡とともに年代を知る大切な手がかりになるものです。</p>
<p>日本でその頃、貨幣が実際に使われていたかどうかわかりませんが中国では早くから貨幣が使われていました。</p>
<p>この貨幣にはいろいろな種類がありますが日本へ渡ってきてしかも年代が、はっきりしているのは貨泉というものです。</p>
<p>貨泉は直径がおよそ2センチあまりで表に四角の穴を挟んで「貨泉」という文字が入っています。<br />
貨泉は大体、紀元10年頃のもので、佐賀県・熊本県・京都府などの弥生文化の遺跡から発見されています。</p>
<h2>銅剣・銅矛の分布と銅たく（銅鐸）の分布</h2>
<p>この頃の金属器について特に不思議なことは銅剣や銅矛が発見されるところと銅たく（銅鐸）が発見されるところが違うことです。</p>
<p>銅剣や銅矛が発見されるところは北九州を中心にして瀬戸内海沿岸・四国などに広がっています。<br />
しかし、そのほかの地方からは銅剣や銅矛はほとんど発見されません。</p>
<p>これとは反対に銅たく（銅鐸）は近畿地方を中心にして、西は中国・四国地方から、東は東海地方にまで広がっています。</p>
<p>けれども銅剣・銅矛がたくさん発見される北九州をはじめその他の地方からは銅たく（銅鐸）はほとんど発見されていません。</p>
<p>このことについて学者の間でもいろいろな意見が出されています。</p>
<p>今のところはまだはっきりとしたことはわかっていませんが、恐らく北九州と近畿地方の文化の様子が幾分違っていたのではないかと考えられています。</p>
<p>日本の歴史は未だわからないことが多いのです。</p>
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		<title>弥生式土器とは？　名前の由来や土器の特徴・違いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/673</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jan 2014 17:55:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
		<category><![CDATA[弥生式土器]]></category>
		<category><![CDATA[土器]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[弥生式土器は縄文式土器に比べていろいろな違いがあります。 まず、色ですが縄文式土器が黒やねずみ色が多いのに比べて弥生式土器は大抵は赤っぽい色をしています。 硬さは縄文式土器よりも固く厚さも薄くなってきたからだと考えられて [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>弥生式土器は縄文式土器に比べていろいろな違いがあります。<br />
まず、色ですが縄文式土器が黒やねずみ色が多いのに比べて弥生式土器は大抵は赤っぽい色をしています。</p>
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<p>硬さは縄文式土器よりも固く厚さも薄くなってきたからだと考えられています。<br />
つまり、土器作りの技術が進歩したのです。</p>
<p>また弥生式土器は縄文式土器に比べて模様が少なく、あっても幾何学的な簡単なものが土器の一部分につけられているということです。</p>
<p>弥生土器の形はものを蓄えておくための壺、ものを煮炊きするためのかめ、食器としての高つきや鉢などと使い道によってはっきりと区別されています。</p>
<p>弥生式時は縄文式土器のように形や模様に大きな変化はありませんが、それでも時が経つに連れ、また場所が変わるに連れて少しづつ変化しています。</p>
<p>この変わり方を基準ににして弥生文化の伝わりかたを知ることが出来ます。<br />
今のところ弥生文化は北九州から始まり、それから段々と東の方へ伝わっていったと考えられます。</p>
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<p>ところで弥生文化はどのようにして起こったのでしょうか？<br />
この時代には大陸から農業や金属器を伝えた人々がかなり渡ってきたと思われます。</p>
<p>この人々が持ってきた文化を周りの人々に伝え、前からいた人々はこの文化を取り入れました。</p>
<p>こうして、新しく来た人々も前からいた人も一緒に生活をするようになりました。<br />
新しい弥生文化が生まれていったようです。</p>
<p>関東地方や東北地方の弥生式土器の中には縄模様が付いているのがあります。<br />
これは縄文式土器の模様の付け方をそのまま使ったもので、縄文文化が弥生文化に変わっていく様子を示しているものと思われます。</p>
<h2>弥生式土器の名前の由来</h2>
<p>1884年（明治17年）東京大学の有坂鉊蔵という人が東京都文京区本郷弥生町の貝塚から縄文式土器とはかなり様子の違う土器を見つけました。</p>
<p>これが縄文式土器と区別するため、弥生町の土器と言われだし、さらに弥生式土器と名付けられました。<br />
この土器の名前から弥生文化という名も起こったのです。</p>
<p>この土器の発見された貝塚は、今でははっきりわかりませんが今の東京大学の敷地内にあることは間違いないようです。</p>
<p>東京大学には日本の歴史を変えてしまう何かが眠っているかもしれませんね。</p>
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		<title>弥生時代の生活とは？　信仰の対象とは？村の始まりとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/672</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jan 2014 17:23:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
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					<description><![CDATA[日本の歴史を学ぶ上で当時の食生活を知るのは大切なことです。 この頃の人々は主に米を食べていました。 弥生土器にこしきと言う底に穴の空いた土器があります。 この土器に米を入れて水の入ったかめの上に置き、一緒に火をかけて蒸し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本の歴史を学ぶ上で当時の食生活を知るのは大切なことです。</p>
<p>この頃の人々は主に米を食べていました。<br />
弥生土器にこしきと言う底に穴の空いた土器があります。</p>
<p>この土器に米を入れて水の入ったかめの上に置き、一緒に火をかけて蒸したのでしょう。</p>
<p>米の他にも魚や獣の肉、果物なども食べました。<br />
また、麦・アワ・ヒエなど畑の穀物も段々つくられるようになっていきました。</p>
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<p>この頃の人々の衣服については今のところはっきりとしたことはわかっていません。</p>
<p>ただ、登呂遺跡から麻で織った繊維の切れ端や機織りの道具が発見されています。</p>
<p>この機織りの道具はアイヌ人が使っていた「すわりばた」と呼ばれるものによく似ています。</p>
<p>また、「魏志倭人伝」という中国の本によると布を体に巻きつけたり、敷布のようなものに穴を開けて<br />
そこへ首を通して衣服にしていたと書かれています。</p>
<p>この他、飾りとして勾玉やガラス玉などを首や手足に付けていたと思われます。</p>
<p>この頃の住まいは縄文時代とほとんど同じようなたて穴（竪穴）式住居でした。</p>
<p>地面を深さ50センチくらい丸く掘り、柱を建てかやなどで屋根を塞ぎました。<br />
家の真ん中には囲炉裏がつくられ、ここで火をたいたりものを煮たりしていました。</p>
<p>寒いときには囲炉裏の火は住まいを暖めるという大切な役目をしていました。<br />
屋根には煙を出す穴もつくられていました。</p>
<p>また、床の隅に大きな穴が掘られていることもありました。</p>
<p>ここに土器などを入れてその中にものを蓄えていたと思われます。</p>
<h2>信仰</h2>
<p>大雨や日照りが続いたり大風が吹いたりすると、たちまち米のとれ高が減ってしまいます。<br />
そのためこの頃の人々は縄文時代の人々よりも一層、自然の恵みを受けて米がよく実るように、お祈りやお祭りなどの行事が盛んに行われていたようです。</p>
<p>またこの頃になると死んだ人を手厚く葬るという習わしが起こってきました。</p>
<p>人々は村の近くに墓地をつくり、かめ棺・はこ式棺などと呼ばれる棺の中に死体を入れて埋めました。<br />
死体と一緒に剣や鏡などを入れることもありました。</p>
<p>かめ棺は大きな素焼きのかめを二つ合わせて作ったもので北九州で多く発見されています。<br />
はこ式棺は平たい石で細長い箱のようなものを作り上に石で蓋をしたものです。</p>
<p>この他支石墓という変わった形の墓も作られました。<br />
数個の石を置きその上に大きな平たい石を載せたもので、ちょっと低い机のような形をしています。</p>
<p>死体はその下に埋められていました。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<h2>村のはじまり</h2>
<p>稲を作るには種まきから取り入れまで同じ一つの土地を使います。<br />
そのため、鳥や獣・魚などを獲って暮らしていた頃のように、獲物を追って住まいを移す必要はなくなりました。</p>
<p>一つの土地に長く住みつくようになりました。</p>
<p>また、稲を作るには大変手数がかかるので、これまでよりも一層、力を合わせて仕事をすることが必要になりました。</p>
<p>こうして、人々は村をつくり共同生活をするようになってきたのです。<br />
弥生時代の遺跡を調べると数件、あるいは十数件の住まいが固まって作られています。</p>
<p>こういう塊がいくつか集まって村が作られてったのでしょう。<br />
また、最近では稲作りのできないような海岸地帯や山の上の方にも弥生時代の住まいの跡が発見されています。</p>
<p>このようなところに住んでいた人々は稲作りなどはせずに、まだ狩りや魚とりをしていたのかもしれません。</p>
<p>しかし、平野の人々との物々交換が行われていたと考えられているので、こういうところに住んでいた人々も米を食べることは出来たと思われます。</p>
<p>狩りや魚とりをして生活していた時代には食物を蓄えておくのは中々難しいことでした。<br />
そのため、獲物が少ないときなどは食べるものがなくなり人々は大変苦しみました。</p>
<p>しかし、米は蓄えることが出来るので食べ物の心配はこれまでよりもずっと少なくなり、人々の生活にゆとりができました。</p>
<p>また、米のとれ高が多くなると皆々が稲作りに従う必要がなくなってきました。</p>
<p>そして、土器作りを専門にする人、農具作りを専門にする人などが現れてきました。</p>
<p>そのため、よい道具が出来るようになり米のとれ高は一層増えて人々の生活は、ますます豊かになっていきました。</p>
<p>ある意味、職業選択の自由が生まれたようですね。<br />
衣食住が満たされ、次の段階に欲求が向かっているようです。</p>
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		<item>
		<title>稲作り・稲作が伝わったのはいつ？　当時はどのような方法で行っていたの？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/671</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 14 Jan 2014 03:19:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[稲]]></category>
		<category><![CDATA[稲作り]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
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					<description><![CDATA[稲作が始まったのはいつ頃のことでしょうか？ 稲作りがどのうようにして伝わったのかわかりやすく紹介します。 弥生時代の人々が住んでいた跡を調べると時々真っ黒になった米が発見されていることがあります。 土器の底にもみの跡の付 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>稲作が始まったのはいつ頃のことでしょうか？<br />
稲作りがどのうようにして伝わったのかわかりやすく紹介します。</p>
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<p>弥生時代の人々が住んでいた跡を調べると時々真っ黒になった米が発見されていることがあります。<br />
土器の底にもみの跡の付いたのを見ることもあります。</p>
<p>これはその頃の人々が稲を作って生活をしていた大切な証拠です。</p>
<p>このような証拠に九州地方から東北地方にいたる日本の各地で発見されています。<br />
今、日本で作られている稲は細かくわけると多くの種類がありますが大きく分けるとどれも日本型という仲間に入ります。</p>
<p>弥生時代に作られていたものも、ほとんどがこの日本型と言われる稲の仲間でした。<br />
米粒がわりあい丸みを帯びた形をしていてインド型と呼ばれる細長い形をしたものとは違っています。</p>
<p>けれどもこの日本型の稲も日本が原産地ではなく、やはり外国から伝わってきたものです。<br />
稲の原産地は細かいことはわかっていませんが大体中国南部から東南アジア、インドにかけての地域のどこかであろうと考えられています。</p>
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<h2>稲の伝わり方</h2>
<p>稲がどうのようにして伝わったか、その道筋については３つの説があります。<br />
まず1つめは東南アジア、中国南部方面から大陸を北へ進み、朝鮮半島を経て日本に伝わったという説。</p>
<p>2つめは、中国南部方面から台湾や沖縄などの島づたいに日本に来たという説。</p>
<p>3つめは、中国南部方面から海を渡って南朝鮮を通り日本へ来たという説があります。<br />
どれもまだはっきりしたことはわかっていません。</p>
<p>ところで、稲を作るのか簡単なことだと思いますか？<br />
稲を作るには難しい技術や知識が必要です。</p>
<p>なので、ただ稲が伝わってもすぐ日本で上手く作られたとは思えません。<br />
おそらく稲とともにかなりの人が日本に来てその作り方を広めたと考えられます。</p>
<p>静岡県の登呂遺跡は弥生時代としては終わり頃のものですが、ここに水田の跡が残っています。</p>
<p>これは世界でも珍しいことです。この水田にはあぜが作られていました。</p>
<p>長さ１メートル以上もある木の板や棒を二列に並べその間に泥を詰めてあぜにしたのです。<br />
あぜの幅はおよそ50センチぐらいでした。</p>
<p>この板や棒は何万もあったといわれていて、その上綺麗に削られていました。</p>
<p>金属の道具を使って作ったのだろうとは思いますがそれでも大変な仕事であったと想像できます。<br />
また、あぜの他に田に水をひく水路も作られていました。</p>
<p>田の面積は大小様々ですが大体は13～23アールくらいでした。<br />
登呂遺跡の水田を見ると今の水田とそんなに違いがありません。</p>
<p>ですが、稲作りの方法は、今と大分違っていました。</p>
<p>種の蒔き方についてはまだはっきりしたことはわかっていませんが、おそらく田に直接種を蒔いていたのではないかと考えられています。</p>
<p>その他、肥料をやったかどうかなどは全くわかっていません。</p>
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<p>秋になると収穫が行われます。<br />
それには石包丁という道具が使われました。<br />
丁度、包丁のような形をした道具でした。</p>
<p>刈り取った稲は日に乾かしてから倉庫に蓄えておきました。<br />
倉庫は家の近くにあって床が高く階段がつけられていました。</p>
<p>また、ネズミが入らないように「ねずみ返し」という板のようなものが床柱にハメられていました。<br />
こうして倉庫に蔵められた稲は必要に応じて杵と臼を使って脱穀しました。</p>
<p>杵を振り上げて脱穀をしているところが銅たくに描かれたています。<br />
この頃の稲作りの道具は大抵、木で作られていました。</p>
<p>登呂遺跡や奈良県の唐古遺跡などからは木のくわなどをはじめ田下駄や田舟などが発見されています。<br />
田下駄は水の多い田の中を歩くときに使ったもの田舟は稲などのものを運ぶ時に使ったものでした。</p>
<p>稲は熱帯地方が原産地ですが、この頃の人々は大変な努力をして寒い地方にまで稲を作ることを広めました。</p>
<p>北九州から広まった稲つくりは次第に東に移り、近畿地方から関東地方へさらに東北地方にまで広がっていきました。</p>
<p>青森県の弘前市の近くに田舎館という村がありますが、ここに弥生時代の遺跡があって稲作りが行われていたことがわかっています。</p>
<p>当時の人がお米一粒を見て「こんなものいくら食べてもお腹いっぱいにならない」なんて思って投げ出したりしなかったお陰で今の美味しいお米が食べられるんですね。</p>
<p>感謝感謝です。日本の歴史にお米ありです。</p>
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		<item>
		<title>弥生時代とは？　かんたんに言うとどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/670</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 14 Jan 2014 01:39:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[原始時代]]></category>
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					<description><![CDATA[数千年間続いた縄文時代を経てやがて新しい時代に入りました。 この時代を弥生時代と呼んでいます。 弥生時代は縄文時代に比べるとずっと進んだ時代でした。 稲のつくり方が伝わり獣や魚とりが中心の生活から農業中心の生活に変わって [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>数千年間続いた縄文時代を経てやがて新しい時代に入りました。<br />
この時代を弥生時代と呼んでいます。</p>
<p>弥生時代は縄文時代に比べるとずっと進んだ時代でした。<br />
稲のつくり方が伝わり獣や魚とりが中心の生活から農業中心の生活に変わっていったのです。</p>
<p>また、いろいろな金属の道具も伝えられ石器よりも遥かに便利なこれらの道具が次第に広まっていきました。</p>
<p>この時代がいつ頃から始まったのかまだはっきりしたことはわかりません。<br />
おそらく紀元前200年か100年頃ではないかと言われています。</p>
<p>次回からはこの弥生時代について紹介していきます。<br />
日本の歴史、序章といった感じですね。</p>
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