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	<title>江戸時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>江戸時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>大政奉還とは？ 鳥羽伏見の戦いとは？ 彰義隊と白虎隊とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/857</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 10:30:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[大政奉還]]></category>
		<category><![CDATA[鳥羽伏見の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[彰義隊]]></category>
		<category><![CDATA[白虎隊]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大政奉還とは？　鳥羽伏見の戦いについて、日本の歴史を紹介します。 大政奉還とは？ 山内容堂は、天皇の命令が出たことを知ると朝廷側から責められない前に政治の実権を朝廷に還すよう、将軍に勧めました。 将軍慶喜は容堂の勧 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大政奉還とは？　鳥羽伏見の戦いについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>大政奉還とは？</h2>
<p>山内容堂は、天皇の命令が出たことを知ると朝廷側から責められない前に政治の実権を朝廷に還すよう、将軍に勧めました。</p>
<p>将軍慶喜は容堂の勧めに従って政治を朝廷に還しました。1867年(慶応三年)10月のことです。</p>
<p>これを大政奉還といいます。</p>
<p>300年近く続いた江戸幕府の時代もようやくこれで終わりになりました。</p>
<h2>鳥羽・伏見の戦いとは？</h2>
<p>いよいよ、な中心に政治が行われるようになりました。<br />
しかし、実際の政治は全国の藩主が集まって相談してから決めていくのです。</p>
<p>将軍も大名のひとりとして藩主の会議に出ることになりました。<br />
政治の実権は、朝廷にかえったというものの徳川家は、やはり軍隊と多くの土地を持っていたのです。</p>
<p>このままでは、藩主の会議を開いたところで政治は徳川家の言うままになります。</p>
<p>そこで大久保利通・岩倉具視らは御所内の小御所で開かれた会議で「王政復古の大号令」の勅書を発表しました。</p>
<p>天皇のもとに中央政府がつくられ徳川慶喜には土地を朝廷に差し出すように言い渡されました。<br />
これでは、徳川方も黙ってはおれません。</p>
<p>とうとう、京都の鳥羽・伏見街道で大坂城内の幕府の兵、桑名・会津藩の兵と薩摩・長州藩の兵とが、戦いを始めました。</p>
<p>まもなく幕府側は負け慶喜は江戸にかえってしまいました。</p>
<h2>江戸城のあけわたし</h2>
<p>朝廷では、有栖川宮熾仁親王を徳川家を討つ大将軍として江戸を攻めることにしました。<br />
薩摩・長州・土佐らニニ藩の兵は江戸を目指して進軍をはじめました。</p>
<p>朝廷側の官軍が江戸に近づくと徳川側では、江戸で戦争するかどうか激しい議論が戦わされました。</p>
<p>勝海舟らは、これ以上国内で争ってはならない国内で争っているうちに外国が何をするかわからないという意見を述べました。</p>
<p>この意見が通り勝海舟は官軍の西郷隆盛と会って城のあけわたしや慶喜の今後の処分について談判しました。</p>
<p>こうして江戸城は無事に官軍にあけわたされました。</p>
<h2>彰義隊と白虎隊とは？</h2>
<p>家来の中には、まだ官軍と戦おうとするものもたくさんいました。<br />
上野(東京都)の山に立てこもった彰義隊は2000人以上を数え、江戸の官軍を脅かしました。</p>
<p>しかし、官軍の総攻撃にあって彰義隊は負けました。<br />
上野の森の戦いが済むと会津を中心とする東北地方の大名たちが同盟を結んで、官軍に反抗しました。</p>
<p>戦争は東北に移っていったのです。</p>
<p>会津の少年白虎隊も、官軍と戦いましたがついに敗れ、飯盛山で死にました。<br />
その後も、榎本武揚の率いる旧幕府の海軍は、箱館の五稜郭を根城として官軍と最後まで戦いました。</p>
<p>しかし1869年(明治二年)に降伏しここに戦争は、すっかり終わりました。<br />
もう江戸幕府の時代ではありません。</p>
<p>すでに1868年(明治元年)には天皇を中心とする新しい政府ができ江戸は東京と改められて、新しく天皇の都となっていました。<br />
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		<title>王政復古とは？ 徳川慶喜ってどんな人？ 武力で幕府を倒せという声が強くなる！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/856</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 10:07:52 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[王政復古]]></category>
		<category><![CDATA[徳川慶喜]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は王政復古とは？　徳川慶喜について、日本の歴史を紹介します。 徳川慶喜 長州征伐の負け戦の知らせがしきりにやってくる中で将軍家茂は大坂城で亡くなりました。 次の将軍には慶喜がなりました。 慶喜は長州藩との戦いを取りや [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は王政復古とは？　徳川慶喜について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>徳川慶喜</h2>
<p>長州征伐の負け戦の知らせがしきりにやってくる中で将軍家茂は大坂城で亡くなりました。<br />
次の将軍には慶喜がなりました。</p>
<p>慶喜は長州藩との戦いを取りやめフランスの助けを借りながら幕府の仕組みを改めていこうとしました。<br />
政治のやり方も改め西洋に見習おうとしたのです。</p>
<p>こうなってくると長州藩や薩摩藩の幕府を倒そうという狙いも危なくなってきます。</p>
<h2>倒幕の動き</h2>
<p>ところが、そのころ孝明天皇が亡くなりました。<br />
天皇は、出来るだけ幕府と仲良くして行きたいと考えていたのです。</p>
<p>そのため天皇が亡くなると朝廷の中の幕府に反対する人たちのカが強くなりました。</p>
<p>公卿の岩倉具視らは新しく位についた明治天皇のもとで幕府を倒し、王政復古を実現する計画をねりました。</p>
<p>薩摩や長州では武力で幕府を倒せという声が強くなってきました。<br />
そして、とうとう幕府とたおせという天皇の命令が、薩摩藩と長州藩とにこっそり授けられました。</p>
<p>いっぽう、幕府とこれを倒そうという人々の間をとりなそうとい動きもありました。<br />
土佐(高知県)の前藩主、山内容堂(豊信)や越前(福井県の一部) の前藩主松平慶永の動きがそれです。</p>
<p>幕府の勝手なやり方を許さず大名や人々を広く政治に携わるという公議政体論をもって、なんとか幕府をまもろうとしました。<br />
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		<title>蛤御門の変とは？ 薩長同盟とは？ 第一次長州征伐とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/855</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 09:56:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[蛤御門の変]]></category>
		<category><![CDATA[長州征伐]]></category>
		<category><![CDATA[薩長同盟]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は蛤御門の変とは？　薩長同盟について、日本の歴史を紹介します。 蛤御門の変とは？ 京都を追われた長州藩は1864年(元治元年)七月になって京都を追い出された理由を聞こうと京都に進軍してきました。 薩摩や会津の軍隊が御 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は蛤御門の変とは？　薩長同盟について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>蛤御門の変とは？</h2>
<p>京都を追われた長州藩は1864年(元治元年)七月になって京都を追い出された理由を聞こうと京都に進軍してきました。</p>
<p>薩摩や会津の軍隊が御所を護って、長州軍を迎え撃ちました。<br />
長州軍は大きな痛手をおって逃げていきました。</p>
<p>これを、蛤御門の変といいます。</p>
<h2>第一次長州征伐</h2>
<p>幕府は、長州藩が朝廷に向かって鉄砲を打った罪をせめ1864年大名たちに命令をくだして長州藩を取り囲ませました。</p>
<p>幕府の軍と戦うだけでもたいへんですが長州藩はそのとき、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国の連合艦隊から総攻撃を受け、散々なめに会っていたのです。</p>
<p>下関海峡で長州藩から大砲をうちかけられたイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国が仇を討ちにきたのです。</p>
<p>これでは、とても幕府の軍と戦うことは出来ません。<br />
長州藩は幕府に謝ることになり三人の家老が、腹を切りました。</p>
<p>幕府は、長州藩を謝らせたために少し元気がでてきまた。<br />
今こそ将軍を中心にして幕府の力を強くしなければならないと考えました。</p>
<p>そこで、幕府は外国から軍艦や鉄砲を買ったりフランスの助けを借りて軍隊の訓練をしたり、たいへんな努力を続けました。</p>
<h2>薩長同盟とは？</h2>
<p>しかし、長州藩では奇兵隊という軍隊を率いた高杉晋作たちが幕府に降参した人々を、追い出しました。<br />
そして、改めて幕府と戦おうとしました。</p>
<p>また薩摩藩でも、幕府はもう頼みにならないという大久保利通や西郷隆盛らが藩の実権を握るようになりました。</p>
<p>そして、土佐の坂本龍馬らのとりもちで薩摩は長州と密かに手を握ることになりました。</p>
<p>幕府が、戦いをしかけてくればお互いに助け合うこと朝廷と長州藩のとりなしをすることなどが約束されました。</p>
<h2>第二次長州征伐</h2>
<p>長州藩の動きを見て幕府は今度こそ長州を責め滅ぼそうと考えました。<br />
そして、1865年(慶応元年)九月第二回の長州征伐が始まりました。</p>
<p>しかし、今度は前と違って反対する大名がたくさんありました。<br />
外国との問題もうるさいとき国内で争いをするのはいけないという意見です。</p>
<p>おまけに大名たちにはもう長州征伐に出かけるだけのお金もありませんでした。<br />
中でも、長州藩と同盟を結んだ薩摩藩はいちばん強く長州征伐に反対しました。</p>
<p>長州藩が滅ぼされた後次に滅ぼされるのは薩摩藩の番だと考えたのです。<br />
薩摩藩の他にも長州征伐に兵を出さない藩もありました。</p>
<p>幕府は長州へ責めていきました。<br />
しかし幕府軍の足なみは揃わず散々の負け戦になりました。<br />
そのために、幕府の勢いいっそう衰えていきました。</p>
<p>そのうえ民衆たちもまるで幕府を困らせようとするように各地で盛んに百姓一揆をおこし都市では、打ち壊しを始めました。</p>
<p>1866年は、特に一揆や打ち壊しの激しい年でした。<br />
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		<item>
		<title>薩英戦争とは？ 生麦事件とは？ 生野の変・天誅組の変とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/854</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 09:24:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[生野の変]]></category>
		<category><![CDATA[天誅組の変]]></category>
		<category><![CDATA[薩英戦争]]></category>
		<category><![CDATA[生麦事件]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は薩英戦争について、日本の歴史を紹介します。 公卿の活躍 朝廷では、志士たちと結んだ三条実美や姉小路公知などの公卿が中心となり外国人を打ち払うことに決めました。 幕府もだんだん朝廷の考えに引きずられるようになりました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は薩英戦争について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>公卿の活躍</h2>
<p>朝廷では、志士たちと結んだ三条実美や姉小路公知などの公卿が中心となり外国人を打ち払うことに決めました。</p>
<p>幕府もだんだん朝廷の考えに引きずられるようになりました。<br />
勅使が江戸に下って幕府も壌夷を承諾しなければならなくなりました。</p>
<p>朝廷では国中で壌夷運動をおこす計画を立てました。</p>
<p>この計画によって1863年(文久三年)三月将軍家茂が京都に呼ばれ天皇に攘夷を約束することになりました。</p>
<p>また、天皇は賀茂社や石清水八幡宮にお参りして攘夷の祈りを捧げました。<br />
家茂は、五月に攘夷の戦いを始めようと朝廷に約束しました。</p>
<h2>外国船打ち払い</h2>
<p>1863年五月、長州藩は下関海峡を通る外国船に片っ端から大砲を打ち掛けました。<br />
七月、薩摩藩とイギリスの間にも戦争がおこりました。</p>
<p>これは、八年におこった生麦事件が原因です。</p>
<p>薩摩の島津久光が江戸から帰ると行列を乱したとの理由でイギリス人ひとりが殺され、ふたりが傷付けられました。</p>
<p>これが生麦事件です。</p>
<p>横浜のイギリス人は多いに怒り事件の翌年、イギリス軍艦が賠償金を取るために、鹿児島へやってきました。</p>
<p>ところが、薩摩藩がイギリスの言うことを聞かなかったので、とうとう戦争になりました。</p>
<p>イギリス軍の大砲で、鹿児島の町は焼き払われてしまいました。<br />
薩摩の武士たちも、勇ましく戦いしまいには、イギリスの軍艦は鹿児島を逃げ出しました。</p>
<p>しかし、この戦争のおかげで薩摩藩には外国の軍艦の強さがよくわかりました。<br />
彼らは、外国と戦争をしてもとても勝てないのではないかと考えるようになりました。</p>
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<h2>七人の公卿</h2>
<p>ところが、朝廷では三条実美らが相変わらず攘夷の計画を進めていました。<br />
1863年8月13日には天皇が攘夷を祈るため大和にいくことが発表されました。</p>
<p>また攘夷ばかりでなく将軍家茂を殺そうとする動きもありました。<br />
この考えは、天皇やそのそばの、考えの穏やかな公卿たちに知れました。</p>
<p>穏やかな考えの人たちは早速、薩摩や会津(福島県)の軍を集め実美たちの計画を壊してしまいました。</p>
<p>計画の中心になった実美ら七人の公卿は朝廷をおわれて、降りしきる雨の中を長州(山口県の一部)へ逃げていきました。</p>
<p>長州藩の武士都たちが実美らの計画を助けていたのです。<br />
そのため、京都の御所の護りをしていた長州藩の兵士たちも京都から追い払われることになりました。</p>
<p>1863年8月18日のことでした。</p>
<p>また、天皇が大和(奈良県)にいくと発表したあくる日、公卿の中山忠光は、志士を集めて京都な抜け出し大和の五条に兵を挙げて代官所を襲いました。</p>
<p>これを天誅組の変といいます。</p>
<p>また、平野国臣らは天誅組に応じて但馬(兵庫県の一部)の生野に兵を挙げました。</p>
<p>これを生野の変といいます。</p>
<p>しかし、天皇の大和行きが中止されたので名分な失い、付近の諸藩の兵に敗れました。<br />
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		<item>
		<title>尊王攘夷とは？ 勤王の志士とは？ 高まる国民の不満とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/853</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 08:54:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[尊王攘夷]]></category>
		<category><![CDATA[勤王の志士]]></category>
		<category><![CDATA[島津久光]]></category>
		<category><![CDATA[日米通商条約]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は尊王攘夷について、日本の歴史を紹介します。 勤王の志士 京都に集まった志士たらは早くから幕府を倒す計画を立てていました。 島津久光が兵を率いて京都に乗り込むと志士たちはこれを倒幕の兵にふりむけようとしきりに運動しま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は尊王攘夷について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>勤王の志士</h2>
<p>京都に集まった志士たらは早くから幕府を倒す計画を立てていました。</p>
<p>島津久光が兵を率いて京都に乗り込むと志士たちはこれを倒幕の兵にふりむけようとしきりに運動しました。</p>
<p>公武合体を進めようとする久光にはこうした志士の動きが邪魔になります。</p>
<p>久光は、幕府を倒そうとする気は無くただ幕府の政治を改めさせ、その上で公武合体を計るつもりでした。</p>
<p>したがって、志士たちの倒幕の運動が激しくなることは、島津久光にとって最も恐るべきことです。<br />
そこで、久光は志士たちを推し進めようとしました。</p>
<p>志士たちが、自分らの力で兵をあげようとして久光に抑えられた、寺田屋騒動のような事件もおこりました。</p>
<p>久光は、志士たちを抑えると朝廷にはたらきかけ勅使を江戸にいかせて幕府の政治を改めることに、成功しました。</p>
<p>しかし、まもなく長州藩主毛利敬親が京都へやってきました。<br />
敬親はさきの公武合体・開国の意見を捨て外国と結んだ条約をもとに戻すことを強く幕府に求めました。</p>
<p>また、土佐藩主の山内豊信も勤王の志士が、たくさん加わった兵士を従えて、京都へやってきました。<br />
このような長州藩や土佐藩の動きに志士たちは、これまでにない強い力を持つようになりました。</p>
<h2>国民の不満</h2>
<p>目米通商条約が結ばれてから生糸がどんどん国外に売り出されていきました。<br />
そのため、桐生や西陣などでは絹織物の原料がなくなってしまいました。</p>
<p>また、外国から毛織物や綿織物が、どしどし輸入され日本の織物業は苦しくなりました。<br />
その上、物の値段が急に三倍も四倍もあがったので人々の生活は苦しくなり幕府のやり方を恨みました。</p>
<p>そこで、幕府は貿易を抑えようとしました。</p>
<p>しかし、江戸で幕府と親しくしていた商人はやはり美味い汁を吸っていたので地方の商人が多いに不平を言いだしました。</p>
<p>地方の商人たちは幕府に反対している志士にたくさんのお金をやるようになりました。<br />
撰夷の運動志士たちは、外国人を斬り殺したり外国の領事館を襲ったりするようになりました。</p>
<p>このようにして外国人を追い出そうとする志士たちの活動を、壌夷運動といいます。</p>
<p>1860年(万延元年)には公使館の通訳ヒュースケンが暗殺されました。<br />
翌年には、水戸の浪士がイギリス公使館にあてられた江戸の東禅寺を襲いました。</p>
<p>さらに、1862年(文久二年) の暮れ長州藩の高杉晋作たちは幕府を困らせようとして品川の御殿山に移ったイギリス公使館を焼き払いました。</p>
<p>外国側は、損害をすっかり繋ぐよう幕府に強く抗議しました。<br />
幕府は、もうどうしていいかわからなくなりました。<br />
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		<title>安政の大獄とは？ 桜田門外の変・坂下門外の変とは？ 公武合体とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/852</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 08:17:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[安政の大獄]]></category>
		<category><![CDATA[吉田松陰]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[公武合体]]></category>
		<category><![CDATA[桜田門外の変]]></category>
		<category><![CDATA[坂下門外の変]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安政の大獄とは？　桜田門外の変について、日本の歴史を紹介します。 安政の大獄とは？ 幕府反対の声日米通商条約の取り決めで幕府に反対する声はいよいよ高まりました。 そこで井伊直弼は、取り決めに反対した水戸(茨城県)・ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安政の大獄とは？　桜田門外の変について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>安政の大獄とは？</h2>
<p>幕府反対の声日米通商条約の取り決めで幕府に反対する声はいよいよ高まりました。<br />
そこで井伊直弼は、取り決めに反対した水戸(茨城県)・越前(福井県の一部)尾張(愛知県の一部)などの藩主を罰しました。</p>
<p>そして、京都で幕府に反対する運動をしていた人たちを片っ端から捕まえて、牢に入れました。<br />
梅田雲浜・頼三樹三郎・橋本左内・吉田行松陰など多くの人々が捕らえられ、死刑になりました。</p>
<p>西郷隆盛は薩摩に逃げました。</p>
<p>しかし、隠れるところがなく月照という僧とともに海に飛び込んで死のうとしたこともありました。<br />
このときの幕府の激しい取り締まりを安政の大獄と呼んでいます。</p>
<h2>吉田松陰とは？</h2>
<p>幕府に反対した人たちの中には身分の低い武士が多くまた、町人や農民の出身の人もいました。<br />
これらの人々は、勤王の志士と言われました。</p>
<p>吉田松陰はその内のひとりです。<br />
松陰は長州藩(山口県の一部)の武士の家に生まれました。</p>
<p>はじめ兵学(軍事を研究する学問)を学びましたが後に江戸へ出て佐久間象山に西洋の学問を学びました。<br />
そして、ペリーが来たときにはその軍艦にもやりこんで外国に渡ろうとしました。</p>
<p>国を思う心が強く外国の様子を知ろうとしたのです。<br />
しかし、外国に行くことは幕府が厳しく禁じていましたので松陰は、牢屋に入れられました。</p>
<p>やがて許されて故郷に松下村塾を開き青年たちを教育しました。</p>
<p>ここで松陰に学んだ人の中から高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠・伊藤博文・品川弥二郎などたくさんの優れた人が出ました。</p>
<h2>桜田門外の変とは？</h2>
<p>安政の大獄のあと幕府に反対する人々はいっそう深く直弼を憎むようになりました。</p>
<p>幕府の政治を動かしている直弼を殺してしまい、それをきっかけに京都で兵をあげようという計画も立てられました。</p>
<p>この計画は、藩主を罰せられて憤慨した水戸藩の浪土たちによって進められました。<br />
彼らは1860年(万延元年)三月三日江戸城の桜田門外でついに井伊直弼を討ち取りました。</p>
<p>これを桜田門外の変といいます。</p>
<h2>坂下門外の変とは？</h2>
<p>大老を殺された幕府では老中安藤信正を幕府の責任者としました。</p>
<p>信正は直弼の後を受け継いで幕府の人気をよくし朝廷とも仲良くするために孝明天皇の妹、和宮を将軍の妻に迎えたいと申し出ました。</p>
<p>この考えには、朝廷の中でも賛成する人がありました。<br />
しかし和宮には、結婚の約束をした相手がありましたし孝明天皇もはじめから反対でした。</p>
<p>それを幕府は、無理やりに将軍の妻にしようというのです。</p>
<p>和宮が江戸に行くと決まると天皇を尊び、幕府を倒そうとする志士たちはますます幕府反対の態度を強くしました。</p>
<p>そして、志士たちは1862年(文久二年)一月江戸城の坂下門で安藤信正を傷付けました。</p>
<p>これが坂下門外の変です。</p>
<h2>公武合体とは？</h2>
<p>責任者が次々に、ふたりも襲われるようでは幕府の力も知れたものです。</p>
<p>今まで、外様だと言われて幕府に軽く見られていた長州藩や薩摩藩などが幕府のこの弱りめに漬け込んで<br />
強い意見を出すようになりました。</p>
<p>そして朝廷を中心として各藩が集まろうとするカが強くなりました。<br />
まず長州藩は、開国を推し進め多いに海外に発展するべきだということを幕府や朝廷に申し入れました。</p>
<p>そのためには、朝廷は今までの鎖国の方針を止め、幕府の開国を認め幕府と朝廷とは、手を取り合って国を強くしていかなければならないというのです。</p>
<p>その中心となったのが長井雅楽という人です。</p>
<p>この意見は、開国に反対する人々によって潰されてしまいました。<br />
しかし、やがて薩摩の島津久光が1000人の兵をつれて京都と江戸に乗り込みました。</p>
<p>久地は、長州藩の開国の意見には反対でしたがやはり、朝廷と幕府とを一つにするため、骨を折ろうとしたのです。</p>
<p>朝廷と幕府が一つになることを公武合体といいます。<br />
公とは公卿(朝廷方)武とは武士(幕府方)の意味です。</p>
<p>しかし、開国の意見も公武合体論も長州耐や薩摩藩の力を人々に示すだけで幕府を強める役には立ちませんでした。</p>
<p>その後、志土たちの活動はいっそう激しくなりました。<br />
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		<title>日米通商条約とは？ 治外法権・関税自主権とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/851</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 07:35:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日米通商条約]]></category>
		<category><![CDATA[ハリス]]></category>
		<category><![CDATA[井伊直弼]]></category>
		<category><![CDATA[咸臨丸]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[治外法権]]></category>
		<category><![CDATA[関税自主権]]></category>
		<category><![CDATA[ペリー]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は日米通商条約について、日本の歴史を紹介します。 日米通商条約とは？ 井伊直弼は、てきぱきと次の将軍の問題を片付けると、開国に反対する人々の意見に耳をかさず 1858年(安政五年)ハリスとの間に日米通商条約を取り決め [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は日米通商条約について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>日米通商条約とは？</h2>
<p>井伊直弼は、てきぱきと次の将軍の問題を片付けると、開国に反対する人々の意見に耳をかさず<br />
1858年(安政五年)ハリスとの間に日米通商条約を取り決めました。</p>
<p>しかし、このころは外国との貿易のような大事な問題については朝廷の許しをもらってから取り決める習わしになっていました。</p>
<p>直弼は朝廷の許しを待たずに、取り決めをしたためにたいへん非難されるようになりました。<br />
日米通商条約に引き続いてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じ通商条約が結ばれました。</p>
<p>これによって下田・箱館のほか神奈川(横浜)・兵庫(神戸)・長崎・新潟の四つの港が開かれることになりました。</p>
<p>日本は正式に世界の国々の仲間入りすることになったのです。<br />
しかし、条約の中には日本にとって都合の悪いことが多く日本人に大きな負担になりました。</p>
<p>明治時代になって政府はこれを改正するのに、たいへん苦労しました。</p>
<h2>治外法権とは？</h2>
<p>何よりも困ったのは日本にいる外国人がどんな悪いことをしても日本の裁判所で裁判することができない点です。</p>
<p>何故かというと通商条約では日本の裁判所は外国人を裁判することができない外国人が罪を犯した場合は、その国の領事がその国の法律に従って裁判されるという取り決めがしてあったからです。</p>
<p>これを「外国人が治外法権を持つ」と言います。</p>
<h2>関税自主権とは？</h2>
<p>治外法権ばかりではありません。</p>
<p>輸入する品物にかける税金を関税と言いますが通商条約によると、日本は外国の品物に自分で関税をかけることが出来ませんでした。</p>
<p>必ず、相手の国と相談して相手の国に承知してもらわなければなりません。<br />
つまり関税自主権が認められていないのです。</p>
<p>なお江戸幕府は、この関税の取り決めのときたいへん低い税の割合を決めてしまったのです。</p>
<p>このように、治外法権を認め関税自主権を失い、低い関係しか掛けることのできなかった通商条約は、完全な不平等条約と言えます。</p>
<h2>威臨丸の訪米</h2>
<p>日来通商条約が結ばれるとアメリカに使節を送ることになりました。<br />
使節の一行はアメリカの軍艦に乗りましたがこのとき勝海舟らは日本人だけの手で太平洋を渡りたいと願いでました。</p>
<p>勝海舟らの咸臨丸は300トンあまりの小さな蒸気船でした。</p>
<p>彼らはたいへん苦労してアメリカに着き新しい文明を使いこなす日本人の力を世界の人々に示しました。<br />
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		<item>
		<title>神奈川条約とは？　総領事ハリス・井伊直弼とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/850</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 06:58:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[ハリス]]></category>
		<category><![CDATA[井伊直弼]]></category>
		<category><![CDATA[総領事ハリス]]></category>
		<category><![CDATA[神奈川条約]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[ペリー]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は神奈川条約とは？ 総領事ハリス・井伊直弼について、日本の歴史を紹介します。 神奈川条約とは？ あくる1854年(安政元年)ペリーは再び軍艦7席を率いてやってきました。 幕府はこのときまでに、いろいろ相談しましたがど [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は神奈川条約とは？<br />
総領事ハリス・井伊直弼について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>神奈川条約とは？</h2>
<p>あくる1854年(安政元年)ペリーは再び軍艦7席を率いてやってきました。<br />
幕府はこのときまでに、いろいろ相談しましたがどうするかを決めていませんでした。</p>
<p>しかし、もう追い返すことは出来ません。<br />
とうとう、幕府はペリーと開国の取り決めを交しました。</p>
<p>下田・箱館(函館)を開港場にしてアメリカの船にまき水・食べ物を差し出すことになったのです。<br />
その年の三月にはこの取り決めをもとにして日米和親条約が結ばれました。</p>
<p>神奈川(神奈川県)で結ばれたので神奈川条約とも言います。<br />
ペリーが日本と条約を結ぶことに成功したと聞くと、他の国々も、すぐに日本へ使いを送ってきました。</p>
<p>1856年一月までの間にアメリカと結んだのと同じような和親条約がイギリス・フランス・ロシア・オランダとも結ばれました。</p>
<p>しかし、和親条約には貿易の取り決めはしていません。<br />
アメリカやその他の国々もこの条約だけでは、満足しませんでした。</p>
<h2>総領事ハリス</h2>
<p>おりを見て貿易の取り決めをしようと考えたアメリカは、1856年(安政三年)ハリスを日本に送りました。</p>
<p>ハリスは総領事という役目です。</p>
<p>彼は下田に領事館をおき幕府の将軍に会って、大統領の手紙を渡す機会を待っていました。<br />
あくる年、ハリスは江戸に乗り込み将軍や幕府の老中と会いました。</p>
<p>丁度そのころ、清(中国)はアロー号事件でイギリス・フランスの連合軍に責め立てられていました。</p>
<p>ハリスは、イギリスやフランスが清を負かした後、すぐ日本にやってくるだろうそして、日本に都合の悪い条約を無理やり押し付けてくるだろう、それをさせない方法はただ一つ今の内にアメリカとよい条件で条約を結ぶことだと、強く幕府に言ったのです。</p>
<h2>井伊直弼</h2>
<p>そのころ、日本では開国には反対する人々もかなりたくさんいました。</p>
<p>特に、ペリーが来てからあまりに幕府の腰が弱いのを見せつけられた大きな藩の中には、今こそきっぱりと開国を断って国民の心をふるい立たせるときだというものもありました。</p>
<p>こういう人たちは幕府のやり方が気にいらずだんだん京都の朝廷に近づいて幕府のやり方を改めさせようとするようになりました。</p>
<p>こんなことでは幕府の力は弱くなるばかりです。<br />
その上、幕府の中では次の将軍を誰にするかについて意見が大きく二つにわかれていました。</p>
<p>心配した幕府の人たちは井伊直弼を大老にして直弼に大きな権力を持たせこの難しい時期を乗り切ろうとしました。<br />
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		<item>
		<title>ペリーの来航とは？　慌てる幕府と4隻の黒船とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/849</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 05:41:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[ペリー]]></category>
		<category><![CDATA[黒船]]></category>
		<category><![CDATA[開国]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/849</guid>

					<description><![CDATA[今回はペリーの来航とは？　慌てる幕府と4隻の黒船について、日本の歴史を紹介します。 ペリーの来航とは？ アメリカ・ロシア・フランスの国々やアヘン戦争をしかけて清との間に有利な条約を結んだイギリスは 次に日本に迫ってきまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回はペリーの来航とは？　慌てる幕府と4隻の黒船について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>ペリーの来航とは？</h2>
<p>アメリカ・ロシア・フランスの国々やアヘン戦争をしかけて清との間に有利な条約を結んだイギリスは<br />
次に日本に迫ってきました。</p>
<p>日本の鎖国を打ち破り貿易の取り決めをしようというのです。<br />
1843年(天保14年)にはイギリスの軍艦が、琉球の南側に現れました。</p>
<p>宮古・八重山諸島の付近を測量した上に琉球と貿易したいと言ってきました。<br />
このころ琉球は、薩摩藩が治めていたのです。</p>
<p>翌年になると、フランスも軍艦三隻で琉球にやってきました。<br />
また、長崎にきたオランダの軍艦は開国を勧める、国王の手紙を持ってきました。</p>
<p>幕府はこの勧めを断り大急ぎで砲台を築いたり諸藩に命令したりして海防を固めました。<br />
しかし、開国を求める国々もじっとしてはいません。</p>
<p>やがて、イギリスやフランスの軍艦が長崎にも、現れるようになりました。</p>
<h2>4隻の黒船とは？</h2>
<p>イギリス・フランス・ロシアよりも、いっそう強く日本に開国を迫ったりは海の向こう側の国アメリカです。</p>
<p>1846年(弘化三年)東インド艦隊の司令長官ビッドルが、軍艦2隻を率いて浦賀(神奈川県)に来ました。<br />
この時は、あまり強いことも言わずに帰りました。</p>
<p>しかし、1833年(嘉永18年)にはアメリカの司令長官ペリーが強い決意をもって、やってきました。<br />
ペリーは軍艦4隻を率いてまず琉球に立ち寄りました。</p>
<p>もし日本が言う事を聞かないときは琉球を根拠地にして戦争を仕掛けるつもりでいたのです。</p>
<p>ぺリーは、六月三日浦賀(神奈川県)の港に入ってきました。<br />
浦賀の村はもちろん村にいた幕府の役人たちも大慌てです。</p>
<p>江戸へ知らせるためしきり早馬や飛脚がとびました。<br />
海辺の人々は荷物をまとめて逃げ出す有様です。<br />
このごろ外国船は黒船と呼ばれました。</p>
<p>4隻の黒船のために浦賀から江戸にかけて、ひっくり替えるような騒ぎでした。</p>
<h2>慌てる幕府</h2>
<p>ペリーは、日本の最高の役人に会いたいと強い態度を押し出しました。<br />
しきりに、から玉を打ったり軍艦を走らせ、江戸湾の測量をしたりして脅かしました。</p>
<p>幕府は、すっかりおじけづいてしまいました。</p>
<p>そして、多くの藩から武士を集めましたがとても、勝てそうにもありません。<br />
日本の大砲も船もペリーのそれとは比べものになりませんでした。</p>
<p>幕府は、ペリーの強い決心を知って、ペリーが持ってきたアメリカ大統領の手紙を受け取ることにしました。</p>
<p>大統領の手紙には、日本と仲良くし貿易をしたいことアメリカの船に石炭や食べ物を売って欲しいことなどが書かれていました。</p>
<p>幕府は、来年には必ずよい返事をするからと、誤魔化して、いったんペリー帰らせることにしました。</p>
<p>ペリーはその後も測量を続け江戸の町が、間近に見えるところまで入ってきて大騒ぎさせ、六月一二日にようやく去りました。</p>
<p>泰平の眠りを覚ます蒸気船たった四はいで夜も寝られず蒸気船というのは上等のお茶の名で、汽船にかけたわけです。</p>
<p>この歌は、お茶を飲むと眠れないということに黒船騒ぎを結びつけたもので、そのころ流行った歌です。<br />
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		<title>高野長英と渡辺崋山とは？　尊王論とは？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 10 Jul 2014 05:16:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[高野長英]]></category>
		<category><![CDATA[渡辺崋山]]></category>
		<category><![CDATA[尊王論]]></category>
		<category><![CDATA[シーボルト]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は高野長英と渡辺崋山とは？　尊王論について、日本の歴史を紹介します。 高野長英と渡辺崋山とは？ そのころ、江戸に渡辺崋山という人がいました。 三河(愛知県)の田原藩の家老でしたが画家としても有名でまた、オランダの学問 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は高野長英と渡辺崋山とは？　尊王論について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>高野長英と渡辺崋山とは？</h2>
<p>そのころ、江戸に渡辺崋山という人がいました。</p>
<p>三河(愛知県)の田原藩の家老でしたが画家としても有名でまた、オランダの学問も研究していました。<br />
崋山の友人の高野長英はシーボルトの門人でオランダの学問に詳しい人でした。</p>
<p>崋山や長英は、外国のことを研究している内にモリソン号のことを聞きました。<br />
2人はたいへん驚き、また心配しました。</p>
<p>崋山は「慎機論」、長英は「夢物語」を表して異国船打払令を批判しました。</p>
<p>幕府では、そんな勝手なことを書いてはいけないと言って長英を牢屋に入れ崋山には謹慎を命じました。<br />
崋山は、自分の殿様に迷惑がかかってはいけないと思って自殺してしまいました。</p>
<p>長英は、牢から逃げ出しあちらこちら逃げ回っていましたが数年後に見つかり捕らえられる前に自殺しました。</p>
<p>こんなことをしている内に外国のカは、だんだん日本に近づいてきました。</p>
<p>イギリスが清を負かして香港をとったのも、そのすぐ後です。<br />
その知らせが伝わると幕府でもびっくりしました。</p>
<p>世界でいちばん大きく強いと思っていた清が負けたというのですからたいへんなことになったと思いました。</p>
<p>そこで、打払令は止めて外国船が水や食料が必要なときには与えることにしました。<br />
水野忠邦が老中のときのことです。</p>
<h2>尊王論とは？</h2>
<p>外国の力が及んできて日本の国内の政治も上手くいかなくなり、これまでのやり方では日本の国は、どうなるだろうという心配がおきてきました。</p>
<p>そして、将軍に代わって天皇が中心となって新しい政治を行うべきだと考える人がでてきました。</p>
<p>この皇室を尊ぶ考えを尊王論と言います。</p>
<p>こういう考えを持つ人々が幕府を倒そうという運動をおこすようになりました。<br />
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