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	<title>飛鳥時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>飛鳥時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>仏教文化が栄えた飛鳥時代！　広まる仏教と白鳳文化とは？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 13:15:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[仏教文化]]></category>
		<category><![CDATA[白鳳時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は飛鳥時代に栄えた仏教文化について、日本の歴史を紹介します。 天武天皇は、神をまつる儀式や制度を整えることにも熱心でしたが、また仏教をも深く信じていました。 壬申の乱のとき、大和地方の寺から助けてもらったこともあって [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は飛鳥時代に栄えた仏教文化について、日本の歴史を紹介します。<br />
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天武天皇は、神をまつる儀式や制度を整えることにも熱心でしたが、また仏教をも深く信じていました。</p>
<p>壬申の乱のとき、大和地方の寺から助けてもらったこともあって、天皇は、大大官大済寺（百済寺)・飛鳥寺・川原寺などに、財産を寄付したりなどして、厚い保護を加えました。</p>
<p>そのため、寺は目覚しい勢いで発展しました。<br />
天皇は、また仏教の教えを尊び、その教えをもとにして、いろいろな命令をだしました。</p>
<p>例えば、人々に悪いことなしてはいけない、肉を食べてはいけないという命令をだしたり、家ごとに仏像やお経をおいて、拝ませたりしました。</p>
<p>天武天皇が、686年に亡くなると皇后がその跡を継いで、持続天皇となりました。<br />
持続天皇も、天武天皇のように、非常に仏教を大切にしたので、この二代のあいだに、仏教は、たいへん栄えました。</p>
<p>それで、この時代の文化は、前の飛鳥文化に劣らない、すばらしいものとなりました。<br />
この文化な白鳳文化と呼び、この時代をとくに白鳳時代ともいいます。</p>
<p>この時代の文化には、前の飛鳥時代と違って、新しく唐(中国) の影響を受けた仏像や絵画が、あらわれてきました。</p>
<p>仏像でいえば、飛鳥時代の仏像が平たく、体の釣り合いが、崩れているのにくらべ、白鳳の仏像は、体つきが生きた人間に似て、厚みや膨らみや、釣り合いを持っているてんに特徴があります。</p>
<p>奈良の薬師寺にある薬師三尊像(薬師如来と、わきじの日光・月光両菩薩像)は、学者によっては反対する人もいますが、普通には白鳳の仏像の傑作と言われています。</p>
<p>これを飛鳥の像と比べてみれば、違いがわかるでしよう。</p>
<p>また、このごろの仏像について、もう1つの大きな特徴を挙げると、金銅製の仏像が、だんぜん多いということです。</p>
<p>金銅製というのは、銅でつくった像を金メッキしたという意味です。</p>
<p>これは後の天平(奈良時代)の仏像一が、そ像とか、かんしっ像とかいって、土やうるしや布で作られたものが多いのにくらべてこの時代の彫刻の特徴と言っていいでしょう。</p>
<p>また、あまり財産のない人々が大勢集まり、カを合わせて仏像をつくることがはやり始めたのも、この頃です。</p>
<p>そういうものには、あまり大きな仏像はないようですが、小さいものが、数多くつくられたところにも、<br />
仏教の広まりがみられます。</p>
<p>建築は、政府や天皇が寺を盛んに建てたことや、豪族がこれに見習ったことなどから、すばらしい発達を遂げました。</p>
<p>中でも、川原寺や薬師寺・大官大寺などは有名ですが、この他にも、筑紫(福岡県)の観世音寺や、近江(滋賀県)の崇福寺などがあります。</p>
<p>このうち、今でも残っているのは薬師寺だけですが、その建物の柱の膨らみは、前の時代の、法隆寺のものに比べて、ゆるやかになっています。</p>
<p>外国の建築技術の影響も次第に、薄くなってきたことがわかります。</p>
<p>絵画としては、法隆寺の金堂の壁画が有名でしたが、1949年(昭和二四年)の火事で、すっかり傷んでしまいました。</p>
<p>しかし、そこに描かれた仏像の描き方は、インドから中国をへて、日本に伝えられたものだといわれますから、そこにも大陸文化の強い影響をみることができますね</p>
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		<title>律令による政治とは？　罪と罰。学校と教育はどのように？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 12:45:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[学校教育]]></category>
		<category><![CDATA[大宝律令]]></category>
		<category><![CDATA[罪と罰]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は律令による政治のさなか、それによる罪と罰。学校と教育はどのように行われていたのか、日本の歴史を紹介します。 成年男子の三分の一は、兵士とならねばなりませんでした。 そのうち、一部のものは、都へつ遣わされて、皇居を守 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は律令による政治のさなか、それによる罪と罰。学校と教育はどのように行われていたのか、日本の歴史を紹介します。<br />
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成年男子の三分の一は、兵士とならねばなりませんでした。</p>
<p>そのうち、一部のものは、都へつ遣わされて、皇居を守る衛士となり、あるいは大宰府(福岡県)へ下って、外国から攻めてくる敵な防ぐための防人（さきもり）となりました。</p>
<p>衛士は一年、防人は三年で故郷に帰れることになっていましたが、実際には、なかなか、その通りには帰れませんでした。</p>
<p>罪としては、国や天皇や目上の人に背いた罪が重く罰せられました。</p>
<p>また、刑罰としては、笞(むちでうつ)・杖(つえでうつ)・徒(はたらかせる)・流(遠くの国や島に流す)・死の五種類がありました。</p>
<p>裁判をするのは、地方では郡司・国司、中央では刑部省・太政官などですが、他の役所でも、自分のところの役人の罪を裁くことができました。</p>
<p>これは、裁判所だけが裁判をやるという今日のやりかたとは、大分違っています。<br />
中央には大学、地方には国学という学校がありましたが、これに入れるのは、貴族など一部の人々でした。</p>
<p>普通の人々は、教育を受けることができませんでした。</p>
<p>大学や国学なでると試験を受けて役人になることができましたが、貴族の子どもは学校へいかなくても25才になると、自然に位がもらえたので、あまり勉強をしませんでした。</p>
<p>こんなわけで、大学や国学はあまり発達しませんでした。権力は努力では越えられないものなのでしょうか……。<br />
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		<title>律令による政治とは？　口分田・班田収授法・租税とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/695</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 11:31:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[班田収受法]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[租税]]></category>
		<category><![CDATA[大宝律令]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は律令による政治について、日本の歴史を紹介します。 律は犯罪人を罰する法律で今日でいえば刑法にあたります。 令は、政・治のしくみや、官庁とか役人のことなどをきめた法律で、今日でいえば行政法・民法などにあたります。 律 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は律令による政治について、日本の歴史を紹介します。<br />
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律は犯罪人を罰する法律で今日でいえば刑法にあたります。<br />
令は、政・治のしくみや、官庁とか役人のことなどをきめた法律で、今日でいえば行政法・民法などにあたります。</p>
<p>律令は、中国で、はやくから行われていたものです。<br />
日本でも、それに習おうとい動きは、大化の改新のときからありました。</p>
<p>けれども、これを日本に合うようにつくりかえるのに時間がかかり、律令が完成したのは、七〇一年(大宝元年) で、大宝律令がそれです。</p>
<p>律令による政治では、都に神祇官と太政官という役所がおかれました。<br />
太政官の下には、中務省・式部省など、ハつの役所がおかれ、さらにその下には、職・寮・司などという小さな役所がありました。</p>
<p>地方は、近江とか出雲のような国にわけられ、国の中には郡、郡の中には里がおかれました。<br />
国々には、国衙という役所がおかれ、国衙のあるところを国府とよびました。</p>
<p>国の役人は国司といい、都から遣わされます。<br />
また、郡や里の長は、郡司、里長といい、その土地の有力者がなりました。</p>
<p>また、そのほか、とくに大切な地方には、特別に役所なおきました。<br />
都の政治を受け持つ京職、難波(大阪) の摂津職、北九州の大敏府がそれにあたります。</p>
<p>律令制では、政府が役人を自由に決めたので、中央の政府が強い力を握れるしくみになっていました。<br />
人々は、すべて良民と賤民（せんみん）にわけられていました。</p>
<p>良民というのはふつうの農民以上のもの全部のことで全人口の約九〇パーセントは良民だったと考えられています。</p>
<p>残りの10パーセントばかりが賤民になります。<br />
賤民は、身分が低く、一人前の人間として扱ってもらえない哀れな人々でした。</p>
<p>そして、良民と賤民との結婚は、認められませんでした。<br />
このほかに、特別の身分として、皇族がありました。</p>
<p>また、良民と賤民のあいだにあたるものとして、品部（ともべ）・雑戸（ぞうこ）などがありました。<br />
このように、律令のしくみの中では、身分によって法律上のとりあっかいが、全く不公平で、そこが今日と大きく違うところです。</p>
<p>全国の土地はすべて国のもの、つまり公地で、これを六才以上の農民にわけて、耕させました。<br />
土地をわけるには、人々の数を調べておく必要があります。</p>
<p>そのため、六年に一度、戸籍なつくり直し、男には二段(約15アール)、女には、その三分のニの田を与えました。</p>
<p>この田のことを口分田といいます。</p>
<p>そして、人が死ねば、その人がわけてもらっていた土地は国へ返す仕組みです。<br />
これを班田収授法とよびます。</p>
<p>また、土地は、条里制といって、碁盤の目のように正方形に区切られていました。<br />
土地をわけてもらった農民は、いろいろな種類の僻をおさめる義務がありました。</p>
<p>ただし、女子はぎという税だけを納めればよく、庸・調などの税は、男子にだけかかりました。</p>
<p>その場合でも、21才から60才までの成年男子が中心でした。</p>
<p>租というのは、与えられた田一段について、決まっただけの稲をおさめる税です。<br />
令によれば、租は、はじめのあいだ、田一段について、ニそく、ニわと決められていました。</p>
<p>田一段から、七二そくのイネがとれたとして計算すると、これは、約三パーセントにしかならず、あまり思い税とは言えません。</p>
<p>成年男子は、一年のうち10日間、都に出て、政府のためにはたらく義務がありました。<br />
これを才役とよびますが、実際に都にいかなくても、代わりに布を納めればよいことになっていました。</p>
<p>それで、後には、みな布を納めるようになりました。<br />
これを庸とよびます。</p>
<p>地方にはそれぞれ特産物があったので、政府はそれを成年男子に、量を決めてわりあてました。<br />
これが調です。</p>
<p>調は、絹・糸・綿・海産物など、その種類はたいへんに多かったのですが、そのうえに、染料・油・塩なども納めなければなりませんでした。</p>
<p>租・庸・調のうち、庸・調は、農民が自分で都まで運んで、政府に納めなければならなかったので、都への往復の旅がたいへんでした。</p>
<p>租は、そのまま地方の役所のものになりました。<br />
また、農民は、国司の命令で公のためのいろいろな力仕事をする義務がありました。<br />
これを雑徭といいます。</p>
<p>雑徭は、どんなに多くても、年に60日以内と決まっていました。<br />
つまり、国司は農民を、年に60日以上働かせてはいけない、と決められていたのです。</p>
<p>ですから、もし、仕事が60日より前に済んだら農民を帰してやるのが本当です。<br />
それなのに、そんなとき、大抵の国司は、農民を自分の仕事のために、働かせました。</p>
<p>そのため、人々は、60日いっぱい仕事をやらされました。<br />
人々には、そのほかに義倉（ぎそう）・出挙（すいこ）・仕丁役などという、辛い義務がありました。</p>
<p>義倉というのは、作物のできの非常に悪い年に備えて、毎年決まった量のアワをださせることです。<br />
また、出挙というのは、国司が無理に高い利息を付けてイネを貸し付ける仕組みです。</p>
<p>このため人々は、イネを返すのにたいへん困りました。<br />
仕了役というのは、50件につき、ふたりの働き手を、都の政府に差し出すことです。</p>
<p>租税によって国民は安心や平和といったものを手にしていたのかは疑問です。<br />
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		<title>壬申の乱とは？　天智天皇、天武天皇とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/694</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 21 Jan 2014 23:25:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[天武天皇]]></category>
		<category><![CDATA[天智天皇]]></category>
		<category><![CDATA[壬申の乱]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は壬申の乱について、日本の歴史を紹介します。 667年、中大兄皇子は、都を琵琶湖のそばにある大津にうつし、つぎの年には天皇の位につきました。 これが天智天皇です。 天皇は、国内の政治に力をいれましたが、中でも日本で最 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は壬申の乱について、日本の歴史を紹介します。<br />
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667年、中大兄皇子は、都を琵琶湖のそばにある大津にうつし、つぎの年には天皇の位につきました。<br />
これが天智天皇です。</p>
<p>天皇は、国内の政治に力をいれましたが、中でも日本で最初のまとまった法律といえる、近江令をつくりました。</p>
<p>670年には、はじめての大がかりな戸籍をつくりました。<br />
これは庚午年籍とよばれ、広く九州から関東地方にまでおよび、後々までも重くみられました。</p>
<h2>壬申の乱</h2>
<p>六七一年、天智天皇が亡くなると、その後継のことで、朝廷のなかに争いがおこりました。<br />
もともと、天智天皇は自分の子供の大海人皇子がなるはずでした。</p>
<p>けれども天智天皇は、自分の子どもの大友皇子が大きくなるにつれて、この皇子に、あとを継がせたいと考えてきたようです。</p>
<p>大海人皇子には、天皇の気持ちがわかったようです。<br />
皇子は天皇のあとを継ぐのを遠慮して、吉野(奈良県)の山奥へ引っ込んでしまいました。</p>
<p>このまま、都にいたのでは、憎まれ命も危なくなるのではないかと思ったのでしょう。<br />
しかし、大友皇子と大海人皇子の仲は、このままではおさまりませんでした。</p>
<p>天智天皇が亡くなった次の年には、ついに、大友皇子を中心とする近江側と、大海人皇子を中心とする吉野がわとの間に、大きな戦いがおこってしまいました。</p>
<p>戦いは、地方の豪族も加わり、近畿地方を中心として、約一か月つづきました。<br />
そしてついに、大海人皇子の率いる吉野がわが勝ち、大友皇子は自殺してしまいました。</p>
<p>この乱を壬申の乱とよびます。</p>
<p>壬申の乱の結果、近江がわについた、古くからの豪族たちの勢いはは、すっかり衰えてしまいました。<br />
そして、このあと天皇の力が、いっそう強まりました。</p>
<p>壬申の乱のあと、大海人皇子は、都を飛鳥浄御原(奈良県)にうつし、即位して天武天皇となりました。<br />
天皇は、自分のことを「明神」(生きている神)と呼び、天皇中心の考えを行き渡らせようとしました。</p>
<p>そのため、飛鳥浄御原律令という法律をつくって、律令制を整えたり、歴史の本をつくることを命じたりしましした。</p>
<p>四世紀あたりからはじめられた、天皇による日本の統一も、このごろになって、ようやく、一区切りついたと言えますね。</p>
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		<title>白村江の戦いとは？　阿倍比羅夫とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/693</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 21 Jan 2014 23:00:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[六白村江の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[中大兄皇子]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は白村江の戦いについて、日本の歴史を紹介します。 654年、孝徳天皇が亡くなると、まえの皇極天皇が、もういちど位につきました。 今度は、斉明天皇といいます。中大兄皇子は、これまで通り皇太子として政治をとりました。 こ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は白村江の戦いについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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654年、孝徳天皇が亡くなると、まえの皇極天皇が、もういちど位につきました。<br />
今度は、斉明天皇といいます。中大兄皇子は、これまで通り皇太子として政治をとりました。</p>
<p>この頃になると、改新政治も、いちおう成功し、その勢いで、国の力を外に伸ばそうという気分が強くなつくきました。</p>
<p>阿倍比羅夫が七世紀の中ごろ、日本海えん岸のエゾを征伐したのは、そのあらわれでした。<br />
エゾと言うのは、そのころ北陸から東北地方にかけて住んでいた、文化の遅れた人々です。</p>
<p>都の人々は、エゾのことをまるで外国人のように思っていました。<br />
阿倍比羅夫ほ、180そうの水軍な率いて、越国 (北陸道)を出発し、海岸づたいに北へすすみました。</p>
<p>そして、あぎ田(秋田市)から淳代(能代)・津軽(弘前市付近)-)のエゾを従え、さらに海を渡って海道にまでいったといいます。</p>
<p>これは、そのころとしては、たいへん目覚ましい戦だったことでしょう。</p>
<p>しかし、このエゾ征伐も、一方から言えば、激しい改新治なここちよく思っていなかった人々の気持ちを、外にそらそうという狙いもあったようです。</p>
<p>また、阿倍比羅夫は、中大兄皇子から嫌われて、都から遠い地方にやられたのだ、という見かたもありまず。</p>
<h2>六白村江の戦い</h2>
<p>660年、百済は唐と新羅の連合軍にせめられて、日本に助けを求めてきました。</p>
<p>斉明天皇は、つぎの年、自ら九州まで出かけて軍隊の指図をしましたが、まもなく、そこで亡くなってしまいました。</p>
<p>そこで、中大兄皇子が、代わって指図をし、大軍を朝鮮に送りました。<br />
663年、日本と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍と白村江(南朝鮮の錦江)で戦い、さんざんに打ち負かされてしまいました。</p>
<p>この結果、長年のあいだ、日本と親しくしてきた百済は滅んでしまい日本と朝鮮との関係は一旦、断ち切られてしまいました。</p>
<p>そればかりか、いつ唐と新羅の軍が日本に押し寄せてくるかもしれません。<br />
中大兄皇子は、対馬・壱岐・北九州・瀬戸内海・大和の主なところに、城なつくって備えました。</p>
<p>そして一方では、あらためて国内の政治にカないれることにしました。</p>
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		<title>大化の改新とは？　公地公民制とは？　国の名も公式に「日本」と書くようにった時期！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/692</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 21 Jan 2014 22:10:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[大化の改新]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大化の改新について、日本の歴史を紹介します。 蘇我氏が滅びると、さっそく中大兄皇子を中心とする新政府がつくられ、新しい政治がはじめられました。 皇極天皇は、弟の軽皇子に位をゆずり、軽皇子は孝徳三皇となりました。 ま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大化の改新について、日本の歴史を紹介します。<br />
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蘇我氏が滅びると、さっそく中大兄皇子を中心とする新政府がつくられ、新しい政治がはじめられました。</p>
<p>皇極天皇は、弟の軽皇子に位をゆずり、軽皇子は孝徳三皇となりました。<br />
また中大兄皇子は、自分では天皇にならず、皇太子をやました。</p>
<p>そして実際の治は皇太子を中心にして動きました。</p>
<p>中大兄皇子をたすけて政治をおこなったのは、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂、内臣の中臣鎌足などでした。</p>
<p>また、僧旻・高向玄理という、ふたりの中国がえりの学者は、国博士という政治の相談役になりました。<br />
また、この年はじめて年号をさだめて大化としました。<br />
つまり、六四五年を大化元年としたのです。</p>
<p>それで、これ以後、中大兄皇子らのはじめた新しい政治は、大化の改新と呼ばれています。</p>
<p>六四六年(大化二年)新政府は、改新のみことのりをだして、新政の大もとになる方しんを明らかにしました。</p>
<p>それは、つぎの四か条からできています。</p>
<p>①皇室や豪族のもっていた土地や人を、全部国家のものとする。</p>
<p>②全国を国・郡・里にわけ、それぞれ国司・郡司・里長という政府の役人がおさめる。また、関所やさきもり、伝馬や駅馬などの制度をさだめる。</p>
<p>③人民の数や名まえなどなしらべ、戸籍をつくる。これをもとにして、人民に田をわける。(班田収授法)</p>
<p>④新しい税のとりかたをきめる。</p>
<p>このみことのりによって、天皇を中心とずる、新しい国家なつくるのに必要な方法が、はっきりとしめされたわけです。</p>
<p>こうした新しい政治のしくみは、中国にみならったもので、隋や唐へいつた留学生たちが政治家の相談役になってとりいれたものです。</p>
<p>遣隋使をおくった聖徳太子の外交が、大化の改新になってききめをあらわしてきたわけです。</p>
<p>また、このときから、国の名も公式に「日本」と書くようになりました。</p>
<p>出新のみことのりの第一条では、土地や人民を、勝手に自分のものにすることを認めず、すべての土地と人民は国家のもの、つまり天皇のものとすることが、決められています。</p>
<p>これを公地公民制といいます。</p>
<p>ここに、改新の狙いがよくあらわれています。<br />
それまで皇室は、勢いの強い豪族に、よく困らされてきました。</p>
<p>しかし、蘇我氏を倒した今こそ、皇室の勢いを強める絶好のチャンスです。<br />
中大兄皇子が、このチャンスを見逃すはずはありません。</p>
<p>ただちに、豪族の持っていた土地や人民を、すべて天皇に差し出すように申し渡したのです。<br />
そして、自分の持っていた土地や人民を、真っ先に差し出して、模範を示しました。</p>
<p>豪族たちも、これに従う者が多かったと思われます。<br />
天皇の勢いは、にわかに強められました。</p>
<p>そして、この勢いをさらによく行き渡らせるために必要な政治のしくみを、細かく示したのが、みことのりの第二条以下です。</p>
<p>もちろん、みことのりにあるようなことが、はじめからよく守られ、行われたわけではありません。<br />
けれども、そののち五年ばかりの政治には、みことのりを守ろうという努力の跡がよく表れています。</p>
<p>六五〇年ごろになると、改新政治は大体ひとくぎりつきました。<br />
しかし、改新で目指したような国なつくりあげるには、さらに数十年の月日が掛かったのです。<br />
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		<item>
		<title>中大兄皇子と中臣鎌足とは？　2人の出会いのきっかけとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/691</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 21 Jan 2014 21:33:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[中大兄皇子]]></category>
		<category><![CDATA[大化の改新]]></category>
		<category><![CDATA[中臣鎌足]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は中大兄皇子と中臣鎌足について、日本の歴史を紹介します。 入鹿の振る舞いを見て、苦々しく思う人は少なくなかったのですが、蘇我氏の力が強いのでうっかりしたことはできません。 舒明天皇の子どもの中大兄皇子も、蘇我氏に強い [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は中大兄皇子と中臣鎌足について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<p>入鹿の振る舞いを見て、苦々しく思う人は少なくなかったのですが、蘇我氏の力が強いのでうっかりしたことはできません。</p>
<p>舒明天皇の子どもの中大兄皇子も、蘇我氏に強い反感をもっていました。<br />
また、豪族のうちでも、中臣鎌足のように、蘇我氏を打ち倒そうと思っている人がいました。</p>
<p>鎌足は、中大兄皇子が若いながらもしっかりした人であると聞いて、なんとか皇子に近づこうと狙っていました。</p>
<p>皇子にあって、自分の本心を打ち明け、カをあわせて、蘇我氏をほろぼそうと考えたからです。<br />
たまたま、法興寺でけまりの会があり、中大兄皇子も、これに出席していました。</p>
<p>けまりというのは、皮でつくったまりを地面におとさないように、足でけるあそびです。<br />
このけまりの会にでていた中大兄皇子はまりを蹴ったはずみに、履いていた靴が抜けて飛んでしまいました。</p>
<p>鎌足は、すぐさま、そのくつを拾って、うやうやしく皇子に捧げました。<br />
これをきっかけに、ふたりは知りあいになり、蘇我氏な倒す相談をするようになりました。</p>
<p>ふたりは、蘇我氏に疑われることを恐れました。<br />
そこで、相談は、中国帰りの先生南淵請安のところへ勉強にいく道で、行いました。</p>
<p>蘇我氏を倒すのには、まず有力な豪族を仲間にいれなければなりません。<br />
そこでふたりは、入鹿のいとこでありながら、入鹿とは仲の悪い蘇我倉山田石川麻呂を選びました。<br />
中大兄皇子は、石川麻呂の娘と結婚し、石川麻呂は黒皇子たちの計画の仲間になりました。</p>
<p>皇子たちは、このほかにも数人の仲間をつくって、機会を待ちました。<br />
しかし、入鹿は、非常に用心深かったので、おびきたすのはたいへんでした。</p>
<p>六四五年、朝鮮の使者が、朝廷に貢物をもってきました蘇我入鹿もこの貢物を届ける式にでてきました。<br />
中大兄皇子は、この式の最中に、自ら剣をふるって、入鹿を殺してしまいました。</p>
<p>このため入鹿の父の蝦夷も、自分の家に火をつけて、自殺してしまいました。<br />
これで、あれほど勢いをふるった、蘇我氏の本家も滅びてしまったのです。</p>
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		<item>
		<title>山背大兄王の変とは？　蘇我氏の勢いについて</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/690</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 22:07:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[山背大兄王]]></category>
		<category><![CDATA[蘇我氏]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/690</guid>

					<description><![CDATA[今回は山背大兄王の変について、日本の歴史を紹介します。 622年、聖徳太子は自分の始めた新しい政治の結果をよく見ないうちに亡くなってしまいました。 すると、これまで一応大人しくしていた蘇我氏がまたまた自分勝手な振る舞いを [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は山背大兄王の変について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>622年、聖徳太子は自分の始めた新しい政治の結果をよく見ないうちに亡くなってしまいました。<br />
すると、これまで一応大人しくしていた蘇我氏がまたまた自分勝手な振る舞いをするようになりました。</p>
<p>624年、蘇我馬子はそこのろ皇室の領地だった大和の葛城県（奈良県の一部）を頂きたいと申し出ました。</p>
<p>推古天皇はたいへん困りましたが葛城県は自分一人の土地ではないからと言って断りました。<br />
蘇我馬子は聖徳太子がなくなるとすぐにこんな要求を持ち出してきたのです。</p>
<p>628年、推古天皇は後継を決めないまま亡くなりました。<br />
これは蘇我氏に遠慮したためで、後継は蘇我氏の好きな人をたてるようにと考えたからでしょう。</p>
<p>そのころ天皇の後継として山背大兄王と田村皇子の2人が有力でした。<br />
このうち山背大兄王の方は父が聖徳太子、母は蘇我馬子の娘ですから蘇我氏にはすごく繋がりの近い人でした。</p>
<p>ところが山背大兄王の叔父にあたる蘇我蝦夷は王が天皇になることを喜びませんでした。<br />
というのも聖徳太子がたいへん偉い人だったので、さすがの蘇我氏も聖徳太子には頭が上がりませんでした。</p>
<p>その上、今度は聖徳太子の子供でもあり人々の信用もかなりある山背大兄王のような人に天皇になられては都合が悪いと考えたからでしょう。</p>
<p>こんな訳で蘇我蝦夷は全く血のつながりのない田村皇子を次の天皇にしようとはかり皇族（天皇の親戚）や豪族などの集まりを開きました。</p>
<p>この集まりでは山背大兄王の見方をする人も多かったのですが、蘇我蝦夷は無理矢理に田村皇子を天皇にしてしまいました。</p>
<p>これが舒明天皇です。</p>
<p>山背大兄王は不満だったに違いありませんが蘇我氏の勢いの前にはどうすることもできませんでした。<br />
641年、舒明天皇が亡くなりました。</p>
<p>山背大兄王は今度こそ天皇になれると思ったことでしょう。</p>
<p>ところが蘇我蝦夷はあくまで王が天皇になることに反対したらしく次の年に舒明天皇の皇后だった宝皇女が天皇になってしまいました。</p>
<p>こうして山背大兄王はまたも当てが外れてしまいました。<br />
王は蘇我氏の振る舞いにひどく腹を立てたに違いありません。</p>
<p>蘇我蝦夷の子に、蘇我入鹿という人がいました。</p>
<p>蘇我入鹿は父以上に力を奮いわがままな行いが多かったようです。<br />
山背大兄王の私有民を平気で勝手に使ったりしました。</p>
<p>そればかりではありません。</p>
<p>蘇我入鹿は人々に人気のある王を目の上のこぶのように邪魔者扱いにし、とうとう王を殺してしまおうと決心しました。</p>
<p>643年、蘇我入鹿は軍隊を遣わし不意に山背大兄王の屋敷を囲んで責め立てました。<br />
王は一度は山の中に隠れました。</p>
<p>お付きの人は王に<br />
「東国へ逃げて、そこで兵を集め蘇我入鹿と戦いなさい」<br />
と勧めました。</p>
<p>しかし、王はこれを断り<br />
「自分のために人々を殺したくない。自分の命を蘇我入鹿に与えれば済むのだ」<br />
と応えて家族と一緒に自殺してしまいました。</p>
<p>この事件を山背大兄王の変といいます。</p>
<p>これは先に崇峻天皇が蘇我馬子に殺された事件につぐ大事件でした。</p>
<p>そして、日本の歴史は続いていきます。</p>
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		<item>
		<title>飛鳥時代の大陸との関係とは？　任那の滅亡や遣隋使の行き来があった？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/689</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 20:49:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[遣隋使]]></category>
		<category><![CDATA[小野妹子]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/689</guid>

					<description><![CDATA[飛鳥時代の頃の日本は他国（大陸）とどのような関係にあったのか、日本の歴史を紹介します。 ５世紀にあらわれた五人のヤマトの大王（倭の五王）は百済の後押しをして高句麗や新羅と戦いました。 しかし、百済の力が段々と衰えてきまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>飛鳥時代の頃の日本は他国（大陸）とどのような関係にあったのか、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>５世紀にあらわれた五人のヤマトの大王（倭の五王）は百済の後押しをして高句麗や新羅と戦いました。<br />
しかし、百済の力が段々と衰えてきましたので、その後押しをしていた日本の立場も段々苦しくなってきました。</p>
<p>倭の五王がしばしば中国に使いを遣わしたのは一つには、中国の優れた文化を取り入れるためでしたが、もう一つには中国の皇帝から日本の立場を認めてもらって朝鮮半島ににらみを効かせようと考えたからです。</p>
<p>ですから熱心に中国にお世辞を使っています。<br />
けれどもそのくらいのことで高句麗や新羅が大人しくなるはずはありませんでした。<br />
やがて高句麗は百済の北の方を占領してしまいました。</p>
<p>百済は仕方なしに南隣りにある任那の地方に領土を広げようとしました。<br />
そして、日本に頼み込んで任那の四県をわけてもらうことにしたのです。</p>
<p>ところがこれがもとで任那の人々は日本を信用しなくなってしまいました。</p>
<p>その上、任那の日本府に遣わされていた日本の役人たちも良くない人が多かったので日本の信用は下がるばかりでした。</p>
<p>そして、ついに任那の人々のうちには東の新羅と手を結ぶものさえ現れてしまったのです。<br />
日本が朝鮮に持っていた植民地任那は非常な危険に陥りましたが、もうどうにもなりません。</p>
<p>562年、新羅は任那の全てを占領してしまいました。<br />
このため日本は朝鮮から大きく一歩引き下がることになったのです。<br />
これは新羅が強くなったことも原因です。</p>
<p>けれども、それとともに任那に対する日本の政治のやり方が不味かったことや国内での豪族たちの勢力争いも原因だと言えます。</p>
<p>そのために任那の守りが手遅れになってしまったのでした。<br />
この後任那の日本府を取り戻すことが代々の天皇の目標、つまり日本の大目標となりましたがついに成功しませんでした。</p>
<p>聖徳太子も摂政になった頃は新羅を征伐して任那の日本府を取り戻そうと考えていました。<br />
けれども、とても成功しそうにもないので、きっぱりと諦めてしまいました。</p>
<p>その頃、中国では長い間の南北の対立がなくなり、久しぶりに全土が統一されたところでした。<br />
これが隋の国です。</p>
<p>隋は政治の仕組みも整っており、特に文化は目覚しく発達し国力は日の出の勢いで伸びていました。<br />
聖徳太子は隋の目覚しい文化に強く心を惹かれたのです。</p>
<p>そこで聖徳太子は新羅征伐を諦めるとすぐに隋と交わりを開くことにしました。<br />
607年、聖徳太子は小野妹子を使いとして隋に遣わし、国交を開くことを求めました。</p>
<p>このとき小野妹子が持っていた聖徳太子の手紙（国書）には次のように書いてありました。</p>
<p>「日出処の天子、書を日没する処の天使に致す。つつがなきや」</p>
<p>これは「東の方の太陽が昇るところにある日本の天皇が西のほうの太陽の沈むところにある隋の皇帝に手紙を差し上げます。おかわりありませんか？」という意味です。</p>
<p>少しもへりくだったお世辞がなく堂々とした対等の文章です。<br />
隋の皇帝煬帝は、生意気なやつと思いました。</p>
<p>けれども丁度、隋はそのころ高句麗征伐を計画していたので、日本とは仲良くしておいた方がよいと考えました。</p>
<p>そこで、煬帝は聖徳太子の求めに応じて国交を開くことにしたのです。<br />
次の年、小野妹子は再び隋に渡りました。</p>
<p>そのときの国書にも大国隋に対して少しも引け目をとらない、聖徳太子の逞しい心を感じることができます。</p>
<p>このとき小野妹子に従って八人の留学生が隋に渡りました。<br />
この人々は中国に二、三十年のあいだ留まっていろいろな中国文化を学び取りました。</p>
<p>ところが聖徳太子はこの人々が日本へ帰ってくる前に亡くなってしまったのです。<br />
けれども留学生たちの知識は645年から始まった大化の改新の政治のときにたいへん役立ったのです。</p>
<p>これを見ても聖徳太子が目先のことだけにとらわれない優れた政治家だったことがよくわりますね。<br />
この後、614年に犬上三田耜（いぬがみのみたすき）が隋に遣わされました。</p>
<p>しかし、618年に隋が滅びその後に唐がおこったので、遣隋使はこれで終わり代わって遣唐使が始まりました。</p>
<p>飛鳥時代の文化は遣隋使や遣唐使の行き来によって、ますます発達しました。</p>
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		<title>飛鳥時代の文化とは？　ギリシャ、ペルシャ、朝鮮・中国からの影響を受けている？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/688</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 05:30:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[飛鳥文化]]></category>
		<category><![CDATA[法隆寺]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は飛鳥時代の文化について、日本の歴史を紹介します。 聖徳太子のころ都は代々飛鳥地方（奈良盆地）にありました。 それでこの時代を飛鳥時代とも言います。 この時代の文化はいろいろな影響から外国から受けています。 近くは朝 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は飛鳥時代の文化について、日本の歴史を紹介します。<br />
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聖徳太子のころ都は代々飛鳥地方（奈良盆地）にありました。<br />
それでこの時代を飛鳥時代とも言います。</p>
<p>この時代の文化はいろいろな影響から外国から受けています。<br />
近くは朝鮮・中国から遠くはギリシアうあペルシア（イラン）の影響も見られます。<br />
また、飛鳥文化は仏教文化と言われるほど深く仏教の影響を受けています。</p>
<p>まず学問について言えば、中国や朝鮮から優れた僧や博士がやってきて大陸や半島のいろいろな学問を伝えました。</p>
<p>602年、百済の僧観勒がやってきて暦や天文や地理などの学問を伝えました。<br />
610年には高句麗の僧曇徴が絵の具・墨・水うす（水力で回すうす）の作り方を伝えました。<br />
また、聖徳太子は高句麗の僧恵慈からお経を百済の博士覚哿から中国の学問を学んでいます。</p>
<p>これらの学問や技術が文化の発達に役立ったことは言うまでもありません。</p>
<p>美術の方でも新しい動きが見られます。<br />
それまでの家は柱を建てそこに板やかやで屋根をふいた粗末なものでした。</p>
<p>ところがこの時代になると土台に石を並べ屋根に瓦を乗せる新しい建築法が伝わってきました。<br />
こうして盛んに寺が建てられ法隆寺のような優れた建物が生まれたのです。</p>
<p>仏像ももちろん大陸から伝えられたものです。<br />
今まで見たこともない金色に輝く優しい仏像の姿に人々は目を見張りました。<br />
しかも法隆寺の柱の側面には膨らみ（エンタシス）があり、ギリシア建築の影響が見られます。</p>
<p>↑ギリシアのパルテノン神殿（上）と法隆寺中部（下）の柱に見られるエンタシスまた天馬（ペガサス）の模様を彫り付けた銅の水差しがありますが、この模様はペルシア（イラン）で盛んに使われていたものです。</p>
<p>そのほか物を入れる器や仏像の光背などに使われているツタの絡んだような模様は唐草模様と言って<br />
やはり西南アジアから伝わってきたものです。</p>
<p>つまり、この時代の文化はただ朝鮮や中国から影響を受けただけではなく遠くヨーロッパうあ西南アジアから中国や朝鮮を通って日本に伝わってきたものも入っているのです。</p>
<p>飛鳥文化は国際的なにおいが豊かだったと言えますね。<br />
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