﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>あらまし &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<atom:link href="https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/tag/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%BE%E3%81%97/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
	<lastBuildDate>Fri, 24 May 2019 11:05:27 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.3</generator>

<image>
	<url>https://wakariyasuku-rekishi.com/wp-content/uploads/2018/07/cropped-rekishi-favi-32x32.png</url>
	<title>あらまし &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/><site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">148332681</site>	<item>
		<title>明治時代のあらまし！ ざっくり言うと明治時代ってどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/858</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Jul 2014 03:33:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[文明開化]]></category>
		<category><![CDATA[富国強兵]]></category>
		<category><![CDATA[廃藩置県]]></category>
		<category><![CDATA[四民平等]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/858</guid>

					<description><![CDATA[今回は明治時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 新しい政治 1868年、年号は明治と改められ五か条の誓文をもとに新しい政治が行われるようになりました。 新政府は、廃藩置県・四民平等富国強兵の制作を実行しました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>新しい政治</h2>
<p>1868年、年号は明治と改められ五か条の誓文をもとに新しい政治が行われるようになりました。<br />
新政府は、廃藩置県・四民平等富国強兵の制作を実行しました。</p>
<p>しかし、このような新しい政治に対しては反対の意見もでました。<br />
国の財政を整えようと地租改正をしたときには農民が一揆をおこして反抗しました。</p>
<p>また、もと武士であったものは新しい政治によって自分たちの生活が苦しくなり出世の道が閉ざされていくことに不満でした。</p>
<p>これらの不満や反抗がすっかりきえるようになったのは政府のつくった新しい軍隊が西南戦争で勝利を得てからです。</p>
<h2>文明開化</h2>
<p>明治になってから西洋の文化がどんどん輸入されました。<br />
そして、大都市を中心に人々の生活の姿も大きく変わっていきました。</p>
<p>義務教育の制度が出来たこと交通・通信の設備が整ったこと新聞・雑誌が広まり暦は太陽暦が採用され新しい建築や服装がおこってきたことなど目まぐるしいほどの変わり方でした。</p>
<p>人々はこれを文明開化といってもてはやしました。</p>
<h2>議会政治の初まり</h2>
<p>明治になってから、次第に広まった自由平等・自由民権の考え方は、やがて「国会を開け」という運動になって盛り上がりました。</p>
<p>この結果、1889年(明治二二年)には我が国で初めての憲法がつくられ、翌年には、第一回の帝国議会が開かれました。</p>
<p>このときの憲法は天皇の強い権力を認めたものでした。<br />
また、議会は衆議院と貴族院にわかれ貴族院議員は天皇によって選ばれました。</p>
<p>今の憲法に比べればとうてい民主的なものとはいえません。</p>
<p>けれども我が国ではこれ以来憲法に基づいて政治を行い国民の選んだ代表者が国の政治について相談するという道が開かれたのです。</p>
<p>このことを考えれば日本の歴史の上で大きな進歩だったと言えます。</p>
<h2>伸びる国力</h2>
<p>やがて近代産業の目覚しい発達もあって国力は次第に充実してきました。<br />
特に、日清・口露の戦いに勝ったことは日本の実カを世界に知らせる結果になりました。</p>
<p>長い間、問題になっていた不平等条約の改正がこれ以来すらすらと進むようになったのも国力の充実が、土台にあったからだと言えます。</p>
<h2>明治の文化</h2>
<p>新しい時代に相応しい新しい文化も次々におこってきました。<br />
夏目漱石や森鴎外に代表される近代文学あるいは西洋音楽、新しい演劇、さらには医学や物理・化学などの新しい学問。</p>
<p>これらは、全て明治時代になってから急に進んだものです。</p>
<p>このほか生活の面でも野球・テニスなどの新しいスポーツが広まり映画の楽しみも味わえるようになりました。</p>
<p>このように考えてくると明治時代は、私たちの生活や社会の最も大きな基礎になった時代であったといえます。</p>
<p>しかもそれは西洋に比べて100年以上も遅れていた日本が一挙にその遅れを取り戻そうとしてがむしゃらに進んでいった時代でもあったのです。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">858</post-id>	</item>
		<item>
		<title>江戸時代のあらまし！ ざっくり言うとどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/805</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 12:43:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[土農工商]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<category><![CDATA[天保の改革]]></category>
		<category><![CDATA[寛政の改革]]></category>
		<category><![CDATA[享保の改革]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[参勤交代]]></category>
		<category><![CDATA[征夷大将軍]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/805</guid>

					<description><![CDATA[今回は江戸時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 1603年、征夷大将軍になった徳川家康は江戸幕府を開き、武士による全国支配の仕組みを、さらに強カに作り上げようとしました。 この江戸幕府の土台は、三代将軍家光の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
1603年、征夷大将軍になった徳川家康は江戸幕府を開き、武士による全国支配の仕組みを、さらに強カに作り上げようとしました。</p>
<p>この江戸幕府の土台は、三代将軍家光の頃までに、しっかりと出来上がりました。<br />
全国250あまりの大名を親藩・譜代・外様の三つにわけ、お互いに、抑え合うように配置替えをしました。</p>
<p>また、武家諸法度を作って大名や武士を取り締まったり参勤交代の仕組みをつくって諸大名の力を抑えたりしました。</p>
<p>しかも、幕府自身は全国の四分の一という広い領地を持ち、主な都市や鉱山も支配して巨大な財力を蓄えました。</p>
<p>さらに、キリスト教が広まり政治の土台が揺らぐことを恐れた幕府は思い切って国を閉ざし外国との付き合いを止めてしまうようなこともしました。</p>
<p>そのためにこれれまで盛んだった外国との貿易は衰え、世界の進歩に遅れることになりましたが一方、国内には200年あまりも太平が続くことになりました。</p>
<p>江戸時代になって、特に変わったことの一つは士農工商という身分の順、また主人と家来との身分の区別がはっきりしたことでした。</p>
<p>農民を武士の次にしたのは武士との生活が、農民の納める年貢で支えられていたからです。</p>
<p>それだけに、農民は、「生きぬように、殺さぬように」という方針のもとに、苦しい生活をさせられました。</p>
<p>そのために、自分が米を満足に食べることができないようなこともありました。</p>
<p>しかし、農民たちは新しい作物を作ったり農業技術を改善したり、新田を開発したりして農業の発達に努力しました。</p>
<p>それに対して、職人や商人は農民ほどの厳しい取り締まりは受けませんでしたが、やはり武士の命令には<br />
絶対に従わなければなりませんでした。</p>
<p>武士の酷いやり方に対しては農民も一揆をおこして反抗しました。<br />
しかし、武士にとっての第一の強敵は商人でした。</p>
<p>江戸時代に入って、商業がますます盛んになると商人は次第に大きな財力を蓄えるようになりました。<br />
一方、武士は華やかな生活に慣れ商人には頭を下げて、お金を借りるようなこともおこりました。</p>
<p>しかも、商人や職人は次第に豊かになった生活の中から、新しい町人の文化を生みだしていきました。<br />
歌舞伎・浮世絵・小説・徘徊・川柳などはその代表的なものと言えます。</p>
<p>幕府の政治は次第に行き詰ってきました。<br />
享保の改革・寛政の改革・天保の改革などが次々に行われました。</p>
<p>いずれも成功しませんでした。</p>
<p>また、国学や洋学の広まりとともに幕府の政治に反対する声は高まるばかりでした。<br />
そしてアメリカのペリーが開国を求めて浦賀にきて以来、開国と攘夷を巡って国内は乱れました。</p>
<p>ついに幕府は、薩摩や長州などの連合軍の努力によって倒され、武家政治は終わりをつげました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">805</post-id>	</item>
		<item>
		<title>安土・桃山時代のあらまし！　ざっくり言うと安土桃山時代ってどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/791</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 09:11:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/791</guid>

					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 100年あまりの間、戦いに明け暮れしていた世の中は織田信長や、豊臣秀吉によって統一されました。 信長は安土(滋賀県)に秀吉は伏見の桃山(京都府)に城を築い [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
100年あまりの間、戦いに明け暮れしていた世の中は織田信長や、豊臣秀吉によって統一されました。</p>
<p>信長は安土(滋賀県)に秀吉は伏見の桃山(京都府)に城を築いたので、それぞれの城の名前を取って安土・桃山時代といいます。</p>
<p>信長は尾張国(愛知県の一部)で勢力をふるっていた大名です。<br />
このころ尾張国の周りには駿河（静岡県の一部）の今川氏、甲斐(山梨県)の武田氏、越後(新潟県の一部)の上杉氏などの有力な大名がいました。</p>
<p>信長は桶狭間の戦いで今川氏を不意打ちをし、さらに東海地方を抑えて、まず京都にのぼり全国を統一して納めようとしました。</p>
<p>この信長の跡を継いでで全国の統一を成し遂げたのが豊臣秀吉です。</p>
<p>西に東に、諸国の大名を討った秀吉は全国を平定した勢いで、さらに朝鮮にも出兵して、これを従えようとしました。</p>
<p>大きく、しかも堂々と美しく作り上げられた大坂城は、このような秀吉の勢いを最も、よく示していたものといえるでしょう。</p>
<p>秀吉は、全国を平定しただけではありません。</p>
<p>刀狩りや検地をし、あるいは、お金を作り交通の発達に力を入れるなど国内の政治を整えることにも努力しました。</p>
<p>ことに刀狩りや検地は、武士が全国をしっかりと抑え士農工商という身分の決まりをはっきりさせていくきっかけになるものでした。</p>
<p>例えば検地によって、農民は土地を離れたり土地を売ったりすることができなくなり、その一方で、たくさんの年貢を割り当てられるようになりました。</p>
<p>また、刀狩りによって武器を取り上げられた農民は武士に対して、手も足もでなくなりました。</p>
<p>さらに秀吉は、武士を全て城下町に住まわせることを命令しました。</p>
<p>これは城下町を立派にすることや、身分の低い武士が農民と一緒になって一揆をおこすことを防ぐ目的をもっていたものでした。</p>
<p>しかし、このことによって、武士と農民は、はっきり区別されることになったのです。<br />
この時代には、安土城・大阪城・伏見城をはじめ全国に立派な城がたくさん造られました。</p>
<p>また城の中には見事なふすま絵や彫刻が美しく飾られました。<br />
こうして、この頃の文化は城を中心にして栄えることになったのです。</p>
<p>秀吉は、物に拘らないたちで、しかも、派手なことを好みました。</p>
<p>そのため、いかにも華やかで伸び伸びとした文化が広まったことで、この時代の文化の大きな特色の一つです。</p>
<p>その一方では、西洋との付き合いが盛んになるにつれて、様々な珍しい文化も輸入されるようになりました。</p>
<p>パン・ラシャ・コンぺイトウなど今は日本語の一部になってしまったような外来語も、このころ、実物と共に伝えられたものです。</p>
<p>その他、活版印刷の技術や西洋画・洋楽・珍しい服装など、そのころの人々を驚かしたものも少なくありません。</p>
<p>これを南蛮文化といいます。</p>
<p>室町時代に盛んになった茶の湯や能楽は公家(貴族)や大名ばかりでなく一般の人々にも広まりました。<br />
また、民衆の間では小歌・歌舞伎踊りなどが流行し人々の服装も、たいへん派手になりました。</p>
<p>長い間の戦争が終わって人々が安心して暮らせるようになったこともこのような安土・桃山時代の文化を生み出すもとになったのだと言えるでしょう。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">791</post-id>	</item>
		<item>
		<title>室町時代のあらまし！ 室町時代ってざっくり言うとどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/758</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 21:23:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/758</guid>

					<description><![CDATA[今回は室町時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 14世紀の初めに位についた後醍醐天皇は、公家や地方の武士の助けを借りて1333年(元弘三年)カの衰えた鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しました。 幕府を倒した後醍醐天 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は室町時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<p>14世紀の初めに位についた後醍醐天皇は、公家や地方の武士の助けを借りて1333年(元弘三年)カの衰えた鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しました。</p>
<p>幕府を倒した後醍醐天皇は、再び天皇中心の政治を行おうとしました。<br />
これを建武の新政とまいいます。</p>
<p>けれども建武の新政は二年あまりで失敗し足利尊氏を中心にした新しい幕府が出来ました。</p>
<p>このため、この後60年ちかくの間、朝廷は南朝時と北朝とにわかれ武士たちは、それぞれの朝廷を旗印として、土地争いを続けました。</p>
<p>南北朝の争いは三代将軍義満のときに、やっと治まりました。<br />
そして、この頃が室町幕府の勢いの最も強いときでした。</p>
<p>京都の北山に金閣と呼ばれる見事な建物が出来たのも勘合貿易が始まって、幕府が莫大な利益をあげたのもこの頃のことです。</p>
<p>ところが、その一方では、広い土地を持ち、たくさんの家来を従えた守護大名の力が将軍の力では抑えきれないほどたくましく伸びてきていたのです。</p>
<p>そのため、義満のころにも将軍と守護大名との争いが度々おこりました。</p>
<p>やがて1467年(応仁元年)、京都を中心にして応仁の乱がおこり将軍の無力が、はっきり示されることになりました。</p>
<p>この乱は、将軍家や有力な大名の内輪もめが、細川・山名両大名の争いと結びついておこったもので全国の大名が二つにわかれ、11年続けられました。</p>
<p>そしてこの後、各地の大名は、それぞれ自分の領地を治め、さらに領地を広げようとして、互に争いました。</p>
<p>こうして、戦いに明け暮れする戦国の世が100年あまりも続くのです。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block; text-align:center;"
     data-ad-layout="in-article"
     data-ad-format="fluid"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="7549778928"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<p>応仁の乱のころ将軍の位についていたのは足利義政で義政は、政治のことには、あまりカを入れようとはせず茶の湯に親しみ、生け花や絵を楽しむような生活を、送っていました。</p>
<p>そのため、この頃には世の中が乱れたのにも関わらず新しい文化が盛んになりました。<br />
この頃の文化を東山文化と呼んでいます。</p>
<p>東山というのは、足利義政の別荘である、銀閣があったところです。<br />
今の私たちの生活の中にも、この頃の文化から引き継いだものがいろいろと残っています。</p>
<p>新しい文化がおこる一方では職人の種類もさまざまになり商業の仕組みも整ってきました。</p>
<p>各地に町が出来、店が立ち並ぶようになって、お金さえ出せば欲しいものが買えるようになったのも、この頃のことです。</p>
<p>また、農村や町では町や村を、自分たちの力で治めるようになっていきました。</p>
<p>農民たちは、村決めを作って村の平和を守ろうとしたり土一投をおこして、無理を言う領主や高利貸しに手向かったりしました。</p>
<p>また町でも堺などは、自治の仕組みが、よく整っていることで有名でした。<br />
室町時代の終わり頃には、新しくヨーロッパとの付き合いが初まりました。</p>
<p>まず、種子島(鹿児島県)に流れついたポルトガル人が鉄砲を伝え、ついで、キリスト教も伝わってきて、多くの宣教師が日本を訪れました。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">758</post-id>	</item>
		<item>
		<title>鎌倉時代のあらまし！ ざっくり言うと鎌倉時代ってどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/741</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 21:10:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/741</guid>

					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代のあらまし、日本の歴史を紹介します。 平氏の時代は、わずかしか続きませんでした。 これに代わって、全国に勢力を伸ばしたのが源頼朝です。 頼朝は、仲違いした弟の義経や、謀叛人を捕えるという名目で各地に守護や地 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代のあらまし、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
平氏の時代は、わずかしか続きませんでした。<br />
これに代わって、全国に勢力を伸ばしたのが源頼朝です。</p>
<p>頼朝は、仲違いした弟の義経や、謀叛人を捕えるという名目で各地に守護や地頭なおき、武士の力を全国に広めました。</p>
<p>また、鎌倉に幕府を開いて、いよいよ武士による武士のための政治を始めました。<br />
こうして以後700年近く続く武家政治のもとができました。</p>
<p>けれども、源氏の時代も長くは、続きませんでした。<br />
三代で滅びた源氏に代わって、北条氏が幕府を動かすことになったのです。</p>
<p>北条氏の政治は、泰時や時頼の頃に、しっかりと固まりました。</p>
<p>ことに、北条泰時は貞永式目をつくることによって武士の社会の決まりをはっきりさせました。<br />
泰時は「このような式目をつくれば、あずまえびすどもがへんなものを作ったなどと、都の貴族が笑うに違いない。しかし今はどうしても、このような決まりが必要なのだ。」という意味のことを手紙に書いています。</p>
<p>これは承久の乱によって、貴族の力を抑え、政治を確立するようになった北条氏の意気込みを、よく表したものでした。</p>
<p>この頃の武士は武家づくりといわれる屋敷を構えてたいてい、農村に住んでいました。<br />
そして、主人を中心にして、一族のものや、家来たちが固く団結しているのが普通でした。</p>
<p>また、幕府から、地位や土地を与えられていた武士は、「いざ鎌倉」と言うときには、真っ先に駆けつけ、将軍のために尽くしました。</p>
<p>これは、有名な「鉢の木」の物語などからも、伺えます。<br />
鎌倉時代には、各地に定期市が開かれ、行商人があちこちを歩き回るようになりました。</p>
<p>手工業が盛んになり、商業がおこってきました。<br />
この時代には武士の世の中にふさわしい、新しい文化がおこりました。</p>
<p>「平家物語」「源平盛衰記」などの軍記物語が盛んに作られ琵琶法師によって語り広められました。<br />
また、東大寺南大門の金剛力士像に見られるようなたくましい力のみなぎった彫刻がつくられました。</p>
<p>さらに、浄土宗・浄土真宗・法華宗・禅宗などのように、武士や民衆にも、親しみやすい新しい仏教がおこってきました。</p>
<p>鎌倉時代には、元(モンゴル人が中国にたてた王朝)の軍が来襲するという大きな出来事がありました。</p>
<p>大国元の軍が二度も攻め寄せてきましたが、鎌倉武士の奮戦や大嵐のために日本はこれを退けることができました。</p>
<p>元の来襲がきっかけとなって、鎌倉幕府の力は次第に衰え武士の生活も苦しくなっていきました。<br />
幕府は、武士たちの生活を救おうと、徳政令を出しましたがこれも、結局は、武士を救うことにはなりませんでした。</p>
<p>こうして、1333年(元弘三年)、後醍醐天皇らを中心とする勢力のために鎌倉幕府は滅ぼされてしまいました。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">741</post-id>	</item>
		<item>
		<title>平安時代のあらまし！　平安時代ってざっくり言うとどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/716</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 31 Jan 2014 22:37:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/716</guid>

					<description><![CDATA[今回は平安時代についてのあらまし、日本の歴史を紹介します。 奈良時代の末には、政治をする人たちの間で、争いがおこり、世の中が酷く乱れていました。 そこで、桓武天皇は、794年(延暦22年)、都を京都に移して、政治の引き締 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は平安時代についてのあらまし、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
奈良時代の末には、政治をする人たちの間で、争いがおこり、世の中が酷く乱れていました。<br />
そこで、桓武天皇は、794年(延暦22年)、都を京都に移して、政治の引き締めに取り掛かりました。</p>
<p>その一つは、僧が政治にロだしすることを無くそうとしたことです。<br />
そのため、寺の持つ田のもち高を制限して、寺の勢いを弱めました。</p>
<p>しかし、天皇は、仏教を嫌ったのではなく、最澄や空海を励まして、国を守る新しい仏教を研究させました。</p>
<p>また天皇は、坂上田村麻呂に、東北地方のエゾを撃たせたり、無駄な役所を整理したりするなど、国内の政治にカをいれました。</p>
<p>こうして、政治の引き締めは、一応成功しました。<br />
しかし、平安時代も進むにつれ、天皇に代わって、貴族が強い勢いを持つようになりました。</p>
<p>これらの貴族の中でも、特に大きな勢力をもつようになったのは藤原氏です。</p>
<p>藤原氏は、他の貴族を抑えること、自分の娘を天皇の妃にすること、摂政・関白などの高い位につくこと、多くの荘園を手にいれて、財力を豊かにすることなどによって勢力を強めたのです。</p>
<p>そして、朝廷での高い位は、ほとんど藤原氏で固められ、ついには藤原氏が、国の政治を思うままに動かすようになりました。</p>
<p>このように、貴族の勢いが強まるとともに、貴族たちの生活は、次第に、華やかなものになりました。<br />
寝殿づくりの住まいに住み、儀式のときには、束帯や十二単をつけて身を飾り歌を詠みあったり、遊びにふけったりしたのも、この頃です。</p>
<p>こうした貴族たちの華やかな生活の中から、これまでに無い新しい文化が生まれてきました。<br />
日本人の生活や好みにあった文学や美術が、発達してきたのです。</p>
<p>その中でも、特に重要なものは、仮名文字が出来たこと、「源氏物語」などの優れた仮名文学が生まれたこと、大和絵と呼ばれる日本風の絵があらわれたことなどです。</p>
<p>ことに、「源氏物語」は、世界にも知られ、日本が誇ることのできる、大切な文学の一つといわれています。</p>
<p>しかし、このような文化も、まだ国民全体のものではなく、一部の貴族の間にだけ、広まったものでした。</p>
<p>貴族たちが、都で、華やかな生活なしている間に、地方の農村では武士がたくましく育っていました。<br />
一方、貴族は政治らしい政治を行わないため、世の中は騒がしくなるばかりでした。</p>
<p>極楽往生を願う、浄土の教えが広まったのも、この頃のことです。</p>
<p>こうした世の中の乱れを鎮めるためには、どうしても武士の力を借りなければなりませんでした。<br />
もちろん、初めの内は、武士は貴族の命令によって、貴族の手足のように、動かされていたのです。</p>
<p>けれども、そのうちに、武士は自分の力を知るようになりました。<br />
このきっかけになったのが、保元の乱や、平治の乱でした。</p>
<p>武士は、だいたい源氏と平氏の二派にわかれましたが、やがて平氏の平清盛が、太政大臣になり、貴族に代わって、政治を始めるようになりました。</p>
<p>けれども、この平氏の政治も長く続きませんでした。</p>
<p>平氏も、貴族と同じように我がままな振る舞いが多くなり、生活も贅沢になって、やがて、源氏に滅ぼされてしまいました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">716</post-id>	</item>
		<item>
		<title>奈良時代のあらまし！奈良時代ってざっくり言うとどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/700</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 16:00:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<category><![CDATA[東大寺]]></category>
		<category><![CDATA[平城京]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/700</guid>

					<description><![CDATA[今回は奈良時代のあらまし、日本の歴史を紹介します。 710年(和銅三年)、唐(中国)の長安の都に習って平城京が作られれました。 「咲く花の匂うがごとく」と歌われたこの都は、天皇中心の国家の勢いを、よく示すものであったとい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良時代のあらまし、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
710年(和銅三年)、唐(中国)の長安の都に習って平城京が作られれました。</p>
<p>「咲く花の匂うがごとく」と歌われたこの都は、天皇中心の国家の勢いを、よく示すものであったといえます。</p>
<p>このごろ「古事記」や「日本書紀」のような歴史の本が作られましたが、これも国家統一の1つの記念物といえます。</p>
<p>2つの本には、天皇を中心に国家の統一がどのように進められたか、アマテラス大神の子孫の神武天皇以来ずっと天皇がこの国を支配してきたこと天皇と国民とは、どう繋がっているか、などと言うことが載っています。</p>
<p>都での暮らしが華やかで美しいものであったのに比べて、地方の農民の暮らしは、ずいぶん遅れていました。</p>
<p>山上憶良という歌人は、貧しい生活に苦しみ、重い税に悩んでいる農民の姿を「貧窮問答歌」に詠っています。</p>
<p>この歌は当時の公地公民の建前の中での農民の生活や気持ちをよく描いていると言えます。<br />
東国の農民は、防人として九州の守りにつくことが多かったりですが、これも農民にとって、苦しい勤めの1つでした。</p>
<p>人口が増えるのに耕地が少なかったので政府は墾田の私有を認めるようにしていきました。<br />
これは新しく開墾した土地の私有を認める決まりです。この決まりのために、律令で定められた公地公民の決まりや、班田収授の決まりが崩れてしまいました。</p>
<p>奈良の東大寺やその本尊の大仏は、奈良時代の政治の姿をよく表ししています。<br />
奈良の大仏は、仏教を厚く信仰した聖武天皇の言いつけで、つくられたものです。</p>
<p>聖武天皇は、平和でゆたかな国をつくるためには仏の力に頼るほかはないと考えました。</p>
<p>そして、都には東大寺を、地方には国ごとに国分寺と国分尼寺をつくって仏教を全国に広がるように、奈良時代は政治・学問・芸術などがすべて仏教と結びついていた時代でもありました。</p>
<p>大和時代に続いてて奈良時代にも中国との交わりが盛んに行われました。</p>
<p>若い貴族や僧たちが、遣唐使として、あるいは留学生や留学僧として唐の国へ渡っていきました。<br />
唐への航海は非常に危険で、多くの船が難破しました。</p>
<p>その危険にも負けず、唐の優れた文化を取り入れるために貴族たちは、進んでで唐へ渡りました。<br />
唐との深い交わりによって、奈良時代には大陸風の文化が、どんどん流れこんできました。</p>
<p>大陸風の文化を最もよく示しているものに、正倉院におさめられている様々な品があります。<br />
これらの品は1200年もの長いあいだ、奈良時代のままの姿で伝えられています。</p>
<p>正倉院の品々から、当時の天皇や貴族たちの持ち物や生活などがうかがわれます。<br />
同時に、中国や、遠くアラビア・ギリシア・ローマなど、当時の優れた国々の文化を忍ぶことができまず。</p>
<p>大陸文化の影響の1つとして、漢詩の流行があります。<br />
当時の貴族たちの詩を集めて「懐風藻」がつくられました。<br />
平城京を中心にした時代は、およそ七代70余年続きました。</p>
<p>奈良時代も終わり頃に力を入れ過ぎたために、寺や僧の勢いが強くなり、政治も次第に乱されてきました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">700</post-id>	</item>
		<item>
		<title>大和時代のあらまし！　大和朝廷の統一や大化の改新とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/677</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Jan 2014 19:41:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<category><![CDATA[大化の改新]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/677</guid>

					<description><![CDATA[大和時代とはどのような時代だったのか、 この頃の日本の歴史を簡単なまとめを紹介します。 大和朝廷の統一 三世紀の中頃まで我が国には、たくさんの小さな国がありました。 これらの国々は四世紀の半ば頃にかけて次第に統一されてい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>大和時代とはどのような時代だったのか、<br />
この頃の日本の歴史を簡単なまとめを紹介します。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>大和朝廷の統一</h2>
<p>三世紀の中頃まで我が国には、たくさんの小さな国がありました。<br />
これらの国々は四世紀の半ば頃にかけて次第に統一されていました。</p>
<p>その中心となったのは近畿地方の大和（奈良県）に起こり天皇を中心にまとまっていた大和朝廷です。<br />
大和朝廷は大和地方を根城にして次第に勢力を広げ、やがて西は九州から東は関東あたりまでを一つにまとめました。</p>
<p>その上、四世紀半ば過ぎには朝鮮半島にも勢いを伸ばすようになりました。<br />
この大和朝廷の中心となった天皇の勢いは５世紀頃になると非常に強くなりました。</p>
<p>このことは大阪府堺市に残っている小山のような仁徳天皇陵を見てもよくわかります。<br />
また、大和朝廷の時代にはたくさんの古墳が作られました。</p>
<p>古墳を作ったのは天皇をはじめとする勢いの強い豪族たちでした。<br />
天皇や豪族たちはたくさんの人々を使って古墳を作り上げたのです。</p>
<p>大和朝廷は中国や朝鮮とも盛んに付き合いをし、その優れた文化取り入れようと努力しました。<br />
この頃に伝えられた文化の中で特に目立つのは文字・仏教・儒教などや建築・鍛冶・織物・養蚕など様々でした。</p>
<p>これらの文化は主に帰化人によって伝えられ、また広められました。<br />
大和朝廷は天皇を中心にして有力な氏がより集まって作っていました。</p>
<p>有力な氏としては大伴氏・物部氏・蘇我氏などが挙げられます。<br />
５世紀の終わり頃になると、これらの氏の勢力争いが次第に目立ってきます。</p>
<p>この勢力争いの中心になったのが物部氏や蘇我氏です。<br />
このような豪族の間の争いのために天皇の勢いは次第に衰えていきます。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block; text-align:center;"
     data-ad-layout="in-article"
     data-ad-format="fluid"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="7549778928"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p>このような有様を改め争いを鎮めて、再び天皇中心の世の中にしようとしたのが聖徳太子です。<br />
聖徳太子は摂政になってから、まず冠位十二階や憲法十七条を作って国の政治を整えようとしました。</p>
<p>また、仏教を盛んにして国内の平和を築こうと努力しました。<br />
今、斑鳩（いかるが）の里（奈良県）に残る法隆寺は太子の優れた仕事をよく物語っています。</p>
<p>一方、聖徳太子は隋との交わりには特に力を入れ遣隋使を送って盛んに大陸の文化を取り入れようとしました。</p>
<p>しかし、このような努力もよく実らない内に聖徳太子は亡くなってしまいました。</p>
<h2>大化の改新</h2>
<p>聖徳太子の考えを引き継ぎ、天皇中心の国の仕組みを整えようとしたのが中大兄皇子や中臣鎌足らでした。</p>
<p>中大兄皇子たちは蘇我氏を滅ぼして公地公民や班田収受の仕組み、租税の決まり、地方政治の仕組みなどを次々に整えていきました。</p>
<p>これが大化の改新です。</p>
<p>やがて、これらの仕組みは律令としてまとめられ、そのあと長い間、律令による政治が行われるようになるのです。</p>
<p>七世紀の半ば過ぎには天皇の位を争って壬申の乱が起こりましたが、その後は天皇中心の国の仕組みは一層固まりました。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">677</post-id>	</item>
		<item>
		<title>原始時代のあらまし！ 無土器時代・縄文時代・縄文時代・弥生時代とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/662</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[2]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Jan 2014 23:27:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[原始時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<category><![CDATA[無土器時代]]></category>
		<category><![CDATA[縄文時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/662</guid>

					<description><![CDATA[無土器時代とは？　縄文時代とは？　縄文時代とは？　弥生時代とは？ ここでは簡単なあらましを紹介します。 無土器時代とは？ 日本列島に、人間が住みつくようになったのは今から1万年以上も前のことではないかと言われています。  [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>無土器時代とは？　縄文時代とは？　縄文時代とは？　弥生時代とは？<br />
ここでは簡単なあらましを紹介します。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>無土器時代とは？</h2>
<p>日本列島に、人間が住みつくようになったのは今から1万年以上も前のことではないかと言われています。</p>
<p>それまでの日本列島は、ある時は海の底に沈んだり、ある時には大陸と陸続きになるといったように土地の様子がさまざまに変化してきました。</p>
<p>日本列島がほぼ今のような形になったのは、長い地球の歴史からみるとわりと最近のことです。</p>
<p>ところで、1万年以上も前に日本に住み着いたと言われる人々はどんな暮らしをしていたのでしょう。<br />
今のところまだハッキリとしたことはわかっていませんが道具といっては、かんたんな石器があるくらいでした。<br />
土器をつくることも知りませんでしたし、自然の恵みも豊かではなかったようです。<br />
かなり苦しい生活をしていたのではと想像します。</p>
<p>この時代のことを土器がなかった時代という意味で　「無土器時代」　と呼ばれています。</p>
<h2>縄文時代とは？</h2>
<p>8，9千年前になると、縄文式土器がつくられるようになりました。<br />
縄目の模様を付けたこの優れた土器は　「ジョウモン」　の名で世界にも知られています。<br />
縄文式土器の名をとってこの時代のことを縄文時代と言います。</p>
<p>縄文時代は数千年の間続きました。</p>
<p>長い年月の間には道具の作り方や暮らしの仕方にも少しずつの進歩はありました。<br />
ですが、その進歩は非常に遅く大体が狩りや魚とりが人々の生活の中心になっていました。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block; text-align:center;"
     data-ad-layout="in-article"
     data-ad-format="fluid"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="7549778928"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<h2>弥生時代とは</h2>
<p>2000年ほど前になると弥生式土器と呼ばれる新しい土器がつくられるようになりました。<br />
また、イネのつくりかたや金属の道具が伝えられ人々の生活や社会の姿は大きく変化しました。</p>
<p>この時代を弥生時代と言います。</p>
<p>人々は台地の上から次第に平地に住まいを移し、農業に励むようになりました。<br />
前は山や海にあるものをとって食料にしていたのですがこの後は自分たちの食料は自分たちでつくるようになっていったのです。</p>
<p>そして、食料の蓄えが多くなると共に人々の暮らしは次第に豊かになっていきました。<br />
道具にも工夫を凝らし、物々交換も盛んになりました。</p>
<p>しかし、なんといっても大きな変化は人々が村をつくって共同生活をするようになったことです。</p>
<p>さらに、同じ村の中でも上に立って指図をする人と、その指図を受け、下で働く人々の区別がはっきりしてきたことも大きな変化でした。</p>
<p>やがて、あちこちの村は次第にまとめられて国と呼ばれるほどに大きくなっていきました。<br />
「前漢書」という中国の古い歴史書には、紀元前一世紀ごろ日本には100以上の小さな国が出来ていたと書かれています。</p>
<p>その国もさらに大きくまとめられていきました。</p>
<p>「魏志倭人伝」という中国の古い歴史書には紀元前三世紀半ばごろ日本では大きな勢力をもっていたヤマタイ（ヤマトのこと）国のことが出てきます。</p>
<p>この邪馬台国も小さな国々がまとまって大きくなったものと考えられています。<br />
そして、国々の頭は度々中国や朝鮮に使いを送り進んだ文化を取り入れていたようです。</p>
<p>こうして、日本では狩りと魚とり中心の生活から農業中心の生活へ。</p>
<p>また社会が国として広い地域ごとに決まりをもってまとまる時代へと数千年の間に移り変わったのです。<br />
科学技術の発展がほとんどないものの現代の生活のかたちが出来上がったのがこの時代です。</p>
<p>自給自足の無人島生活ができる方ならこの時代で生きれるかも？　日本の歴史のはじまりです。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">662</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
