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	<title>キリスト教 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>キリスト教 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>隠れキリシタンとは？　幕府の取り締まりと隠れた信仰とキリシタンの復活とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/821</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 02:06:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[隠れキリシタン]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は隠れキリシタンとは？　幕府の取り締まりと隠れた信仰 キリシタンの復活について、日本の歴史を紹介します。 隠れキリシタンとは？ 江戸の幕府は家康以来どの将軍もキリスト教を禁じてきましたが島原の乱に懲りて一層取り締まり [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は隠れキリシタンとは？　幕府の取り締まりと隠れた信仰<br />
キリシタンの復活について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>隠れキリシタンとは？</h2>
<p>江戸の幕府は家康以来どの将軍もキリスト教を禁じてきましたが島原の乱に懲りて一層取り締まりを厳しくしました。</p>
<p>そして、信長を見つけ次第、情け容赦なく殺しました。<br />
一方、幕府のどんなひどい仕打ちにも関わらず信仰を捨てまいとする人々がいました。</p>
<p>昔から信者の多かった九州、特に西海岸の長崎の付近や五島・平戸の島々にかけての農民や猟師たちの信仰は熱心でした。</p>
<p>この人々を少しでもキリスト教徒らしい行いを見せると殺されるので、上辺は仏教の信者のように装って心の中でキリスト教を信じていました。</p>
<p>隠れキリシタンは、人が死ぬと見張りの役人のいる間は仏教の僧を呼んでお経をあげてもらい葬式が済んで役人が帰るとキリスト教の葬式でやり直しました。</p>
<p>信者たちはイエスやマリアの御像を拝みますが見つかると大変ですから観音様に似たマリアをつくったり十字架を壁に塗りこんだりしました。</p>
<p>また、信者どうし、人目を避けて、こっそり夜中に集まりラテン語でお祈りをしたりしました。</p>
<p>これらの人々の中には洗礼を授けたりマリアとジョアンとかの洗礼名をつける役、それを帳面につける役がありました。</p>
<p>さらに、日曜日とか信者に関係深い日などをふれ歩く役もありました。</p>
<p>これらの役は厳しい役人の見張りの中で信者どうしを固く結びつけ隠れた信仰が見つかるのを防ぎました。</p>
<p>いずれにしても、この信者たちは、世間に隠れて密かに信仰を続けていたので隠れキリシタンと呼ばれました。</p>
<p>彼らは、200年間も宣教師なしで秘密に信仰生活はを送ってきたので儀式やお祈りの文句ももとの形と少しずつ変わってきました。</p>
<p>御影も、ちょんまげをゆったキリストや元禄まげにゆったマリアが出てきたりするようになりました。<br />
明治になって、誰でも自由にキリスト教を信じてよいことになりました。</p>
<p>長崎付近の浦上（今は長崎市)やその他の隠れキリシタンは新しくフランスから来たカトリックの宣教師の言う事を聞いて、正式に教会へもどりました。</p>
<p>ところが、自分たちのものこそ本当のキリスト教だと言い張って、どうしても教会に戻らない人たちまでも長崎県下には五、六万あまりいるといわれています。</p>
<p>教会では、こういう人たちのことをカトリック教会から離れていった人たちという意味で「はなれ」とも呼びます。<br />
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		<title>徳川家康とキリスト教との関係とは？ キリスト教を禁止したのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/818</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 05 Jul 2014 04:20:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は徳川家康とキリスト教との関係について、日本の歴史を紹介します。 家康とキリスト教との関係とは？ 家康もキリスト教を好みませんでしたが貿易を大切に思ったため初めは、多めに見ていました。 その結果、信者は、益々増え16 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は徳川家康とキリスト教との関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>家康とキリスト教との関係とは？</h2>
<p>家康もキリスト教を好みませんでしたが貿易を大切に思ったため初めは、多めに見ていました。</p>
<p>その結果、信者は、益々増え1605年(慶長10年)には70万人にもなり東北地方から北海道にまで広がって行きました。</p>
<p>特に、農民や鉱夫の信者が増えてゆきました。</p>
<p>ところが、17世紀に入ると東洋の貿易は、ポルトガルやスペインに代わってイギリス・オランダの勢力が伸びてきました。</p>
<p>おりもおり、1600年(慶長五年)オランダ船リーフデ号が豊後に流れつきました。</p>
<p>オランダ人やイギリス人はキリスト教の信者でしたがスペイン人やポルトガル人と違ってプロテスタント(新教＝カトリツクが古臭いといって新しくつくった宗教の団)で貿易のためには宗教のことにあまりこだわりませんでした。</p>
<p>家康は、キリスト教に関係なく貿易が出来ればたいへん都合がよいと思いました。</p>
<h2>キリスト教の禁止</h2>
<p>キリスト教の信者は段々増えてきました。<br />
調べてみると、家康のそば近く仕えている侍の中にも大勢の信者のいることがわかりました。</p>
<p>さらに、京都や九州に使いを出して調べさせてみると、益々キリスト教の勢力のたいへんなことがわかりました。</p>
<p>幕府のこうした心配をいっそう強めたものとしてオランダ人の告げ口があります。<br />
オランダは日本との貿易からポルトガルを追い出すために「ポルトガルは、キリスト教を広めることによって日本を滅ぼそうとしている」と告げ口しました。</p>
<p>1612年（慶長17年)には幕府は、とうとうキリスト教禁止の命令を出しました。</p>
<p>そして、あくる年の1622年(慶長18年)には幕府は、前よりも一層厳しい命令を出して信者を見つけ次第捕まえて島流しにしたり、死刑にしたりしました。</p>
<p>高山右近や内藤如安は信仰を捨てれば許してやるといくら言われても効かないのでマニラへ流されていきました。</p>
<p>キリスト教の禁止は江戸幕府の決まりとなり家康の跡を継いだ秀忠次の家光の時代になってますます、厳しくなりました。</p>
<p>張り付け・火攻め・水責め・逆さ吊るし・のこぎり引きなどの残酷な方法で拷問し信仰を捨てさせようとしました。</p>
<p>信仰の弱い人は、すぐに信仰を捨てましたがどんなひどい目にあっても平気で死んでいく人もありました。</p>
<p>とにかく、上からの厳しい取り締まりによって、表面では信者はなくなりました。</p>
<p>しかし、熱心な信者たちは心の中では、なかなか信仰を捨てきれず密かに、隠れキリシタンとして生き続けたのです。<br />
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		<title>織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係とは？ キリスト教の取り締まりとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/817</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 05 Jul 2014 03:43:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ会]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。 信長とキリスト教 信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>信長とキリスト教</h2>
<p>信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見ていました。</p>
<p>なぜなら、信長にとって本願寺や、廷賦寺のような大きな仏教勢力は天下を統一していく上でたいへん邪魔になりました。</p>
<p>そこで信長は、この仏教勢力と対抗させるためにキリスト教を認めたのです。</p>
<p>それに、その頃の僧たちが行いの良くないのに比べて宣教師たちは、不自由をしのんで立派に教えを広めていました。</p>
<p>このような宣教師の態度を見てすっかり感心しました。</p>
<p>しかし何よりも信長をキリスト教に惹きつけたのは宣教師と外国貿易とが固く結びついていることでした。</p>
<p>宣教師たちはキリスト教を許せば貿易船がやってくると言って大名たちから、キリスト教を広めてもよい許しを得ていました。</p>
<p>そこで、信長も、宣教師がくれば外国の貿易船も来て時計や望遠鏡など、いろいろ珍しい品物を手に入れることが出来るしまた、西洋の進んだ知識も取り入れることが出来ると考えました。</p>
<p>このように、天下統一の大事業を進めて信長にとって、キリスト教の勢力など問題になりませんでした。<br />
宣教師たちは九州から近畿地方にかけて自由に旅行し、教えを広めました。</p>
<p>そして、至るところに大小の天主堂ができました。</p>
<p>また、安土や有馬(神戸市)長崎・府内(大分市) には学校がつくられ、そこでは、ラテン語やポルトガル語・油絵・エッチング(銅版画)や時計の造り変えまで教えていました。</p>
<p>信長の死んだ1582年(天正10年) には信者の数は、10万人にもなっていたと言われます。</p>
<h2>秀吉とキリスト教</h2>
<p>信長の跡を継いだ秀吉も宣教師と親しく交わり天主堂を訪ねて、西洋音楽を聞いたり牛肉やぶどう酒のごちそうになったりしました。</p>
<p>秀吉の周りには小西行長(オーガスチン)・黒田孝高(シメオン)高山右近(ジュスト)・内藤如安(ジョアン)など多くのキリシタン大名がおり、また城内にも熱心なキリシタンが何人かおりました。</p>
<p>秀吉は1587年(天正15年)島津征伐のために九州へ行って見て驚きました。<br />
長崎の町は、全く、教会のものとなり町の周りには、砦や堀まで築いてあったのです。</p>
<p>秀吉は、このようなキリスト教の勢力の盛んな有様を見てこれは、油断が出来ないと思いました。<br />
そう思うと、気になることがいろいろ出てきました。</p>
<p>特に、キリスト教の教えや習わしは封建社会を整えていく上で大きな妨げとなりました。</p>
<p>例えば、封建社会でもっとも重んじられた主従の関係もキリスト教では、神(デウス)に対する尊敬の方が重んじられたのです。</p>
<p>そのために、信者が領主の命令通りにならないということがしばしばありました。<br />
この年(1587年)秀吉は博多の宿で、突然キリスト教を禁じる命令を出しました。</p>
<p>宣教師たちは、20日以内に日本を立ち退かなければいけないことになりましたが実行は無理でした。<br />
秀吉にすればキリスト教は禁じても儲けの多い貿易は止めたくありませんでした。</p>
<p>信者は、それに漬け込んで宣教師をかばい、宣教師たちはこっそり、教えを広め続けていたのです。</p>
<p>その上、1584年(天正21年)ルソンから、スペインの商船が平戸について以来、新たにスペイン系のフランシスコ会の宣教師が来るようになりました。</p>
<p>秀吉は、ルソンを通してスペインと貿易をしようと思っておりましたので、このフランシスコ会の宣教師たちに布教(教えを広めること)の許可を与えました。</p>
<p>こうなると秀吉のキリスト教禁止の命令はあっても無いようなことになりました。<br />
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		<item>
		<title>キリシタン大名とは？大友・有馬・大村の三大名とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/804</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 10:50:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン大名]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。 ザビエルが1551年（天文20年)に日本を去った後も優れた宣教師が次々とやってきました。 この結果、九州から近畿地方にかけてたくさんの信者ができ、信長 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>ザビエルが1551年（天文20年)に日本を去った後も優れた宣教師が次々とやってきました。</p>
<p>この結果、九州から近畿地方にかけてたくさんの信者ができ、信長の時代には、信者の数は10万人から15万人にも増えました。</p>
<p>そして、大名の中にも洗礼(キリスト教徒になるための儀式)を受けて熱心な信者になるものがあらわれました。</p>
<p>例えば、大友義鎮・小西行長・大村純忠有馬晴信・高山右近などがそれで彼らをキリシタン大名と言います。</p>
<p>1582年（天正10年)、キリシタン大名の中でも、とくに熱心な大友・有馬・大村の三大名は少年使節を遥々ローマに送りました。</p>
<p>これは、巡察使(キリスト教を広める方法を考えたり研究したりする役目)として来日していたイタリア人バリニアノの計画によるものです。</p>
<p>ヨーロッパの進んだ有様を日本人に直に見せるとともに、ヨーロッパ人には本当の日本人を見せて日本はキリスト教を広める値打ちのある国だということを分かってもらおうとしたのです。</p>
<p>そして、物事を感じとりやすいと思われる少年が使節に選ばれました。</p>
<p>大友義鎮の親戚にあたる伊東祐益(マンショ)が千々岩清左衛門(ミゲル)とともに正使になり、原マルチノ・中浦ジュリアンのふたりが副使になりました。</p>
<p>バリニアノにつれられた一行は長崎を出発しみちみち勉強をしながらマカオをへてインドに着きました。</p>
<p>使節はここでバリニアノとわかれ尚も進み、喜望峰を回ってついにポルトガルのリスボンに着きました。<br />
そして、至るところで歓迎を受けながらイタリアに渡りローマ法王グレゴリオ13世に会いました。</p>
<p>法王は涙を浮かべて喜んだということです。<br />
四人はローマの市民権までも贈られ珍しいヨーロッパの文化に接して、どんなにか嬉しかったことでしょう。</p>
<p>やがて囚人はインドをへて1590年(天正一八年)長崎へ帰りました。<br />
実に出発のときから8年あまりも立っていたのです。</p>
<p>ところが、彼らが帰ってきたときは豊臣秀吉によってキリスト教が禁止されていたため使節は活動することができませんでした。</p>
<p>中浦ジュリアンは、最後までキリスト教を捨てなかったため、年をとってから火あぶりにされました。<br />
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		<item>
		<title>南蛮文化とは？　広まった珍しい品物や印刷文化とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/802</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 09:13:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[イソップ物語]]></category>
		<category><![CDATA[ポルトガル]]></category>
		<category><![CDATA[カステラ]]></category>
		<category><![CDATA[西洋文化]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[南蛮文化]]></category>
		<category><![CDATA[南蛮屏風]]></category>
		<category><![CDATA[印刷文化]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は南蛮文化とは？　広まった珍しい品物や印刷文化について、日本の歴史を紹介します。 西洋文化の影響 長い間、大陸文化の影響を受けていた日本文化は安土・桃山時代に、全く新しい西洋文化の波を受けることになりました。 そのこ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は南蛮文化とは？　広まった珍しい品物や印刷文化について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>西洋文化の影響</h2>
<p>長い間、大陸文化の影響を受けていた日本文化は安土・桃山時代に、全く新しい西洋文化の波を受けることになりました。</p>
<p>そのころ南蛮人(南の方から来る、ポルトガル人など)と言われていた西洋人から、学問・技術・芸術・文学などのこれまで日本人の全く知らなかった新しく、活き活きした文化が伝えられたのです。</p>
<p>それが、信長や秀吉によって開かれた新しい時代の気風にぴったりして日本文化に溶け込み、これを一層大きく力強く発達させる役割を果たしたのです。</p>
<p>ポルトガルからキリスト教が伝えられると九州や京都などで15万人にも及ぶ信者ができました。</p>
<p>信長は延暦寺や本願寺などのために幾度も、苦しい目にあったので仏教を抑えるためと、貿易を盛んにする目的からキリスト教の宣教師を保護し京都や安土には南蛮寺(教会堂)なども建てさせました。</p>
<p>宣教師はキリスト教を広めるために病院を建てたり、慈善事業(暮らしに困っている人を救う仕事)なども始めました。</p>
<p>この頃、内科では漢方医学(中国から伝わった医学)が重んじられましたが、外科ではポルトガルの進んだ医学が伝えられ、医術を学ぶ者も現れてきました。</p>
<p>また天文学では、全ての天体は地球を中心に回っているという天動説が伝えられました。</p>
<p>これは東洋に古くから行われていた天文の知識よりも、かなり理屈にあっていましたので学問のある人たちには、わりあい受け入れられました。</p>
<h2>南蛮扉風</h2>
<p>この頃に流行した、風ぞくを描いた屏風に南蛮扉風があります。</p>
<p>狩野派の絵師が描いたものでこの時代から、江戸時代の初めに架けて大名や大商人たちに、喜ばれました。</p>
<p>取り上げている題材は南蛮人や南蛮僧とか南蛮船などで、だいたい共通しており、その描き方は、非常に正確で見たままに書き表しています。</p>
<p>ことに南蛮人の姿は、そのころ東インドに来て活躍していたポルトガル人の様子をよく表しているので今ではポルトガルでも、珍しがられています。</p>
<p>さらにキリスト教が広まるにつれて宗教画も必要になってきます。<br />
そこでポルトガル船がもってきた宗教画を書き写すことが、盛んに行われ西洋画の描き方を習う人が多くなりました。</p>
<h2>印刷文化</h2>
<p>活字印刷機と、活字や印刷の技術も伝えられ教会では、この印刷機でキリスト教を広めるための書物を印刷しました。</p>
<p>これらの耶蘇会版とかキリシタン版には宗教関係の書物と、文学書と、外国語の文法や辞書のような三つの種類があります。</p>
<p>有名な「イソップ物語」などが優しく翻訳されたのも、この頃のことです。</p>
<h2>珍しい品物</h2>
<p>食物では、カステラ・コンペイトウ・ボーロなどがポルトガルから伝わりました。<br />
衣類では、カッパやラシャなどがありそのほかシャボンなどもあります。</p>
<p>カルタも、この頃に伝わったものです。<br />
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		<title>織田信長とは？　室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺には！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/793</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 10:25:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
		<category><![CDATA[比叡山]]></category>
		<category><![CDATA[石山本願寺]]></category>
		<category><![CDATA[一揆]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。 室町幕府を滅ぼす 足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛ん [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>室町幕府を滅ぼす</h2>
<p>足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛んになるのを見て、たいそう不安に思うようになりました。</p>
<p>また義昭は、将軍として信長の上に立とうとしましたが信長はそれを認めようとしませんでしたので義昭は、ついに信長の敵の大名たちの力を借りて信長を倒そうとしました。</p>
<p>信長は幾度も義昭を諌めましたが、その気持ちを改めようとしないので1573年(天正元年)に、とうとう義昭を京都から追い払いました。</p>
<p>200年あまり続いた室町幕府もこれで滅びたわけです。</p>
<h2>比叡山と石山本願寺</h2>
<p>しかし全国統一を目指す信長の前には、まだまだ、たくさんの強い敵がありました。</p>
<p>越後(新潟県の一部)の上杉謙信や甲斐の武田氏をはじめ越前(福井県の一部)の朝倉、近江(滋賀県)の浅井、中国の毛利、四国の長曽我部氏など、どれも強い大名でしたが、寺や農民もまた、しばしば信長を苦しめました。</p>
<p>京都のすぐ北にある比叡山延暦寺は近江(滋賀県)に持っていた領地を信長の家来に横取りされたので強い反感を持っていました。</p>
<p>僧兵たちは、浅井・朝倉などの大名と手を結んで信長に反抗しました。</p>
<p>そこで、おこった信長は1571年(元亀二年)突然比叡山を取り込んで寺を焼き払い、多くの僧や女子どもまで皆殺しにしました。</p>
<p>大坂石山の本願寺も、大きな力を持っていました。</p>
<p>本願寺は一向宗の総本山ですが寺のある石山は大阪湾にのぞみ海に囲まれた攻めにくい城になっていました。</p>
<p>そのうえ一向宗の信者には地方の農民や農民の頭として土地に住み着いている武士たちが多かったので、本願寺が指図をすると、ほうぼうで一斉に一揆をおこしました。</p>
<p>一揆は信長の敵側の大名たちと結んで信長の軍を苦しめ、このために信長の弟が戦死したこともありました。</p>
<p>そこで信長は、厳しく一揆を押さえつけました。</p>
<p>1574年(天正二年)に伊勢(三重県) の長島一揆を攻めたときには、降伏を許さず城の中に男女2万人を閉じ込めて、焼き殺しました。</p>
<p>その翌年には、越前の一揆を攻め農民も一向宗の僧も、見つけ次第に殺されました。<br />
「府中の町(福井県)は死体でいっぱいで、空き地もない」と信長自身が手紙を書き送っています。</p>
<p>信長は、最後に残った本願寺を責め立てましたので本願寺側は、とうとう1580年(天正八年)に石山城を明け渡し、信長に従うことになりました。</p>
<p>これで近畿地方は信長の勢力で固まりました。</p>
<p>信長が、比叡山や一向宗の僧を、残酷なほど厳しく責め立てたのは、この頃の仏教が宗教の立場を離れて、政治にくちばしを入れたり国内統一の邪魔をしたりしたからです。</p>
<p>このような仏教のカを弱めるために信長はキリスト教を保護したりしました。</p>
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		<title>日本にキリスト教が伝来したのはいつ頃？　フランシスコ・ザビエルとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/790</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 07:24:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ=ザビエル]]></category>
		<category><![CDATA[アンジロー]]></category>
		<category><![CDATA[ポルトガル船]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回はキリスト教の伝来とザビエルについて、日本の歴史を紹介します。 フランシスコ=ザビエル 1549年(天文一八年)の夏、つまり、鉄砲が伝わってから6、7年のちのこと、鹿児島へ一艘のジャンク(中国のほまえ船)がつきました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回はキリスト教の伝来とザビエルについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>フランシスコ=ザビエル</h2>
<p>1549年(天文一八年)の夏、つまり、鉄砲が伝わってから6、7年のちのこと、鹿児島へ一艘のジャンク(中国のほまえ船)がつきました。</p>
<p>この船には、フランシスコ＝ザビニルのほか7人ほどの人々が乗っていました。<br />
ザビエルを案内してきたのはアンジローという日本人でした。</p>
<p>アンジローは鹿児島の生まれでしたが罪をおかし、心の苦しみに耐えられないで日本を逃げ出したのです。</p>
<p>そして、マラッカで、評判のザビエルに会い苦しみを打ち明けて、心が楽になりました。<br />
アンジローはザビエルの導きでキリスト教の信者になりました。</p>
<p>ザビエルは、アンジローの利口で賢いことに感心し日本人がみなアンジローのようなら素晴らしいぜひ日本へ行こうと、決心したのです。</p>
<h2>ザビエルの働き</h2>
<p>ザビエルは早速、鹿児島の大名島津貴久に会い町で教えを広める許しを得ました。<br />
そして、お寺の境内に行ってはあまり上手ではない日本語で説教をしました。</p>
<p>鹿児島の人たちは、ザビエルがインドから来た坊さんだと聞いてたぶん、仏教の一派だろうぐらいに考えました。</p>
<p>そのうちに、仏教の攻撃を初めましたので僧たちは、ザビエルを追い出しにかかりました。<br />
ザビエルは、一年ほど鹿児島にいるうちにだんだん日本の様子がわかってきました。</p>
<p>都へ行けば、天皇という偉い人がいるそうだ。<br />
天皇に会って、日本中どこでも教えを広めてよいという許しが欲しいと思うようになりました。</p>
<p>ザビエルが、このことを島津氏に話しても許してもらえませんでした。<br />
島津氏は、ザビエルがいなくなってポルトガルの船が来なくなっては大変だと思ったのです。</p>
<p>島津氏がたいへんだと思ったのは外国の珍しい品物が来なくなっては困るからです。<br />
ザビエルは、思いきって、都に上ることにしました。</p>
<p>そして、アンジローにあとを頼み、平戸(長崎県)・博多(福岡市)・瀬戸内海をへて遥々、都に上りました。</p>
<p>ザビエルが都に着いたのはもう戦国の世も終わりに近い頃で天下は全く乱れ、朝廷や幕府の勢いは地に落ちているときでした。</p>
<p>彼は、荒れ果てた京都の町の有様を見て天皇も将軍も日本を治めるだけの力はないとすぐ諦めました。</p>
<p>そして、そのまま平戸へ引き返してしまいました。<br />
彼は、それから出直して周防(山口県の一部)の山口へ行き大内義隆に会いました。</p>
<p>天皇にあげるつもりだった、時計・眼鏡などの贈り物やインドの副王からの手紙を大内氏に差し出しました。</p>
<p>ここで、ザビエルは教えを広める許しを得て信者もたくさんできました。<br />
その中に、ロレンソというびっこでめっかちの琵琶法師(琵琶を弾いて物語を語りお金を貰って歩く人)がいました。</p>
<p>彼は、説教が上手で、大変役に立つ弟子になりました。</p>
<p>ザビエルが山口にいる間に、ポルトガルの船が豊後(大分県の一部)の日出に着いたという知らせがありました。</p>
<p>ザビエルは豊後に帰り、早速船長をはじめ船員たちを大勢連れて、府内(大分市)の城に大友義鎮を訪ねました。</p>
<p>義鎮も喜んで、教えを広める許しを得ました。<br />
そして、天主堂(教会堂) を作るための屋敷をくれる約束をしました。</p>
<p>ザビエルは、そのポルトガル船に乗ってインドへ帰りましたがまた日本に戻ってくるつもりでした。</p>
<p>彼が日本にいたのは2年と3か月その間にできた信者の数はやっと1000人か、1500人と言われています。</p>
<p>しかし、これが後には、千倍・万倍に増えるのです。<br />
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		<item>
		<title>日本の宗教の歴史とは？ 奈良時代から明治時代の流れと変化とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/755</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 16:47:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[日本の宗教の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[宗教]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[氏神]]></category>
		<category><![CDATA[新興宗教]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は日本の宗教の歴史について、日本の歴史を紹介します。 人間は、いろいろわからないことを、わかるまで調べようとするものです。 何千年という長い間の人間のこの努力のために科学や技術が進み、文明も栄えてきたのです。 しかし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は日本の宗教の歴史について、日本の歴史を紹介します。<br />
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人間は、いろいろわからないことを、わかるまで調べようとするものです。<br />
何千年という長い間の人間のこの努力のために科学や技術が進み、文明も栄えてきたのです。</p>
<p>しかし、人間の頭の中には、まだわからないことがなにか残っているような感じです。<br />
例えば、人間が生きる、または死ぬということを人の知恵では説明できない、不思議なことだという人もいます。</p>
<p>死ぬことを恐れている人はたくさんいます。<br />
このような人たちの気持ちは、科学や技術だけでは満足できません。</p>
<p>人間の命の問題や、生活の不安などを、どのように考えたら安心できるだろうかといったことを教えるものが宗教です。</p>
<p>このようにして、宗教は文明の発達した国々においても人々に求められ、信じられているのです。<br />
大昔には、人間の知恵が発叢していませんでした。</p>
<p>そのため、自分の周りの山・川・草・穂・石など、全ての自然物に神が宿っていると考えました。<br />
そして、人々は神の言葉通りに動き自分たちの体や生活が安全であるよう神に祈りました。</p>
<p>農業が始まると、水の神・田の神などという、農業の神が考えだされ、人々はそれに祈ることによって農業が盛んになるように願いました。</p>
<p>神水の神や田の神は、本家や分家の集まりによって祀られました。<br />
そうした神が氏神です。</p>
<p>氏神には、山の神や、先祖の魂や、他にもいろいろの神がありました。<br />
やがて、大陸から仏教が伝わりました。</p>
<p>人々は丁度、氏ごとに氏神を拝んでいたように、氏寺を建てたり、氏ごとに寺の行事をしたりしたのです。</p>
<p>仏教が盛んになったのは、聖徳太子の頃からでした。<br />
しかし時代によって、いろいろ性質が違ってきます。<br />
奈良時代の仏教は、国の政治に力をつける教えと考えられました。</p>
<p>仏教を信仰することが、そのまま国の守りとなり国を平和にするものだと言われるようになったのです。<br />
奈良に大仏がつくられたり、諸国に国分寺や国分尼寺が建てられたのもそういう考えかたがもとになっていました。</p>
<p>また、寺は学問のための大学であるとも考えられていました。</p>
<p>一方、神社のそばに神宮寺が出来たり、寺の鎮守の神が祀られたりしたように、神と仏とは接近していきました。</p>
<p>平安時代には最澄・空海が天台宗や真言宗を広めました。<br />
この僧たちは、もっと人々の暮らしの中で、仏教の教えを生かそうと考えいろいろのまじないや、お祈りをするようになりました。</p>
<p>ところが、平安時代も半ばを過ぎると、貴族は生活に段々自信が持てなくなりました。</p>
<p>荘園の収入は充分でなく、また同じ貴族でも、藤原氏の本家ばかりに力があって、分家や藤原氏以外の貴族はたいして良い位にもつけません。</p>
<p>そういう貴族は、だんだん、この世が嫌になるのです。<br />
この不安な気持ちを救ってくれるのが、浄土の教えでした。<br />
浄土教というのは源信や空也によって、広められた教えです。</p>
<p>念仏を唱え、阿弥陀を信じれば、死んでから極楽にいって、不安の無い暮らしができるという教えです。<br />
これが平安時代の末に、おおいに流行りました。</p>
<p>鎌倉時代には、この浄土教をもとにして法然が浄土宗を、その弟子、親驚が浄土真宗をおこしました。<br />
浄土真宗は民衆の間にも広まっていきました。</p>
<p>元が攻めて来た頃、日蓮が今までの宗教はみな間違っている、もっと法華経を信仰せよと鎌倉の町々な説教して周り、法華宗を初めました。</p>
<p>また、鎌倉時代には、禅宗がたいへん喜ばれました。</p>
<p>禅宗は行事や学問に頼ったりせずに、じっと座禅を組んでで自分のカで、心の迷いを捨てよ、といった教えでした。</p>
<p>このように、鎌倉時代には、いろいろの仏教が新しくおこりました。<br />
これらの仏教は、天台宗や真言宗と違ってあまり、お金が無くても信仰できましした。</p>
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<p>そのために、広く民衆の間にも、広まっていきました。</p>
<p>とくに、親鸞の浄土真宗は、室町時代には、民衆の力を集めてたいへん大きな勢いを持つようになりました。</p>
<p>鎌倉・室町の時代は、仏教が広まった時代といえます。<br />
そのため神社の方でも、このままではいけないと考えるようになりました。</p>
<p>神社とは何か？　神とは何か？　と言うようなことをもっと深く考え直そうという人たちが現れててきたのです。</p>
<p>また、仏教と神道とは、どんな繋がりがあるかということも議論されました。<br />
初めは、神は仏が姿を変えたものだという考えもありました。</p>
<p>やがて、神が仏に変わったのだという意見が強くなりました。<br />
日本の神道は、こうして次第に形を整えてくるのです。</p>
<p>室町時代にはフランシスコ＝ザビエルが日本へキリスト教を伝えました。<br />
それ以後、キリスト教を信仰する人は、段々増えていきとくに西日本では、熱心な信者がたくさん現れました。</p>
<p>キリスト教は次第に江戸幕府の政治の上に邪魔になってきました。<br />
幕府は、張り付けや火炙りなどの刑罰をもってキリスト教を押さえつけました。</p>
<p>さらに、キリスト教を禁じるために、外国との付き合いをしていては駄目だということになり将軍徳川家光のときに鎖国が行われました。</p>
<p>幕府はキリスト教の取り締まりのため、檀家の制度をつくり、寺と民衆を結びつけました。<br />
これは、誰でもどこかの寺に名前をおきその寺へお参りしなければならないという制度です。</p>
<p>この制度で安心した寺は、仏教を広め人々の信仰を強くするような努力をあまり行わなくなりました。<br />
寺は戸籍を預かり、葬式をするだけのものになっていきました。</p>
<p>江戸時代の前まで仏教と結びついた、いろいろな芸術や学問が盛んでしたが江戸時代から後は、仏教と芸術との繋がりも切れてしまいました。</p>
<p>ところが、江戸時代も末になると、世の中は非常に不安になりました。<br />
例えば、百姓一投などがおこり幕府はだんだん弱くなりました。</p>
<p>こういう不安な世の中で、金光教とか天理教などの新しい神道の宗派がおこりました。<br />
明治の初めには、神道が盛んでした。</p>
<p>明治維緋の力となった学問が、神道と深く繋がっていたからです。<br />
しかし、文明開化の世になると、キリスト教が流行しました。</p>
<p>やがて、憲法で信仰の自由が謳われましたが、本当の自由は、太平洋戦争後の憲法によって決まったのです。</p>
<p>太平洋戦争に負けた後、人々は大きな不安に落ち込みました。<br />
江戸時代の末に新しい宗教が生まれたようにこのときにも、新しい宗教がぞくぞく生まれました。</p>
<p>古くからの宗教が形だけ整っていて、人間の心に触れるものが無くなるとこうした多くの新興宗教が栄えるのです。</p>
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