﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>天正大判 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<atom:link href="https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/tag/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%88%A4/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 May 2019 21:16:05 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.3</generator>

<image>
	<url>https://wakariyasuku-rekishi.com/wp-content/uploads/2018/07/cropped-rekishi-favi-32x32.png</url>
	<title>天正大判 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/><site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">148332681</site>	<item>
		<title>天正大判とは？ お金を使う機会が増えた室町時代！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/800</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 06:51:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天正大判]]></category>
		<category><![CDATA[天正菱大判金]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/800</guid>

					<description><![CDATA[今回は天正大判について、日本の歴史を紹介します。 天正大判とは？ 商業や交通が盛んになるとお金を使うことも増えてきました。 室町時代には、明から輸入した銅銭や日本でとれた砂金や銀をいちいち目方で測ったり米をお金の代わりに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は天正大判について、日本の歴史を紹介します。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>天正大判とは？</h2>
<p>商業や交通が盛んになるとお金を使うことも増えてきました。</p>
<p>室町時代には、明から輸入した銅銭や日本でとれた砂金や銀をいちいち目方で測ったり米をお金の代わりにして使っていました。</p>
<p>武田信玄や、織田信長など多くの大名は少ない量で値打ちのある金や銀の質を揃えて、お金を作っていました。</p>
<p>このような金貨や銀貨は、必要な目方だけを切り取って少しずつ使ったのです。<br />
しかし、これでは不便ですから金や銀で、決められた値打ちのお金をつくるようになりました。</p>
<p>秀吉が1588年(天正16年)に造らせた天正大判は、このような金貨の最初のものと言われています。</p>
<p>現存の天正大判のうち、最も古い天正菱大判金は縦が約22.9センチ、横が約9.4センチで、目方は165グラムあります。</p>
<p>表には、大判を造った年と拾両という値打ちと後藤徳乗と言う造った人の名前が墨で書いてあります。</p>
<p>この形式は、後の江戸時代の大判、小判にも引き続き用いられました。<br />
このころ、拾両大判１枚でだいたい6.7トンの米が買えました。</p>
<p>しかし、秀吉の時代でも、大抵の品物は室町時代からの銅銭と、切り取って使う金銀で売買されていました。</p>
<p>普通の生活に金貨や銀貨が使われるようになったのは次の江戸時代からです。</p>
<p>このように、金や銀を使うことが多くなったので全国の鉱山が盛んに開発され各地の大名は、その領内で鉱山を見つけ出そうと一生懸命でした。</p>
<p>有名な佐渡の金山が発見されたのもこの頃です。</p>
<p>秀吉は全国を統一すると他の大名の領地にある金山や銀山も全て自分のものだと決めました。<br />
しかし、その全部を取り上げるのではなく取れ高の一部を献上させたのです。</p>
<p>こうして、各地の大名から納められた金銀は年に金４千枚、銀８千枚にものぼりました。<br />
大坂城内には、驚くほど多くの金銀が蓄えられていたということです。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">800</post-id>	</item>
		<item>
		<title>安土・桃山時代の産業の発達！　楽市楽座とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/799</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 14:54:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天正大判]]></category>
		<category><![CDATA[楽市]]></category>
		<category><![CDATA[楽座]]></category>
		<category><![CDATA[楽市楽座]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/799</guid>

					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代の産業の発達について、日本の歴史を紹介します。 耕地が増える 信長や秀吉をはじめとして、大名たちは武士の生活を支える一番大切な産業である農業を盛んにする必要がありました。 そのため、雨が降ると、洪水に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代の産業の発達について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>耕地が増える</h2>
<p>信長や秀吉をはじめとして、大名たちは武士の生活を支える一番大切な産業である農業を盛んにする必要がありました。</p>
<p>そのため、雨が降ると、洪水になりやすい川に沿って大きな堤防を築き、田畑を水害から守りました。<br />
また遠い川の上流から、掘割を作って水を引きこれまで農地にできなかった土地を開発しました。</p>
<p>加藤清正は肥後(熊本県)で2000へクタールも開発したということです。</p>
<p>堤防や、掘割を作るには、城を築いたり鉱山を掘ったりするために、この時代に大きな進歩をした土木技術が非常に役立ちました。</p>
<p>秀吉が得意だった水責めの戦法もこの堤防を作る技術を利用したものです。<br />
このような努力によって、室町時代にはまだ100万へクタールに足りなかった</p>
<p>日本全国の農地が、秀吉のころには150万へクタールほどにも増えました。</p>
<h2>農業の進歩</h2>
<p>農業の仕方にも色々な工夫が行われました。</p>
<p>稲を刈った後の田に麦を植える二毛作も次第に広まり、稲や麦の種類も増えその地方の土地にあったものが作られるようになりました。</p>
<p>その他に、木綿の原料になる綿作りもこの頃から広がりはじめました。</p>
<p>室町時代前半までは、木綿は朝鮮から輸入される贅沢な品物でした。</p>
<p>しかし、後半に入ると近畿地方や中部・関東地方の国々で少しずつ作り初め次の江戸時代になると、主に使われるようになりました。</p>
<p>それまでは、麻の着物しかなかった人々にとって暖かい木綿の着物は、どんなにありがたかったことでしょう。</p>
<h2>楽市と楽座とは</h2>
<p>農業や、その他の産産業が盛んになるとその品物を売り捌く商業も盛んになります。</p>
<p>また大名や武士たちは、農民から取立てた年貢米を売りはらって、お金に替えたり武器などの戦争に必要な品物を買うためにも商人を利用しなければなりません。</p>
<p>そこで、商業を盛んにするために楽市と楽座の方法がとられました。</p>
<p>これまでは、市場での売買に税金がかかりまた商人や職人の入っていた座という団体がありましたが<br />
この制限を破って、誰でも自由に営業できるようにしたのです。</p>
<p>信長は、安土の町を作ったとき税金をかけない楽市の命令を出しました。<br />
このように城下町を作るときに商人や職人を呼び集める必要から楽市を行ったのです。</p>
<p>一方、楽座によって座から自由になった商人や職人たちは、城を作ったり直したにりするときの仕事の手伝いを命じられました。</p>
<p>これまで座を支配していたのは大きな寺や神社、それに朝廷や公家たちですが楽座のために彼らのら力は衰え大名の力が強くなりました。</p>
<p>楽市も楽座も、つまりは封建制度を強めるための手段だったのです。</p>
<h2>交通の発達</h2>
<p>戦争ともなれば、何千何万という大軍と物資を動かさなければならないので大名たちは、領内の交通を便利にすることに力を尽くしました。</p>
<p>城下町を中心に、主な道路には宿場がつくられ、ここに、いつも連絡用の馬を置いて公の交通や通信のために利用しました。</p>
<p>これを伝馬の制度といいます。</p>
<p>また道路沿いの村に命令して道や橋を修理させたり、並木を植えたりして交通の便を測りました。<br />
秀吉が国内な統一して政治をとるようになると交通は、いっそう便利になりました。</p>
<p>交通を脅かしていた山賊や海賊を、厳しく取り締まり、また通行税を取るためにわかれていた関所も例えそれが皇室のためのものであってもすっかりやめさせました。</p>
<p>このため、商売をするための行き来もしやすくなり平和を楽しむ人たちの寺参りや宮参りなどの旅もたいそう多くなりました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">799</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
