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	<title>天皇 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>天皇 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>天皇と政治の歴史とは？ 大和朝廷から現代までの途切れることなく続く！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/762</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 22 Feb 2014 20:24:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[天皇と政治の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[民主主義]]></category>
		<category><![CDATA[天皇]]></category>
		<category><![CDATA[神]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は天皇と政治の歴史について、日本の歴史を紹介します。 大和朝廷が日本をまとめてから天皇の位は現代まで途切れることなく続いています。 こういう例は、日本のほかにはあまりありません。 はじめ、天皇は神のことを聴き、それを [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は天皇と政治の歴史について、日本の歴史を紹介します。<br />
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大和朝廷が日本をまとめてから天皇の位は現代まで途切れることなく続いています。<br />
こういう例は、日本のほかにはあまりありません。</p>
<p>はじめ、天皇は神のことを聴き、それを人々に伝える役をしていました。<br />
大和朝廷の初めの頃は、政治も人間の思うようには出来ませんでした。</p>
<p>占いによって神の言葉を聴きそれに従って政治をしたのです。<br />
神の命令を聞くために、占いができるのは天皇だけでした。</p>
<p>五世紀頃になると、豪族がより集まって政治をするようになりました。<br />
中でもち蘇我氏は、政治のカを1人で握り天皇よりも強い勢いになりました。</p>
<p>しかし蘇我氏が、豪族全体のことを考えず、勝手な政治をしたので中臣氏が中大兄皇子と力を合わせて蘇我氏を滅しました。</p>
<p>皇子と中巨氏は、天皇を中心にした強い国家をつくろうと考えました。</p>
<p>これが大化の改新です。</p>
<p>大化の改新で活躍した中臣氏は、後に藤原氏となります。<br />
藤原氏は、改新の後、天皇をずっと高い位におしいただきました。</p>
<p>天皇は神であるという考えも、この頃から表れてくるのです。<br />
やがて藤原氏は、政治の上でも、たいへんな力な持つようになりました。</p>
<p>そうなると天皇は、ただ儀式に出るだけで、政治には何の力もありませんでした。</p>
<p>しかし、実際に政治を動かしているものでも自分のカだけでは、思うように他人や、国民を抑えてはいけないと感じると、いつでも天皇を後ろ盾にして、自分の力を強めようとしたのです。</p>
<p>貴族と繋がりのない、農村出身の武士たちでも、天皇を後ろ盾にしました。</p>
<p>全ての武士を率いるものは、やはり天皇から征夷大将軍の位を貰ったものでなければならないとされました。</p>
<p>このことは、南北朝の争いに、はっきりとあらわれます。</p>
<p>京都と吉野にふたりの天皇がおり、新田氏とか楠木氏などは南朝の後醍醐天皇をいただいて、旗印とし足利氏は別の天皇に偽の三種の神器をもたせて、自分の旗印としたのです。</p>
<p>三種の神器というのは、皇室に古くから伝えられた剣・玉・鏡の三種で、天皇の位を示す印になるものです。</p>
<p>このようにして、天皇をいただいて、自分の威勢を強めようという考えが、これらの武士にもあったのです。</p>
<p>これは、悪く言えば、天皇を利用しようという考えです。<br />
戦国時代の地方の大名たちが、早く京都に出たいと考えたのもそのためです。</p>
<p>つまり、京都で天皇に仕えることによって、自分の力を強くしようと考えたのです。<br />
これに成功したのが、織田信長と豊臣秀吉です。</p>
<p>秀吉は、自分の別荘の聚楽第に天皇を招き、多くの大名を呼びました。</p>
<p>そして、自分は天皇に仕える大臣である天皇を尊ぶと同じように、この秀吉にも、尊敬の気持ちを持つようにということを大名たちに、わからせようとしたのです。</p>
<p>この後、江戸幕府ができると幕府は、大名たちを京都に近づけないようにしました。</p>
<p>というのも、大名が天皇に近づいて、天皇を利用したりするのを恐れたからです。</p>
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<p>幕府はさらに、天皇を皇居の奥深く押し込めて武士と全く違った暮らしをしてもらおうと考えました。</p>
<p>天皇と大名の間が、このように遠ざけられたため天皇を利用して幕府と競争しようとするものもなく江戸幕府は長く続くことができました。</p>
<p>ところが幕府の力が衰えると、皇室を尊敬する学者や身分の低い武士、町人の中から、天皇をあがめる勤王の志士があらわれます。</p>
<p>この人たちが、明治維新によって、天皇を中心とし政府をつくったのです。<br />
新しい政府は、天皇が自分で政治を行うという建前をとりました。</p>
<p>しかし、実際の政治は、やはり大臣たちがしました。</p>
<p>明治のはじめは、言論の自由ということも強く言われていましたし、政治もそれほど、天皇が神聖だとは言いませんでした。</p>
<p>ところが、それでは、だんだん政治がやり難くなってきました。<br />
政府は、天皇をもっと高い地位に上げ、神聖なものにしようと考えました。</p>
<p>政府が行う政治は、この神聖な天皇の命令によるのだということにしようとしたのです。</p>
<p>この考えでつくられたのが大日本帝国憲法です。</p>
<p>そして、大日本帝国は、神聖な天皇の国である、ということになり天皇は神のように尊いものであるという考えが国民の間に広められました。</p>
<p>子どもたちにも、天皇は神として教えられました。</p>
<p>昭和になると、軍部の力がだんだん強くなり政治も軍人が動かすようになりました。</p>
<p>そして軍人のカに引きずられ、日本は中国と戦争をはじめさらにアメリカ・イギリスなどとも戦争をはじめました。</p>
<p>軍部は、自分たちが勝手に政治をし、勝手に戦争をはじめておいて、それがみな天皇の考えであるというように、国民に信じこませました。</p>
<p>太平洋戦争が激しくなり、国民の暮らしが苦しみのドン底に落ちようとしたとき、それまでじっと我慢していた天皇が自分から進んで、戦争を止めようと言い出しました。</p>
<p>軍部は、慌てました。</p>
<p>しかし、それまで天皇の命令だからと言って、国民を動かしてきたのですから、その天皇の命令には軍部も逆らうわけにはいきません。</p>
<p>こうして長い戦争も、やっと終わりました。</p>
<p>戦後、民主的な政治の仕組みが整うとともに、天皇の地位もかわりました。<br />
新しい憲法では、天皇は、日本というまとまりを表す象徴(しるし)と決めらました。</p>
<p>しかし、これから先でも、天皇をもっと高い地位におかねばならぬと考える人があらわれるかもしれません。</p>
<p>昔のような乱暴者が天皇の名を利用して民主主義を壊し国民を押さえつけるようなことがないとはいえません。</p>
<p>しかし、日本が正しい民主主義国になれば天皇は政治になんの繋がりもなく、日本人と日本の国が持つ長い歴史の記念として、国民に親しまれながら、伝わっていくでしょう。</p>
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		<title>天皇と豪族の関係とは？　大伴氏の勢力、物部氏と蘇我氏の争いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/684</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 22:28:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[天皇]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大和時代（古墳時代）の頃の天皇と豪族の関係について、日本の歴史を紹介します。 仁徳天皇陵を見てもわかるように五世紀頃の天皇の力はかなり強いものでした。 しかし、後に皇室の中で天皇の位をめぐって内輪もめが起こったため [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和時代（古墳時代）の頃の天皇と豪族の関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>仁徳天皇陵を見てもわかるように五世紀頃の天皇の力はかなり強いものでした。<br />
しかし、後に皇室の中で天皇の位をめぐって内輪もめが起こったため次第に天皇の力は衰えていきました。</p>
<p>一方ではこの隙に豪族が力を伸ばしてきて皇室の内輪もめを利用しました。<br />
その結果、天皇の地位も力の強い豪族の助けがなくては危ないような時代がやってきました。</p>
<p>まず葛城氏が仁徳天皇の3人の子どもを次々に天皇にして勢いを奮いました。<br />
これが履中・反正・允恭（いんぎょう）の三天皇です。</p>
<p>やがて平群氏（へいぐりうじ）がこれに変わって勢いを奮いました。<br />
平群真鳥・鮪（しび）父子などは武烈天皇に負けないくらいの勢いをみせました。</p>
<p>武烈天皇がなくなると皇室にはこれまで続いた内輪争いのために後継がなくなってしまいました。<br />
豪族たちは誰を後継にしたらよいのかと集まっていろいろ相談をしました。</p>
<p>その結果、大伴金村という人の努力で遥かに遠い皇室の親戚を天皇にしました。<br />
この天皇は五代も前に皇室から別れ、そのころ越前国（福井県）に住んでいたのかを探し出したのです。</p>
<p>これが継体天皇で六世紀の初め頃のことです。<br />
この大伴金村の努力がきっかけとなって大伴氏の勢いはにわかに伸びてきました。</p>
<p>ところがこの勢いもまもなく衰えてしまいます。</p>
<p>というのも金村が百済（朝鮮半島の国）の願いを聞き入れて任那（みまな）の一部をわけてやってしまったからです。</p>
<p>任那の人々は大伴氏の勝手なやり方に腹を立てました。<br />
そればかりか朝廷の中でも物部氏などが大伴氏をせめました。</p>
<p>任那をわけてやったのは大伴金村が百済から賄賂をもらったからだと言うのです。<br />
このため金村はたまらなくなって、ついに難波（大阪）に引っ込んでしまいました。</p>
<p>こうして大伴氏の勢いもわずかな間に衰え、物部氏がこれに代わって勢いを増してきました。<br />
この頃、わが国では大陸や朝鮮半島との交通が益々盛んになり、朝廷の財政も次第に大規模になってきました。</p>
<p>そのためこれを扱うのは読み書きや計算がよくできる人でなければなりませんでした。<br />
それでこういうことにはなれた帰化人が大勢用いられるようになりました。</p>
<p>こういう帰化人を率いて朝廷の倉庫の取り締まりをしたのが蘇我氏です。<br />
蘇我氏は膨れ上がる朝廷の財政を握り次第に実力を蓄えていきました。</p>
<p>このため大伴氏が衰えた後は蘇我氏と物部氏が朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合うようになったのです。</p>
<p>蘇我氏と物部氏はその性格がたいへん違っていたので仲の悪いことも一通りではありませんでした。<br />
物部氏は古くから朝廷に仕える武将の家柄でどうしても古くからのしきたりを大切にします。</p>
<p>蘇我氏の方は家柄も新しいし、しかもその頃としては進んだ職業に就いていたので新しい考えを持っていました。</p>
<p>こういう正反対の性格を持つ二つの豪族が仲良く手を取り合って政治をやっていくことはとても臨めません。</p>
<p>そこへこの二つの豪族のにらみ合いを一層激しくするような事件が起こりました。<br />
それは538年、百済の聖明王が朝廷に仏像を奉ったこと、つまり仏教の伝来です。</p>
<p>そのときの天皇は仏教を反対し進歩的な蘇我氏は賛成しました。<br />
このため朝廷の議論はまっ二つに割れてしましました。</p>
<p>物部氏と蘇我氏の争いに仏教が巻き込まれてしまったというわけです。<br />
587年、用明天皇がなくなるとその後継のことで蘇我氏と物部氏の間に争いが起こりました。</p>
<p>蘇我馬子は泊瀬部皇子（はつせべのみこ）を推し、物部守屋は穴穂部皇子（あなほべのみこ）を推したのです。</p>
<p>争いの結果、蘇我馬子は穴穂部皇子と物部守屋を殺して臨み通り泊瀬部皇子を位に就けました。<br />
これが崇峻天皇（すしゅんてんのう）です。</p>
<p>これから後はもう朝廷の中で蘇我氏と張り合う豪族は一人もいなくなりました。<br />
馬子はますます権力を奮いました。</p>
<p>やがて天皇と仲が悪くなるとこれを襲って殺してしまいました。<br />
592年、蘇我氏の後押しで推古天皇が位に就きました。</p>
<p>推古天皇は蘇我馬子の親戚で女の天皇でした。<br />
男の天皇では争いが起きやすいので女の天皇をたてたのでしょう。</p>
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		<title>大和時代の社会の仕組みとは？　屯倉・国造・県主とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/682</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 18 Jan 2014 04:49:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天皇]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
		<category><![CDATA[部]]></category>
		<category><![CDATA[氏]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大和時代の社会の仕組みについて、日本の歴史を紹介します。 ヤマトの国の政治を進めていたのは力の強い豪族たちでつくっていた大和朝廷です。 その中心となったのが天皇でした。 天皇も元々は普通の豪族の一人でしたが最も勢い [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和時代の社会の仕組みについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<div class="m30-b"></div>
<p>ヤマトの国の政治を進めていたのは力の強い豪族たちでつくっていた大和朝廷です。<br />
その中心となったのが天皇でした。</p>
<p>天皇も元々は普通の豪族の一人でしたが最も勢いが強かったので他の豪族の上に立って大王（おおきみ）と呼ばれるようになったのです。</p>
<p>ヤマトの社会では支配するものと支配されるものとの違いがはっきりしていました。<br />
普通の農民たちはみな大王、つまり天皇や豪族たちに従って、その下で働いていて政治に口を出すことなどは、とてもできませんでした。</p>
<p>豪族たちはそれぞれ氏（うじ）と呼ばれていました。<br />
氏というのは同じ祖先から出たと信じている人々の集まりのことです。</p>
<p>氏の中心になると人を氏上（うじのかみ）といい、その氏の人々を氏人といいます。</p>
<p>氏人は氏上を中心に固く結びついていました。<br />
氏人の下には奴や部と呼ばれる人々がいました。</p>
<p>奴（やつこ）は家々で使われる奴隷で親も子も一生の間、氏人のために田畑を耕したり、様々な仕事に使われてきました。</p>
<p>豪族に従う部（べ）は部曲（かきのたみ）といって、ほとんどが農民でした。<br />
彼らは作った米を氏に納めたり、玉や飾りを作ったりなどをしていました。</p>
<p>力の強い氏は、こうした部や奴をたくさん従えていたのです。<br />
力の強い氏はそれぞれ姓（かばね）を持っていました。<br />
姓というのは氏の力の強さを示した呼び名です。</p>
<p>これは氏どうしの間の家柄の高さ低さを、はっきりさせるために天皇が与えたもので臣（おみ）・連（むらじ）・史（ふひと）・首（おびと）・造（みやつこ）・直（あたえ）など様々な種類がありました。</p>
<p>例えば蘇我氏は臣という姓をもらって蘇我臣といい、大伴氏は連という姓をもらって大伴連と呼ばれていました。</p>
<p>姓ははじめ氏人たちが氏上を敬って付けたり、その氏の職業を表すために付けたりした呼び名です。<br />
ところが、後になると氏の家柄の高さを表すために天皇が姓を授けるようになりました。</p>
<p>姓の中でも特に特に尊いと思われていたのは臣と連でした。<br />
臣と連は最も勢いの強い豪族たちに授けられました。</p>
<p>そうした豪族の代表者は大臣、大連といって天皇と一緒に国の政治を進めていく大事な役に就きました。</p>
<p>葛城臣（かつらぎのおみ）・平群臣（へぐりのおみ）・大伴臣・物部連・少し遅れて蘇我臣などいう氏の代表者が次々に大臣、大連としてその勢いを奮いました。</p>
<p>力の強い豪族はそれぞれたくさんの部の民を抱えていました。<br />
これを部曲（かきのたみ）といいます。<br />
また、天皇や皇子たちも部の民を持っていました。</p>
<p>これを名代（なしろ）。子代（こしろ）といいます。</p>
<p>これらの人々は天皇や皇子たちのために貢物を納めたり、力仕事をしたりしました。</p>
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<div class="m30-b"></div>
<p>この他、朝廷の下にはたくさんの部の民がいました。<br />
この人々は品部（ともべ）と呼ばれました。</p>
<p>品部には神の祭りをする人の部や土器を作る人の部、朝廷を守る兵士の部など様々なものがありました。<br />
品部は伴造（とものみやつこ）と呼ばれる豪族らに率いられそれぞれの仕事をして朝廷に仕えました。</p>
<p>品部の仕事は豪族によって決まっていました。<br />
豪族たちはその仕事を親から子へ次々と伝えました。</p>
<p>こうして大和朝廷の中の様々の仕事は品部を率いた豪族たちが受け持ち、推し進めていったのです。<br />
豪族たちはそれぞれ自分の田畑を持ち部の人々に耕させていましたが皇室もまたたくさんの田畑をもっていました。</p>
<p>これを屯倉（みやけ）といいます。</p>
<p>屯倉は皇室の田畑ですから作物のよくできる豊かな土地に置かれました。<br />
また、朝廷が地方を治めるための拠り所ともなりました。</p>
<p>そこで、屯倉は交通の便利なところや戦争をする場合に大切なところなどにも置かれました。<br />
ヤマトの国の勢いが盛んになってくると屯倉も各地にたくさん置かれるようになり、関東地方から<br />
九州地方にまでも広がりました。</p>
<p>屯倉の仕組みも大きくなりたくさんの人々を駆り立てて広い荒地を開墾させるようになりました。<br />
屯倉が広がるにつれて地方を治めるための政治の仕組みも次第に整えられていきました。</p>
<p>ヤマトの国は地方の小さな国々を次々に従えて大きな国になったものです。</p>
<p>朝廷はそうした国々を幾つか合わせて一つの国をつくり、国造（くにのみやつこ）という役人にそれを治めさせました。</p>
<p>また、ところによっては県（あがた）を置いて県主にそれを治めさめました。<br />
大抵の場合、朝廷は地方を直接治めるようなことはしませんでした。</p>
<p>その代わり今までの小さな国の王を国造や県主にして、その地方を治めさせ貢物をとったようです。</p>
<p>ですから国造の中には昔からその土地に勢力をはっていたものがいて、中々朝廷の命令に従わないことがありました。</p>
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		<title>大和朝廷とは？　大和朝廷の統一って？　皇室の祖先とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/678</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Jan 2014 21:12:17 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大和時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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		<category><![CDATA[大和朝廷]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は大和朝廷について、日本の歴史を紹介します。 三世紀中頃まで日本にはたくさんの小さな国々にわかれて、お互いに結びがあったり戦争をし合ったりしていました。 けれども、その内に力の強い国は段々と周りの国を従えて大きな国を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大和朝廷について、日本の歴史を紹介します。</p>
<p>三世紀中頃まで日本にはたくさんの小さな国々にわかれて、お互いに結びがあったり戦争をし合ったりしていました。</p>
<p>けれども、その内に力の強い国は段々と周りの国を従えて大きな国を作り上げていきました。<br />
そして、やがて日本お大部分は一つの国に統一されました。</p>
<p>それがヤマト（大和）の国です。</p>
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</script></p>
<p>ヤマトの国は今の奈良盆地から起こりました。<br />
ここは四方を傾らかで美しい山々に囲まれた平地で米やいろいろな農作物がよくできました。<br />
その上、交通も便利で木津川や大和川を下って難波（大阪）の港から海に出ることにも出来ました。</p>
<p>そのため古くから文化も進み弥生文化の時代にも、この地方は北九州とともに最も文化の進んだところでした。<br />
ヤマトの国を納めていたのは勢いのある豪族たちで、その中心となったのは今の皇室の遠い祖先です。</p>
<p>皇室の祖先の力は次第に強くなり、やがて天皇として豪族たちを従えるようになっていきました。<br />
天皇や豪族たちは、たくさんの人々を仕事に駆り立てました。</p>
<p>田に水をひくために池や溝を掘らせたり、大水を防ぐために川に堤防を作らせたりしていました。<br />
こうして幾度も大工事が行われました。</p>
<p>田を耕すためには便利な鉄のクワも使われ始めました。<br />
農地は広くなり米もたくさん採れるようになって豪族たちの暮らしは益々豊かになっていきました。</p>
<p>ヤマトの国は次第に周りの国々を合わせながら大きな国になっていきました。<br />
そして四世紀の末頃までには東北地方を除く日本の全部が統一されることになったのです。</p>
<p>中国の歴史の本によると５世紀頃、讚・珍・済・興・武という倭の五王が次々に中国へ使いを送ってきたことが出ています。</p>
<p>五王のひとり武は雄略天皇に当たるのではないかと、考えられていますが武から宋（中国）の国王に差し出した文があります。</p>
<p>それには武の祖先が自ら軍隊を率いて各地を攻め、東の毛人の国を55も平らげ西の衆夷（クマソと思われる）も66国、さらに海を渡って南朝鮮に攻め込み95国も従えたと述べています。</p>
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<h2>日本武尊</h2>
<p>日本武尊は第１２代の天皇と言われる景行天皇の皇子で武勇に秀れ天皇の命令を受けて西へ東へ兵を進め国内統一のために尽くしたと伝えられています。</p>
<p>まず九州のクマソ征伐に出かけ女の姿をしてクマソの頭クマソタケルの家に忍び込み、タケルが酒に酔いつぶれてるところを刺殺しました。</p>
<p>九州から帰るとすぐに東国征伐に出かけ族に騙されて危なく野原の中で焼き殺されそうになりましが剣で周りの草を切り払って助かりました。</p>
<p>また三浦半島から船で房総半島へ渡るとき嵐に会いましたが妃の弟橘姫が尊の身代わりになって海に身を投げ波風を沈めました。</p>
<p>こうして東国を従えた尊は大和へ帰る途中で病気に掛かり都を目の前にして死にました。</p>
<p>このような日本武尊の物語はそのまま事実であったとは思えませんが日本統一のために尽くしたいく人かの英雄の活躍が一つの美しい物語にまとめられ語り継がれてきたのでしょうね。</p>
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