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	<title>奈良時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>奈良時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>住まいの歴史とは？　無土器時代から奈良時代の住居の変化とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/776</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 04:43:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[住まいの歴史]]></category>
		<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[弥生時代]]></category>
		<category><![CDATA[竪穴式住居]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[住居]]></category>
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		<category><![CDATA[建物]]></category>
		<category><![CDATA[無土器時代]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は住まいの歴史　無土器時代から奈良時代の世の中について、日本の歴史を紹介します。 日本に、人間が住み始めた頃の住まいは、どんなようすだったのでしょうか。 今から一万年以上ち前頃、人々が石器だけを使用していたといわれる [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は住まいの歴史　無土器時代から奈良時代の世の中について、日本の歴史を紹介します。<br />
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日本に、人間が住み始めた頃の住まいは、どんなようすだったのでしょうか。</p>
<p>今から一万年以上ち前頃、人々が石器だけを使用していたといわれる無土器時代の住まいの様子は最近いろいろ研究されていますが、まだはっきりしたことは、わかっていません。</p>
<p>縄文時代の住まいは、大体は竪穴式住居であることがわかってきました。<br />
地面を少し掘り下げてそこに四本から六本の柱を建て草や穂で屋根をふいたものです。</p>
<p>まだ鉄器のなかった時代ですから石斧で穂を切り出して住居を建てるには、想像も出来ないほどの苦心があったことでしよう。</p>
<p>床には、枯れ草を敷いたり竪穴を掘らずに、石を敷いてあるものもああります。</p>
<p>弥生時代になると、農業生活が初まりましたので竪穴式住居の屋根には、藁なども使われるようになりました。</p>
<p>床が地面よりずっと高い住居や倉庫などもあったらしく今の神社や、奈良の正倉院などの建物に、その名残が残っています。</p>
<p>この高床式の建物は、今の南方地方で多く見られますから南方から伝わり、竪穴式住居は今のエスキモーり氷の家に似ているので北方から伝わったものと考えられます。</p>
<p>弥生時代から古墳時代にかけて、金属の道具ができましたので住まいの建て方も大きくかわりました。</p>
<p>この頃は、主に農業を営み生活にあう家を考え土間を中心にして、床板も掘らず部屋の仕切りも、畳や、戸や、障子もありません。</p>
<p>これを農本住宅と言っている学者もあります。</p>
<p>しかし、豊かな人と貧しい人の違いができるようになり多くの人々を支配した豪族たちは農本住宅と別な型の古代住宅を建てていました。</p>
<p>これらの型は「家屋文鏡」と呼ぶ文様(もよう)のある鏡や家の型をした埴輪などに見られます。<br />
その種類は、屋根の型でわけられ、切妻づくり・寄棟づくり・しろこぶきづくりの形があります。</p>
<p>古代住宅には、母屋と思われる立派な家と倉や納屋と思われる建物などもあります。</p>
<p>奈良時代ごろになると、世の中の仕組みも大きくかわり都に住む貴族の住宅と、地方に住む農民の住居は、はっきり違ってきました。</p>
<p>奈良時代の貴族の住まいとしては聖武天皇の夫人橘古那加知の住宅であったと伝えられるものが今、奈良の法隆寺に伝法堂といわれて残っています。</p>
<p>周りに、濡れ縁がめぐらされ、家の中には居間と寝間があり、居間の前は広い板敷になっています。<br />
屋根は今、瓦ぶきになっていますがもとは、ひわだ(ヒノキの皮)ぶきの切妻づくりであったようです。</p>
<p>これは1つの例ですが、ほかの貴族たちも、たぶん、これに似た住宅に住んでいたことでしょう。<br />
この他、寄棟づくりや、入母屋づくりの屋根もありました。</p>
<p>平安時代になると、貴族はますます栄え寝殿づくりといわれる贅沢な住宅に住みました。<br />
京都の清涼殿や宇治の平等院などは今も残っています。</p>
<p>しかし、このような寝殿づくりは全ての貴族がつくったわけではなく身分のあまり高くないものは、もっと質素な住宅に住んだことでしょう。</p>
<p>一般の人たちの住まいは、農本住宅から、あまりかわっていなかったようです。<br />
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		<item>
		<title>古事記・日本書紀・風土記・万葉集・懐風藻！書物が作られた奈良時代！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/714</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 28 Jan 2014 03:19:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本書紀]]></category>
		<category><![CDATA[風土記]]></category>
		<category><![CDATA[万葉集]]></category>
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		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[古事記]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は書物が作られた奈良時代の頃について、日本の歴史を紹介します。 この時代の大きな出来事の一つは、 「古事記」「日本書紀」「万葉集」「懐風藻」などの書物がつくられたことです。 壬申の乱に勝って天武天皇は位につくと、天皇 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は書物が作られた奈良時代の頃について、日本の歴史を紹介します。<br />
この時代の大きな出来事の一つは、<br />
「古事記」「日本書紀」「万葉集」「懐風藻」などの書物がつくられたことです。</p>
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<p>壬申の乱に勝って天武天皇は位につくと、天皇の権威を歴史の上からも強く裏付けようと考えて、日本の歴史をつくろうと思いたちました。</p>
<p>この仕事が受け継がれ、奈良時代になって「古事記」「日本書紀」というニつの書物として実を結んだのです。</p>
<p>奈良時代の初め元明天皇のときに、太安万侶が稗田阿礼の助けを借りて、712年(和銅五年)に、三巻の書物を作り上げました。</p>
<p>これが「古事記」で今、日本に残されている書物の中で、一番古い歴史の書物です。</p>
<p>「日本書紀」は、元正天皇の720年(養老四年)に、舎人親王を中心とした大勢の学者が集まってつくったもので、</p>
<p>30巻と系図一巻からなっています。<br />
「古事記」も「日本書紀」も、日本の国がどのようにして出来たのか、皇室は先祖からどんなに立派なものであったかということを、人々にわからせようしたのです。</p>
<p>しかし、皇室のことばかりでなく、古くから民衆の間に伝わってきた、さまざまのおもしろい物語も書かれています。</p>
<p>「古事記」がつくられた翌年に、朝廷は国々へ、土地の有様や動植物・鉱物・土地の名前の言われや、老人の伝える古い話などを書いて出すように命じました。</p>
<p>こうして、かなり長い間かかって出来上がったのが「風土記」です。<br />
「風土記」は「古事記」や「日本書紀」に載っていない地方の物語がたくさん載っていて、古代人の生活や、古くから伝わる神話や伝説な知る上で大切な書物です。</p>
<p>奈良時代の終わりには、4500あまりの歌を集めた「万葉集」がつくられました。<br />
仁徳天皇の歌から759年(天平宝字三年)の作品にいたるまでの歌がおさめてありますが、奈良時代の作品が多く載っています。</p>
<p>作者は天皇・皇后・大臣・役人・僧などから、地方の名も無い農民にいたるまで、いろいろの身分の人にわかれとています。</p>
<p>「万葉集」の歌を選んだ人はまだわかっていません。<br />
はじめは朝廷の公の仕事として集められたものが、もとになっているようです。</p>
<p>しかし、終わり年のほうは、大伴家持のノートがもとになっている部分が多いので、恐らく大伴家持が整理したのではないかと考えられます。</p>
<p>奈良に都が移る前の歌人で秀れているのは、天智天皇・天武天皇・持続天皇・額田王・柿本人麻呂などで、それ以後では、山上憶良・大伴旅人・山部赤人・大伴坂上郎女・大伴家持などがいます。</p>
<p>奈良時代には、大陸の制度や宗教とともに、中国の書物な学び、漢文で文章を書くことが盛んになりました。</p>
<p>三国語で文章を書くにしても、漢字しか無かった当時のことですから漢字を使用するほか無かったのです。</p>
<p>大学では役人になろうとずる貴族の子弟に、中国の古典を教えていました。<br />
漢文学が貴族の間に広がっていくと貴族たちは、漢詩をつくってみようという気になりました。</p>
<p>天智天皇の頃から漢詩以をつくる人があらわれてきました。<br />
そこでこれらの漢詩を集めてできたのが「懐風藻」という日本最初の漢詩集です。</p>
<p>「懐風藻」は751年(天平勝宝三年)につくられました。<br />
大友皇子から天平時代まで、64人の漢詩120編がおさめてあり、「万葉集」とならんで、奈良時代の文学の代表的作品です。</p>
<h2>稗田阿礼と太安方侶</h2>
<p>稗田阿礼は天武天皇に仕えていた人で、たいへん記憶力に優れていました。</p>
<p>天皇は、日本の歴史を書物にまとめたいと考えていたため、阿礼に、これまで語部などによって伝えられていた、長い皇室の歴史や、いろいろな物語・伝説を覚えさせておきました。</p>
<p>一方、太安方侶は、壬申の乱に手柄をたてた品治の子といわれ、有名な学者でした。</p>
<p>710年(和銅三年)平城京に都を移した元明天皇は、天武天皇いらいの、歴史書の編集を安万侶に命じました。</p>
<p>安万侶は早速、仕事にかかり阿礼の暗唱する話を、どんどん文字にしていきました。</p>
<p>しかし、この頃は、まだ平仮名やカタカナがありませんでしたので、文は全て漢字で書かなければなりません。</p>
<p>安万侶は苦心しながら阿礼の語る日本語に、漢字の音を当てはめて文にしました。<br />
こうして出来上がったのが、日本で最も古い書物である「古事記」三巻です。</p>
<p>「古事記」には、神話も含まれていて、古代の人々のものの考え方や信仰なども、汲み取ることができますね。<br />
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		<title>天平文化とは？　正倉院に眠る世界の宝とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/713</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 28 Jan 2014 02:40:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天平文化]]></category>
		<category><![CDATA[正倉院]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は天平文化について、日本の歴史を紹介します。 奈良時代で、文化が最も栄えたのは聖武天野の頃です。 そのため文化の上では、当時の年号をとって奈良時代を天平時代で代表させ、天平文化と呼んでいます。 奈良時代には、唐との交 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は天平文化について、日本の歴史を紹介します。<br />
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奈良時代で、文化が最も栄えたのは聖武天野の頃です。<br />
そのため文化の上では、当時の年号をとって奈良時代を天平時代で代表させ、天平文化と呼んでいます。</p>
<p>奈良時代には、唐との交通が盛んに行われたので、文化は唐の文化の強い影響をうけました。<br />
その上、天皇は政治と仏教を深く結びつけ、仏教を熱心に保護したので、文化の上にも仏教の影響が強くあらわれました。</p>
<p>つまり、天平文化は、唐の文化を取り入れた大陸風のにおいの強いしかも、仏教の色の濃いものといえます。</p>
<p>天平美術の代表的なものとして、唐招提寺・東大寺法華堂・正倉院などの建物、法華堂の不空羂索観音像・天像・四天王像・仁王像・日光菩薩像・月光菩薩像や、唐招提寺の慮舎那仏などの仏像、正倉院の鳥毛立女屏風、薬師寺の吉祥天画像、シャカの一生を物語る過去現在因果経などの絵画が挙げられます。</p>
<p>天平文化は、朝廷・貴族・寺島を中心として栄えました。</p>
<p>それは、仏教そのものが一般の人々のためというより、天皇や貴族たちの間に、熱心に迎えられたからです。</p>
<p>奈良時代には仏教が非常に重んじられて多くの大寺院が建てられたため、たくさんの秀れた仏像がつくられました。</p>
<p>天平の仏像は、飛鳥時代のものに比べ、豊かな人間らしい美しさをもっています。<br />
そしてその表情にも、まるで私たちに話しかけるような、温かさが感じられます。</p>
<p>また、この時代の彫刻には、木や金・銅でつくられたもののほか、粘土や麻の布を漆で固めてつくったものがあり、人々の工夫が忍ばれます。</p>
<p>正倉院には、聖武天皇が使った日用品を中心に、いろいろな工芸品などが、御物としてたくさんおさめてあり、その数は634点にもなります。</p>
<p>また御物のほかに、当時の貴族が儀式に用いた着物や、伎楽面・地図・文書などがあり、点数は一万以上にもなります。</p>
<p>正倉院は、校倉づくりという特別の建て方でつくられました。<br />
湿度によって木材が伸び縮みするので、湿り気が中に入ることを防げます。</p>
<p>また、床が非常に高いという特色もあって、長い間もとのままの姿で、多くの品物を伝えることができたのです。</p>
<p>正倉院の御物には、尺八・琵琶・そうなどの楽器類、刀剣・弓矢・甲冑などり武具のほか、おび・しゃく・けさ・碁盤・鍵・屏風・カットグラスなどがあります。</p>
<p>そして、これらの品物を調べると、中国・インド・ペルシア(イラン)・アラビア・ギリシア・エジプトなど、その頃までに栄えた国々の文化と結びついていることがわかります。</p>
<p>しかも、それらの国々では、時代が移るにつれ、壊れたり、無くなったりして、正倉院にだけしか残っていないものもあります。</p>
<p>正倉院の品物は、日本の宝というだけでなく、広く世界の宝ともいえます。</p>
<p>例えば、くごという楽器が正倉院にありますが、これは紀元前10世紀の中頃から前七世紀の終わり頃に掛けて栄えたアッシリア帝国(イラク)にあったハープ(竪琴)によく似ていることからも、遠い国との結びつきが考えられますね。<br />
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		<item>
		<title>遣唐使と奈良の文化とは？ 遣唐使ってなに？ 鑑真ってどんな人？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/712</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 Jan 2014 23:47:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[遣唐使]]></category>
		<category><![CDATA[鑑真]]></category>
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					<description><![CDATA[遣唐使と奈良の文化　遣唐使　鑑真について、日本の歴史を紹介します。 中国では昔から、何度か大きな統一帝国ができ、高い文化をつくりました。 中でも、もっとも栄えたのが漢と唐です。 618年隋に代わって、李淵(高祖)が唐の国 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>遣唐使と奈良の文化　遣唐使　鑑真について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>中国では昔から、何度か大きな統一帝国ができ、高い文化をつくりました。<br />
中でも、もっとも栄えたのが漢と唐です。</p>
<p>618年隋に代わって、李淵(高祖)が唐の国を建てました。<br />
その後目覚しい発展を遂げ、八世紀までに東は朝鮮、北はシベリアのバイカル湖の南方、南は北べトナム、西は遠く中央アジア、バミール高原まで勢力を伸ばしました。</p>
<p>特に、玄宗皇帝の時代(712年～756年)には、唐の国力は最も盛んになりました。<br />
都の長安の賑わいはすばらしく・当時世界一の華やかな大都会でした。</p>
<p>唐には、インド・アラビア・ぺルシア・チべット・南洋諸島・東口ーマなど多くの国々の人がやってきて、それぞれの文化をもたらしました。</p>
<p>各国の文化と中国の古くからの文化とが溶け合って、優れた文化をつくりあげました。<br />
このように唐は日本にとって、憧れの的でした。</p>
<p>623年に唐から帰って来た医師恵日は「大唐国は法式(法律や政治の仕組み)が備わった素晴らしい国です。</p>
<p>常に交わりを結ばねばなりません」と報告しました。<br />
唐の文化を学び、それを取り入れる目的で630年、第一回の遣唐使犬上三田耜らの一行が唐へおくられました。</p>
<p>それ以来、894年(寛平6年)遣唐使が廃止されるまで、15回の遣唐使が任ぜられ、うち12回は、実際に使いが唐の国へ渡っています。</p>
<p>遣唐船は、初めのうち朝鮮の西海岸に沿って北上し、遼東半島から西へ山東半島に渡る航路(北路)をとっていました。</p>
<p>ところが、新羅と仲が悪くなってからは、九州から東支那海を一気に横ぎって、揚子江の河口付近を目指すようになりました。</p>
<p>北路は陸地沿いなのて、わりあい安全だったのですが、南路は強い風を利用して大海を渡っていくので、早い代わりに難破することが非常に多くなりました。</p>
<p>普通1回に4隻の船が行き、1隻に約120人ほど乗りましたが、大抵1、2隻は難破する有様でした。<br />
唐への船には、唐の朝廷へ遣わされた正副使のほかに、多くの留学生や留学僧、また、医学・絵・彫刻・鍛冶・鋳物・陰陽道・音楽などの技術を学ぼうとする人が乗り込みました。</p>
<p>遣唐使や留学生らはみな礼儀正しく、よく勉強したので唐での評判はたいへんよかったようです。<br />
唐へ行った人の中には、唐の国で重んじられた人がありました。</p>
<p>玄防もそのひとりで、玄宗皇帝から紫衣(僧の最高の位の衣)をもらいました。<br />
717年(養老元年)、玄防と一緒に唐へ行った吉備真備と阿倍仲麻呂は学問に秀れ、唐で有名になりました。</p>
<p>真備は735年(天平7年)に帰国したとき、多くの書物・日時計・楽器・弓矢などを天皇に奉っています。<br />
真備は兵学に秀れ、後に九州の恰土城を築いています。</p>
<p>彼は一時、藤原仲麻呂のために退けられましたが、のち出世して右大臣にままで昇りました。<br />
阿倍仲麻呂は、735年(天平7年)、唐使藤原清河とともに帰国しようとして揚州の港で、日本の国を思ってつくった、有名な歌があります。</p>
<p>天の原ふりさけみれば春日なる<br />
三笠の山にいでし月かも</p>
<p>(大空を見あげると、月がのぼってくる。あの月は、ふるさとの春日にある二垂の山から出た月だなあ。これは百人一首に含まれていますよね)</p>
<p>仲麻呂の乗った船は、遠く安南(南べトナム)にまで流されました。<br />
仲麻呂は清河とともに長安に帰り、唐の朝廷に仕えて高い位をうけました。</p>
<p>しかし、ついに日本へ帰ることは出来ませんでした。</p>
<p>鑑真は唐の僧で、日本に唐の文化を伝え、日本で仏教を広めた人です。<br />
僧になるためには、戒というのを正式にうけなければなりません。</p>
<p>戒を授ける人は、立派な資格のある僧でなければなりません。<br />
日本にはそのような僧がいなかったのです。</p>
<p>732年(天平4年)、唐へ行った栄叡・普照のふたりの僧は、戒を授ける資格のある僧を探し求めました。</p>
<p>そして鑑真に会い、日本に来てくれるように頼みました。<br />
鑑真はその頼みを快く引き受け、日本に渡る準備をしました。</p>
<p>ところが、2回も船が難破したり、鑑真を日本へ行かせまいとする弟子たちに妨げられたりして、5回も失敗しました。</p>
<p>5回目には海南島まで流され、鑑真は帰りに目を病み、ついに盲になってしまいました。<br />
たびたびの失敗にも気を落とさず、鑑真は6回目の渡航を企てました。</p>
<p>752年(天平勝宝四年)、藤原清河が鑑真な日本へ連れて帰ろうとしたとき玄宗皇帝が、これを許しませんでした。</p>
<p>そこで、大伴古麻呂が、こっそり鑑真とその弟子たちを自分の船に乗せて唐を出発しました。<br />
一行は風波にもまれながら、754年(天平勝宝六年)1月やっと日本に着きました。<br />
日本渡航の計画をたててから、実に14年も経っていたのです。</p>
<p>鑑真が、数々の失敗に挫けなかったのは、日本に正しい仏教を伝えようという強い信念があったからです。</p>
<p>鑑真は、東大寺に戒壇と呼ぶ壇をつくり、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ多くの人に、戒を授けました。</p>
<p>聖武太上天皇はたいへん鑑真を信頼し、新田部親王の広い住宅を鑑真に寄付しました。<br />
鑑真はそこに僧たちが学ぶための寺を建てました。</p>
<p>それが唐招提寺です。唐招提寺は奈良の右京にあり、多くの僧たちがここに集まってきました。<br />
金堂・講堂は、今でも当時の姿を留めています。</p>
<p>講堂の後ろの丘の上には、開山堂という堂があって、鑑真の像が祀ってあります。<br />
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		<title>奈良の大仏が造られたのはいつ？　現在と何が違うの？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/710</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 Jan 2014 22:03:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[大仏]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は奈良の大仏について、日本の歴史を紹介します。 745年(天平17年)、再び大仏つくりが始まりました。 みんなで大仏をつくろうという天皇の呼びかけによって、多くの人が物を寄付したり、土工や大工の仕事を手伝いました。  [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良の大仏について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<div class="m30-b"></div>
<p>745年(天平17年)、再び大仏つくりが始まりました。<br />
みんなで大仏をつくろうという天皇の呼びかけによって、多くの人が物を寄付したり、土工や大工の仕事を手伝いました。</p>
<p>材木を寄付した人が5万人あまり、材木を切ったり、運んだりした人が166万人あまり、金・銀・銅・鉄などの金属を寄付した人が37万人あまりの金属を貼ったり、運んだりした人が51万人以上という、大勢になりました。</p>
<p>こうして、高さがほぼ15.7メートル(これは当時の長さで、今は約14.8メートル)の金銅の大仏ができました。</p>
<p>今の大仏殿は、1180年の源平合戦を初めとして、何度も火事に焼かれ、つくりなおされたものです。<br />
もとの部分で残っているのは台座だけです。</p>
<p>台座の蓮の葉には毛彫(細い線を彫り込むこと)でたくさんの大小のシャカの姿が、彫り込まれています。<br />
大仏殿の前にある八角燈龍も、1200年前のものです。</p>
<p>大仏殿の高さは48メートル、奥行は50メートルで、今のものとその当時のものと、かわりませんが、間口は今の五〇メートルに対し、もとは87メートルありました。</p>
<p>また、大仏の前には、今は残っていませんが、高さ100メートルほどの七重の塔が、東西に2つ並んでそびえていました。</p>
<p>大仏つくりは大工事ですから、すぐに出来上がったわけではありません。<br />
744年(天平16年)に工事をはじめ、745年に奈良の都でやり直し結局、八度鋳なおして6年めに鋳あがりました。</p>
<p>工事の終わり頃になって大仏の体に塗る金が足りなくなり、皆困ってしまいました。<br />
ところが749年2月、陸奥国(宮城県遠田郡)から金が出ました。<br />
天皇をはじめ、みな非常に喜び、年号を天平から天平感宝と改めました。</p>
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</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p>同じ年の7月、聖武天皇は位を皇太子に譲り、孝謙天皇が位につき年号も天平勝宝と改められました。<br />
その7月に大仏が鋳あがったので、聖武太上天皇は光明皇太后・孝謙天皇とともに大仏を拝みました。</p>
<p>752年(天平勝宝4年) 4月9日、大仏開眼会が、盛大に行われました。<br />
これは大仏に眼を入れる、落成式の供養です。</p>
<p>開眼の日は聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめとして、多くの皇族や役人が式に参列し、1万人にものぼる僧が声をそろえてお経をよみました。</p>
<p>大仏殿の中や外には、美しい色とりどりの旗などがかけめぐらされ、いろいろな花が撒き散らされ、においのよい香が、どんどんたかれました。</p>
<p>インドからきた、ボダイセンナという人が筆をとって、大仏の像に眼をいれました。<br />
儀式のあと、日本に古くからある舞やインドシナ・唐(中国)・高麗(朝鮮)などから伝えられた音楽や踊りの数々が、催されました。</p>
<p>仏教が伝わってから、これほど盛んな儀式は無かったと、朝廷の記録にも記されています。</p>
<p>東の山辺を清み新鋳せる<br />
慮舎那仏に花たてまつる<br />
(奈良の都の東の山辺が清い土地だというので、ここに新しく鋳た慮舎那仏に、花をたてまつる。<br />
慮舎那仏は大仏をさす)</p>
<p>この歌は、六興寺の僧たちが開眼会を祝って朝廷に奉った歌です。</p>
<p>今の奈良の大仏は、高さ約14.8メートル、顔の長さ約3.219メートルで、重さ約443トンです。<br />
これとよく比べられる鎌倉の大仏は1252年(建長4年)につくられました。</p>
<p>その高さは約11.3メートル、顔の長さは約2.3メートル、重さは約93.75トンです。<br />
1586年(天正14年)豊臣秀吉が京都に建てた方広寺の木像の大仏は、高さ19メートルあまりで、日本一の高さでしたが、1593年（文禄2年)の地震や、その後の火事で亡くなってしまいました。</p>
<p>外国でも大きな仏像がつくられました。アフガニスタンのバーミヤーンの大断崖には、4、5世紀頃つくられた石仏立像があり、高さは53メートルもあります。</p>
<p>中国でも、雲岡石窟には17メートルと14メートルの石仏座像があり、敦煌石窟には32メートルという、東大寺の大仏の約2倍もの大仏があり、龍門石窟にも13メートルの石仏があります。</p>
<p>これらの石仏と違って、奈良の大仏は金銅仏としては世界最大級のものです。<br />
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		<item>
		<title>国分寺と東大寺とは？　聖武天皇、施薬院と悲田院とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/709</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 Jan 2014 21:19:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[国分寺]]></category>
		<category><![CDATA[東大寺]]></category>
		<category><![CDATA[聖武天皇]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は国分寺と東大寺について、日本の歴史を紹介します。 七世紀の末頃には、国がつとめて仏教を保護すみようになりました。 天皇が都の大きな寺に土地や収穫物を寄付しました。 また、大官大寺(大安寺)・という朝廷の寺をつくり、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は国分寺と東大寺について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>七世紀の末頃には、国がつとめて仏教を保護すみようになりました。<br />
天皇が都の大きな寺に土地や収穫物を寄付しました。</p>
<p>また、大官大寺(大安寺)・という朝廷の寺をつくり、国がよく治まるように、祈るようになりました。<br />
このような傾向は、奈良時代になると、いよいよ盛んとなりました。</p>
<p>そして、聖武天皇のときに、国の寺として、莫大な富と労力を使って、国分寺や東大寺が建てられました。</p>
<p>聖武天皇は文武天皇の皇子で、７才のとき、父に死に別れました。<br />
母の宮子夫人(藤原不比等の娘)が病気だったので、皇子は24才で位に就くまで、藤原不比等の妻、橘三千代に養われました。</p>
<p>聖武天皇は、若い頃から、厚く仏教を信仰しました。</p>
<p>天皇は16才のとき、安宿媛と結婚しましたが、この媛が、光明皇后で、やはり仏教を厚く信じた人でした。</p>
<p>天皇が国分寺や東大寺をつくったのも、皇后の勧めによったものと言われているほどです。<br />
壬申の乱以来、平和が続き、聖武天皇の頃には、国の力が充実して文化が著しく進みました。</p>
<p>この頃、隣の唐(中国)は、玄宗という有名な皇帝の時代で、国がよく治まり、文化が目覚しく栄えていました。</p>
<p>日本は唐の高い文化をよく取り入れ、「天平文化」といわれる高い文化を実らせたのです。<br />
天平というのは聖武天皇の頃の年号です。</p>
<p>聖武天皇の時代は平和そうに見えますが、実はよく騒ぎがおこりました。<br />
740年(天平12年) の藤原広嗣の謀反や、藤原氏と橘氏の争いがおこったのです。</p>
<p>貴族の争いに加えて737年(天平9年)は、疱瘡が流行りました。<br />
飢饉が続いたところへ、疱瘡が流行ったので人々は、ばたばた死んでいきました。</p>
<p>人々の惨めな様子を見て、聖武天皇は人々が仏にすがり仏の教えを信じるようになれば、救われるだろうと考えました。</p>
<p>741年(天平13年)、天皇は仏に願を掛け、全国に国分寺・国分尼寺を建てることにしました。<br />
国分寺は正式の名を金光明四天王護国の寺といいます。</p>
<p>金光明最勝王経をおき、仏教を守る四天王の力によって国を守ってもらおうとして建てられたもので七重の塔があります。</p>
<p>国分尼寺は、正式の名な法華減罪の寺といい、法華経をおき罪を救ってもらおうという尼寺です。</p>
<p>また、全国の国分寺の中心として都に東大寺が建てられ、国分尼寺の中心として都に法華寺が建てられました。</p>
<p>740年(天平12年)・聖武天皇が河内(大阪府)の寺に詣ったとき、その寺の盧舎那仏(光りかがやく仏)が天皇の目に止まりました。</p>
<p>そこで天皇は大きくて立派な仏をつくろうと思いたち、743年(天平15年)、大仏造営のみことのりをだし、近江(滋賀県)の紫香楽宮で、その工事を始めました。</p>
<p>「わたくしは国じゅうの富と勢いを持っている。国中の富と勢いを持ったわたくしは、大仏をつくるのは優しいことだ。難しいのは正しい心をもっことだ」</p>
<p>というのが、このときの天皇の言葉でした。</p>
<p>さらに天皇は大勢の民衆に、カを合わせて一緒に大仏をつくるようにと「一本の草、一つかみの土をもってでも大仏をつくる仕事を助けようと思うものは、この仕事に加わってもよい」と全国に呼びかけました。</p>
<p>有名な僧行基が多くの民衆な率いて、手伝いに集まりました。</p>
<p>しかし、紫香楽の工事は、中々進みません。<br />
その上、天皇が紫香楽宮にいたころ、山火事や地震が、しばしばおこりました。</p>
<p>人々はたいへん不安にかられ、役人や僧の間から、都を奈良へ戻したほうがいいという声が高まりました。</p>
<p>そこで740年(天平12年)以後、転々とした遷都さわぎ(恭仁京・紫香楽宮・難波京)を止めて、745年に、都を奈良へ戻しました。</p>
<p>奈良へ帰った聖武天皇は、若草山のふもとにあった、金鐘寺という寺をもとにして、一層大きな寺を造りました。</p>
<p>これが東大寺です。金鐘寺は聖武天皇が敬っていた良弁という僧の寺でした。<br />
光明皇后は学問に秀れ、仏を厚く信じ、情け深い人でした。</p>
<p>皇后は730年（天平2年)に施薬院をおきました。<br />
これは、貧しい民間の病人に薬を施したり、病人を治したりするところです。</p>
<p>奈良の正倉院には、当.時使われた薬が数十種残っています。<br />
施薬院では正倉院からニンジンや肉桂という植物などの薬をもらって使っていました。</p>
<p>皇后はまた、悲田院をつくり、都中の孤児を集めて養いました。<br />
皇后の情け深いことをあらわすものに、次のような伝説があります。</p>
<p>皇后が法華寺(皇后の父、圏原科比等の古い家を皇后が寺にした)に大きな湯どのをつくり、1000人の人の体を洗いました。</p>
<p>1000人目に、らい病の人がきて、うみをすってくれといいました。<br />
皇后は、嫌な顔もしないですってやったところ、病人は金色の光をはなつ仏になりました。</p>
<p>そして皇后に、「あなたは仏の体を洗ったのですよ」といったと思うと、たちまち姿を消してしまったというのです。</p>
<p>この話はもちろん事実ではありませんが、皇后が情け深い人だったので後にこんな話ができたのでしようね。<br />
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		<item>
		<title>奈良時代の交通事情はどれくらい厳しいものだったのか？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/708</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 26 Jan 2014 02:32:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[関所]]></category>
		<category><![CDATA[駅]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は奈良時代の交通事情について、日本の歴史を紹介します。 奈良時代には、たいへん交通の設備が整いました。 奈良の都を中心に、日本の統一が大体でき、役人が都と地方との間を行き来したのです。 九州の大宰府や陸奥(青森県・岩 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良時代の交通事情について、日本の歴史を紹介します。<br />
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奈良時代には、たいへん交通の設備が整いました。<br />
奈良の都を中心に、日本の統一が大体でき、役人が都と地方との間を行き来したのです。</p>
<p>九州の大宰府や陸奥(青森県・岩手県・宮城県・福島県)の鎮守府(エゾ征伐のために置かれた役所)などへ<br />
度々役人やその使いがいきました。</p>
<p>全国から庸や調を都へ運んできたり、地方の人民が都で働くためにまた兵士として、大勢旅をするようになりました。</p>
<p>奈良時代の末には、地方の荘園から、都の貴族や大きな寺に年貢を運ぶ人夫もたくさん行き来したため、道も整い水上交通も盛んになりました。</p>
<h2>おもな道路</h2>
<p>全国五八か国は、都と、その付近の四畿内(大和・河内・摂津・山城)、および七道にわけられました。<br />
四畿内は、後に和泉が河内から離れて五畿内となりました。</p>
<p>七道とは、都を起点とする7つの主な道路を中心にわけられた、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の区域です。</p>
<p>このことから、全国を五畿七道という呼び方が生まれたわけです。</p>
<p>七道は地区の名前であるとともに、その地区を貫いている主な道路の名前でもありました。<br />
東海道は伊賀・伊勢(ともに三重県)から東へ太平洋にそって常陸(茨城県)までの国々です。</p>
<p>東山道は近江(滋賀県)から東へ日本の中央部に沿って陸奥(青森県・岩手県・宮城県・福島県)、出羽(山形県・秋田県)までの国々です。</p>
<p>山陰道は丹波(京都府・兵庫県)から但馬(兵庫県)をへて、石見(島根県)までの国々です。<br />
山陽道は播磨(兵庫県)から西へ、本州西端の長門(山口県)までの国々です。</p>
<p>北陸道は、若狭(福井県)から東へ、越後・佐渡(ともに新潟県)にいたる国々です。<br />
南海道は紀伊(和歌山県・三重県)、淡路と四国を指します。</p>
<p>西海道は、九州各国と壱岐・対馬の国々です。</p>
<p>山陽道は、大宰府にいたる重要な道なので九州の筑前（福岡県)の一部を加えて大路とされ、東海・東山両道は中路、その他一は小路とされました。</p>
<h2>駅と駅昌</h2>
<p>主な道路には、約16.5キロごとに駅がありました。<br />
駅には旅行に使う駅馬がわかれ宿もありました。</p>
<p>大路の駅には20頭、中路の駅には10頭、小路の駅には五頭の駅馬がおいてあり、馬具やみのかさなどが備えてありました。</p>
<p>駅には駅戸という者がいました。</p>
<p>駅戸は、駅馬をひいたり、駅に泊まる役人の世話をしたり、駅の費用をまかなう田を耕したりしました。<br />
駅は陸路だけでなく、水駅といって川沿いにもあり、船がおいてありました。</p>
<p>七道以外の小さな道にも、各郡ごとに馬がおかれました。<br />
この馬を伝馬といい、伝馬を世話する伝戸もおかれました。</p>
<h2>駅と駅鈴</h2>
<p>宿に泊まったり、駅馬を利用できるのは、政府の仕事で旅をずる役人に限られていました。<br />
役人でも五位以上の者か、公の使者または、急な用事を持つ者に限られていました。</p>
<p>庸や調を運んだり、政府の下で働いたりするために旅行する、普通の人は、民家の軒先や、山や野原で寝たのです。</p>
<p>駅を利用する役人を、駅使とよびました。<br />
地方で、政府に背くものがでたり敵が攻めてきたりしたときに、いそいそ報告する、臨時の駅使を飛駅、または飛駅使と呼びました。</p>
<p>駅使には、その資格を示す駅鈴が授けられました。<br />
駅鈴をもっていると、人でも馬でも、いるだけ集めることができるので、非常に重んじられました。</p>
<p>島根県の隠岐島の玉若酢神社には、二つの駅鈴が残っています。<br />
次の歌から、駅鈴を鳴らして馬を走らせる駅使の姿がの忍ばれます。</p>
<p>すずが音の早馬駅の堤井の<br />
水をたまえな妹が直手ゆ</p>
<p>(駅にやってきた、急ぎの馬の乗り手が、駅の井戸で水を汲んでいる娘に「あなたの手で水な飲ませてください」と頼んでいます)</p>
<h2>関所</h2>
<p>政府は大きな街道の特に大切なところへ関所をおきました。<br />
いざというときには、ここを守って謀反人や都へ攻め入ろうとする敵を防ぐのです。</p>
<p>関所の中で、一番大切なところが3つありました。</p>
<p>今の三重県にあった鈴鹿関、岐阜県にあった不破隠、福井県にあった愛発関で、三関と呼ばれています。<br />
いずれも、東国に対する守りのためにおかれたものです。</p>
<p>672年、壬申の乱のとき、大海人皇子が本拠を定めるため東国へ逃げたとき、三関の1つである鈴鹿関を越えていきました。</p>
<p>三関より東へは、朝廷の力も及び難かったのです。<br />
大海人皇子は、東国の兵を集め、不破関を越えて、近江の都を攻め、大友皇子を自殺させました。</p>
<p>また、764年(天平宝字8年)に謀反をおこした藤原仲麻呂は、越前(福井県)に逃げ出そうとしました。</p>
<p>ところが、愛発関で食い止められ、殺されてしまいました。<br />
三関は以上のような役割を果たしてきたのです。</p>
<p>その他、東北地方には白河関・勿来関(ともに福島県)など、古くからエゾを防ぐ大事な関所がありました。</p>
<h2>くるしい旅</h2>
<p>毎年冬になると、地方からたくさんの人夫が都へ上ってきました。<br />
何十日も掛かって都へ税を運んだり、政府の仕事をするために旅をしてきたのです。</p>
<p>人夫の中には病気や飢えや寒さのために、野垂れ死にするものが少なくありませんでした。<br />
彼らは駅馬や宿は利用できませんでした。</p>
<p>行基が建てた布施屋は、こうした人たちを泊めたり、食べ物を施したりするところです。<br />
当時は道も良くなかったし、橋のない川も多く、長雨のときは特に困りました。</p>
<p>宇治橋をかけた道登や、多くの橋をかけた行基が、人々から尊ばれたのもこのためです。<br />
この頃、重いものを運ぶのにも、車はほとんど使わず、馬の背に乗せていました。</p>
<p>陸上を運ぶことが難しい大量の荷物は、水運を利用して運ばれました。<br />
奈良や恭仁・難波などの都は、水運に便利なてんを考えて、造られたものです。</p>
<p>淀川・木津川・宇治川をへて、琵琶湖や瀬戸内海に通じています。<br />
当時の船は小さくもろいので、荒波に耐えることができません。</p>
<p>船の旅も、陸の旅に劣らないほど苦しいものでした。<br />
現在とは比べ物にならない苦労があったようですね。<br />
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		<title>奈良時代の防人とは？　防人たちが作った歌から知る！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/707</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 26 Jan 2014 00:46:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[防人]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は奈良時代の防人について、日本の歴史を紹介します。 奈良の都は華やかな町でしたが、都から離れた地方は大抵、住む人も少なく文化の低い、寂しいところでした。 九州の大宰府は、九州全体を治める、大宰帥という身分の高い役人の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良時代の防人について、日本の歴史を紹介します。<br />
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奈良の都は華やかな町でしたが、都から離れた地方は大抵、住む人も少なく文化の低い、寂しいところでした。</p>
<p>九州の大宰府は、九州全体を治める、大宰帥という身分の高い役人のいるところで、天下の一都会と言われたほどです。</p>
<p>しかし、この大宰府も都から見ればひな(田舎)に過ぎませんでした。<br />
大宰府の役人として、朝廷から命じられた人は、身分を提げられたり、島流しにされたように情なく思いました。</p>
<p>大宰府を始めとして、地方へ下った役人はみんな、都を恋しがりました。<br />
九州の南の端(鹿児島県)にいたハヤトは、大化の改新までには大体、降伏していました。</p>
<p>しかし、その後もたびたび乱をおこし、720年(養老4年)には大きな乱をおこしましたが、平定されています。</p>
<p>ハヤトのいた地方は、730年(天平2年)ごろになっても、まだ班田収授法がおこなわれていませんでした。<br />
そこまで朝廷の力が及ばなかったことがわかります。</p>
<p>また、アマミ(奄美大皀一)・タネ(種子島)、ヤク(屋久島)・トカラ(宝島)など、今の南西諸島方面の島人が、貢物をもってきました。</p>
<p>しかし朝廷は、これらの土地を治めることに、あまり熱心ではありませんでした。<br />
エゾは、斉明天皇の時代に平定されてから、暫く大人しくしていました。</p>
<p>奈良時代の後半になると、エゾは、しばしば乱をおこし、朝廷を悩ませました。<br />
朝廷は関東地方や越後国(新潟県)あたりから、東北地方へ多くの農民をうつり住まわせ、開拓させたり、エゾと戦わせたりしました。</p>
<p>関東地方から遠江国(静岡県の一部)あたりまでを東国、またはあずまと呼びました。<br />
東人は関東地方の広い荒れ野を耕したり、エゾと戦ったりしました。<br />
東人の勇敢で戦の強いことは有名です。</p>
<p>東人の作った歌を東歌といい「万葉集」巻十四に載っています。<br />
次の歌は常陸国(茨城県の一部)の人が作った歌です。</p>
<p>筑波峯に雪かもふらるいなをかも<br />
かなしき子ろが布ほさるかも</p>
<p>(筑波山が白いのは雪でも降ったのでしようか。そうではありません。可愛いあの子が白い布を干しているのです。)</p>
<p>天智天皇の時代(662年～671年)に、日本は唐や新羅と戦って負けました。<br />
それ以後、北九州や壱岐・対馬(ともに長崎県の一部) などは、国を守る第一線となりました。</p>
<p>いつ、唐や新羅が攻めてくるかわかりません。</p>
<p>政府は、城を築いたり、海岸に兵士をおいて、守りを固めました。<br />
九川や壱岐・対馬を守る、これらの兵士を、防人（さきもり）といいました。</p>
<p>防人たちは、関東地方から難波(大阪)の港まで歩いてきてここから船に乗って、九州へ向かいました。<br />
防人は三年交代で、食料などは、自分もちでした。</p>
<p>そのため、1人の防人がでれば、その家は滅びるとまで言われました。<br />
父や母や妻子と別れ、長い間の兵役に就くために旅立つとき、彼らはどんなに辛かったことでしょう。</p>
<p>防人たちの歌が、有名な歌人大伴家持によって集められました。<br />
「万葉集」巻20に四八四首の防人の歌がおさめてあります。</p>
<p>からころもすそにとりつきなく子らを<br />
おきてぞ来ぬや母なしにして</p>
<p>この歌は、信濃国(長野県)の他田舎人大島という人が作った歌です。<br />
(家を出ようとすると、子どもたちが裾に取り付いて泣いた。母に早く死に別れた子どもたち、その子どもを家において、私は防人になるために家をでた。)</p>
<p>ただ1人の父にさえ別れなければならない子どもの気持ちが忍ばれます。</p>
<p>父母が頭かきなで幸くあれて<br />
いいし言葉ぜわすれかねつる</p>
<p>これは、駿河国(静岡県の一部)の丈部稲麿の歌です。</p>
<p>(父母が私の頭を撫でて、達者でいてくれよ、といった言葉こそは、忘れることができなかった。「あれて」は「あれと」、「言葉ぜ」は「言葉ぞ」の方言)</p>
<p>草枕旅の丸寝のひもたえば<br />
あが手とつけろこれの針持し</p>
<p>これは、武蔵国(東京都・埼玉県の一部) 椋橋部弟女という防人の妻が作った歌です。<br />
(旅先では、寝るときも着物を着たままでしょうから、紐が、もし切れたら、自分でこの針を持って付けてください。「針」は「まり」、「持し」は「持ち」の方言)</p>
<p>妻の夫を思う気持ちが、私たちの胸を打ちますね。<br />
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		<title>首名と行基とは？　農民のために力を尽くした神と菩薩！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/706</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 25 Jan 2014 23:58:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[行基]]></category>
		<category><![CDATA[首名]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は首名と行基について、日本の歴史を紹介します。 農民のために力を尽くした人もいました。 道君首名（みちのきみおびとな）がそうでした。 首名（おびとな）は、筑後(福岡県の一部)と肥後(熊本県)の国司をしていた役人です。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は首名と行基について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>農民のために力を尽くした人もいました。<br />
道君首名（みちのきみおびとな）がそうでした。<br />
首名（おびとな）は、筑後(福岡県の一部)と肥後(熊本県)の国司をしていた役人です。</p>
<p>首名はこの地方の農民たちに、池やつつみを、盛んに作らせました。<br />
農民たちは辛い土木工事をやらされるので、初めは不平を言っていました。</p>
<p>しかし、池やつつみが出来上がれば、自分たちの農業も盛んになるのです。<br />
農民たちは、たいへん喜んで、首名が死んだあとでは、この人を神にまつりました。</p>
<p>僧の行基もまた、いろいろ地方の人々のために尽くした人でした。</p>
<p>行基は、今の大阪府や兵庫県にあたる河内・摂津・和泉などに用水池一五か所、用水路(みぞ) 七か所、水道(とい)三か所、橋六か所を造りました。</p>
<p>その他、船船つき場や運河や、旅人の泊まれる布施屋九か所をつくって、おおいに人々を救い、産業を盛んにしました。</p>
<p>行基が行くところには、いつも大勢の人が集まって、その教えに耳を傾けました。<br />
人々は行基の教えを聴き、生活の苦しみや、悩みから、抜け出そうとしたのです。</p>
<p>朝廷では始め、人を迷わす悪い僧だとして行基を罰しようとしました。</p>
<p>しかし、743年(天平15年)の大仏造営のとき、行基はおおいに力を尽くしましたので、朝廷では、ついに行基の手柄を認め、大僧正の位につけました。</p>
<p>人々は、行基を菩薩と呼んで尊びました。結果を出せば人は認めてくれるようですね。<br />
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		<title>奈良時代の娯楽とは？　貧窮問答歌とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/705</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 22:03:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[貧窮問答歌]]></category>
		<category><![CDATA[山上憶良]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は奈良時代の娯楽について、日本の歴史を紹介します。 「万葉集」の歌人として有名な山上憶良は、こうした貧しい農民に同情した1人です。 山上憶良がつくった貧窮問答歌は、「万葉集」のなかでも、最も優れた歌の一つとして知られ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良時代の娯楽について、日本の歴史を紹介します。<br />
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「万葉集」の歌人として有名な山上憶良は、こうした貧しい農民に同情した1人です。<br />
山上憶良がつくった貧窮問答歌は、「万葉集」のなかでも、最も優れた歌の一つとして知られています。</p>
<p>そのあらまし――<br />
「風にまじって雨がふる夜や雪のふる夜は、やりきれないほど寒いので、塩を舐めながら、お湯に溶かした酒のかすをすすって寒さをしのぐ。</p>
<p>布団をかぶり、ありったけの着物を重ねてもまだ寒い夜に、自分より貧しい人たちは、どんなにお腹を空かせて寒がっていることだろう。</p>
<p>その妻や子どもは、食べ物が欲しいと言って泣いているだろう。<br />
家の主人はどんな気持ちで暮らしているだろう。</p>
<p>たまたま人間に生まれ、人並みに田畑を耕しているのに、わたもない、まるで海の藻のような、ぼろぼろの着物を肩に掛け、低い歪んだ家の中で、地べたに藁を敷いて横になっていると、父母は枕の方で、妻・子は足のほうで泣いている。</p>
<p>釜戸には、煙も立たず、飯をふかすこし器には、クモが巣をはっている。<br />
こういう貧乏な家にさえ、鞭をもった役人が、寝ているところにまできて、「税を出せ」と言って怒鳴るのだ。</p>
<p>こんなにまでやりきれないものか、世の中というものは」</p>
<p>地方の人々にも、たまには、楽しいこともありました。<br />
春と秋の気候のよい頃、男も女も、年寄りも子どもも、酒や弁当や、ことなどをもち、山や海辺に集まって、歌をうたったり踊ったりするのです。</p>
<p>関東地方の人々は、茨城県の筑波山中や、久慈川のほとりなどとに集まって楽しみました。<br />
九州の肥後(熊本県)にある杵島岳もそんな山でした。</p>
<p>こうして、人々が集まって歌い、踊ることを、かがい、または、歌垣とよびました。<br />
また田植えや、取り入れの後とか、お祭りには、人々は、酒盛りをして楽しみました。</p>
<p>農民たちは、辛い生活を家族問の愛情で慰め合いました。<br />
次の歌からもそのことが伺われます。</p>
<p>君がため手力つかれおりたる衣ぞ<br />
春さらばいかなる色にすりてばよけむ</p>
<p>(あなたのために疲れてしまうほど、一生懸命起きたものです。春になったら、どんな色に染めてあげましょうか)</p>
<p>次のような意味の問答歌もあります。</p>
<p>(ほかの人は馬でいくのに、あなただけが、歩いているのをみると、泣けて仕方がありません。私のお母さんの形見の鏡とかたかけがありますから、それを売って馬を買ってください。)<br />
っと妻が歌うと</p>
<p>(馬を買って、私が乗っても、あなたは歩くのだろうから、同じことだ。石ころ道でも、2人で歩いていこうよ) と夫が答えるという歌です。</p>
<p>こういう愛情が、どれほど農民たちを勇気づけたことでしょう。<br />
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