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	<title>安土・桃山時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>安土・桃山時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>キリシタン大名とは？大友・有馬・大村の三大名とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/804</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 10:50:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。 ザビエルが1551年（天文20年)に日本を去った後も優れた宣教師が次々とやってきました。 この結果、九州から近畿地方にかけてたくさんの信者ができ、信長 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>ザビエルが1551年（天文20年)に日本を去った後も優れた宣教師が次々とやってきました。</p>
<p>この結果、九州から近畿地方にかけてたくさんの信者ができ、信長の時代には、信者の数は10万人から15万人にも増えました。</p>
<p>そして、大名の中にも洗礼(キリスト教徒になるための儀式)を受けて熱心な信者になるものがあらわれました。</p>
<p>例えば、大友義鎮・小西行長・大村純忠有馬晴信・高山右近などがそれで彼らをキリシタン大名と言います。</p>
<p>1582年（天正10年)、キリシタン大名の中でも、とくに熱心な大友・有馬・大村の三大名は少年使節を遥々ローマに送りました。</p>
<p>これは、巡察使(キリスト教を広める方法を考えたり研究したりする役目)として来日していたイタリア人バリニアノの計画によるものです。</p>
<p>ヨーロッパの進んだ有様を日本人に直に見せるとともに、ヨーロッパ人には本当の日本人を見せて日本はキリスト教を広める値打ちのある国だということを分かってもらおうとしたのです。</p>
<p>そして、物事を感じとりやすいと思われる少年が使節に選ばれました。</p>
<p>大友義鎮の親戚にあたる伊東祐益(マンショ)が千々岩清左衛門(ミゲル)とともに正使になり、原マルチノ・中浦ジュリアンのふたりが副使になりました。</p>
<p>バリニアノにつれられた一行は長崎を出発しみちみち勉強をしながらマカオをへてインドに着きました。</p>
<p>使節はここでバリニアノとわかれ尚も進み、喜望峰を回ってついにポルトガルのリスボンに着きました。<br />
そして、至るところで歓迎を受けながらイタリアに渡りローマ法王グレゴリオ13世に会いました。</p>
<p>法王は涙を浮かべて喜んだということです。<br />
四人はローマの市民権までも贈られ珍しいヨーロッパの文化に接して、どんなにか嬉しかったことでしょう。</p>
<p>やがて囚人はインドをへて1590年(天正一八年)長崎へ帰りました。<br />
実に出発のときから8年あまりも立っていたのです。</p>
<p>ところが、彼らが帰ってきたときは豊臣秀吉によってキリスト教が禁止されていたため使節は活動することができませんでした。</p>
<p>中浦ジュリアンは、最後までキリスト教を捨てなかったため、年をとってから火あぶりにされました。<br />
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		<title>安土・桃山時代の人々の楽しみとは？ 能楽や茶の湯とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/803</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 10:04:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[能楽]]></category>
		<category><![CDATA[茶の湯]]></category>
		<category><![CDATA[風流踊り]]></category>
		<category><![CDATA[阿国歌舞伎]]></category>
		<category><![CDATA[千利休]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。 盛んな芸能 安土・桃山時代は、神や仏よりも今生きている人間が先だという考えの時期でした。 長い間、乱れていた天下も統一され人々は平和のうちに、伸び伸び [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>盛んな芸能</h2>
<p>安土・桃山時代は、神や仏よりも今生きている人間が先だという考えの時期でした。<br />
長い間、乱れていた天下も統一され人々は平和のうちに、伸び伸びと生活を楽しんだのです。</p>
<p>こうして能楽・茶道(茶の湯)・立花(生け花)風流踊り・念仏踊り・浄瑠璃・歌舞伎・隆達小歌・連歌・俳譜などいろいろな芸能が盛んになりました。</p>
<h2>能楽</h2>
<p>信長も秀吉も、京都で観世・金春両太夫の能を見物しましたが、秀吉は朝鮮出兵のときに本陣を置いた名護屋(佐賀県)に四座の能を呼び自分でも演じたりしています。</p>
<p>熱心を秀吉に見習って、大名たちも能を見たり演じたりしていますが、この頃はもう型の決まったものとなり次第に儀式用として伝えられるようになりました。</p>
<p>能とか謡曲(うたい)などの古くから伝わる芸能を理解し身に付けることが、信長や秀吉を初め成り上がってきた大名たちが箔をつけるための、大切な教養の一つになっていたのです。</p>
<h2>茶の湯</h2>
<p>今井宗久・津田宗及・千利休などという茶の湯の名人が現れました。</p>
<p>茶を飲む技術が、上手というだけでなくわび(静かで、慎ましい気持ち) の味わいがよくわかっていないと茶の名人と言えないのです。</p>
<p>茶人の中で、最も秀れた力を持っていたのは千利休でした。<br />
利休は「ぬるい湯」を戒めています。</p>
<p>それは、秀吉の気持ちにぴったりした茶の湯でもあり、一般の武士たちの好みにもあっていました。<br />
しかも利休は、堺の大商人の家に生まれながら贅沢な茶の湯を好みませんでした。</p>
<p>そして信長と秀吉の茶頭(茶の湯の先生)になり大名たちにも茶の湯を教えるようになりました。</p>
<p>その勢いは、大名たちをも凌ぐほどでした。<br />
しかし、後に秀吉と争って自殺しました。</p>
<p>茶の湯の会は、趣味や他人との付き合いのためだけでなく、政治のうえでの取引とか秘密の相談などにも利用されたようです。</p>
<p>茶の湯の発達は、茶釜や茶碗づくりを盛んにし特に楽焼茶碗をつくった本阿弥光悦が有名です。<br />
その弟子、俵屋宗達は「風神雷神図扉風」などで知られている画家です。</p>
<p>小堀遠州は茶室や庭園をつくることに秀れ京都の桂離宮は、遠州風の設計と言われています。<br />
その他、茶室のとこにたてる茶花とか名香を嗅ぎ分ける聞香なども流行するようになりました。</p>
<p>「風流踊り一美しい飾りを付けて踊る風流おどりは安土・桃山時代に、盛んに行われました。<br />
平和を撮り戻した町や村で、一般の人たちが賑やかに踊りくるったのです。</p>
<p>この踊りは、やがて各地の盆踊りとなりさらに歌舞伎踊りを生みだしました。</p>
<p>京都の賀茂川の川原に住んでいた河原者と呼ばれる身分の低い人たちの間からは猿楽の芸人、人形使い、曲芸師とか見世物の興行師などがたくさんあらわれて民衆芸能を流行させました。</p>
<p>浄瑠璃とも結びつき、伴奏として三味線な使った操り人形や阿国歌舞伎など江戸時代に栄える民衆芸術はほとんど安土・桃山時代に発展の足場を築いたのです。</p>
<h4>阿国歌舞伎</h4>
<p>人目につく姿や変わった動作をして歩きまわる者のことを「かぶき者」と言いました。<br />
出雲の阿国という女性が、華やかで目立つ姿をして、京都の町中で踊ったので、これを「かおどり」と言ったのです。</p>
<h4>美しい着物</h4>
<p>能や歌舞伎が盛んになると、その着物も非常に華やかになり、刺繍と箔で模様を表した着物が多く用いられました。</p>
<p>中国風の織物が京都の西陣の織工にも取り入れられて、金紗・縮緬・唐織錦・繻子・緞子なども作られました。</p>
<p>さらにポルトガル人が伝えたビロードやつづれに似たゴプラン・サラサ・モールなどの南方または西洋風の織物も、織られるようになりました。</p>
<p>この頃、表着としては、自由にいろいろな絵模様を染め出した美しい小袖が流行しています。<br />
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		<title>安土・桃山時代の城の文化とは？　武家文化とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/801</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 08:51:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[狩野永徳]]></category>
		<category><![CDATA[唐獅子図屏風]]></category>
		<category><![CDATA[武家文化]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代の城の文化　武家文化について、日本の歴史を紹介します。 力強い武家文化とは？ 安土・桃山時代の文化は、華やかで明るく、しかも活き活きとして力強く全国統一の時代に相応しい自由な気分に溢れています。 秀吉 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代の城の文化　武家文化について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>力強い武家文化とは？</h2>
<p>安土・桃山時代の文化は、華やかで明るく、しかも活き活きとして力強く全国統一の時代に相応しい自由な気分に溢れています。</p>
<p>秀吉が北野(京都市)で行った茶の湯の会も非常に大掛かりで、伸び伸びしたものでした。<br />
この茶の湯の会には、4、5百人もの人が集まり武士も町人も一緒になって、野原で茶の湯を楽しんだのです。</p>
<p>この時代の文化は、東山文化を受け継ぎ武家文化として、一層発展しました。<br />
もともと貴族文化が土台になっていますが広く町人や地方の武士などにも行き渡るようになったのです。</p>
<h2>城とふすま絵</h2>
<p>信長の安土や秀吉の大阪城などのように大名たちは高くそびえる天守閣から城下町を見下ろしながら、領内を納めました。</p>
<p>この時代の文化が、城の文化と言われるのは城の建築を中心に、美術工芸がここに集まり文化の花を咲かせたからです。</p>
<p>城の中の城主の住むところは金銀や漆で飾られ、座敷には様々なふすま絵が描かれました。<br />
そして、このふすま絵には、金地に絵の具を盛り上げて描いた濃絵という新しい描き方が用いられました。</p>
<p>濃絵は、これまでの絵をすっかり変えてしまい、その題材も、自然そのままの色と形をした大きな木や猛獣・野鳥などの姿で、見る人に強く迫るようなものが多く描かれました。</p>
<p>それは、室町時代の、静かに味わって見ようとするような絵とは、まるで違うものです。<br />
屏風や、ついたてなどにも、ふすま絵と同じような新しい描き方が、取り入れられました。</p>
<p>信長や秀吉が、こうしたものを描かせたのは、それを自分の身の周りにおいて飾りたてることによって大名や人々を驚かせるのが目的だったのです。</p>
<h2>狩野派</h2>
<p>このような新しい描き方を初めたのは狩野元信で、孫の永徳とその養子の山楽が有名です。</p>
<p>永徳は安土・桃山時代の最も秀れた画家で信長が安土城を築いたときには一族の画工を率いて、ふすまや屏風に絵を描いたのです。</p>
<p>また、秀吉の聚楽第とか大阪城のふすま絵などにも筆をふるいました。<br />
その他、「唐獅子図扉風」などの代表作があります。</p>
<p>永徳は、仕事を引き受けると下絵は自分で描き、色を弟子に塗らせた後仕上げは、自分で行ったようです。</p>
<p>大きなものを描くときは藁の筆を使い、木の高さが約3メートル人の背たけが1メートル半というような大きな作品を描きました。</p>
<p>彼の作品の特色は、細かさよりも力強さの溢れたところにあります。</p>
<p>狩野派の他にも海北友松・長谷川等伯・雲谷等顔・曽我直庵らは濃絵ばかりでなく、墨絵にも筆をふるいました。<br />
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		<item>
		<title>天正大判とは？ お金を使う機会が増えた室町時代！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/800</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 06:51:53 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[天正菱大判金]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[天正大判]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は天正大判について、日本の歴史を紹介します。 天正大判とは？ 商業や交通が盛んになるとお金を使うことも増えてきました。 室町時代には、明から輸入した銅銭や日本でとれた砂金や銀をいちいち目方で測ったり米をお金の代わりに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は天正大判について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<h2>天正大判とは？</h2>
<p>商業や交通が盛んになるとお金を使うことも増えてきました。</p>
<p>室町時代には、明から輸入した銅銭や日本でとれた砂金や銀をいちいち目方で測ったり米をお金の代わりにして使っていました。</p>
<p>武田信玄や、織田信長など多くの大名は少ない量で値打ちのある金や銀の質を揃えて、お金を作っていました。</p>
<p>このような金貨や銀貨は、必要な目方だけを切り取って少しずつ使ったのです。<br />
しかし、これでは不便ですから金や銀で、決められた値打ちのお金をつくるようになりました。</p>
<p>秀吉が1588年(天正16年)に造らせた天正大判は、このような金貨の最初のものと言われています。</p>
<p>現存の天正大判のうち、最も古い天正菱大判金は縦が約22.9センチ、横が約9.4センチで、目方は165グラムあります。</p>
<p>表には、大判を造った年と拾両という値打ちと後藤徳乗と言う造った人の名前が墨で書いてあります。</p>
<p>この形式は、後の江戸時代の大判、小判にも引き続き用いられました。<br />
このころ、拾両大判１枚でだいたい6.7トンの米が買えました。</p>
<p>しかし、秀吉の時代でも、大抵の品物は室町時代からの銅銭と、切り取って使う金銀で売買されていました。</p>
<p>普通の生活に金貨や銀貨が使われるようになったのは次の江戸時代からです。</p>
<p>このように、金や銀を使うことが多くなったので全国の鉱山が盛んに開発され各地の大名は、その領内で鉱山を見つけ出そうと一生懸命でした。</p>
<p>有名な佐渡の金山が発見されたのもこの頃です。</p>
<p>秀吉は全国を統一すると他の大名の領地にある金山や銀山も全て自分のものだと決めました。<br />
しかし、その全部を取り上げるのではなく取れ高の一部を献上させたのです。</p>
<p>こうして、各地の大名から納められた金銀は年に金４千枚、銀８千枚にものぼりました。<br />
大坂城内には、驚くほど多くの金銀が蓄えられていたということです。</p>
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		<item>
		<title>安土・桃山時代の産業の発達！　楽市楽座とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/799</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 14:54:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[天正大判]]></category>
		<category><![CDATA[楽市]]></category>
		<category><![CDATA[楽座]]></category>
		<category><![CDATA[楽市楽座]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安土・桃山時代の産業の発達について、日本の歴史を紹介します。 耕地が増える 信長や秀吉をはじめとして、大名たちは武士の生活を支える一番大切な産業である農業を盛んにする必要がありました。 そのため、雨が降ると、洪水に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安土・桃山時代の産業の発達について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>耕地が増える</h2>
<p>信長や秀吉をはじめとして、大名たちは武士の生活を支える一番大切な産業である農業を盛んにする必要がありました。</p>
<p>そのため、雨が降ると、洪水になりやすい川に沿って大きな堤防を築き、田畑を水害から守りました。<br />
また遠い川の上流から、掘割を作って水を引きこれまで農地にできなかった土地を開発しました。</p>
<p>加藤清正は肥後(熊本県)で2000へクタールも開発したということです。</p>
<p>堤防や、掘割を作るには、城を築いたり鉱山を掘ったりするために、この時代に大きな進歩をした土木技術が非常に役立ちました。</p>
<p>秀吉が得意だった水責めの戦法もこの堤防を作る技術を利用したものです。<br />
このような努力によって、室町時代にはまだ100万へクタールに足りなかった</p>
<p>日本全国の農地が、秀吉のころには150万へクタールほどにも増えました。</p>
<h2>農業の進歩</h2>
<p>農業の仕方にも色々な工夫が行われました。</p>
<p>稲を刈った後の田に麦を植える二毛作も次第に広まり、稲や麦の種類も増えその地方の土地にあったものが作られるようになりました。</p>
<p>その他に、木綿の原料になる綿作りもこの頃から広がりはじめました。</p>
<p>室町時代前半までは、木綿は朝鮮から輸入される贅沢な品物でした。</p>
<p>しかし、後半に入ると近畿地方や中部・関東地方の国々で少しずつ作り初め次の江戸時代になると、主に使われるようになりました。</p>
<p>それまでは、麻の着物しかなかった人々にとって暖かい木綿の着物は、どんなにありがたかったことでしょう。</p>
<h2>楽市と楽座とは</h2>
<p>農業や、その他の産産業が盛んになるとその品物を売り捌く商業も盛んになります。</p>
<p>また大名や武士たちは、農民から取立てた年貢米を売りはらって、お金に替えたり武器などの戦争に必要な品物を買うためにも商人を利用しなければなりません。</p>
<p>そこで、商業を盛んにするために楽市と楽座の方法がとられました。</p>
<p>これまでは、市場での売買に税金がかかりまた商人や職人の入っていた座という団体がありましたが<br />
この制限を破って、誰でも自由に営業できるようにしたのです。</p>
<p>信長は、安土の町を作ったとき税金をかけない楽市の命令を出しました。<br />
このように城下町を作るときに商人や職人を呼び集める必要から楽市を行ったのです。</p>
<p>一方、楽座によって座から自由になった商人や職人たちは、城を作ったり直したにりするときの仕事の手伝いを命じられました。</p>
<p>これまで座を支配していたのは大きな寺や神社、それに朝廷や公家たちですが楽座のために彼らのら力は衰え大名の力が強くなりました。</p>
<p>楽市も楽座も、つまりは封建制度を強めるための手段だったのです。</p>
<h2>交通の発達</h2>
<p>戦争ともなれば、何千何万という大軍と物資を動かさなければならないので大名たちは、領内の交通を便利にすることに力を尽くしました。</p>
<p>城下町を中心に、主な道路には宿場がつくられ、ここに、いつも連絡用の馬を置いて公の交通や通信のために利用しました。</p>
<p>これを伝馬の制度といいます。</p>
<p>また道路沿いの村に命令して道や橋を修理させたり、並木を植えたりして交通の便を測りました。<br />
秀吉が国内な統一して政治をとるようになると交通は、いっそう便利になりました。</p>
<p>交通を脅かしていた山賊や海賊を、厳しく取り締まり、また通行税を取るためにわかれていた関所も例えそれが皇室のためのものであってもすっかりやめさせました。</p>
<p>このため、商売をするための行き来もしやすくなり平和を楽しむ人たちの寺参りや宮参りなどの旅もたいそう多くなりました。<br />
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		<title>刀狩りとは？　武士と農民の区別や栄えた城下町とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/798</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 14:14:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[刀狩り]]></category>
		<category><![CDATA[城下町]]></category>
		<category><![CDATA[方広寺]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は刀狩りと城下町について、日本の歴史を紹介します。 刀狩りとは？ 秀吉は1588年(天正16年)に諸国に命令を出して、寺や農民が持っている刀や、槍・鉄砲などを取り上げました。 この命令には、「百姓は、真面目に田畑を耕 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は刀狩りと城下町について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>刀狩りとは？</h2>
<p>秀吉は1588年(天正16年)に諸国に命令を出して、寺や農民が持っている刀や、槍・鉄砲などを取り上げました。</p>
<p>この命令には、「百姓は、真面目に田畑を耕して年貢さえ、きちんと納めていれば子孫の代まで栄える。<br />
そのためには、農具さえあればよい。</p>
<p>いらない武器を差し出せばそれで京都に建てる方広寺の大仏の釘やかすがいを作るから死んだ後まで、救われる」と諭しています。</p>
<p>しかし、本当は、一向一揆や土一揆のように寺や農民が武力で反抗する心配があるので、それを無くすために取り上げてしまったのです。</p>
<p>これを刀狩りといいます。</p>
<h2>武士と農民の区別</h2>
<p>これまでは、身分のあまり高くない武士は戦いのときの他は、農村に住んで農業をしていました。</p>
<p>しかし、秀吉の行った検地や刀狩りによって例え身分は低くても、武士は戦争だけをする農民は農業にだけ精を出して年貢を納めるというふうに、身分がはっきりわかれるようになりました。</p>
<p>そして武士は全て城下町に住むようになり農民が勝手に土地を離れることを厳しく取り締まりました。</p>
<p>武士と農民の身分だけではありません。</p>
<p>農民と商人や職人も、はっきり区別され商人は商売だけ、職人は道具を作るだけで他の仕事をすることができなくなりました。</p>
<p>商人が農村へ商売に出かけることにも厳しい制限がありました。<br />
農民が、いろいろな品物を買って贅沢な暮らしをしないようにさせるためです。</p>
<p>商人や職人も城下町に呼び寄せせられて武士の生活を支えるために品物を作ったり商売をしたりしたのです。</p>
<h2>城下町とは？</h2>
<p>大名の住む城を中心に、家来の武士や商人や職人たちが集まって住む城下町がこのごろから全国につくられるようになりました。</p>
<p>大阪城のある大阪、徳川家康の城下町であった江戸(東京)をはじめ、城下町として栄えた町が、今でも日本の各地の大きな都市として続いています。</p>
<p>城下町は、どこでも武士の住む武家町と商人や職人の住む町とが、はっきりと区別されていました。<br />
今でも、呉服町だとか鍛冶町・紺屋町・大工町などという町の名が各地に残っていますが、これは、それらの商人や職人が多く住んでいた町だったことをあらわしています。</p>
<p>こうして城下町は、大名の納める領地の政治や経済の中心になりました。</p>
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		<title>太閤検地とは？ 封建制度の世の中で、一番大切な産業は農業だった？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/797</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 13:28:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[検地]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[封建制度]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<category><![CDATA[太閤検地]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は太閤検地について、日本の歴史を紹介します。 封建制度を整える 織田信長や豊臣秀吉が推し進めた全国の統一は、ただ大名たちを武力で従わせたというだけではありません。 封建制度をしっかりと完成させるために、いろいろな新し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は太閤検地について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>封建制度を整える</h2>
<p>織田信長や豊臣秀吉が推し進めた全国の統一は、ただ大名たちを武力で従わせたというだけではありません。</p>
<p>封建制度をしっかりと完成させるために、いろいろな新しい政治を行いました。<br />
鎌倉時代や室町時代には、武士が政治の中心でしたが、まだ天皇や公家にも政治のうえでの力が残っていました。</p>
<p>しかし、信長や秀吉の政治では、それがすっかり取り払われ本当に武士だけが政治を動かすようになり、天皇や公家は、昔からの文化を伝える飾りものにされてしまったのです。</p>
<h2>太閤検地とは？</h2>
<p>封建制度の世の中で、一番大切な産業は農業です。<br />
武士は農民が納める年貢米をお金に替えて暮らしを立てています。</p>
<p>ですから、封建制度をしっかりと作り上げるにはなるべく、たくさんの年貢米を取立てられるようにしなければなりません。</p>
<p>このために行われたのが検地という土地調べです。</p>
<p>検地では、田畑の広さや、そこから米がどれたけ採れるか、またその土地を持っている農民は誰かを、詳しく調べて帳面に書きつけます。</p>
<p>これを検地帳といいます。</p>
<p>そしてこの帳面をもとにして農民に年貢米や、領主のための力仕事などが割り当てられました。<br />
それでは、検地によって農民の暮らしは、どう変わったのでしょうか。</p>
<p>農民が納める年貢は、取れ高の半分からそれ以上という高い割合になり、この年貢が納められないと隣り近所や、村の人たち全体の責任になるというように取り締まりが厳しくなりました。</p>
<p>しかし、一方農民に都合のよいこともありました。</p>
<p>これまで、村の中には貧しい百姓たちに農地を耕かさせていた地主がいましたが、検地によって、その農地を耕している者が土地の持ち主として認められたのです。</p>
<p>このため、村の仕組みも変わってきました。</p>
<p>秀吉が行った、このような検地を太閤検地と呼んでいます。<br />
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		<item>
		<title>文禄の役とは？ 慶長の役とは？ 朝鮮への出兵したのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/796</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 13:02:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<category><![CDATA[文禄の役]]></category>
		<category><![CDATA[慶長の役]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は文禄の役・慶長の役について、日本の歴史を紹介します。 文禄の役 関東・東北地方の平定が済むと国内の戦争は、ほぼ治まりました。 しかし秀吉は、その翌年、関白の職を甥の秀次に譲り、またまた戦争の準備を大名たちに命じまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は文禄の役・慶長の役について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>文禄の役</h2>
<p>関東・東北地方の平定が済むと国内の戦争は、ほぼ治まりました。<br />
しかし秀吉は、その翌年、関白の職を甥の秀次に譲り、またまた戦争の準備を大名たちに命じました。</p>
<p>朝鮮半島に出兵するためです。</p>
<p>では秀吉は、なぜ国外にまで出兵しょうとしたのでしょう。<br />
彼は英雄の持ちやすい大きな夢を、早くから持っていました。</p>
<p>朝鮮や明を責めとって都を北京に移し天皇をはじめ、自分も大名たちも大陸に渡って、大国家を造ろうという計画だったのです。</p>
<p>それが出来ないとしても、室町時代の末から途絶えていた明との貿易だけは、再び開きたい考えでした。</p>
<p>しかし、これは町が認めようとしないので秀吉は譜面に思っていたのです。<br />
また国内の統一がすんで武士の気分が緩むのを引き締めようという目的もあったでしょう。</p>
<p>このような訳で、まず朝鮮を攻めることになったのです。</p>
<p>秀吉は九州の名護屋(佐賀県)を根拠地に定め1592年(文禄元年)四月に、15万8千もの大軍で朝鮮に攻め込みました。</p>
<p>これを文禄の役といいます。</p>
<p>日本軍は、鉄砲などの秀れた武器な多くもち、また朝鮮はこのころ国内の政治が乱れていたので、はじめは勝ち戦が続きました。</p>
<p>都の京城も落とし、加藤清正の軍は豆満江を越えて満州にまで攻め込んだほどでした。</p>
<p>しかし、そのうちに明の軍が助けに来たり朝鮮の民衆も日本軍に反抗して戦いはじめたので戦争は上手くいかなくなりました。</p>
<p>さらに日本の海軍は、明の海軍のために、しばしば敗れ、出陣した武士たちの間にも戦争を嫌がる者が出始めたので秀吉もとうとう仲直りをすることになりました。</p>
<h2>慶長の役</h2>
<p>ところが、その会議のとき明の使者の持ってきた手紙が秀吉を怒らせました。<br />
このため秀吉は、1597年(慶長二年)再び朝鮮に大軍を送りました。</p>
<p>これが慶長の役です。</p>
<p>しかし、今度の戦争は上手くいかず日本軍は各地で、たいそう苦しい戦いを続けなければなりませんでした。</p>
<p>そうしている内に、翌年の春秀吉は病気で死にました。<br />
このため日本軍は、戦いを止めて朝鮮から引き上げ、ようやく戦争は終わりました。<br />
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		<item>
		<title>豊臣秀吉とは？ 山崎の合戦とは？ 全国統一までの流れとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/795</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 12:18:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<category><![CDATA[大阪城]]></category>
		<category><![CDATA[山崎の合戦]]></category>
		<category><![CDATA[聚楽第]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は豊臣秀吉とは？　山崎の合戦と統一の完成について、日本の歴史を紹介します。 山崎の合戦 羽柴秀吉は、備中国(岡心県の一部)高松城の毛利軍を水責めにしているとき信長が本能寺で殺された知らせを受け取りました。 秀吉は、こ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は豊臣秀吉とは？　山崎の合戦と統一の完成について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>山崎の合戦</h2>
<p>羽柴秀吉は、備中国(岡心県の一部)高松城の毛利軍を水責めにしているとき信長が本能寺で殺された知らせを受け取りました。</p>
<p>秀吉は、この事件が毛利軍に知られないうちに素早く仲直りをし、軍を引き返して明智光秀を京都の山崎で討ち滅ぼしました。</p>
<p>秀吉が、他の大名に先駆けて光秀を滅し主君の敵をとったりで、その地位は自然に重くなりました。<br />
これを妬んだ柴田勝家などの信長の部下の大名と、秀吉の間に争いがおこりました。</p>
<p>秀吉は勝家を滅し、反対の大名たちを抑えて信長の残した天下統一の仕事を受け継ぎ推し進めることになりました。</p>
<h2>大坂城</h2>
<p>秀吉は、統一の仕事を進める根拠地として1582年から、もと石山本願寺のあった大阪に信長の安土城より、もっと立派な城を建て初めました。</p>
<p>大坂は近畿地方の中心にあり京都にも近く、瀬戸内海を通って中国・四国・九州などの西国地方との連絡には非常に重要な位置になっています。</p>
<p>ここに気づかれた大阪城は、城の周りが、およそ13キロメートル(今の大阪城の4倍、皇居の3倍ほど)もあり九層の天守閣がそびえ立っていました。</p>
<p>城の中も、金銀や外国から輸入した贅沢な布などを、ふんだんに使って飾られ見る人の目を見晴らせる、素晴らしいものでした。</p>
<h2>統一の完成</h2>
<p>充分に力を蓄えた秀吉は、大軍を動かして、まだ命令に従わない地方を討ちました。</p>
<p>1583年(天正22年)には長曽我部元親を攻めて四国を従わせ、1587年には島津義久を攻めて九州を平定しました。</p>
<p>最後に残ったのは関東の北条氏でしたが、これも1590年には滅ぼされ、秀吉は信長が死んでから、わずか8年で全国の統一を成し遂げたのです。</p>
<p>秀吉の戦争の仕方は、信長とも違っていました。</p>
<p>関東の北条氏を攻めたときは20万の大軍で取り囲み、食料として3万トンの米を小田原に近い港に集めたといわれます。</p>
<p>そのうえ、黄金を馬10頭に積み東海地方の穀物を買い占めました。<br />
これに対して北条軍は、わずか3、4万の軍勢で城に立てこもったのですから、敵うはずがありません。</p>
<p>このように秀吉は、段違いに秀れた戦力で敵を責め立てましたが、降伏した者には割合い緩やかでした。</p>
<p>長曽我部氏も島津氏も自分のもとからの領地は、そのまま認められました。</p>
<p>このようなところが、残酷なほど厳しかった信長と違い秀吉が全国の統一を成し遂げた原因の1つであったともいえます。</p>
<p>1585年(天正二二年)に秀吉は関白となり、その翌年には太政大臣になりました。<br />
太政大臣は、朝廷で一番高い身分です。</p>
<p>尾張(愛知県の一部)の農民の子に生まれた秀吉は、ついに日本全国の支配者になったのです。</p>
<p>秀吉はまた、京都に聚楽第というたいそう立派な屋敷を建てました。<br />
そして、1588年(天正一六年)には後陽成天皇をこの屋敷に招き同時に全国の大名たちも集めました。</p>
<p>このとき秀吉は「子孫に至るまで皇室を大切にし、また関白の命令には、どんなことでも従います」と誓わせました。</p>
<p>身分や家柄を貴んだ封建制度の時代に実力一つで身をたてた秀吉は天皇を上にいただいて諸大名を抑えようとしたのです。</p>
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		<item>
		<title>織田信長とは？　長篠の戦いと本能寺の変とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/794</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 11:46:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[長篠の戦]]></category>
		<category><![CDATA[本能寺の変]]></category>
		<category><![CDATA[明智光秀]]></category>
		<category><![CDATA[安土城]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長とは？　長篠の戦と本能寺の変について、日本の歴史を紹介します。 長篠の戦い 信長は新しい兵器として、鉄砲を早くから利用していましたが、この鉄砲の威力が最もよく示されたのが長篠の戦いです。 1575年（天正3 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長とは？　長篠の戦と本能寺の変について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>長篠の戦い</h2>
<p>信長は新しい兵器として、鉄砲を早くから利用していましたが、この鉄砲の威力が最もよく示されたのが長篠の戦いです。</p>
<p>1575年（天正3年）に、信長と徳川家康の同盟軍が武田勝頼(信玄の子)の軍と三河(愛知県の一部)の長篠で戦いました。</p>
<p>このとき武田軍は、天下無敵と言われた騎馬隊で突撃してきましたが信長軍が3000丁もの鉄砲で狙い撃ちしましたので散々に敗れました。</p>
<p>では信長は、なぜこんなに多くの鉄砲を持っていたのでしようか。</p>
<p>それは、このころの主な鉄砲の産地は堺の町と近江国(滋賀県の一部)でしたが信長は近畿地方を平定して、この産地を自分の領地にしていたからです。</p>
<h2>安土城</h2>
<p>近畿地方の勢力を固めた信長はその根城として、近江の安土に立派な城を造りました。</p>
<p>そして城下町に、部下の大名や侍を移り住ませ、商人や職人も呼び寄せましたので安土の町は、たいへん栄えました。</p>
<p>安土城は20メートルもある高い石垣の上に七重の天守閣が建ててありました。<br />
屋根瓦には金を塗り、建物の中にも金のふすまには狩野永徳らの描いた美しい絵がたくさんありました。</p>
<p>このように立派な城は、日本には、これまでなかったものです。</p>
<h2>本能寺の変</h2>
<p>信長は近畿地方と中部地方の大部分を平定して天下統一のもといを固めましたが、その他の地方には、まだまだ信長に従わない大名が残っていました。</p>
<p>中国で勢力を奮っていた毛利氏もその1人です。</p>
<p>信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将に命じて、これを撃たせ、自分も出陣しようとして安土城を出発し京都の本能寺に泊まりました。</p>
<p>このとき、家来の明智光秀が謀反を起し、ついに、責め殺されてしまいました。</p>
<p>1582年(天正10年)のことでした。</p>
<p>信長は、秀れた武将で室町時代の古い仕来りをどしどし打ち破りましたが、その一方で比叡山や一向一揆の焼き討ちのように残酷なやり方であったので、このような思いがけない死にあったのでしょう。</p>
<p>さて、織田信長についてもう少し紹介します。</p>
<p>信長の肖像画として最も正しいとされる三河（愛知県の一部）の長興寺に伝わる絵を見ますと信長は、うりざね顔の整った顔立ちをしています。</p>
<p>しかし、どこか神経質で癇癪持ちといったところもあります。</p>
<p>実際に信長に会ったキリスト教の宣教師ルイス＝フロイスという人は信長について「尾張の主は、痩せていて、ヒゲが薄く、キンキン声をし回りくどい話が嫌いで神や仏を信じない」と言っています。</p>
<p>子どもの頃は手に負えない乱暴な変わり者で「大うつけもの（大馬鹿）」と言われましたが大きくなるにつれて武芸・学問に励み、全国統一という大事業に手をつける武将にまでなったのです。</p>
<p>信長には残酷な一面があり僧や農民でも手向かう者には容赦なく武力を使いました。<br />
比叡山を焼き討ちしたり一向一揆と戦ったりしたのは、そのよい例です。</p>
<p>また、憎んでいた人を捕まえて、その首を「はくだみ（漆付）」とし酒盛りの度に、それを眺めたという話もあります。<br />
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