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	<title>室町幕府 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>室町幕府 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>織田信長とは？　室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺には！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/793</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 10:25:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
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		<category><![CDATA[石山本願寺]]></category>
		<category><![CDATA[一揆]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。 室町幕府を滅ぼす 足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛ん [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>室町幕府を滅ぼす</h2>
<p>足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛んになるのを見て、たいそう不安に思うようになりました。</p>
<p>また義昭は、将軍として信長の上に立とうとしましたが信長はそれを認めようとしませんでしたので義昭は、ついに信長の敵の大名たちの力を借りて信長を倒そうとしました。</p>
<p>信長は幾度も義昭を諌めましたが、その気持ちを改めようとしないので1573年(天正元年)に、とうとう義昭を京都から追い払いました。</p>
<p>200年あまり続いた室町幕府もこれで滅びたわけです。</p>
<h2>比叡山と石山本願寺</h2>
<p>しかし全国統一を目指す信長の前には、まだまだ、たくさんの強い敵がありました。</p>
<p>越後(新潟県の一部)の上杉謙信や甲斐の武田氏をはじめ越前(福井県の一部)の朝倉、近江(滋賀県)の浅井、中国の毛利、四国の長曽我部氏など、どれも強い大名でしたが、寺や農民もまた、しばしば信長を苦しめました。</p>
<p>京都のすぐ北にある比叡山延暦寺は近江(滋賀県)に持っていた領地を信長の家来に横取りされたので強い反感を持っていました。</p>
<p>僧兵たちは、浅井・朝倉などの大名と手を結んで信長に反抗しました。</p>
<p>そこで、おこった信長は1571年(元亀二年)突然比叡山を取り込んで寺を焼き払い、多くの僧や女子どもまで皆殺しにしました。</p>
<p>大坂石山の本願寺も、大きな力を持っていました。</p>
<p>本願寺は一向宗の総本山ですが寺のある石山は大阪湾にのぞみ海に囲まれた攻めにくい城になっていました。</p>
<p>そのうえ一向宗の信者には地方の農民や農民の頭として土地に住み着いている武士たちが多かったので、本願寺が指図をすると、ほうぼうで一斉に一揆をおこしました。</p>
<p>一揆は信長の敵側の大名たちと結んで信長の軍を苦しめ、このために信長の弟が戦死したこともありました。</p>
<p>そこで信長は、厳しく一揆を押さえつけました。</p>
<p>1574年(天正二年)に伊勢(三重県) の長島一揆を攻めたときには、降伏を許さず城の中に男女2万人を閉じ込めて、焼き殺しました。</p>
<p>その翌年には、越前の一揆を攻め農民も一向宗の僧も、見つけ次第に殺されました。<br />
「府中の町(福井県)は死体でいっぱいで、空き地もない」と信長自身が手紙を書き送っています。</p>
<p>信長は、最後に残った本願寺を責め立てましたので本願寺側は、とうとう1580年(天正八年)に石山城を明け渡し、信長に従うことになりました。</p>
<p>これで近畿地方は信長の勢力で固まりました。</p>
<p>信長が、比叡山や一向宗の僧を、残酷なほど厳しく責め立てたのは、この頃の仏教が宗教の立場を離れて、政治にくちばしを入れたり国内統一の邪魔をしたりしたからです。</p>
<p>このような仏教のカを弱めるために信長はキリスト教を保護したりしました。</p>
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		<title>応仁の乱とは？　戦国時代の始まりとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/768</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 17 Jun 2014 07:55:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
		<category><![CDATA[応仁の乱]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は室町時代に起こった応仁の乱について、日本の歴史を紹介します。 応仁の乱 1467年(応仁元年)、とうとう、細川方と山名方この間に、戦争がおこってしまいました。 この戦いには、多くの守護大名もそれぞれどちらかに味方し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は室町時代に起こった応仁の乱について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>応仁の乱</h2>
<p>1467年(応仁元年)、とうとう、細川方と山名方この間に、戦争がおこってしまいました。<br />
この戦いには、多くの守護大名もそれぞれどちらかに味方し、京都に集まりました。</p>
<p>これが応仁の乱です。</p>
<p>勝元の軍は東軍と呼ばれおよそ16万の軍勢を従えそのうえ、天皇や将軍を味方に引き入れました。<br />
宗全の軍は、西軍と呼ばれ、およそ11万の軍勢を従えました。</p>
<p>両軍は、激しく戦いましたがなかなか勝負がつきませんでした。<br />
そのため、京都は、見渡す限り、焼け野原になり皇居や幕府をはじめ、貴族や大名の住まいや神社・寺院もみな焼けてしまいました。</p>
<p>京都の町の人々の苦しみはいうまでもありません。それでも、戦いは、止みませんでした。</p>
<p>両軍の大将である、細川勝元も山名宗全もともに死んでしまいました。<br />
それに、大名たちも、自分の領地が乱れてきたので、次第に、それぞれの国に引き上げてしまいました。</p>
<p>こうして、11年も続いた応仁の乱はやっとおさまったのです。</p>
<h2>戦国時代</h2>
<p>応仁の乱の結果、幕府のカはいよいよ衰え、将軍は、なんのカも無い飾りものになってしまいました。<br />
義政の子の義尚は九代目の将軍になり幕府の勢いを示そうとして近江（滋賀県）の六角氏を征伐に出かけました。</p>
<p>けれども、もう将軍の命令を聞いて、本気で戦う者はありませんでした。</p>
<p>そして、義尚が近江で死ぬと、義稙がその後を継ぎました。<br />
義稙は、義尚のために将軍になりそこなった義視の子です。</p>
<p>しかし、将軍になった義稙も管領の細川政元(勝元の子)に追われ大内氏を頼って逃げ出す有様でした。</p>
<p>一方、応仁の乱のあと、それぞれの国に帰った大名たちは、ほとんど独立国の領主のようになり領地を広げようとして互いに戦争を繰り返すようになりました。</p>
<p>また、貴族や神社・寺院などの荘園を力ずくで横取りしたりしました。<br />
そのため、貴族や僧などは、すっかり落ちぶれてしまいました。</p>
<p>このようにして、応仁の乱ののち世の中は全く乱れ、戦いの絶え間が無く、なにごとも強いちの勝ちの世の中になりました。</p>
<p>そして、このような、乱れた戦争の世の中が、これから約100年ほど続いたので、この時代を説くに、戦国時代とも呼んでいます。</p>
<p>ですから、室町時代のあと半分ほどは、戦国時代だと言ってもよいのです！<br />
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		<title>守護大名とは？ 将軍との関係とは？ 明徳の乱・応永の乱・氷享の乱が起こるきっかけに？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/766</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 17 Jun 2014 06:39:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[明徳の乱]]></category>
		<category><![CDATA[応永の乱]]></category>
		<category><![CDATA[永享の乱]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
		<category><![CDATA[守護大名]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は室町時代の守護大名の勢いについて、日本の歴史を紹介します。 守護大名の勢い 足利尊氏は、豪族たちが南朝につくのを防ぐため彼らの機嫌を取ろうとして、どしどし土地を与えたり褒美に守護や地頭の役を与えたりしました。 また [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は室町時代の守護大名の勢いについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>守護大名の勢い</h2>
<p>足利尊氏は、豪族たちが南朝につくのを防ぐため彼らの機嫌を取ろうとして、どしどし土地を与えたり褒美に守護や地頭の役を与えたりしました。</p>
<p>また、守護が貴族や神社や寺の荘園を奪ったり年貢を横取りしたりするのを黙って見ないふりをしていました。</p>
<p>そのため、守護は広い土地を自分のものにしていきました。</p>
<p>ことに守護たちは、幕府が戦争で手が回らないのをよいことに自分の収めている国の武士たちを家来にし、その国を自分の領地のようにしてしまいました。</p>
<p>鎌倉時代の守護は、主にその国の警察の仕事や御家人の取り締まりをするだけでした。<br />
ところが、この時代の守護は国内の地頭を家来にし、警察の仕事ばかりでなく、それまで国司のしていた仕事までやるようになったのです。</p>
<p>つまり、名前は守護ですが実際には、その国の領主のようになってしまったのです。</p>
<p>こういう守護を守護大名といいます。</p>
<p>これらの守護大名のうちには山名氏のように、11カ国の守護をかね大内氏のように六か国をがねるほど強大なものもありました。</p>
<p>細川氏なども、多くの国々の守護をかねていました。</p>
<p>それに、これらの守護大名は、細川氏が管領になり山名氏が侍所の長官になるというように代々幕府の大切な役につきました。</p>
<p>そのため守護大名の勢いは、ますます強くなり、ついには将軍の手に負えなくなってきました。</p>
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<h2>将軍と守護大名</h2>
<p>守護大名がこのように強いことは幕府にとって大変困ることでした。</p>
<p>そこで義満は、1391年(明徳二年)に山名氏を討ち(明徳の乱)、さらに1399年(応永六年)に大内氏を討って(応永の乱)幕府の勢いを強めました。</p>
<p>これで、守護大名は、暫く幕府のいうことを聞くようになりました。</p>
<p>しかし、六代将軍義教のころになるとまた彼らの勢いが強くなりました。</p>
<p>そのうえ、鎌倉府の長官である足利持氏までがもとは同じ足利氏の出であるにも関わらず将軍の命令を聞かず、幕府に手向かう様子さえ見せました。</p>
<p>そこで、1439年(永享11年)将軍義教は、兵を遣わして、これを滅ぼしてしまいました。</p>
<p>これを、氷享の乱といいます。</p>
<p>義教はまた、四職（ししき）の家柄である一色氏を滅し、さらに勢いにのって、赤松氏をも、押さえつけようとしました。</p>
<p>ところが義教は、かえって赤松氏に殺されてしまいました。</p>
<p>義教が殺された後、やっと8才になったばかりの少年の義勝があとを継ぎました。<br />
しかし、義勝はまもなく死んでしまいそのあと、小さな弟の義政が将軍になりました。</p>
<p>けれども、将軍はもう飾りものにすぎません。<br />
そして、以前、義満に討たれた山名氏も大内氏も勢いを盛り返しました。</p>
<p>そればかりか、義教を殺しために一度は、討たれた赤松氏までもやがて勢いを盛り返してきました。<br />
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		<item>
		<title>室町幕府の財政はどんな感じ？　貴族化する将軍たちとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/765</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 17 Jun 2014 05:58:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
		<category><![CDATA[段銭]]></category>
		<category><![CDATA[棟別銭]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は室町幕府の財政についてと貴族化する将軍について、日本の歴史を紹介します。 貴族化する将軍 足利義満は将軍である一方、武士としては平清盛以来、例のない太政大臣という最も高い位を授けられました。 そして、義満以後の代々 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は室町幕府の財政についてと貴族化する将軍について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>貴族化する将軍</h2>
<p>足利義満は将軍である一方、武士としては平清盛以来、例のない太政大臣という最も高い位を授けられました。</p>
<p>そして、義満以後の代々の将軍もみな朝廷の高い官位をもらい朝廷に出入りして貴族と交わり自分たちも貴族のような暮らしをしました。</p>
<p>しかも、幕府が京都に開かれたため大名や武士たちの暮らしも、だんだん貴族のようになって武士らしさが無くなり、贅沢に馴染んできました。</p>
<p>義満の贅沢を最も良く示しているのは彼が京都の北山に建てた別荘で有名な金閣はその一部分です。</p>
<p>足利氏は、義満だけでなく、代々の将軍が贅沢をしたので幕府の財政は、次第に苦しくなってきました。<br />
そこで、収入を増やすために国民にいろいろな、重い税をかけました。</p>
<p>勘合貿易も、収入を増やすために必要だったわけです。<br />
国民の心は、このような幕府から次第に、離れていきました。</p>
<h2>幕府の財政</h2>
<p>室町幕府の最も大きな収入は御料所とよばれる幕府の領地からの年貢と必要なときに、守護に命じて出させるお金、それに、勘合貿易からあがる利益などによって賄われていました。</p>
<p>しかし、将軍が贅沢をしたのでこれではとても足りませんでした。<br />
そこで幕府は、普通の年貢の他に時々、臨時に段銭・棟別（むなべつ）銭などの取立てをしました。</p>
<p>段銭というのは、田一段につき何文と決めて割り当てる税棟別銭というのは、家ひと棟につき何文というように治めさせる税のことです。</p>
<p>これは、農民たちにとって、とても辛い税でした。</p>
<p>また、このころ京都には、たくさんの金貸し業者がいましたが幕府は、彼らから決まった税の他に、度々、臨時に、重い税な取立てました。</p>
<p>将軍が将軍らしくなく幕府の軍隊のカも弱いうえに財政の苦しかったことは室町幕府の弱点でした。<br />
しかし、それ以上の弱点は守護の勢いが強く、将軍の命令に従わないことでした。</p>
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		<item>
		<title>室町時代の政治の仕組みとは？ 室町幕府と鎌倉幕府の違いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/763</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 22 Feb 2014 20:46:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
		<category><![CDATA[三管領]]></category>
		<category><![CDATA[四職]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は室町時代の政治の仕組みについて、日本の歴史を紹介します。 足利尊氏とその子義詮とは、北朝の天皇から征夷大将軍の位を貰い京都に幕府を開きました。 しかし、その頃は南朝方との戦いが、まだ続いており足利氏の中にも、内輪も [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は室町時代の政治の仕組みについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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足利尊氏とその子義詮とは、北朝の天皇から征夷大将軍の位を貰い京都に幕府を開きました。</p>
<p>しかし、その頃は南朝方との戦いが、まだ続いており足利氏の中にも、内輪もめがあったりしたため幕府の力は弱いものでした。</p>
<p>ところが三代将軍義満のときになると南朝と北朝とが一つにまとまりました。</p>
<p>その上、考えの深い細川頼之が義満を助けて政治を行うようになり将軍の命令を聞かない山名氏を討ったりなどしたので幕府の勢いが強まりました。</p>
<p>また政治の仕組みも整ってきました。</p>
<p>義満が京都の室町に、花の御所と呼ばれる、立派な屋敷をつくり、ここを幕府としたので、足利氏の幕府のことを室町幕府といいます。</p>
<p>室町幕府の続いた時代を室町時代と言います。</p>
<p>室町時代は、およそ200年あまり続きますが幕府の政治が力強く行われたのは、初めの90年ほどの間だけでした。</p>
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<p>室町幕府は、政治のやり方も、その仕組みも鎌倉幕府を真似たものでした。</p>
<p>法律も、とくに新たに定めるようなことをせず北条泰時の定めた貞永式目をもととし、あとは必要に応じて補っていくだけでした。</p>
<p>幕府は、将軍の下に管領をおき、将軍の政治を助けさせました。</p>
<p>管領の下には、鎌倉幕府と同じように、政所・問住所・侍所などがおり、その下には、多くの奉行をおいて、それぞれの仕事を受け持たせました。</p>
<p>これらの内、最も力のあったのが管領と侍所の長官でした。<br />
管領には、足利氏の一族の細川・斯波・畠山の三氏が、代わる代わるなりした。</p>
<p>これを三管領といいます。</p>
<p>また侍所の長官は赤松・山名・一色・京極の四氏から選べれたので、この四氏を四職といいました。<br />
地方の国々には守護をおいて、足利氏に手柄のあった武将を守護としました。</p>
<p>また、各地の荘園に地頭をおきました。</p>
<p>これらは、鎌倉幕府のときと同じですが、ただ守護と地頭の力は、前よりずっと強いものになっていました。</p>
<p>また、地方のうちでも関東乗や東北地方などな治めることには、特に力を入れました。</p>
<p>鎌倉には鎌倉幕府をおいて、次男基氏とその子孫を長官とし上杉氏を関東管領にして、これを助けさせました。</p>
<p>東北地方には、奥州探題・羽州探題をおき、博多には九州探題なおいて、九州地方の豪族を抑えさせ、また外交の仕事を任せました。</p>
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