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	<title>室町時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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		<title>日本にキリスト教が伝来したのはいつ頃？　フランシスコ・ザビエルとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/790</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 07:24:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[ポルトガル船]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ=ザビエル]]></category>
		<category><![CDATA[アンジロー]]></category>
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					<description><![CDATA[今回はキリスト教の伝来とザビエルについて、日本の歴史を紹介します。 フランシスコ=ザビエル 1549年(天文一八年)の夏、つまり、鉄砲が伝わってから6、7年のちのこと、鹿児島へ一艘のジャンク(中国のほまえ船)がつきました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回はキリスト教の伝来とザビエルについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>フランシスコ=ザビエル</h2>
<p>1549年(天文一八年)の夏、つまり、鉄砲が伝わってから6、7年のちのこと、鹿児島へ一艘のジャンク(中国のほまえ船)がつきました。</p>
<p>この船には、フランシスコ＝ザビニルのほか7人ほどの人々が乗っていました。<br />
ザビエルを案内してきたのはアンジローという日本人でした。</p>
<p>アンジローは鹿児島の生まれでしたが罪をおかし、心の苦しみに耐えられないで日本を逃げ出したのです。</p>
<p>そして、マラッカで、評判のザビエルに会い苦しみを打ち明けて、心が楽になりました。<br />
アンジローはザビエルの導きでキリスト教の信者になりました。</p>
<p>ザビエルは、アンジローの利口で賢いことに感心し日本人がみなアンジローのようなら素晴らしいぜひ日本へ行こうと、決心したのです。</p>
<h2>ザビエルの働き</h2>
<p>ザビエルは早速、鹿児島の大名島津貴久に会い町で教えを広める許しを得ました。<br />
そして、お寺の境内に行ってはあまり上手ではない日本語で説教をしました。</p>
<p>鹿児島の人たちは、ザビエルがインドから来た坊さんだと聞いてたぶん、仏教の一派だろうぐらいに考えました。</p>
<p>そのうちに、仏教の攻撃を初めましたので僧たちは、ザビエルを追い出しにかかりました。<br />
ザビエルは、一年ほど鹿児島にいるうちにだんだん日本の様子がわかってきました。</p>
<p>都へ行けば、天皇という偉い人がいるそうだ。<br />
天皇に会って、日本中どこでも教えを広めてよいという許しが欲しいと思うようになりました。</p>
<p>ザビエルが、このことを島津氏に話しても許してもらえませんでした。<br />
島津氏は、ザビエルがいなくなってポルトガルの船が来なくなっては大変だと思ったのです。</p>
<p>島津氏がたいへんだと思ったのは外国の珍しい品物が来なくなっては困るからです。<br />
ザビエルは、思いきって、都に上ることにしました。</p>
<p>そして、アンジローにあとを頼み、平戸(長崎県)・博多(福岡市)・瀬戸内海をへて遥々、都に上りました。</p>
<p>ザビエルが都に着いたのはもう戦国の世も終わりに近い頃で天下は全く乱れ、朝廷や幕府の勢いは地に落ちているときでした。</p>
<p>彼は、荒れ果てた京都の町の有様を見て天皇も将軍も日本を治めるだけの力はないとすぐ諦めました。</p>
<p>そして、そのまま平戸へ引き返してしまいました。<br />
彼は、それから出直して周防(山口県の一部)の山口へ行き大内義隆に会いました。</p>
<p>天皇にあげるつもりだった、時計・眼鏡などの贈り物やインドの副王からの手紙を大内氏に差し出しました。</p>
<p>ここで、ザビエルは教えを広める許しを得て信者もたくさんできました。<br />
その中に、ロレンソというびっこでめっかちの琵琶法師(琵琶を弾いて物語を語りお金を貰って歩く人)がいました。</p>
<p>彼は、説教が上手で、大変役に立つ弟子になりました。</p>
<p>ザビエルが山口にいる間に、ポルトガルの船が豊後(大分県の一部)の日出に着いたという知らせがありました。</p>
<p>ザビエルは豊後に帰り、早速船長をはじめ船員たちを大勢連れて、府内(大分市)の城に大友義鎮を訪ねました。</p>
<p>義鎮も喜んで、教えを広める許しを得ました。<br />
そして、天主堂(教会堂) を作るための屋敷をくれる約束をしました。</p>
<p>ザビエルは、そのポルトガル船に乗ってインドへ帰りましたがまた日本に戻ってくるつもりでした。</p>
<p>彼が日本にいたのは2年と3か月その間にできた信者の数はやっと1000人か、1500人と言われています。</p>
<p>しかし、これが後には、千倍・万倍に増えるのです。<br />
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		<title>鉄砲が伝来したのはいつ頃から？ 初ヨーロッパ式の鉄砲「種子島」とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/789</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 14:43:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[種子島]]></category>
		<category><![CDATA[メンデス＝ピントー]]></category>
		<category><![CDATA[東洋巡回記]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回はヨーロッパの鉄砲が伝来した頃について、日本の歴史を紹介します。 鉄砲の伝来 遥々喜望峰をまわってインドに着いたポルトガル人は年ごとに東へ進みました。 そしてついに、1542、3年(天文11、12年)ごろ日本へたどり [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回はヨーロッパの鉄砲が伝来した頃について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>鉄砲の伝来</h2>
<p>遥々喜望峰をまわってインドに着いたポルトガル人は年ごとに東へ進みました。<br />
そしてついに、1542、3年(天文11、12年)ごろ日本へたどり着きました。</p>
<p>やってきたのは、メンデス＝ピントー他ふたりのポルトガル人でした。</p>
<p>彼らは、日本へ来るつもりなどなかったですが海賊や嵐に合い、波間を漂っているうちに大隅国(鹿児島県の一部)の種子島に流れついたのです。</p>
<p>この島のことを、ピントーが「東洋巡回記」という本に書いています。</p>
<p>この船には、ピントーの他にゼイモトという鉄砲の名人が乗っていて、百発百中どんな小さな的でもそらしませんでした。</p>
<p>これを見た領主の種子島時尭はその鉄砲が欲しくなり、大金を出して譲りうけました。<br />
日本では古くから、中国や朝鮮から不細工な鉄砲という名のものはあるにはありました。</p>
<p>けれども、ヨーロッパ式の鉄砲が日本に伝わったのは、これが初めてです。<br />
それで、この後、鉄砲のことを種子島というようになりました。</p>
<p>ポルトガル人が日本を発見し日本に着いたという噂が、一度伝わると東国のあちこちにいたポルトガル人は先を争って日本へやってきました。</p>
<p>ポルトガル人は、本国から「ナウ」という大型の船で、アジアに来ていました。<br />
彼らは、行く先々の港で、品物を売ったり買ったりしく大儲けをしました。</p>
<p>アジアに来て三年働くと国へ帰って一生楽に暮らせたというほどでした。</p>
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		<title>新航路の発見！  バーソロミュー、バスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼランとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/788</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 14:21:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[コロンブス]]></category>
		<category><![CDATA[バーソロミュー＝ジアス]]></category>
		<category><![CDATA[バスコ＝ダ＝ガマ]]></category>
		<category><![CDATA[アメリゴ＝ベスプッチ]]></category>
		<category><![CDATA[マゼラン]]></category>
		<category><![CDATA[イエズス会]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回はヨーロッパ人のアジア進出　新航路の発見について、日本の歴史を紹介します。 新航路の発見 15世紀の中頃から日本へ行きたいという臨みを特に強く持ったのが、スぺイン人とポルトガル人でした。 両国民とも、この頃から急に元 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回はヨーロッパ人のアジア進出　新航路の発見について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>新航路の発見</h2>
<p>15世紀の中頃から日本へ行きたいという臨みを特に強く持ったのが、スぺイン人とポルトガル人でした。<br />
両国民とも、この頃から急に元気付き海外発展の気風が高まってきたのです。</p>
<p>スぺインでは、イサべラ女王が後押しをしポルトガルでは、エンリケ王子が航海王と言われるほど航海に熱心でした。</p>
<p>王子は、航海の学校を建てたり自分で海図を作ったりして航海を奨励しました。</p>
<p>その上、羅針盤が発明され、天気が悪くても方角がはっきりわかるようになり、また、大きな船をつくる技術もこのころ急に進歩しました。</p>
<p>地球は丸いのだから、東へいっても西へいっても結局、元に戻れるし、インドや日本に行けるのだという考えも、人々の間に広がってきましました。</p>
<p>それから暫くは、ポルトガルは東まわり、スペインは西まわりとまるで、早回り競争のような、探検航海の大事業が続ききました。</p>
<h2>ヨーロッパ人のアジア進出</h2>
<p>まず、東まわりのポルトガル人はアフリカ西海岸をだんだんと南に下っていきました。</p>
<p>1484年には赤道を越え、1486年には、バーソロミュー＝ジアスが初めてアフリカの一番南の橋に着きました。</p>
<p>ポルトガルのジョアンニ世は喜んでこの岬を「喜望峰」と名付けました。<br />
バスコ＝ダ＝ガマは、この跡を継いで喜望峰をまわり、ペルシア湾を渡って1498年、ついにインドのカリカットに着きました。</p>
<p>このようにして勢いにのったポルトガル人は今までいばっていたアラビア人を負かしてインドの貿易を独り占めにしたのです。</p>
<p>そして、インドのゴアを根城にしマライ半島のマラッカを取り、香料で有名なモルッカの島々を探検しました。</p>
<p>さらに、中国の南にあるマカオを借り受けここで明(中国)との貿易をはじめ、とうとう日本の種子島につくことになります。</p>
<p>一方、西まわりのスペインはどうかと言えばその一番乗りはコロンブスです。</p>
<p>コロンブスは、西へ向かって進めば、きっとインドや日本へ行けると考えました。<br />
イサべラ女王の助けを借り1492年スぺインのバロス港を出て70日目に、西インド諸島に着きました。</p>
<p>コロンブスは喜びのあまりここを「サンサルバドル島」と名付けました。<br />
サンサルバドルというのは、「聖なる救い主」という意味です。</p>
<p>コロンブスは、4回航海を繰り返しパナマ地峡のあたりまで探検しました。<br />
けれども彼は死ぬまで、自分がインドや日本の近くにきたものと信じていました。</p>
<p>この他にも、西まわり方面では、イタリア人のカボットがイギリス王の命令で、北アメリカを探検しポルトガル人のカブラルは南アメリカのブラジルに流れ着きました。</p>
<p>それで、ブラジルはポルトガル領になりました。</p>
<p>ついで、アメリゴ＝べスブッチもブラジルを探検して大陸の地理を詳しく書きました。<br />
これがもとで、彼は新大陸の発見者と間違えられ新大陸はアメリカと名付けられました。</p>
<p>また、ポルトガル人のマゼランはアメリカ大陸の一番、南の橋に着き海峡を抜けて太平洋に出ました。<br />
この海峡は、彼の名前を取ってマゼラン海峡といいます。</p>
<p>マゼランはさらに進んで、フィリピンに着きました。</p>
<p>彼は、気の毒にも、ここで土人に殺されてしまいますが部下の人たちはさらに西に進みとうとう、1522年に本国のスペインに戻りつきました。</p>
<p>ここに、世界一周の大事業が成し遂げられ地球の丸いことが、事実として証明されたのです。<br />
なお、スぺイン人は、メキシコを征服しフィリピンも我がものとしました。</p>
<p>こうして、スぺインとポルトガルは世界の各地に植民地をつくり、お互いに入り乱れて争いました。<br />
彼らは、日本へ来てからも、お互いに邪魔を仕合いました。</p>
<p>ポルトガルの後押しで日本に来たイエズス会(キリスト教の一派)の宣教師とスペインの進めで日本へ来たフランシスコ会(キリスト教の一派)の宣教師とは教えを広める方法について意見が合わず結局、そのどちらも、日本にいられないような結果になってしまうのでした。<br />
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		<title>マルコ＝ポーロと東方見聞録とは？　ヨーロッパの高まるアジアの関心とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/787</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 13:02:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[マルコ＝ポーロ]]></category>
		<category><![CDATA[東方見聞録]]></category>
		<category><![CDATA[ジパング]]></category>
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					<description><![CDATA[今回はマルコ＝ポーロと東方見聞録について、日本の歴史を紹介します。 アジアへの関心 黄金、金、この光り輝いている美しい金属。 極古い時代から人間は金に憧れてなんとかして少しでも手に入れようと、いろいろ苦心しました。 ヨー [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回はマルコ＝ポーロと東方見聞録について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>アジアへの関心</h2>
<p>黄金、金、この光り輝いている美しい金属。<br />
極古い時代から人間は金に憧れてなんとかして少しでも手に入れようと、いろいろ苦心しました。</p>
<p>ヨーロッパでは、錬金術といってなんとか人間の力で金を作りだそうと手品師のような学者たちが、知恵を絞り工夫を凝らしました。</p>
<p>けれどもそれは、もちろん無理な相談でした。</p>
<p>ジパング、つまり日本へ行けば、その金がいくらでも、わけなく手に入るというように書きたてたのがベネチア(イタリア)生まれのマルコ＝ボーロでした。</p>
<p>ヨーロッパ人は、その日本へ是非言ってみたいと思うようになりました。</p>
<p>十字軍の遠征のお陰でアジアの様子は、だんだんとわかってきていましたし金の他にも、アジアには様々な欲しいものがありました。</p>
<p>中国の絹・インドの木綿・熱帯地方の宝石や香料(胡椒やニッケイの類)などのどから手が出るほど、欲しいものはあっても途中トルコ人がいて高い税をとります。</p>
<p>なんとか、トルコ人のところを通らずに直接アジアへ出て言って思いきり欲しいものを持って帰りたい出来ることなら、日本へも行ってみたい、こう考えるようになってきたのです。</p>
<h2>マルコ＝ポーロと「東方見聞録」</h2>
<p>マルコ＝ポーロは、1254年イタリアのべネチアに生まれました。<br />
ポーロは父や、おじと一緒に元(中国)に渡りクビライに仕えました。</p>
<p>クビライと、いうのは、元のときの中国の皇帝です。</p>
<p>ポーロは特に話が上手で、大層皇帝の気に入り20年間も、クビライに仕えました。<br />
やっと許しが出て、べネチアに帰ったところを戦争に巻き込まれ、牢屋に入れられてしまいました。</p>
<p>「東方見聞録」という本は、その時昔を思いだして書いたものです。<br />
「ジパンク(日本)では、屋根が金でふいてある。天井も金、机も金、庄も金でできている。」などと書いてあり、ヨーロッパ人のアジアへの関心を高めるのに、大きな役割を果たしました。<br />
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		<item>
		<title>諸国の大名とは？ 北条早雲・武田信玄・上杉謙信・毛利元就とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/786</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 12:29:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[北条早雲]]></category>
		<category><![CDATA[武田信玄]]></category>
		<category><![CDATA[上杉謙信]]></category>
		<category><![CDATA[毛利元就]]></category>
		<category><![CDATA[戦国武将]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は土一揆とは？　一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。 諸国の大名 戦国大名は、領内の政治に力を入れるとともに、たえず武力を蓄え、隙があれば、ほかの大名を滅ぼして 領土を広げようとしました。 18世紀 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は土一揆とは？　一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>諸国の大名</h2>
<p>戦国大名は、領内の政治に力を入れるとともに、たえず武力を蓄え、隙があれば、ほかの大名を滅ぼして<br />
領土を広げようとしました。</p>
<p>18世紀の半ばを過ぎて、室町時代も終わりに近いころになると、これらの争う大名のうち弱いものは滅び、強いものだけが残ってきました。</p>
<p>これらの大名のうちから有名な人を2、3あげてみましょう。</p>
<h2>北条早雲</h2>
<p>北条早雲は、もと伊勢長氏といって伊勢国(三重県の一部)の関氏の一族でしたが家は落ちぶれ、浪人をしていました。</p>
<p>彼は、そこから駿河国(静岡県の一部)に移って守護の今川義忠のところに、留まりました。<br />
そして、隙をみて、堀越公方(関東管領の子孫)を滅し伊豆(静岡県の一部)一国を平らげたのです。</p>
<p>彼は、さらに箱根山(神奈川県)を越えて小田原城を奪い、相模国(神奈川県の一部)を手にいれ北条早雲と名乗りました。</p>
<p>早雲は領内の政治に心をくばり「早雲寺殿廿一箇条」という家法まで定めました。</p>
<p>早雲の孫の氏康は、さらに関東地方に乗り出し安房(千葉県の一部)の里見氏を下総の国府台(千葉県)で破りました。</p>
<p>また、自ら関東管領を名乗っていた上杉氏の軍を武蔵の川越(埼玉県)で破っています。</p>
<p>氏康は、さらに越後(新潟県)の上杉謙信や甲斐(山梨県)の武田信玄などとしばしば戦い、その武名をあげました。</p>
<h2>武田信玄と上杉謙信</h2>
<p>武田信玄は、甲斐の守護の家に生まれました。<br />
彼は、外交にも領内の政治にも特に秀れその上、戦上手でした。</p>
<p>甲斐は狭い山国だったので信玄は領土を広げようとして信濃国(長野県)に攻め入りました。<br />
そこで、この国の大名たちは越後の上杉謙信に助けを求めたのです。</p>
<p>謙信は、求めに応じて、兵を率い川中島(長野県の千曲川と犀川が合流する地点にある三角州)に出て決戦を交えました。</p>
<p>上杉謙信は、もと長尾景虎といって関東管領を名乗っていた上杉氏の家来でした。</p>
<p>後に、山内上杉憲政から上杉の苗字を貰い受け上杉景虎と改めました。<br />
彼はまた、謙信とも名乗っています。</p>
<p>謙信は、はじめ小田原の北条氏を攻める予定でしたが信濃の大名たちに救いを求められたので予定を代えて川中島まで出かけたのです。</p>
<p>彼は、人に頼まれれば、後には引けない性格だったのです。</p>
<p>謙信と信玄は、川中島で四度まで勝負を争いましたがどちらも強かったので、とうとう引き分けに終わってしまいました。</p>
<p>これを川中島の戦いといいます。</p>
<h2>毛利元就</h2>
<p>毛利元就は、安芸国(広島県の一部)の吉田の地頭で、はじめ、周防国(山口県の一部)の大名大内義隆に、従っていました。</p>
<p>しかし、義隆が家臣の陶晴賢に滅ぼされるとこの敵を討とうとして、謀を巡らし晴賢の軍を安芸の厳島(広島県)に誘き出して、打ち破ってしまいました。</p>
<p>元就は、こうして、大内氏に代わって周防・長門(山口県の一部)・安芸の三国を手にいれることになったのです。</p>
<p>元就は、さらに出雲国(島根県の一部)の守護尼子氏を責め滅し、中国地方で一番大きな大名に成り上がったのです。</p>
<p>元就は、子孫に、これ以上むやみに戦をせず領土を安全に守っていくようにと諭しました。<br />
それで、毛利家はこのあと長く無事に栄えました。<br />
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		<title>戦国大名とは？　全国統一されてからも栄えた領内の開発とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/785</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 12:00:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[連座]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は戦国大名とは？　領内の開発について、日本の歴史を紹介します。 戦国大名 応仁の乱をさかいに、それまで勢いの強かった守護大名は、相続く戦いの中で次々に倒れていきました。 これに代わって、その家来であったものが各地に領 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は戦国大名とは？　領内の開発について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h3>戦国大名</h3>
<p>応仁の乱をさかいに、それまで勢いの強かった守護大名は、相続く戦いの中で次々に倒れていきました。<br />
これに代わって、その家来であったものが各地に領国を打ち立てて、戦国大名となります。</p>
<p>しかし、中には守護大名が、そのまま戦国大名に、かわっていったものもいました。</p>
<p>主な戦国大名としては小田原(神奈川県の一部)の北条氏甲斐(山梨県)の武武田氏・越後(新潟県)の上杉氏、尾張(愛知県の一部)の織田氏、三河(愛知県の一部)の徳川氏、安芸(広島県の一身部)の毛利氏、薩摩(鹿児島。県の一部)の島津氏などがありました。</p>
<h3>領内の取り締まり</h3>
<p>このような戦国大名は、室町時代の初めの守護大名のように荘園の経済に頼ろうとはしませんでした。<br />
それどころか、かえって荘園制度を武力で押しつぶし農民たちを直接、自分の支配下におきました。</p>
<p>こうして領国を作り上げた戦国大名は他の誰からも指図を受けず完全な独立国の主人のようになりました。</p>
<p>しかし、それだけに、武力を強め立派な政治をしなければ、いつ自分が滅ぼされてしまうかわかりません。</p>
<p>そこで、戦国大名は、家臣(けらい)たちを力強く取り締まるとともに、鎌倉幕府の貞永式目の例にならって、領国の法律や家訓を定めました。</p>
<p>これを家法とか壁書などといっています。</p>
<p>大内氏の「大内家壁書」・伊達氏の「塵芥集」、今川氏の「今川仮名目録」、武田氏の回「信玄家法」、朝倉氏の「朝倉敏景十七箇条」・北条氏の「早雲寺殿廿一箇条」、長曽我部氏の「長曽我部元親百箇条」などが、それにあたります。</p>
<p>これらの家法や壁書によると領主である戦国大名の権力はたいへん強く家臣や領民の命や財産は、ひとりの領主に握られていたことがわかります。</p>
<p>領主の命令に背いたものは、例え殺されても領内から追い払われても、文句が言えません。<br />
領主の一族が結婚する場合も家臣が家を継ぐとき、いちいち領主の許しが必要でした。</p>
<p>鎌倉時代の貞永式目では女性の地位がかなり高く認められていましたが戦国大名の法律では、女性の地位は低いものでした。</p>
<p>財産もわけてもらえず、男性より低くみられ都合次第で、勝手に、他所へ嫁に出されてしまいます。</p>
<p>また、領内に騒ぎがおこるのを防ぐために喧嘩がおきても、言い分を聞かずに喧嘩両成敗と言って両方とも罰しました。</p>
<p>重い罪を犯した場合いにはその人だけでなく、一族や、その家来までも、罰せられました。</p>
<p>これを連座といいます。</p>
<p>刑罰のやり方も大層厳しくどしどし死刑が行われました。<br />
死刑にも、様々あって張り付け・のこぎりびき・串刺しなど名前を聞くだけで、ぞっとするような残酷なやり方をしています。</p>
<h3>領内の開発</h3>
<p>戦国大名は、領内の取り締まりを厳しくするとともに、その経済を豊かにするために産業の発達に力をいれました。</p>
<p>まず、荒地を切り開き、耕地を広げました。</p>
<p>それから、金山や銀山などの鉱物資源の開発にも力を入れました。<br />
また、領国の政治・経済・軍事の中心地である城下町を栄えさせるために、いろいろと、工夫を凝らしました。</p>
<p>まず、商工業者を荘園の領主であった貴族や神社・寺院から切り離して城下町に呼び集めるために、これまでの座とは違った、楽市・楽座の制をつくりました。</p>
<p>それまでの座の制度だと、商売ができるのは、座に入っている者だけでした。<br />
しかも、商売をするためには、いろいろな税を荘園領主に納めなければなりません。</p>
<p>それが、楽市・楽座では、税を治める必要もなく誰でも商売ができました。<br />
その他、いろいろと保護を加えたので商工業者は、喜んで城下町に集まってきました。</p>
<p>また、大名たちは神仏を信仰していたので近くにある神社や寺を城下町の一部に移して土地を与えました。</p>
<p>その結果、寺町まで出来ました。</p>
<p>これらの城下町は、その後織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のために全国が統一されてからもいよいよ栄え地方の代表的な都市として発展していきました。<br />
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		<title>下克上とは？　どんな武将でも すぐに下のものに 滅ぼされる世の中！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/784</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 11:21:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[下克上]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は下克上とは？　下克上の武将たちについて、日本の歴史を紹介します。 応仁の乱の後、それまで勢いを奮っていた守護大名を乗り越えて新しく伸びてきた大名たちがあります。 これを戦国大名と言います。 戦国大名は、実力でとった [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は下克上とは？　下克上の武将たちについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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応仁の乱の後、それまで勢いを奮っていた守護大名を乗り越えて新しく伸びてきた大名たちがあります。</p>
<p>これを戦国大名と言います。</p>
<p>戦国大名は、実力でとった自分の領地を、さらに広げようとして、お互いに隙を伺っては戦いを仕掛けました。</p>
<p>彼らは、また立派な城を築き、その周りに城下町をつくり領内の政治に力を入れました。</p>
<h2>下克上とは？</h2>
<p>室町時代の初めの頃から次第に下克上ということが、流行ってきました。<br />
下克上というのは、身分の下のものが上のものを実力で凌ぐことを言います。</p>
<p>いくら家柄が低くても、実力さえあれば地位の高いものを追い越して構わないという激しい生き方です。</p>
<p>この下克上という考え方は、その頃の社会に広く深く伝わり、土一揆にも応仁の乱にも、その他いろいろなところに見られました。</p>
<p>しかし、応仁の乱が終わり将軍の力が、全く衰え、いよいよ戦国の世となると下克上の考え方は、さらに全国的に広がっていきました。</p>
<p>例えば都では、将軍や管領の勢いは衰え、その家来の三好長慶や松永久秀などが実際の政治を行うようになります。</p>
<p>また、地方の国々でも関東公方の足利氏よりも、その家来の上杉氏の力の方が強くなりました。</p>
<p>守護は下役の守護代に、守護代は、またその下役の家老などに乗り越えられ全て実力本位の世の中になっていきました。</p>
<h2>下克上の武将たち</h2>
<p>戦国の世に活躍した武将たちは、みな、古い習わしなど、踏みにじって進むだけの元気と実力がありました。</p>
<p>例えば、応仁の乱のとき、西軍の大将だった山名宗全は、ある貴族の学者に、こう言ったという話があります。</p>
<p>「むかしは、こうだったなどと、昔のことばかり言っていて、時代が変わっていくのに気付かなかったからこそ貴族は貧乏になり、ついには武士に辱めれて天下を取られてしまったのです」</p>
<p>この言葉には、その頃の戦国武士たちの気持ちが、よくあらわれています。<br />
しかし、下克上の世の中では、どんな武将でも油断をしていたら、すぐに自分より下のものに、滅ぼされてしまいます。</p>
<p>三好長慶は、はじめ管領細川晴元の家来でした。</p>
<p>しかし、やがて主人より勢いが強くなりついには将軍さえも、自分の思う通りに動かせるようになった、下克上の見本のような武将です。</p>
<p>ところが、この三好長慶でさえも最後には、自分の家来の松永久秀の勢いに押されて死んでしまいました。<br />
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		<item>
		<title>土一揆とは？　一向一揆や山城国一揆とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/783</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 10:44:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[法華一揆]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[一揆]]></category>
		<category><![CDATA[土一揆]]></category>
		<category><![CDATA[一向一揆]]></category>
		<category><![CDATA[山城国一揆]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は土一揆とは？　一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。 土一揆とは 室町時代の農民たちは、次第に強く、まとまってきましたが、その結果領主の無理な命令に対してはカを合わせて手向かうようになりました。 例 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は土一揆とは？　一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>土一揆とは</h2>
<p>室町時代の農民たちは、次第に強く、まとまってきましたが、その結果領主の無理な命令に対してはカを合わせて手向かうようになりました。</p>
<p>例えば、年貢の割り当てが多すぎたり課役(領主から割り当てられた一種の税)が重すぎたりすることがあります。</p>
<p>すると、農民は、まず自分たちの困っている有様を訴えてでます。<br />
それで駄目だと、みんなで村から逃げ出したりしました。</p>
<p>しかし、やがて大勢の力を頼りに力強く談判し、言うことを聞いてもらえないと手に手に、鎌や刀などを持ち集団で領主に手向かうようになってきました。</p>
<p>これを土一揆と言います。</p>
<p>土一揆は、すでに14世紀ごろからおこっていましたが1428年(正長元年)に、近畿地方におこった正長の土一揆が、最初の大規模なものだと言われています。</p>
<p>この一揆は、京都、奈良にまで攻め込みました。</p>
<p>土一揆の出した要求の中には、年貢を減らしてほしいとか徳政令を出してほしいというものが多く入っていました。</p>
<p>このうち徳政令を要求した一揆のことを徳政一揆といいます。</p>
<p>その他、馬借・車借などという交通の仕事をしている労働者の一揆もおこり、これは馬借一揆・車借一揆と呼ばれました。</p>
<p>これらは、しばしば土一揆と一緒になって大きな一揆を引き起こしました。</p>
<p>土一揆は、応仁の乱の後、年事に激しさを増し、しばしば都にも攻め込んで寺院や、金貸しを襲いました。</p>
<h2>山城国一揆とは</h2>
<p>1485年(文明17年) つまり応仁の乱のすぐ後に山城国(京都府の一部)の南部で大きな土一揆がおこりました。</p>
<p>これを、山城国一揆と呼んでいます。</p>
<p>その頃、南山城では、守護の畠山政長と畠山義就との間で、長い間、戦いが続けられていました。<br />
そのため、一般の人々はたいへん迷惑していました。</p>
<p>これを見て、国人と呼ばれる勢いの強い名主たちが国内の土民を呼び集め、両畠山軍に戦を止めて山城国から出ていくように、申し入れました。</p>
<p>もし、止めなければ、実力で追い出すぞというのです。<br />
長い戦いで疲れていた両畠山軍は、しかたなく国外に退きました。</p>
<p>そのあと、七年あまりもの間、山城国では五十六人衆と呼ばれる国人たちの話し合いの政治が行われたのです。</p>
<p>これを国支配といいます。</p>
<p>この山城国一揆に加わったものの大部は生活に目覚めた農民たちでしたが、その他に馬借や車借も入っていたようです。</p>
<h2>一向一揆とは</h2>
<p>この頃の一揆には、この他に一向一揆とか法華一揆のような宗教団体の一揆もありました。<br />
一向一揆は一向宗の信者のおこした一揆です。</p>
<p>また、法華一揆は、法華宗の信者がおこした一揆です。<br />
この内、最も激しかったのは、一向一揆でした。</p>
<p>一向宗の大元の寺は、大谷本願寺といって、はじめ京都の大谷にありましたが応仁の乱で焼けたため、越前(福井県)の吉崎続いて京都の山科に移りました。</p>
<p>この頃、蓮如という僧がでましたがこの人は気の強い人で、一向宗を広めるために、たいそう苦心しました。</p>
<p>その結果、越前国(福井県の一部)加賀国(石川県の一部)など北陸地方にたくさんの信者ができました。<br />
そのうちに、山科の本願寺も焼かれたので今度は摂津の石山（大阪市）に本願寺を築きました。</p>
<p>石山本願寺は、いざというときには戦も出来る大名の城のような寺でした。</p>
<p>一向宗は一筋に、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行けるという教えですから、難しい理屈のわからない、一般の人々にも広く信じられたのです。</p>
<p>また、信者(門徒)の間の結びつきは、信仰を中心にして繋がっているだけに普通の人々の結びつきとは、比べ物のに、ならないほど固いものでした。</p>
<p>1488年(長享二年)、応仁の乱のすこし後で加賀(石川県の一部)におこった一向一揆は能登(石川県の一部)、越力中(富山県の一部)にまで広がりました。</p>
<p>一揆の人数は20万に達したと言われ、ついに、加賀国の守護の富樫政親の軍勢を破り政親を自殺させてしまいました。</p>
<p>それから、100年近くの間、加賀国では本願寺門徒が権力を握り僧と土地の豪族と農民の代表者による話し合いの政治が行われました。</p>
<p>そのため加賀国は、本願寺の領国だとさえ言われました。</p>
<p>一向一揆は、土一揆が沈められてから後も、なお強い力をもっていましたが、やがて織田信長や豊臣秀吉に征伐されてしまいます。<br />
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		<title>起請文・会合の制とは？ 農民に自治制ができてきた？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/782</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 09:12:44 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[起請文]]></category>
		<category><![CDATA[会合の制]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/782</guid>

					<description><![CDATA[今回は起請文・会合の制について、日本の歴史を紹介します。 起請文 村決めには、村人分つまり村の平和を乱すと村から追い出すなどの厳しい掟がありました。 農民は自治を支えていくために互いに起請文を取り交わしました。 起請文と [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は起請文・会合の制について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>起請文</h2>
<p>村決めには、村人分つまり村の平和を乱すと村から追い出すなどの厳しい掟がありました。<br />
農民は自治を支えていくために互いに起請文を取り交わしました。</p>
<p>起請文というのは、守ろうとすることを書きとめてこれを破らないことを神に誓った書類です。<br />
農民が作った起請文にはまず村決めのことを記し、それを守ることを神に誓い、もしこれに背いたら村八分になっても構わないと書きます。</p>
<p>そして、年月日の下に、名前を書き血判を押します。</p>
<p>血判というのは、小指の先を切って血を出し、それを判子の代わりに押したものです。<br />
農民たちは、互いにこのような起請文を取り交わし、いよいよ団結を固めたのです。</p>
<p>これらの起請文の中には、もしも、自分たちの村が外から敵に攻められたときには、命を捨てて、戦うことを誓い合ったものさえあります。</p>
<p>そのために、周りに掘りを掘って、守りを固めた村まで現れてきました。</p>
<h2>自治の町 堺</h2>
<p>農民に自治制ができてくるとともに都市の町人にも、自分たちの住む町の政治は自分たちの手で行いたいという気持ちがおこってきました。</p>
<p>自治を行った町の中でも特に名高いのは、和泉(大阪府の一部)の堺です。</p>
<p>堺は、大阪の南にあり古くから海陸の交通の上で大切なところとして知られていました。<br />
これが港町として、特に発達してきたのは室町時代の始めから中頃にかけて海外貿易が盛んになりだしてからのことです。</p>
<p>この頃、堺の町人たちは室町幕府や領主の細川氏の命令な受けて中国や南方諸国との貿易にのりだし、たいへんに儲けました。</p>
<p>応仁の乱の後は、世の中に争いが絶えず、せっかく豊かになった町を焼かれる恐れが出てきました。<br />
そこで、町人たちは、自分たちの町を守るために自治制を行うことを申し出て領主の許しを得ました。</p>
<p>はじめは、領主のところから代官が遣わされ見張りを受けていました。</p>
<p>しかし、室町時代の終わり頃に領主の細川氏が衰えるとともに完全に独立し、町の政治をすっかり自分たちの手で、行うようになりました。</p>
<p>そして、町年寄、月行事などを町人の中から選び、これらの人々は、話し合いで町の政治を進めました。<br />
このような政治の仕組みを、堺の町の場合会合の制といいます。</p>
<h2>会合の制</h2>
<p>会合の制は、36人の町年寄から成り立ち彼らは、会合の衆と呼ばれています。<br />
会合の衆は、みな、金持ちの商人でした。</p>
<p>その頃は、戦の、絶え間がなかったので彼らは外敵が攻め込んでくるのを防ぐためいろいろのことをしました。</p>
<p>まず町の周りに堀を巡らし、その内側に土居と呼ばれる土手のような囲いを築きました。<br />
そして町の周りに木戸をおき、いざというときには、それを固く締め、浪人(どの大名にも仕えていない武士)を雇って守りを固めました。</p>
<p>そのため、町の中はいつも平和で自由に商業を行うことができ店もたいへん、繁盛していました。<br />
自治制度をもつ町は堺のほかにも、伊勢の宇治山田や、大湊(どちらも三重県伊勢市)などがありました。</p>
<p>摂津の平野(大阪市)や筑前の博多(福岡市)なども堺やま宇治山田などにつぐ自冶都市として名を知られていました。<br />
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		<title>室町時代の村や町での決まりや規則とは？ 荘園制度の崩壊があった？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/781</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 08:32:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[荘園制度]]></category>
		<category><![CDATA[村決め]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は室町時代の村や町での決まり・規則について、日本の歴史を紹介します。 村や町のまとまり 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争い、そして室町時代の中頃には応仁の乱というように14世紀以来、国の中はたいへんに落ち着きませんでした [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は室町時代の村や町での決まり・規則について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>村や町のまとまり</h2>
<p>鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争い、そして室町時代の中頃には応仁の乱というように14世紀以来、国の中はたいへんに落ち着きませんでした。</p>
<p>その上、応仁の乱の後では、足利将軍の勢いは次第に衰え、これに代わって国々の守護大名の勢いが強まってきました。</p>
<p>古いもの力は弱まり強いもの勝ちの世の中になってきたのです。</p>
<p>こういう乱れた世の中で自分たちの生活を守っていくために、村や町に住む農民や町人たちは、大勢の力を合わせて、1つにまとまっていきました。</p>
<h2>崩れる荘園制度</h2>
<p>鎌倉時代に、全国に守護・地頭がおかれてから荘園は、次第にそれらの武士たちに、よって奪われていきました。</p>
<p>荘園領主である、都の貴族や神社・寺院などは、なんとか、これを食い止めようとしましたが実力のある武士たちには敵いませんでした。</p>
<p>そして、鎌倉時代の中頃からは、下地中分といって、地頭に荘園の半分を取られるようになってしまいました。</p>
<p>また、南北朝の頃か残る半分の荘園から取れる年貢もその半分を守護大名に奪われ、ついには、荘園そのものまでも守護大名に乗っ取られてしまうのです。</p>
<p>そして、荘園領主たちは年貢か少しも取れなくなり次第に衰えていったのです。</p>
<h2>村決め</h2>
<p>農業が進歩し、農産物の取れ高が増してくるにつれて勢いの強い名主(地主)たちは、生活にゆとりができてきました。</p>
<p>そこで彼らは武カをたくわえ土地の豪族となり、独立して村々を支配するようになってきました。</p>
<p>農民たちも、そのような土豪としっかり手を繋ぎ合い、重い年貢や外からやってくる乱暴者などから自分たちを守ろうとしました。</p>
<p>そのため彼らは、自分たちの間で村決めとして規則を作りました。<br />
農民たちは、このようにして自分たちで政治を行うようになったのです。</p>
<p>村の政治は、長とか沙汰人などと呼ばれる人々によって行われました。<br />
これらの人々は、今で言えば村長のようなもので、たいてい勢いの強い名主から選ばれました。</p>
<p>これらの名主は、農民の代表として荘園の領主といろいろな交渉をしましたが、また一方では、領主の家来になって農民を治めることもしました。</p>
<p>衰えてきた荘園領主も、このような村決めを認め、これまで地頭や守護に請け負わせていた年貢米を村々の有力者に請け負わせました。</p>
<p>このことを、百姓請とか地下請といいます。</p>
<p>村にとって大事な事柄は、農民たちの寄り合いの席で決められました。<br />
寄り合いは、村の鎮守様と呼ばれる神社や寺などで行われました。</p>
<p>そして、正月・お盆・節句のときなど決められた日に集まりました。<br />
また必要なときには、臨時に寄り合いを行いました。</p>
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