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	<title>宿場 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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		<title>江戸時代に発達した交通機関とは？ 飛脚や回船とは？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 05:27:17 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[今回は江戸時代の交通の発達について、日本の歴史を紹介します。 五街道 戦国時代の頃までは全国に通じる道路はあまり発達せず交通は、まだまだ不便でした。 江戸幕府では、戦争がおこって軍隊や荷物を早く運ぶ必要のあるときのことを [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代の交通の発達について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>五街道</h2>
<p>戦国時代の頃までは全国に通じる道路はあまり発達せず交通は、まだまだ不便でした。</p>
<p>江戸幕府では、戦争がおこって軍隊や荷物を早く運ぶ必要のあるときのことを考えて五街道(東海道・中山道甲州道中・日光道中・奥州道中)を整えました。</p>
<p>大名の参勤交代が盛んになると五街道は、一層、立派になりました。</p>
<p>普通の道に比べると道幅も広く、両側に旅人の日よけや休みをとるための松や杉の並木が続き約4キロメートルごとに一里塚がおかれました。</p>
<h2>宿場とは？</h2>
<p>五街道には10キロメートルほど行くごとに宿場がつくられていました。<br />
東海道には品川(東京都)から大津(滋賀県) まで五三宿いわゆる東海道五十三次の宿場がありました。</p>
<p>中山道では板橋(東京都)から守山(滋賀県)まで六七宿で京都まで、東海道の草津と大津の宿を入れると、六九宿になります。</p>
<p>宿場には問屋場があって、いつも人足と馬を用意しており幕府の役人や大名の荷物を運びました。<br />
そして、だんだん一般の人も利用できるようになりましたが、そのかわり賃銭は倍も多くとれました。</p>
<p>備え付けの人馬は東海道が100人100匹、中山道が50人50匹、甲州、日光・奥州の三街道は25人25匹と、決められていました。</p>
<p>しかし、これだけで足りないときは近くの村に助郷を言いつけました。</p>
<h2>本陣とは？</h2>
<p>宿場には旅龍屋や茶店などが並んでいましたが一番よい、旅寵を本陣といい大名などは、ここに泊まったり休んだりしました。</p>
<p>本陣の次に立派な旅館が脇本陣です。<br />
普通の旅人はそれ以外の炭寵屋に泊まりました。</p>
<p>しかし幕府の役人や大名の中には自分が本陣に泊まるときには普通の旅人を他の旅寵屋に止めることを禁止した者もいました。</p>
<h2>関所と川止め</h2>
<p>街道の大事なところには関所をおいてありました。<br />
戦国時代に比べると関所の数は、ずっと減りましたがそれでも東海道の箱根・新居、中山道の碓氷・福島をはじめ数十か所も造られていました。</p>
<p>関所を通るには通行手形がなくては通れませんでした。</p>
<p>関所は「出女入鉄砲」といって江戸に人質のようにして、おいてある大名の妻や子が国本に帰ることと江戸に鉄砲などの武器が送られることを取り締まったほか主に犯罪人の逃げるのを防ぐためのものでした。</p>
<p>「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という馬子歌があります。<br />
それほど大井川の川止めは有名のものでした。</p>
<p>幕府は、大きな川には橋を掛けさせませんでしたので渡し舟で渡るか歩いて渡るほかありませんでした。<br />
橋を掛けさせなかったのは橋があると、戦争のときに敵に利用される恐れがあり、また犯人が遠くへ逃げるのを防ぐためだったといわれています。</p>
<p>歩いて渡るところは東海道だけでも、大井川のほかに酒匂川・興津川・安倍川がありました。</p>
<p>渡し舟で渡れるところまだいいのですが、それが無いところは川の水が増えて、大人の胸以上になると危ないので川止め(通行禁止)になりました。</p>
<p>そうなると、旅人は両岸の宿で水がひくのを何日も待たなければなりませんでした。<br />
川を渡るには人足の肩に乗るものと、れん台に乗るものがありました。</p>
<p>だから、渡し場には川越人足がたくさんいました。</p>
<h2>飛脚とは？</h2>
<p>江戸時代の郵便屋は飛脚でした。<br />
人間が走って手紙や品物や現金を運ぶのです。</p>
<p>江戸から京都まで、だいたい90時間急行で82時間、最急行で60時間で走りました。<br />
飛脚にも、身分の違いがありました。</p>
<p>幕府の大切な手紙は宿場の人足がリレー式に運ぶので継飛脚と、たいへん威張っていました。<br />
大名飛脚や町飛脚もありました。</p>
<p>また江戸・大坂・京都に町飛脚の組合が出来毎月三度の定期便を出すようになったので、それを三度飛脚といいます。</p>
<h2>海上交通の発達</h2>
<p>陸上の交通と共に水上交通も発達しました。<br />
幕府も諸藩も、川や湖に工事をして船で遠くまで荷物を運べるようにしました。</p>
<p>角倉了以が、高瀬川・保津川・富士川などを切り開いたのもその一例です。</p>
<p>駿河(静岡県の一部)から甲斐(山梨県)に行ける水路をつくったとき甲斐の人は、初めて船というものを見て、びっくりしたということです。</p>
<h2>回船とは？</h2>
<p>江戸時代には、鎖国で海外へ付くことは固く禁止されていましたが海岸に沿って船を動かすこととは許されていました。</p>
<p>海上の交通は、古くから瀬戸内海な中心に発達していましたが、この時代になると、江戸が政治の中心となったので江戸と上方(京都や大坂)との航路が盛んになりました。</p>
<p>この航路は南海路と呼ばれ菱垣(槽垣)回船と、たる回船の二つが行き来しました。</p>
<p>越後(新潟県の一部)や出羽((秋田県・計.山形県)で採れる米を運ぶ航路も、1670年(寛文10年)ごろ河村瑞賢が、東まわり・西まわりの航路を開いてから、盛んになりました。</p>
<p>東まわりは、津軽海峡を通り太平洋を下って江戸に行く航路です。<br />
西まわりは下関海峡を通り瀬戸内海をへて大坂へ行く航路です。</p>
<p>大坂と江戸との間には南海路がありますから、これで日本中の産物をどこへでも運ぶことが出来るようになりました。</p>
<p>このように、陸上・海上の交通が発達してくると、たくさんの商品を輸送できるようになり商業を盛んにさせると共に他のいろいろな産業を発展させるようになったのです。<br />
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