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	<title>平安時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>平安時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>源平の戦いとは？　壇ノ浦の戦いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/740</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 20:44:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[壇ノ浦の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[源平の戦い]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は平氏を滅ぼした、壇ノ浦の戦いについて、日本の歴史を紹介します。 義仲を滅ぼした範頼と義経は、やがて平氏を征伐することになりました。 そのころ平氏は九州で勢いを盛り返し、四国の屋島に根拠地を構えました。 1184年( [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は平氏を滅ぼした、壇ノ浦の戦いについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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義仲を滅ぼした範頼と義経は、やがて平氏を征伐することになりました。<br />
そのころ平氏は九州で勢いを盛り返し、四国の屋島に根拠地を構えました。</p>
<p>1184年(元暦元年)平氏は福原に返り、一ノ谷に陣をとりました。<br />
義経は鴨越から平氏の後ろに回って、不意打ちをかけたのでこれをきっかけとして、平氏の軍勢は総崩れになりました。</p>
<p>このとき平氏の軍勢の大将たちは、たくさん討ち死にしました。</p>
<p>平敦盛は、このときわずか16才でしたが、熊谷次郎直実に組み伏せられ悲しい最期を遂げたと言われます。</p>
<p>平氏の軍は、屋島へ逃げ帰り、範頼と義経は京都へ引き上げました。<br />
けれども、まもなく平氏を追い討ちにすることとなり範頼は山陽道から九州へ向かいました。</p>
<p>範頼の軍は、非常に苦しい戦いを続け、早く関東へ帰りたいと思うものが多くなりました。<br />
しかし平氏の勢いは、まだまだ強く、範頼の大軍もなかなか屋島へ攻め進むことができません。</p>
<p>そこで、そのころ、頼朝によく思われていなかった義経も、再び平氏を討つように頼朝から命じられました。<br />
義経は、1185年(文治元年)、嵐の中を、摂津国(兵庫県の一部と大阪府の一部) から阿波国(徳島県)に渡り、にわかに屋島へ攻め込みました。</p>
<p>わずか数百の軍勢で平氏の水軍を打ち破ったのです。<br />
この戦で、平氏の船で官女が扇の的を掲げたのを須与一宗高が見事に射落として、敵味方からほめられた話や、佐藤継信が義経の身がわりになって討ち死にした話も伝わっています。</p>
<p>平氏は、このようにして屋島からも、逃げ出しました。<br />
義経は700の軍船を率いて、ついに平氏を長門の壇ノ浦(山口県) に追い詰めました。</p>
<p>平氏は500の軍船で防ぎました。しかし、勝利は源氏のものでした。<br />
生き残った平氏の人たちは8才の安徳天皇とともに海に身を投げました。</p>
<p>総大将の宗盛は、捕えられ、やがて近江(滋賀県)で斬られました。<br />
安徳天皇の母平徳子も身投げなしましたが、源氏の兵士に助けられ後に京都の寂光院で、亡くなった人たちの、あの世の幸せを祈りながら一生を終えました。</p>
<p>このようにして、平家はすっかり滅びました。1185年(文治元年)3月のことです。</p>
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		<title>源平の戦いとは？　木曽義仲ってどんな人？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/739</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 20:23:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[木曽義仲]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[一の谷の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[水島の戦い]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は木曽義仲について、日本の歴史を紹介します。 頼朝のいとこにあたる義仲は木曽の山奥で育ち、木曽義仲とも呼ばれました。 平氏を滅ぼせという以仁王の命令を受けて立ち上がり信濃国(長野県)から越後国(新潟県)にすすみました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は木曽義仲について、日本の歴史を紹介します。<br />
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頼朝のいとこにあたる義仲は木曽の山奥で育ち、木曽義仲とも呼ばれました。</p>
<p>平氏を滅ぼせという以仁王の命令を受けて立ち上がり信濃国(長野県)から越後国(新潟県)にすすみました。</p>
<p>それから平維盛の大軍を越中国(富山県)の礪波さんで打ち破りました。<br />
義仲は、このとき、たくさんの牛の角に松明をつけ敵の陣地へ追い込み、そのために平氏の軍勢は驚き慌てて逃げ出したということです。</p>
<p>このようにして、義仲は、近江国(滋賀県)にすすみ延暦寺の僧兵と手を結んで京都へ攻め上りました。<br />
義仲が京都に近づくと、平氏は清盛の子、宗盛以下安徳天皇をつれて西国へ逃げ出しました。</p>
<p>文平氏と仲の悪かった後白河法皇は、そのまま京都に残りました。<br />
やがて義仲の軍が、京源都に入りました。</p>
<p>しかし都の貴族たちは、田舎育ちの義仲を馬鹿にしました。<br />
そのうえ義仲の軍が、都でいろいろ乱暴な振る舞いをしたので、都の人々に、嫌われるようになりました。</p>
<p>そこで後白河法皇は、頼朝に頼んで、義仲の勢いを押さえつけようと考えました。<br />
法皇は、義仲に平氏を追い討ちにするように命令を下しました。</p>
<p>出かけて行った義仲の軍は、備中国(岡山県の一部)の水島の戦いで負け散々な目にあって京都に引き上げてきました。</p>
<p>一方、後白河法皇から、義仲を退けるように頼まれていた頼朝は弟の範頼と義経を大将として京都に向かわせました。</p>
<p>義仲の軍と、鎌倉側の軍は、瀬田(滋賀県)と宇治(京都府)の近くで戦い義仲の軍は破れました。<br />
義仲も琵琶湖のほとりの粟津で、ついに戦死してしまいました。</p>
<p>一時は、旭将軍木曽義仲とも言われましたが最期は、哀れな死にかたをしました。</p>
<p>木曽義仲が京都に近づくと、平氏の公達な、次々に都落ちをしました。<br />
そのひとり薩摩守忠度も、都を出ましたが途中から引き返して和歌の先生であった藤原俊成の門を叩きました。</p>
<p>門の中では、落ち武者が来たと、騒ぎ立てましたが、俊成は門を開けさせました。<br />
忠度は「もう平氏の行く末も終わりです。</p>
<p>近く勅撰集(天皇の命令でつくられる和歌集)が作られるとのことですが、一首だけでも載せて頂けたら、一生の喜びです」と言って和歌を書いてある巻物を俊成に預けました。</p>
<p>忠度は、一の谷の戦いで、なごりの歌を鎧に結び付けて戦死しました。<br />
その後、世の中が治まると千載和歌集をつくることとなりました。</p>
<p>そこで忠度のことを思いだし、「故郷の花」という歌を一首選びました。</p>
<p>さざ波や志賀の都は荒れにしを<br />
昔ながらの山桜かな</p>
<p>しかし忠度は、天皇の咎めを受けた人なので「詠み人知らず(つくった人がわからない)」として載せました。</p>
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		<title>源平の戦いとは？　源頼政と源頼朝ってどんな人？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/738</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 19:54:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[源頼朝]]></category>
		<category><![CDATA[源頼政]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は源平の戦いについて、源頼政と源頼朝を中心に、日本の歴史を紹介します。 源頼政は源頼光の子系です。 年をとってから三位にのぼりましたので源三位頼政といいました。 保元の乱のときには、平清盛らとともに崇徳上皇の軍を破り [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は源平の戦いについて、源頼政と源頼朝を中心に、日本の歴史を紹介します。<br />
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源頼政は源頼光の子系です。</p>
<p>年をとってから三位にのぼりましたので源三位頼政といいました。<br />
保元の乱のときには、平清盛らとともに崇徳上皇の軍を破りました。</p>
<p>その後、しばらく清盛と親しくしていましたが、人々が平氏に背くようになったのを見て、今こそ平氏を討つべきだと決心しました。</p>
<p>源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王から、平氏を滅ぼせという命令を貰いました。<br />
この命令は、全国に散らばっている源氏に伝えられました。</p>
<p>さらに源頼政は、延暦寺や興福寺などの僧兵と相談し宇治の平等院にこもって戦いました。<br />
しかし、戦は頼政に不利でした。<br />
平氏の大軍に破られ、ついに以仁王も源頼政も戦死しました。</p>
<p>しかし、この戦をきっかけとして、源氏の武士は各地で立ち上がり平氏と戦い初めました。<br />
そこで清盛は、1180年(治承四年6月、都を摂津の福原(神戸市)に移しました。</p>
<p>しかし、急に移ったために、皇居の準備も出来ていなかったので、貴族たちは、福原の都を嫌いました。<br />
貴族たちの気持ちをなだめるため、清盛は、また同じ年の11月に都を京都へかえしました。</p>
<p>人々は、いよいよ不平を言うようになりました。<br />
おまけに、飢饉や悪い病気さえ流行しました。</p>
<p>世の中の動きは、ますます平氏に不利になっていくばかりでした。</p>
<p>1180年(治承四年)8月、平治の乱の後に、伊豆国(静岡県の二部)に流されていた源頼朝は、妻、政子の父北条時政の助けを受けて、立ち上がりました。</p>
<p>しかし、平氏方の大庭景親の軍と戦って敗れました。<br />
頼朝は、このとき大木の洞穴に隠れたのを敵方の梶原景時に助けられたと伝えられています。</p>
<p>やがて頼朝は、房総半島に渡り、関東の豪族たちの助けを得て勢力を、盛り返しました。<br />
そして、同じ年の10月、相模国の鎌倉(鎌倉市)に入り、ここを根拠地と定めました。</p>
<p>鎌倉は、もともと、八幡太郎義家の父、源頼義が源氏の氏神の八幡を京都の石清水から由比郷へ移したところで、源氏とは深い繋がりがありました。</p>
<p>また自然の地形も、三方が山に囲まれていて、攻め難く、守り易い土地でした。</p>
<p>そして頼朝は、鎌倉が東北地方と京都とのほぼまん中にあり、源氏の力を伸ばすのに都合がよいと考えたのです。</p>
<p>頼朝が立ち上がったことを聞いた清盛は孫の維盛を大将として頼朝を討つよう命じました。<br />
頼朝は平氏の大軍を迎え撃つために黄瀬川に兵をすすめました。</p>
<p>このとき、京都の鞍馬寺から東北地方の平泉(岩手県)の藤原氏のもとに行っていた義経も兄の頼朝のところへ駆けつけました。</p>
<p>源氏と平氏の両軍は、駿河(静岡県の一部)の富士川を挟んで向かい合いましたが維盛の軍勢は、夜中に水鳥の飛び立つ音に驚いてろくに戦もしないで京都へ逃げ帰りました。</p>
<p>平氏の意気地の無さに呆れ、日増しに盛んになる頼朝の勢いを見て国々の武士や僧兵たちは、次々に平氏に背くようになりました。</p>
<p>1181年(養和元年)清盛は、激しい熱病にかかって死にました。</p>
<p>平氏の勢いは、これから一日一日と、衰えていきました。</p>
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		<item>
		<title>平清盛ってどんな人？ 鹿が谷の変とは？ 宋との貿易が行われたのはいつ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/737</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 00:07:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[平清盛]]></category>
		<category><![CDATA[鹿が谷の変]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は平安時代に栄えた平氏について、日本の歴史を紹介します。 保元の乱と平治の乱の後にも、皇室の内輪もめは続きました。 このころ後白河上皇と二条天皇との仲が悪く、どちらも平氏に頼ろうとしました。 清盛は、これを上手く利用 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は平安時代に栄えた平氏について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>保元の乱と平治の乱の後にも、皇室の内輪もめは続きました。<br />
このころ後白河上皇と二条天皇との仲が悪く、どちらも平氏に頼ろうとしました。</p>
<p>清盛は、これを上手く利用して、ますます自分の勢いを強くしていきました。<br />
1167年(仁安二年)に清盛は、とうとう太政大臣になりました。</p>
<p>政治の上での最高の位です。</p>
<p>そればかりでなく平氏の一族は、ほとんどが高い位につきました。<br />
清盛の妻の妹は、後白河法皇の妃になりました。</p>
<p>その間に生まれたのが、高倉天皇です。<br />
また清盛の娘は高倉天皇の妃となり、安徳天皇を生みました。</p>
<p>このようにして、清盛は皇室の親戚となり、自由に朝廷を動かすようになりました。</p>
<p>平氏の荘園は、全国に500あまりの多くに昇り、藤原氏が栄えていたことろにも、負けないほどになりました。</p>
<p>一族の公卿は16人、昇殿を許された人は30人あまりもいて、平氏の中には「平氏でなければ人間ではない」というものさえあるほどでした。</p>
<p>平氏は、こうして国の政治を独り占めにしました。<br />
平氏は、もともと武士ですが、保元の乱以後、京都に住み、それまでの貴族の真似をしてきました。</p>
<p>このため、暮らしぶりも、華やかになりほとんど藤原氏の人々と、変わらないようになりました。<br />
武士でありながら、眉墨を描いたり、歯に黒金をつけたりしました。</p>
<p>これが、平氏の公達でした。</p>
<p>このようにして、平氏の政治も藤原氏の政治と、あまり違いませんでした。<br />
ただ外国との付き合いだけは、これまでの貴族と違って活発に進めました。</p>
<p>そのころ中国は宋の時代でした。<br />
宋とは、だいたい平安時代の中頃から、民間の貿易が行われていました。</p>
<p>そこで、前々から宋との貿易に目をつけていた清盛は、音戸の瀬戸(広島県) を開いたり、摂津の福原(神戸市)に別荘を建てて、兵庫の港(神百戸港)を築いたりしました。</p>
<p>ここに宋の船を呼び寄せ、今まで九州の博多などでやっていた貿易を行い、大きな利益をあげました。<br />
そして清盛は、後白河法皇を福原に招いて、宋の貿易船を見せたりしました。</p>
<p>なお、清盛は航海の安全を祈るために、瀬戸内海の厳島神社を信仰し、立派な社殿を建てて、京都の貴族たちにも、お参りさせました。</p>
<p>清盛は、宋との貿易で、ますます豊かになりました。<br />
それで、勢いに任せて自分勝手な政治をし、貴族の藤原氏や、京都やその付近の寺の荘園を、横取りするようなこともありました。</p>
<p>そのため、後白河法皇や藤原氏の人たちをはじめ、平氏のわがままを憎む者が、あちこちに、たくさん現れてきました。</p>
<p>1177年(治承元年)、後白河法皇の傍に仕えていた藤原成親・藤原師光、また平康頼や僧の俊寛などという人たちが、京都の東山の鹿が谷に集まり、平氏を滅ぼそうとする計画をたてました。</p>
<p>この酒盛りのとき、瓶子(とくり)が倒れたので一回は手を叩いて、平氏が倒れたと言って、喜び合いました。</p>
<p>清盛は丁度、福原に行って留守でした。<br />
この機会を狙って、平氏を倒そうとしたのです。</p>
<p>しかし、この計画は、すぐ平氏に知られてしまいました。<br />
鹿が谷に集まった人の一人源行綱が清盛に、こっそり知らせたからです。</p>
<p>清盛は、ただちに京都へ返り、師光を殺して、成親・俊寛らを鬼界島(九州南方の島。今の硫黄島といわれる)に流しました。</p>
<p>これを鹿が谷の変といいます。</p>
<p>鹿が谷の変の後、後白河法皇と清盛の仲は、たちまち悪くなりました。<br />
清盛の長男重盛は、このことを非常に心配していましたが、やがて重盛が死ぬと、清盛は、法皇な鳥羽殿という屋敷に押し込めてしまいました。</p>
<p>兵庫(今の神戸港)は、古くから和田泊と呼ばれた港ですが、港の西にある和田岬は、西風な防ぐたけで、東と南からの高い波を防ぐことが出来ませんでした。</p>
<p>そこで清盛は船が安全に出入り出来るように、東風と南風を防ぐための島をつくることになりました。</p>
<p>工事は全国から人夫を集め、1173年（承安3年）頃から始められましたが、潮の流れが速いので、少し土をもっても、すぐに崩されてしまい、中々はかどりません。</p>
<p>この頃、生きている人を埋めると工事が上手くいくという、迷信がありました。<br />
人々は清盛に、この人柱を立てて工事の完成を祈ることを進めました。</p>
<p>しかし清盛は、「罪の無いものを生埋めにするのは、よくない」といって、人柱の代わりに、お経を刻んだ石を海の中に沈めさせました。</p>
<p>こうして出来たのが経島ですが、迷信に捉われないで、思った通りに仕事を進めた清盛の強い気性を知ることができます。</p>
<p>しかし清盛は、この工事が完成するのを見ないで死にました。</p>
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		<title>平治の乱とは？ 平氏と源氏のどちらが勝ったの？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/736</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 23:04:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[平治の乱]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/736</guid>

					<description><![CDATA[今回は平治の乱について、日本の歴史を紹介します。 保元の乱によって、朝廷や貴族の間のごたごたが、無くなったわけではありません。 今度は保元の乱に手柄のあった武士の頭、源義朝と千清盛とが勢力争いを始めました。 平清盛は、後 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は平治の乱について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>保元の乱によって、朝廷や貴族の間のごたごたが、無くなったわけではありません。<br />
今度は保元の乱に手柄のあった武士の頭、源義朝と千清盛とが勢力争いを始めました。</p>
<p>平清盛は、後白河天皇と親しくなり、おいおい高い位につけられました。</p>
<p>ところが源義朝は、保元の乱には、一番手柄を立てたのに、その褒美や位が、清盛よりも悪かったのです。</p>
<p>そのために義朝は、非常に不満でした。<br />
やがて後白河天皇は、位を二条天皇に譲って上皇となりました。</p>
<p>その頃、上皇のお気にいりの貴族であった藤原信西と、藤原信頼とが勢力を争っていました。<br />
藤原信西は、非常な学者で、朝廷の儀式などにも詳しい人でした。</p>
<p>この藤原信西が、平清盛と親しく、藤原信頼が源義朝と手を結びました。<br />
そして藤原信西と信頼は、互いに相手の隙を狙っていたのです。</p>
<p>保元の乱から3年経った1159年(平治元年)12月に、平清盛は、紀伊国(和歌山県)にある熊野神社へお参りに行きました。</p>
<p>熊野神仲社は、那智山と本宮と新宮との三山にわかれており、このころ皇室や貴族の間では、盛んに信仰されていました。</p>
<p>清盛も、それに習って、お参りしたのです。</p>
<p>熊野神社へ行くには、普通紀伊国を通って行くのですが、「平家物語」には、清盛は伊勢の海を渡っていったと書かれています。</p>
<p>そのとき、清盛の船にスズキという魚が飛び込んできたので、大変めでたい印だと、喜んだということです。</p>
<p>このようにして、清盛が京都を留守にしている隙を狙って、藤原信頼と源義朝は、兵を率いて後白河上皇の御所三条殿を不意打ちにしました。</p>
<p>さらに、内裏へも攻め込んで、上皇も天皇も押し込めてしまいました。<br />
こうして信頼や義朝は、自分たちで、勝手に重い役目に就きました。</p>
<p>そのとき藤原信西は、いち早く大和国(奈良県)へ逃げ出し、途中で穴を掘って、その中に隠れ、竹筒で息をしていましたが、追い駆けてきた源氏の兵士に見つかり、とうとう首を跳ねられてしまいました。</p>
<p>京都で、このような事件がおこっていることを聞くと、清盛は、さっそく京都へ引き返してきました。</p>
<p>その途中、摂津国の阿倍野(大阪市)で、義朝の子義平が、大兵を引き連れて待ち構えているという噂があって清盛を驚かせましたが、それも嘘だったので清盛は、無事に京都へ返ることができました。</p>
<p>そして、すぐに平氏の武士を集めました。<br />
こうして清盛の軍勢は、源氏方が立てこもっている皇居を攻め立てました。</p>
<p>そのとき、義朝のの長男義平と、清盛の長男重盛とが、紫衰殿の前の左近の桜・右近の橘を巡って、激しく戦ったと伝えられています。</p>
<p>しかし、ついに源氏方の負け戦となりました。</p>
<p>そして藤原信頼は、京都の近くで殺され、義朝は関東へ逃げて行く途中、尾張国の野間(愛知県)で、自分の家来の家に泊まっているとき、風呂場で殺され、義平も近江国(滋賀県)で見つかって自殺しました。</p>
<p>そのとき、義朝の子頼朝は、わずか13才でしたが、父と一緒に逃げる途中ではぐれ、ついに平氏方に捕まりました。</p>
<p>しかし清盛のまま母、池禅尼のとりなしで、頼朝が死んだ自分の子どもに似ているというので命を助けられ、伊豆の蛭が小島(静岡県)に流されました。</p>
<p>また同じく義朝の子の牛若(後の義経)も、爺は助けられ、京都の鞍馬寺に預けられました。</p>
<p>この戦争を平治の乱と言い、戦はこのようにして、片付きましたが、この後平氏の勢力は、にわかに強くなっていきました。</p>
<p>清盛の位は、目覚ましく進み、やがて全ての政治を平氏の一族で動かすようになりました。</p>
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		<title>保元の乱とは？ 貴族に代わって武士がの勢いが強まる！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/735</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 03:53:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[保元の乱]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は保元の乱について、日本の歴史を紹介します。 白川上皇が、院政を行っていた頃から、皇室の内では、天皇の位を巡って、争いが激しくなりました。 この争いに、藤原氏の内輪もめが結びつき、そのために京都では、今にも戦が、持ち [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は保元の乱について、日本の歴史を紹介します。<br />
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白川上皇が、院政を行っていた頃から、皇室の内では、天皇の位を巡って、争いが激しくなりました。<br />
この争いに、藤原氏の内輪もめが結びつき、そのために京都では、今にも戦が、持ち上がりそうになっていました。</p>
<p>崇徳上皇は、父の鳥羽法皇に天皇の位を近衛天皇に譲らされましたが、近衛天皇が若死にしたので、上皇は自分の子を天皇にしたいと思っていました。</p>
<p>それなのに法皇は、上皇の弟の後白河天皇な位につけました。<br />
そこで天皇と上皇との仲が悪くなりました。</p>
<p>また、藤原氏の中でも忠通と、その弟の頼長とが摂政・関白の位を争っていました。<br />
忠通は鳥羽法皇の力を借りて弟との争いに勝ち、摂政・関白になりましたので、頼長は法皇や忠通を恨んでいました。</p>
<p>そして自分と同じ気持ちの崇徳上皇と、親しくなりました。<br />
内輪もめは、これだけではありません。</p>
<p>そのころ京都にいた武士の間でも、平忠正と、その甥の清盛との間が、上手くいきませんでした。<br />
また源為義と、その子義朝との仲も、あまりよくなかったのです。</p>
<p>このように、親子・兄弟・叔父甥の間に争いがあり、それが、縺れ合っていました。<br />
そして、ついに保元の乱という大騒動がおこったのです。</p>
<p>1156年(保元元年)に、鳥羽法皇が亡くなりました。</p>
<p>崇徳上皇と藤原頼長は、ただちに兵を集めて後白河天皇を攻めようとしました。<br />
これに集まった武士は、源為義と、その子為朝、平忠正などでした。</p>
<p>ところが天皇側は、ひと足先に上皇のいる白河殿を攻めました。<br />
天皇側の武士は、源義朝・頼政、及び平清盛、その子重盛、そして平頼盛などでした。</p>
<p>上皇側の源為義や為朝たちは、よく戦いましたが、風上から火をつけられて、散々に負けてしまいました。</p>
<p>為朝が強い弓で、兄の義朝をびっくりさせたのはこのときのことです。<br />
こうして、戦は崇徳上皇方が、散々に破れ、天皇方が勝ちました。</p>
<p>崇徳上皇は讃岐国(香川県)に流され、藤原頼長は、大和国(奈良県)へ逃げる途中で、殺されました。<br />
また、平忠正と源為義ら17人の武士は、死刑にされました。</p>
<p>ただ為朝だけは、その武勇を惜しまれて、死刑になるのを許され、伊豆の大島(東京都)に流されました。</p>
<p>為朝は、後に大島を抜け出して、琉球(沖縄)に行って、そこの王様になったという伝説もあります。<br />
保元の乱の戦いは、わずか1日で終わりましたが、その影響は、非常に大きなものがありました。</p>
<p>これまで、京都の公家たちは、平安時代の初め頃から、ざっと350年ほどの間、死刑と言うような、残酷なことを行わないで、過ごしてきました。</p>
<p>それが、この乱なきっかけに、人を殺すことを平気でやるような世の中になっていきました。<br />
それと言うのも、これまでの貴族に変わって、武士の勢いが強くなり、武士のカで世の中を動かしていくようになったからです。</p>
<p>このため、戦争が相次いで起こるようになりました。<br />
果たして、保元の乱の後まもなく、平治の乱という戦いが、同じ京都を舞台としておこりました。<br />
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		<item>
		<title>院政とは？　院政の始まりと院政の仕組みとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/734</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 02:30:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[院政]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/734</guid>

					<description><![CDATA[今回は院政について、日本の歴史を紹介します。 後三年の役があった頃、摂政、関白の勢いが衰えて、上皇が院を行うようになりました。 上皇というのは、天皇の位を退いた人ですが、この上皇が朝廷とは別に政治を行うことを院政というの [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は院政について、日本の歴史を紹介します。<br />
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後三年の役があった頃、摂政、関白の勢いが衰えて、上皇が院を行うようになりました。<br />
上皇というのは、天皇の位を退いた人ですが、この上皇が朝廷とは別に政治を行うことを院政というのです。</p>
<p>醍醐天皇以来、代々の天皇は、みな藤原氏の娘が生んだ皇子でした。<br />
ところが、藤原頼通り頃になって170年ぶりに藤原氏に関係のない天皇が、位につくことになりました。</p>
<p>後三条天皇です。後三条天皇の母は、三条天皇の皇女でした。</p>
<p>天皇と血の繋がりが無くなった頼通は、関白を弟の教通に譲って、宇治に引っこみました。<br />
後三条天皇は、学者の大江匡房などを相談相手にしながら、藤原氏に遠慮することなく、政治を改めていきました。</p>
<p>物の値段を定めたり、ますを統一したりしました。<br />
中でも、各地にあるたくさんの荘園の整理には、一番熱心でした。</p>
<p>これまでも、ときどき荘園を整理しようという試みは行われましたが、荘園を最も多く持っているものが摂関家ですから、少しも効果が上がりません。</p>
<p>けれども、後三条天皇は、摂関家の荘園でも、大きな寺や神社の荘園でも、容赦なく書きつけを出させて調べました。</p>
<p>そして、新しい荘園や、国司の政治に邪魔になるような荘園は、どしどし取り上げました。<br />
荘園ができたため、収入が減って困っている国司たちが、喜んだのは、言うまでもありません。</p>
<p>藤原氏をよく思っていない貴族たちも、天皇のやりかたに賛成しました。</p>
<p>後三条天皇は、わずか数年で、位を白河天皇に譲りましたが、上皇になってからも、引き続いて政治を行おうとしました。</p>
<p>白河天皇の母は、藤原氏からでた人でしたから、その次の天皇には、藤原氏と関係の無い皇子を、天皇の位につけようと思ったからです。</p>
<p>つまリ、これから先も、藤原氏が再び、わがままなことなしないように、という考えでした。<br />
けれども、後三条天皇は、これを果たす前に亡くなってしまいました。</p>
<p>後三条天皇が亡くなると、白河天皇は後三条天皇の心に背き、藤原氏の娘から生まれた自分の皇子を、皇太子に立てました。</p>
<p>続いて、天皇の位を譲って上皇になりましたが、政治はそのまま行いました。<br />
自分の子孫が、引き続いて天皇になれるように、子孫の地位を守るためでした。</p>
<p>院政は、こうして始まったのです。1086年(応徳三年)のことでした。</p>
<p>白河上皇は、院政を始めてから10年の後、髪を剃って法皇になりましたが、院政は、そのまま続けました。</p>
<p>また、法皇は、仏教を深く信仰し、大きな寺や、たくさんの仏像をつくりました。<br />
しかし、延暦寺や興福寺の僧兵たちは法皇の信仰深いのをよいことにして、ますます乱暴になりました。</p>
<p>法皇は「自分の思う通りにならないのは、賀茂川(京都市を流れる川)の水と、すごろくのさいと、山法師(僧兵) の三つだ」と嘆いたと伝えられています。</p>
<p>僧兵たちの乱暴を取り鎮めるには、どうしても、武士の力を借りなければなりませんでした。<br />
法皇は、源義家が生きている間は、源氏の武士を用いましたが、義家が死ぬと、平維衡のひ孫の正盛をとりたてました。</p>
<p>義家が、あまりに地方の武士や農民に人気があるので、これ以上源氏をとりたてるのは、危ないと考えたのでしよう。</p>
<p>平氏は、院政が始まると、法皇の取り立てによって、にわかに勢い:が強くなりました。<br />
そして、正盛の子の忠盛のときには、昇殿を許されました。</p>
<p>昇殿というのは、天皇が普段住んでいる清涼殿の殿上の間に出入りすることで、昇殿を許されるということは、貴族にとってもなかなか名誉なことでした。</p>
<p>院政は、天皇の父、または祖父にあたる上皇が、政治を行うので、これまで天皇の母方の祖父が政治をした摂関政治と似ています。</p>
<p>しかし、摂関政治では、形だけは天皇を中心としていましたが、院政では、天皇はもちろん、摂政・関白も、ほとんど意見を述べることができません。</p>
<p>たいてい、上皇や上皇のお気に入りの者の独り決めで決まります。<br />
上皇のお気に入りの者を、そのころ「院の近臣」と言いました。</p>
<p>役や位は、貴族の中では、わりあい低いのですが、その勢いは、摂政や関口をも、凌ぐほどでした。<br />
院政を行う事務所を、院庁といいます。院の近臣たちが、そこの役人になりました。</p>
<p>院庁や上皇の住まいを守るのは武士でした。</p>
<p>この武士は「北面の武士」と呼ばれ、政治の上でも、だんだん重く用いられるようになりました。<br />
こうして、武士は次第に勢いを増し、実力を強めていきました。</p>
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		<item>
		<title>前九年の役とは？ 後三年の役とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/733</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 01:56:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[前九年の役]]></category>
		<category><![CDATA[後三年の役]]></category>
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					<description><![CDATA[都では、毎日のように、強盗や殺人がおこっていました。 このように、世の中が乱れても、貴族には、 これを抑える勇気も力もありません。 貴族たちは、地方の武士をよび、自分たちの生命や財産を守らせようとしました。 武士もまた、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>都では、毎日のように、強盗や殺人がおこっていました。<br />
このように、世の中が乱れても、貴族には、<br />
これを抑える勇気も力もありません。<br />
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貴族たちは、地方の武士をよび、自分たちの生命や財産を守らせようとしました。<br />
武士もまた、貴族たちに仕えることを、名誉と考えました。</p>
<p>武士のことを「侍」とも言うのは、武士が貴族に、さむらう(傍について奉仕するという意味)ことからでた言葉です。</p>
<p>平将門や平忠常のように、朝廷に手向かいするものが出てきても、これを鎮めるためには、武士の力に頼らなければなりませんでした。</p>
<p>1051年(永承六年) 東北地方の豪族である安倍氏が、反乱をおこしました。<br />
安倍氏はエゾ（蝦夷）の州長でしたが、十世紀頃には、今の岩手県のほとんど全部を支配するようになりました。</p>
<p>そして、国司の命令に従わず、租税も納めないようになりました。</p>
<p>そこで、陸奥国(青人森県・岩手県・宮城県・福島県)の国司が、数千の兵を率いて、攻めましたが、かえって負けてしまいました。</p>
<p>朝廷では、源頼信の子の頼義を将軍にして、安倍氏を討たせることになりました。<br />
頼義の強いことを知っていた安倍氏は、たちまち、降参しました。</p>
<p>ところが、頼義が京都へ帰ろうとしたとき、ちょっとしたことから、頼義と安倍氏が、再び戦いを始めました。</p>
<p>エゾ（蝦夷）の州長である清原氏の助けで、ようやく勝つことができました。<br />
1062年(康平五年)のことです。この戦いを、前九年の役といいます。</p>
<p>安倍氏をたいらげた手柄によって、源頼義は伊予守、源義家は出羽守になりました。<br />
また源氏を助けた清原武則は、鎮守府将軍になり、安倍氏に代わって、東北地方で大きな勢いを奮うようになりました。</p>
<p>ところが、前九年の役から20年ほど経って、清原氏に内輪もめがおこりました。<br />
義家は、その一方の清衡を助け、五年かかって、やっとこの争いを鎮めました。</p>
<p>これを、後三年の役といいます。</p>
<p>しかし、朝廷は、この争いは清原氏の内輪もめであり国に手向かった者をとり鎮めたのではないから、<br />
と言って、義家にも褒美をくれません。</p>
<p>義家はしかたなく、自分の財産を投げ出して手柄を立てた部下に、褒美を与えました。<br />
そのため、部下たちは、ますます源氏に従うようになりました。</p>
<p>平忠常の乱を鎮めてから、源氏は平氏に代わって東国に勢いを広めていきました。<br />
前九年の役、後三年の役の二度の戦いでは、大勢の東国の武士が源頼義や源義家の部下になって戦いました。</p>
<p>この戦いは数年ずつ続き、しかも源氏にとっては苦しい戦いでした。<br />
この苦しい戦いに勝ち抜いた源氏と東国の武士との繋がりは、一層強くなったのです。</p>
<p>また、義家は、部下を非常に大切にしたので、多くの人々に敬われ百姓たちも、その部下になろうと、田畑を我先に、寄付するほどでした。</p>
<p>義家の武力や評判には、貴族たちさえ恐れたほどです。<br />
義家は、頼義の長男(長男のことを太郎といった)で、鎌倉の鶴岡八幡宮で元服(成人式)をしたため、八幡太郎とも呼ばれました。</p>
<p>後三年の役で、義家が味方となって助けた清衡は、もともと清原家の人ではありませんでした。<br />
母は安倍氏の娘であり、父は藤原経清といいました。</p>
<p>経清は、前九年の役に、安倍氏の部将のひとりとして、源頼義らを苦しめましたが、後に捕えられて、殺されました。</p>
<p>夫を失った清衡の母は、幼い清衡をつれて、清原氏に嫁ぎました。</p>
<p>こうして清衡は、清原氏の家族のひとりとして育ち、後三年の役の後は、藤原氏を名のり、清原氏に代わって、奥州(東北地方) を支配するようになりました。</p>
<p>奥州の主になった藤原氏は、初代の清衡、二代の基衡、三代の秀衡と、およそ100年間栄えました。<br />
そして、この三代に渡って、京都の文化を取り入れようと努力しました。</p>
<p>清衡の建てた中尊寺、基衡の建てた毛越寺、秀衡の建てた無量光院は、いずれも京都の寺に劣らぬ立派なものでした。</p>
<p>その有様は、いま平泉(岩手県)に残る中尊寺の金色堂から忍ぶことができます。<br />
この金色堂には、清衡・基衡・秀衡の遺体が葬られており、ミイラとなって今に残っています。</p>
<p>金色堂のような、金をいっぱい使ったお堂ができたのも奥州が金の産地であり、藤原氏が非常に豊かであったからでした。</p>
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		<title>源氏と平氏の起源はいつ頃？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/732</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 01:19:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[源氏]]></category>
		<category><![CDATA[平氏]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は源氏と平氏について、日本の歴史を紹介します。 国司は、もともと刀を持ったり、弓矢を持ったりすることは許されませんでした。 しかし、世の中が物騒になって強盗のために殺される者があるようでは、国司も武器を持たずにはおれ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は源氏と平氏について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>国司は、もともと刀を持ったり、弓矢を持ったりすることは許されませんでした。</p>
<p>しかし、世の中が物騒になって強盗のために殺される者があるようでは、国司も武器を持たずにはおれません。</p>
<p>また、国内の農民から、租税を取り立てるためには強い手下があったほうが便利です。<br />
そこで、国司たちは、刀を持ったり、兵士を従えたりすることを許して欲しいと、朝廷に願いでました。</p>
<p>そして、十世紀頃からは、国司が勤め先の土地へ行くときには、郎等を連れて行くようになりました。<br />
こうして、次々と各地の国司をつとめる人々の中にも、武士になる者が出てきました。</p>
<p>こうして出来た武士の内でも、特に力の強いものは、カの弱い農民たちから便りにされ、頭と仰がれるようになりました。</p>
<p>これを、武士の棟梁といいます。</p>
<p>武士の棟梁には藤原秀郷のような藤原氏からでた人もあれば、橘遠安のように橘氏からでた者もありました。</p>
<p>けれどもその中で、特に数多くの武士の棟梁がでて、しかも勢いが強くなったのは、源氏と平氏でした。<br />
源氏も平氏も、皇族の子孫です。</p>
<p>天皇の子は親王、親王の子は王と言い、それ以後五代目か六代目になると、姓を与えられて、皇族を離れるという決まりでした。</p>
<p>けれども平安時代になると、一代目で姓をもらって、皇族から離れるものが多くなりました。<br />
源氏も平氏も、その1つです。</p>
<p>平氏には、桓武天皇からでたもの、仁明天皇からでたもの、文徳天皇からでたもの、光孝天皇からでたものがありました。</p>
<p>そして、その多くは都に住み着いて、役人をしていました。<br />
ところが、葛原親王(桓武天皇の皇子) の子の高見王は、若死にしたせいもあったのでしよう。</p>
<p>あまり目立った役にもつきませんでした。</p>
<p>そこで、その子の高望王は、都に住みつかず、「平」という姓をもらって、上総国(千葉県の一部) の国司となり、関東地方に住み着きました。</p>
<p>高望には、数人の子どもがありましたが、どれも関東地方に住みつき、土地を開いて豪族となりました。</p>
<p>平将門は、高望の孫にあたり将門の乱も、この関東の平氏の内輪もめから、おこったのです。<br />
将門の乱から90年ほど経つと、今の千葉県で、平忠常が乱をおこし、将門の乱と同じように、大騒ぎをしました。</p>
<p>この忠常も高望の子孫でした。<br />
しかし、関東の平氏は、忠常から後は、目立った活動をしなくなりました。</p>
<p>これに代わって、関東地方から伊勢国(三重県の一部)に移った平維衡の子孫が・武士の棟梁として仰がれ、活動をするようになりました。</p>
<p>関東の平氏が忠常の乱以後、大人しくなったのは忠常が源頼信という源氏の棟梁に降参し、源氏の勢いが<br />
関東地方で強まったからです。</p>
<p>源氏も、平氏と同じように、多くの家筋にわかれています。</p>
<p>嵯峨天皇の子孫をはじめ、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・林心元皇など、数多くの天皇の皇子が、源氏を名乗りました。</p>
<p>そしてその多くは、都に住んで役人となりました。<br />
中でも、村上天皇の子孫の源氏は優れた学者や政治家がたくさんでて、藤原氏と並び、朝廷で重く用いられました。</p>
<p>けれども、源氏の中にも、都に住みつかず、地方の国司になったものが、かなりいました。<br />
貞親王(清和天皇の皇子) の子の経基もそのひとりで、武蔵国(東京都・埼玉県と、神奈川県の一部)の国司となりました。</p>
<p>経基は、藤原純友の乱のときに活躍しましたが、さらに、経基の子の満仲、満仲の子の頼信などの働きによって源氏は、次第に武士の家柄として名をあげていきました。</p>
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		<title>平安時代に武士が生まれたのいつ頃？　豪族と武士との関係とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/731</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 00:34:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[武士]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
		<category><![CDATA[貴族]]></category>
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					<description><![CDATA[平安時代に武士が誕生したころについて、日本の歴史を紹介します。 12世紀にできた本に、「新猿楽記」というのがあり、この中に田中豊益という大地主の話が載っています。 (田中豊益は大百姓である。農業より他には、何もしない。  [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>平安時代に武士が誕生したころについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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12世紀にできた本に、「新猿楽記」というのがあり、この中に田中豊益という大地主の話が載っています。</p>
<p>(田中豊益は大百姓である。農業より他には、何もしない。<br />
前もってその年の気候な考え、スキやクワやカラスキも使っくいる。</p>
<p>つつみやほりや用水路をつくるときも、種まきや土おこしや田植えのときも、農民や手伝い女を上手に指図する。</p>
<p>田には・わせ・おくて・もち米などをつくり、畑には、大豆・小豆・ササゲ・粟・キビ・蕎麦・胡麻などをつくっている。</p>
<p>とれ高は、年ごとに増え、一粒の種から、万倍の実りを取り入れ、種まきから取り入れまで、少しの手違いもない)田中豊益のような優れた大地主は、この頃には、至るところに出てきました。</p>
<p>これらの地主の田や畑は、その地主の名前をとって、「何々名」と呼ばれましたので、彼らのことを、名主と呼ぶようになりました。</p>
<p>また、名主の内でも特に、たくさんの田畑なもち、大勢の農民を使い、豪族と呼ばれるような勢いの強い者もあらわれました。</p>
<p>豪族は下に、幾人もの名主を従えていました。</p>
<p>朝廷の命令で、地方へ行った国司の中にも、そのままその土地に住みついて、豪族になるものもあらわれました。</p>
<p>平将門や藤原秀郷などがそれです。<br />
また、古くから地方に住んでいる古い家柄のもので、豪族になるものもありました。</p>
<p>しかし、世の中は、ますます物騒になるばかりです。<br />
豪族たちは、泥棒の用心もしなければなりません。</p>
<p>そのうえ隣の豪族が、自分の土地を広げようと、無理に、攻め込んでくることもありました。</p>
<p>こういうときに、実力で手向かうために豪族たちは、自分の手下の農民の中から、カの強いもの、気の利くものなどを選んで、武器を持たせました。</p>
<p>これが郎等と呼ばれる人たちです。<br />
豪族たちは、何か争いがあると、20人、30人もの郎等を引き連れて、戦うようになりました。</p>
<p>このような豪族やその家来を、武士といいます。</p>
<h2>貴族と芋粥</h2>
<p>都のある貧乏な貴族が、「芋粥を腹いっぱい食べてみたい」と言いました。</p>
<p>これを聞いた藤原利仁にという敦賀(福井県)の豪族が、自分の国へこの貴族を連れて来ました。<br />
利仁の家に泊まった貴族は、夜中に１人の男が、屋敷の裏山で大声をあげて叫んでいるのを聞きました。</p>
<p>「この近所の家来ども、よく聞け！　明日の朝早く、切りロ三寸(約9センチ)、長さ五尺(約150センチ)の山芋を、一本ずつ持ってこい」と叫んでいるのでした。</p>
<p>よく朝、貴族が起きてみると、大きな山芋が、のきに届くほどたくさん積んであり、20人ほどの男や女が大釜で、芋粥を作っていました。</p>
<p>貴族はこれを見ただけで、腹がいっぱいになり、小さな茶碗に一善しか食べられず、利仁に割られました。</p>
<p>「今昔物語集」という本に書かれている話です。</p>
<p>豪族がどんなにたくさんの家来を持っていたか、また、その勢いが強かったかがわかりますよね。<br />
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