﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>平清盛 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<atom:link href="https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/tag/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 May 2019 18:27:18 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.3</generator>

<image>
	<url>https://wakariyasuku-rekishi.com/wp-content/uploads/2018/07/cropped-rekishi-favi-32x32.png</url>
	<title>平清盛 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/><site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">148332681</site>	<item>
		<title>平清盛ってどんな人？ 鹿が谷の変とは？ 宋との貿易が行われたのはいつ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/737</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 00:07:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[平清盛]]></category>
		<category><![CDATA[鹿が谷の変]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/737</guid>

					<description><![CDATA[今回は平安時代に栄えた平氏について、日本の歴史を紹介します。 保元の乱と平治の乱の後にも、皇室の内輪もめは続きました。 このころ後白河上皇と二条天皇との仲が悪く、どちらも平氏に頼ろうとしました。 清盛は、これを上手く利用 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は平安時代に栄えた平氏について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<p>保元の乱と平治の乱の後にも、皇室の内輪もめは続きました。<br />
このころ後白河上皇と二条天皇との仲が悪く、どちらも平氏に頼ろうとしました。</p>
<p>清盛は、これを上手く利用して、ますます自分の勢いを強くしていきました。<br />
1167年(仁安二年)に清盛は、とうとう太政大臣になりました。</p>
<p>政治の上での最高の位です。</p>
<p>そればかりでなく平氏の一族は、ほとんどが高い位につきました。<br />
清盛の妻の妹は、後白河法皇の妃になりました。</p>
<p>その間に生まれたのが、高倉天皇です。<br />
また清盛の娘は高倉天皇の妃となり、安徳天皇を生みました。</p>
<p>このようにして、清盛は皇室の親戚となり、自由に朝廷を動かすようになりました。</p>
<p>平氏の荘園は、全国に500あまりの多くに昇り、藤原氏が栄えていたことろにも、負けないほどになりました。</p>
<p>一族の公卿は16人、昇殿を許された人は30人あまりもいて、平氏の中には「平氏でなければ人間ではない」というものさえあるほどでした。</p>
<p>平氏は、こうして国の政治を独り占めにしました。<br />
平氏は、もともと武士ですが、保元の乱以後、京都に住み、それまでの貴族の真似をしてきました。</p>
<p>このため、暮らしぶりも、華やかになりほとんど藤原氏の人々と、変わらないようになりました。<br />
武士でありながら、眉墨を描いたり、歯に黒金をつけたりしました。</p>
<p>これが、平氏の公達でした。</p>
<p>このようにして、平氏の政治も藤原氏の政治と、あまり違いませんでした。<br />
ただ外国との付き合いだけは、これまでの貴族と違って活発に進めました。</p>
<p>そのころ中国は宋の時代でした。<br />
宋とは、だいたい平安時代の中頃から、民間の貿易が行われていました。</p>
<p>そこで、前々から宋との貿易に目をつけていた清盛は、音戸の瀬戸(広島県) を開いたり、摂津の福原(神戸市)に別荘を建てて、兵庫の港(神百戸港)を築いたりしました。</p>
<p>ここに宋の船を呼び寄せ、今まで九州の博多などでやっていた貿易を行い、大きな利益をあげました。<br />
そして清盛は、後白河法皇を福原に招いて、宋の貿易船を見せたりしました。</p>
<p>なお、清盛は航海の安全を祈るために、瀬戸内海の厳島神社を信仰し、立派な社殿を建てて、京都の貴族たちにも、お参りさせました。</p>
<p>清盛は、宋との貿易で、ますます豊かになりました。<br />
それで、勢いに任せて自分勝手な政治をし、貴族の藤原氏や、京都やその付近の寺の荘園を、横取りするようなこともありました。</p>
<p>そのため、後白河法皇や藤原氏の人たちをはじめ、平氏のわがままを憎む者が、あちこちに、たくさん現れてきました。</p>
<p>1177年(治承元年)、後白河法皇の傍に仕えていた藤原成親・藤原師光、また平康頼や僧の俊寛などという人たちが、京都の東山の鹿が谷に集まり、平氏を滅ぼそうとする計画をたてました。</p>
<p>この酒盛りのとき、瓶子(とくり)が倒れたので一回は手を叩いて、平氏が倒れたと言って、喜び合いました。</p>
<p>清盛は丁度、福原に行って留守でした。<br />
この機会を狙って、平氏を倒そうとしたのです。</p>
<p>しかし、この計画は、すぐ平氏に知られてしまいました。<br />
鹿が谷に集まった人の一人源行綱が清盛に、こっそり知らせたからです。</p>
<p>清盛は、ただちに京都へ返り、師光を殺して、成親・俊寛らを鬼界島(九州南方の島。今の硫黄島といわれる)に流しました。</p>
<p>これを鹿が谷の変といいます。</p>
<p>鹿が谷の変の後、後白河法皇と清盛の仲は、たちまち悪くなりました。<br />
清盛の長男重盛は、このことを非常に心配していましたが、やがて重盛が死ぬと、清盛は、法皇な鳥羽殿という屋敷に押し込めてしまいました。</p>
<p>兵庫(今の神戸港)は、古くから和田泊と呼ばれた港ですが、港の西にある和田岬は、西風な防ぐたけで、東と南からの高い波を防ぐことが出来ませんでした。</p>
<p>そこで清盛は船が安全に出入り出来るように、東風と南風を防ぐための島をつくることになりました。</p>
<p>工事は全国から人夫を集め、1173年（承安3年）頃から始められましたが、潮の流れが速いので、少し土をもっても、すぐに崩されてしまい、中々はかどりません。</p>
<p>この頃、生きている人を埋めると工事が上手くいくという、迷信がありました。<br />
人々は清盛に、この人柱を立てて工事の完成を祈ることを進めました。</p>
<p>しかし清盛は、「罪の無いものを生埋めにするのは、よくない」といって、人柱の代わりに、お経を刻んだ石を海の中に沈めさせました。</p>
<p>こうして出来たのが経島ですが、迷信に捉われないで、思った通りに仕事を進めた清盛の強い気性を知ることができます。</p>
<p>しかし清盛は、この工事が完成するのを見ないで死にました。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">737</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
