﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>徳川家康 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<atom:link href="https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/tag/%e5%be%b3%e5%b7%9d%e5%ae%b6%e5%ba%b7/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 May 2019 22:07:20 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.3</generator>

<image>
	<url>https://wakariyasuku-rekishi.com/wp-content/uploads/2018/07/cropped-rekishi-favi-32x32.png</url>
	<title>徳川家康 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/><site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">148332681</site>	<item>
		<title>小売屋と問屋とは？ 金座・銀座とは？ 蔵屋敷とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/829</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 21:49:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[銀座]]></category>
		<category><![CDATA[後藤光次]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[小売屋]]></category>
		<category><![CDATA[問屋]]></category>
		<category><![CDATA[貨幣]]></category>
		<category><![CDATA[蔵屋敷]]></category>
		<category><![CDATA[金座]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/829</guid>

					<description><![CDATA[今回は小売屋と問屋とは？　金座・銀座について、日本の歴史を紹介します。 小売屋と問屋とは？ 商店には、店へ買いにくるお客に品物を売る小売屋と小売屋へ品物を卸す問屋とがあります。 問屋には、大坂の方から船で運んできた荷物を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は小売屋と問屋とは？　金座・銀座について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>小売屋と問屋とは？</h2>
<p>商店には、店へ買いにくるお客に品物を売る小売屋と小売屋へ品物を卸す問屋とがあります。</p>
<p>問屋には、大坂の方から船で運んできた荷物を扱うものもあれば江戸の周りの土地から運んできた品物を扱うものもありました。</p>
<p>これらの問屋は、仲間同士で組合をつくっていました。<br />
この組合は株仲間と呼ばれました。</p>
<p>風問屋・茶問屋・紙問屋・木綿問屋などさまざまな問屋の組合がありました。</p>
<h2>栄える大商人</h2>
<p>小売商は問屋から品物を卸して貰って売るのですから問屋より小さいわけですが中には大きな商人もいました。</p>
<p>越後屋という呉服店は三井家で経営していました。</p>
<p>越後屋ではあらゆる種類の呉服が用意されお客さんの注文に応じて一尺(一尺は30.3センチ) でも二尺でも切って売ってくれました。</p>
<p>また、この頃は品物を売っても帳面へつけておいて盆と暮れ(大晦日)の二度にお金を受け取るのが普通でした。</p>
<p>それから品物には正札(正しい値段を書いた札)が付けてなく実際より高い値段を言った上で幾らか儲けて売るのが普通でした。</p>
<p>ところが越後屋では全て現金で売ることにし正しい値段で売るようになりました。<br />
このため、越後屋は信用を増し、たいへん繁盛しました。</p>
<p>大丸や松坂屋も古くから続いている呉服店です。<br />
商人の中には仕事が上手くいってたいへんお金を儲けた人もありました。</p>
<p>儲けたお金を人に貸して利子を取り、さらにお金を儲けた人もあります。</p>
<p>また畑を開墾してそれを売って儲けた人もあれば、その田畑を小作人に造らせ小作料をとって、お金を蓄えた人もいました。</p>
<p>三井家では江戸・京都・大坂で呉服店を開き金貸しを行い、新田も開くというように、ますますお金を儲け天下の大富豪となりました。</p>
<h2>貨幣とは？</h2>
<p>徳川氏は、1601年(慶長六年)貨幣制度を整え慶長金銀を発行しました。<br />
その後商業の発達に伴って元禄の頃になると貨幣は全国に行き渡るようになりました。</p>
<p>江戸時代の貨幣は金貨・銀貨・銅貨の三種類ありました。<br />
金貨は大判が10両、小判が1両でした。</p>
<p>初めの頃の金貨は質がよいもので小判には金が84パーセント入っていて、あとは銀でした。<br />
一両には金が約15グラム含まれていたわけです。</p>
<p>今の金の値段は1グラム約4000円ですから一両は約6万円になります。<br />
もっとも、後になるとだんだん金を少なくして銀を多くするようになりました。</p>
<h2>金座と銀座とは？</h2>
<p>金貨や銀貨を発行したのは幕府ですが、それを造ったのは金座、銀座という商人の組合でした。<br />
家康は後藤光次という者に小判一分判を造らせました。</p>
<p>その後、後藤氏は慶長金銀が定められると貨幣を造る仕事の長となり造る所は金座と呼ばれるようになりました。</p>
<p>金座のあった位置は今の日本銀行のところです。</p>
<p>銀座は、はじめ伏見についで駿河に設けられましたが後に、伏見の銀座は京都に、また駿河の銀座は江戸に移されました。</p>
<p>今の東京の銀座は、これが地名として残っているものです。</p>
<h2>蔵屋敷とは？</h2>
<p>大名は、年貢として取立てた米などを大坂へ送り、それを売り払ってお金に換えました。</p>
<p>また大名たちは大坂に蔵屋敷という邸宅をおき、そこの蔵へ米を閉まっておいて必要に応じて売ったのです。</p>
<p>はじめは武士が直接売り捌いていましたが後には商人に頼むようになりました。<br />
そういう商人を蔵元といいました。</p>
<p>蔵元になるような商人はお金をたくさん持っている大商人でしたから大名は、お金に困ると、それらの商人から借金をしました。</p>
<p>そこで、後には武士も大商人には頭があがらないようになりました。<br />
蔵屋敷の蔵米は入札で高い値段の者に売り渡されました。</p>
<p>それを買った仲買商人は大坂の堂島の市場で売買しました。<br />
その頃、大坂は「天下の台所」といわれ大名の蔵米のほか全国から米やその他の産物が集められました。</p>
<p>堂島の米市場は全国一の大きなもので、そこの米の値段は全国の米の値段に影響を与えました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">829</post-id>	</item>
		<item>
		<title>徳川家康とキリスト教との関係とは？ キリスト教を禁止したのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/818</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 05 Jul 2014 04:20:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/818</guid>

					<description><![CDATA[今回は徳川家康とキリスト教との関係について、日本の歴史を紹介します。 家康とキリスト教との関係とは？ 家康もキリスト教を好みませんでしたが貿易を大切に思ったため初めは、多めに見ていました。 その結果、信者は、益々増え16 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は徳川家康とキリスト教との関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>家康とキリスト教との関係とは？</h2>
<p>家康もキリスト教を好みませんでしたが貿易を大切に思ったため初めは、多めに見ていました。</p>
<p>その結果、信者は、益々増え1605年(慶長10年)には70万人にもなり東北地方から北海道にまで広がって行きました。</p>
<p>特に、農民や鉱夫の信者が増えてゆきました。</p>
<p>ところが、17世紀に入ると東洋の貿易は、ポルトガルやスペインに代わってイギリス・オランダの勢力が伸びてきました。</p>
<p>おりもおり、1600年(慶長五年)オランダ船リーフデ号が豊後に流れつきました。</p>
<p>オランダ人やイギリス人はキリスト教の信者でしたがスペイン人やポルトガル人と違ってプロテスタント(新教＝カトリツクが古臭いといって新しくつくった宗教の団)で貿易のためには宗教のことにあまりこだわりませんでした。</p>
<p>家康は、キリスト教に関係なく貿易が出来ればたいへん都合がよいと思いました。</p>
<h2>キリスト教の禁止</h2>
<p>キリスト教の信者は段々増えてきました。<br />
調べてみると、家康のそば近く仕えている侍の中にも大勢の信者のいることがわかりました。</p>
<p>さらに、京都や九州に使いを出して調べさせてみると、益々キリスト教の勢力のたいへんなことがわかりました。</p>
<p>幕府のこうした心配をいっそう強めたものとしてオランダ人の告げ口があります。<br />
オランダは日本との貿易からポルトガルを追い出すために「ポルトガルは、キリスト教を広めることによって日本を滅ぼそうとしている」と告げ口しました。</p>
<p>1612年（慶長17年)には幕府は、とうとうキリスト教禁止の命令を出しました。</p>
<p>そして、あくる年の1622年(慶長18年)には幕府は、前よりも一層厳しい命令を出して信者を見つけ次第捕まえて島流しにしたり、死刑にしたりしました。</p>
<p>高山右近や内藤如安は信仰を捨てれば許してやるといくら言われても効かないのでマニラへ流されていきました。</p>
<p>キリスト教の禁止は江戸幕府の決まりとなり家康の跡を継いだ秀忠次の家光の時代になってますます、厳しくなりました。</p>
<p>張り付け・火攻め・水責め・逆さ吊るし・のこぎり引きなどの残酷な方法で拷問し信仰を捨てさせようとしました。</p>
<p>信仰の弱い人は、すぐに信仰を捨てましたがどんなひどい目にあっても平気で死んでいく人もありました。</p>
<p>とにかく、上からの厳しい取り締まりによって、表面では信者はなくなりました。</p>
<p>しかし、熱心な信者たちは心の中では、なかなか信仰を捨てきれず密かに、隠れキリシタンとして生き続けたのです。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">818</post-id>	</item>
		<item>
		<title>大坂冬の陣・大坂夏の陣とは？ 真田幸村らが活躍を見せるが！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/808</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 14:43:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[大坂夏の陣]]></category>
		<category><![CDATA[大坂冬の陣]]></category>
		<category><![CDATA[真田幸村]]></category>
		<category><![CDATA[大阪城]]></category>
		<category><![CDATA[鐘銘事件]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/808</guid>

					<description><![CDATA[今回は大坂冬の陣・大坂夏の陣について、日本の歴史を紹介します。 大坂の陣とは 家康は関ヶ原の戦いで勝ち幕府を開いて政権を握りましたが、その行く手には、いろいろ難しい問題が残されていました。 それは豊臣氏をどうするかという [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は大坂冬の陣・大坂夏の陣について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>大坂の陣とは</h2>
<p>家康は関ヶ原の戦いで勝ち幕府を開いて政権を握りましたが、その行く手には、いろいろ難しい問題が残されていました。</p>
<p>それは豊臣氏をどうするかということです。</p>
<p>関ヶ原の戦いの後豊臣秀頼はわずか65万石(9万7500トンほどの米がとれる領地)の大名に落とされましたが攻めても中々落ないと言われた大阪城におり、また豊臣氏に心を寄せる大名も少なくなかったのです。</p>
<p>豊臣氏では、秀吉の子秀頼が大きくなれば家康も政権を返すだろうと考えていましたが、その臨みも無くなり非常に徳川氏を恨むようになりました。</p>
<p>こうして、豊臣氏と徳川氏の仲がだんだん悪くなってきました。</p>
<p>家康は、全国の大名から幕府の命令に住むかないと言う誓いの書きつけを取ったりして、万一の場合に備えました。</p>
<p>家康は、もう70才になっていました。<br />
秀頼は20才を越えて中々優れた若者になってきました。</p>
<p>家康は、もし、自分が先に死んだら徳川の天下もどうなるかわからないと心配しました。</p>
<p>そして、どうにかして自分の生きている間に豊臣氏を滅しておかなければならないと考えるようになりました。</p>
<p>こうしておこったのが方広寺の鐘銘事件です。</p>
<p>家康は秀頼に勧めて、大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させましたが、その鐘に貼り付けた文字に<br />
「国家安康」とあったのを家康の名な二つに切って呪うのだと言いがかりを付けて豊臣氏を攻めました。</p>
<p>豊臣氏では、いろいろ弁解しましたが家康は聞き入れず、とうとう戦いが初まりました。</p>
<p>豊臣氏は、秀吉の恩を受けた大名に助けを求めましたが、多くの大名は幕府のカを恐れて、豊臣氏に味方をしませんでした。</p>
<p>けれど真田幸村などの優れた武将や浪人が、たくさん大阪城に入り、その中にはキリスト教の信者も少なくありませんでした。</p>
<p>こうして、1614年(慶長一九年)に大阪冬の陣が初まりました。</p>
<p>大坂方は、攻めにくい大坂城に立てこもって勇ましく戦いましたので、中々落ちません。<br />
家康は、とうとう大坂方と仲直りをしました。</p>
<p>そのときの約束に、大坂城の外堀を埋めるとあったのを、外堀だけでなく内堀まで、わざと埋めてしまいました。</p>
<p>こうなると、大坂城は陸に上がった河童のようなものです。</p>
<p>翌年の1615年(元和元年)に二度目の戦いがおこりましたが、こんどは、簡単に大阪方が負け豊臣氏はとうとう滅んでしまいました。</p>
<p>これが大阪夏の陣です。</p>
<p>豊臣氏が滅んだ翌年の1616年に家康は75才で亡くなりました。<br />
鯛のてんぷらの食べ過ぎがもとだったということです。</p>
<p>豊臣氏を滅ぼして安心して死ぬことができたのでしよう。</p>
<p>家康は、初め久能山(静岡県)にのち日光(栃木県)に葬られ、立派な権現つくりの東照宮に神様として祀られました。</p>
<p>だから家康は「東照神君」とか「権現様」と呼ばれ幕府が終わるまで、その守り神として敬われました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">808</post-id>	</item>
		<item>
		<title>関ヶ原の戦いとは？ 徳川家康が率いる東軍と石田三成の西軍との戦いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/807</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 14:09:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[関ヶ原の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[石田三成]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/807</guid>

					<description><![CDATA[今回は関ヶ原の戦いについて、日本の歴史を紹介します。 関ヶ原の戦いとは？ 秀吉が死ぬと、世の中は、また乱れそうになりました。 秀吉の子の秀頼は、まだ小さかったので家康が秀吉の次に政権を握るだろうと考える大名が多くなりまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は関ヶ原の戦いについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>関ヶ原の戦いとは？</h2>
<p>秀吉が死ぬと、世の中は、また乱れそうになりました。</p>
<p>秀吉の子の秀頼は、まだ小さかったので家康が秀吉の次に政権を握るだろうと考える大名が多くなりました。</p>
<p>家康も、大名たちを自分に従わせるためにいろいろな手を打ちました。</p>
<p>そこで、秀吉のお気にいりだった石田三成は政権が家康に移るのを防ぐために秀吉の恩を受けた大名たちを集めて家康と戦うことになりました。</p>
<p>1600年(慶長五年)三成は兵をあげて家康に従う大名たちが大阪に残した妻や子を人質として抑えようとしました。</p>
<p>このとき、細川忠興の妻お玉(明智光秀の娘。キリスト教徒としての名はガラシャ夫人)は人質にされる前に、忠興の言いつけを守り家来に首を討たせたと言われています。</p>
<p>家康の率いる東軍と、三成方の西軍とは関ヶ原(岐阜県)で天下分け目めの戦いを初めました。</p>
<p>西軍もよく戦いましたが勝利は家康の手に入りました。<br />
こうして徳川氏が、豊臣氏に代わって天下を治めることになったのです。</p>
<p>関ヶ原の戦いから三年後の1603年(慶長八年)家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きました。</p>
<p>信長も秀吉も、全国統一の仕事を進めましたが幕府を開こうとはしませんでした。<br />
それだけ家康の武家政治に対する考えは2人より深かったことがわかります。</p>
<p>家康は、武家政治を初めた源頼朝をたいへん尊敬し自分は鎌倉幕府を引き継いだ室町幕府の後継であると、固く信じていました。</p>
<p>しかし家康は、わずか二年で将軍の職を子の秀忠に譲り、駿府(静岡市)に引っ込んで「大御所」と仰がれました。</p>
<p>そして、相変わらず幕府の政治を動かしました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">807</post-id>	</item>
		<item>
		<title>徳川家康ってどんな人？ 関東の江戸を根拠地にしたのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/806</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 13:20:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[鷹狩り]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/806</guid>

					<description><![CDATA[今回は徳川家康について、日本の歴史を紹介します。 家康の関東入国 徳川家康は、尾張(愛知県の一部)と隣り合わせている、三河(愛知県の一部)の小さな大名の家に生まれました。 家康の家は、初めは松平氏を名乗っていました。 父 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は徳川家康について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>家康の関東入国</h2>
<p>徳川家康は、尾張(愛知県の一部)と隣り合わせている、三河(愛知県の一部)の小さな大名の家に生まれました。</p>
<p>家康の家は、初めは松平氏を名乗っていました。</p>
<p>父の広忠の時までは、西に織田氏東に今川氏という、強い大名がいたため勢いを伸ばすことができませんでした。</p>
<p>家康も、わずか6才のときから22年もの長い間、織田氏や今川氏の人質となって、苦労をしました。</p>
<p>その間に、父の広忠は、家来に殺されましたが人質になっていた家康はどうすることもできませんでした。</p>
<p>1560年(永禄三年) 今川義元が織田信長に桶狭間(愛知県)で討たれると、家康は、やっと自由の身になりました。</p>
<p>三河に帰った家康は、信長の全国統一の仕事を後ろから助けながら、三河を従えました。<br />
そして、さらに今川氏への領地である駿河(静岡県の一部)・遠江(静岡県の一部)にまで勢いを伸ばしました。</p>
<p>信長に代わって、豊臣秀吉が全国の統一を続けていくと秀吉に従い、とうとう三河・駿河・遠江甲斐（山梨県)・信濃（長野県）の五か国を自分の領声地にしてしまいました。</p>
<p>1590年(天正一八年) 小田原(神奈川県)の北条氏が、秀吉に滅ぼされると家康は秀吉の言いつけで北条氏の領地であった関東に移りました。</p>
<p>家康の家来たちは、この国替えは秀吉が徳川氏の力を弱くするためであると考えて慌てたり騒いだりしましたが家康は、あまり困った様子を見せませんでした。</p>
<p>家康は、江戸を根拠地にして新しい領地を治めるためにいろいろ努力しました。</p>
<p>江戸の近くの国々に、身分の低い家来に与える土地と徳川氏の領地を集めました。</p>
<p>有力な家来は、なるべく江戸から遠いところにおき、関東の周りの大名たちに、備えさせました。<br />
こうして江戸(東京)を中心にして関東の領地を、しっかり固めようとしたのです。</p>
<p>また江戸の城下町を整えることにカを尽くしました。</p>
<p>家康が江戸に入ったころは北条氏の家来が作った小さな城の周りに漁村が散らばっているだけの寂しい土地でした。</p>
<p>今の日比谷の交差点のあたりから南は江戸湾が入り込みカヤの生えた沼地が広がっていました。<br />
海では、クジラがゆうゆうと泳いでいたということです。</p>
<p>家康は，その城を直して住み沼地を埋め立てて堀をつくりいろいろ必要な品物な船で城の近くまで運ばせるようにしました。</p>
<p>また商人や職人の頭を集めて町をつくらせ、領一内の商工業を取り締まらせました。</p>
<p>封建制度の世の中を治める武士たちの生活は農民の年貢で支えられていましたので農民を上手く支配することが一番大切な仕事でした。</p>
<p>家康は、秀吉のやった検地の方針を受け継ぎ領地の事情とにらみ合せて、行き過ぎのないようにしました。</p>
<p>そして、地主に雇われて田畑を耕している者の権利を認めながら、地主の利益を守ってやるようにしてやりました。</p>
<p>家康は鷹狩りが、たいへん好きでした。</p>
<p>暇があると、江戸の近くへ鷹狩りに出かけて村々の様子を見て回りました。<br />
田畑からのとれ高を増やして年貢をたくさん治めるように言いつけ言うことを効かない農民は遠慮なく罰しました。</p>
<p>こうして家康は、秀吉に従う大名の中では一番強い力を持つようになりました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">806</post-id>	</item>
		<item>
		<title>江戸時代のあらまし！ ざっくり言うとどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/805</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 12:43:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[参勤交代]]></category>
		<category><![CDATA[征夷大将軍]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[土農工商]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
		<category><![CDATA[天保の改革]]></category>
		<category><![CDATA[寛政の改革]]></category>
		<category><![CDATA[享保の改革]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/805</guid>

					<description><![CDATA[今回は江戸時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 1603年、征夷大将軍になった徳川家康は江戸幕府を開き、武士による全国支配の仕組みを、さらに強カに作り上げようとしました。 この江戸幕府の土台は、三代将軍家光の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
1603年、征夷大将軍になった徳川家康は江戸幕府を開き、武士による全国支配の仕組みを、さらに強カに作り上げようとしました。</p>
<p>この江戸幕府の土台は、三代将軍家光の頃までに、しっかりと出来上がりました。<br />
全国250あまりの大名を親藩・譜代・外様の三つにわけ、お互いに、抑え合うように配置替えをしました。</p>
<p>また、武家諸法度を作って大名や武士を取り締まったり参勤交代の仕組みをつくって諸大名の力を抑えたりしました。</p>
<p>しかも、幕府自身は全国の四分の一という広い領地を持ち、主な都市や鉱山も支配して巨大な財力を蓄えました。</p>
<p>さらに、キリスト教が広まり政治の土台が揺らぐことを恐れた幕府は思い切って国を閉ざし外国との付き合いを止めてしまうようなこともしました。</p>
<p>そのためにこれれまで盛んだった外国との貿易は衰え、世界の進歩に遅れることになりましたが一方、国内には200年あまりも太平が続くことになりました。</p>
<p>江戸時代になって、特に変わったことの一つは士農工商という身分の順、また主人と家来との身分の区別がはっきりしたことでした。</p>
<p>農民を武士の次にしたのは武士との生活が、農民の納める年貢で支えられていたからです。</p>
<p>それだけに、農民は、「生きぬように、殺さぬように」という方針のもとに、苦しい生活をさせられました。</p>
<p>そのために、自分が米を満足に食べることができないようなこともありました。</p>
<p>しかし、農民たちは新しい作物を作ったり農業技術を改善したり、新田を開発したりして農業の発達に努力しました。</p>
<p>それに対して、職人や商人は農民ほどの厳しい取り締まりは受けませんでしたが、やはり武士の命令には<br />
絶対に従わなければなりませんでした。</p>
<p>武士の酷いやり方に対しては農民も一揆をおこして反抗しました。<br />
しかし、武士にとっての第一の強敵は商人でした。</p>
<p>江戸時代に入って、商業がますます盛んになると商人は次第に大きな財力を蓄えるようになりました。<br />
一方、武士は華やかな生活に慣れ商人には頭を下げて、お金を借りるようなこともおこりました。</p>
<p>しかも、商人や職人は次第に豊かになった生活の中から、新しい町人の文化を生みだしていきました。<br />
歌舞伎・浮世絵・小説・徘徊・川柳などはその代表的なものと言えます。</p>
<p>幕府の政治は次第に行き詰ってきました。<br />
享保の改革・寛政の改革・天保の改革などが次々に行われました。</p>
<p>いずれも成功しませんでした。</p>
<p>また、国学や洋学の広まりとともに幕府の政治に反対する声は高まるばかりでした。<br />
そしてアメリカのペリーが開国を求めて浦賀にきて以来、開国と攘夷を巡って国内は乱れました。</p>
<p>ついに幕府は、薩摩や長州などの連合軍の努力によって倒され、武家政治は終わりをつげました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">805</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
