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	<title>戦国大名 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>戦国大名 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>諸国の大名とは？ 北条早雲・武田信玄・上杉謙信・毛利元就とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/786</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 12:29:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[戦国武将]]></category>
		<category><![CDATA[戦国大名]]></category>
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		<category><![CDATA[毛利元就]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は土一揆とは？　一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。 諸国の大名 戦国大名は、領内の政治に力を入れるとともに、たえず武力を蓄え、隙があれば、ほかの大名を滅ぼして 領土を広げようとしました。 18世紀 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は土一揆とは？　一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>諸国の大名</h2>
<p>戦国大名は、領内の政治に力を入れるとともに、たえず武力を蓄え、隙があれば、ほかの大名を滅ぼして<br />
領土を広げようとしました。</p>
<p>18世紀の半ばを過ぎて、室町時代も終わりに近いころになると、これらの争う大名のうち弱いものは滅び、強いものだけが残ってきました。</p>
<p>これらの大名のうちから有名な人を2、3あげてみましょう。</p>
<h2>北条早雲</h2>
<p>北条早雲は、もと伊勢長氏といって伊勢国(三重県の一部)の関氏の一族でしたが家は落ちぶれ、浪人をしていました。</p>
<p>彼は、そこから駿河国(静岡県の一部)に移って守護の今川義忠のところに、留まりました。<br />
そして、隙をみて、堀越公方(関東管領の子孫)を滅し伊豆(静岡県の一部)一国を平らげたのです。</p>
<p>彼は、さらに箱根山(神奈川県)を越えて小田原城を奪い、相模国(神奈川県の一部)を手にいれ北条早雲と名乗りました。</p>
<p>早雲は領内の政治に心をくばり「早雲寺殿廿一箇条」という家法まで定めました。</p>
<p>早雲の孫の氏康は、さらに関東地方に乗り出し安房(千葉県の一部)の里見氏を下総の国府台(千葉県)で破りました。</p>
<p>また、自ら関東管領を名乗っていた上杉氏の軍を武蔵の川越(埼玉県)で破っています。</p>
<p>氏康は、さらに越後(新潟県)の上杉謙信や甲斐(山梨県)の武田信玄などとしばしば戦い、その武名をあげました。</p>
<h2>武田信玄と上杉謙信</h2>
<p>武田信玄は、甲斐の守護の家に生まれました。<br />
彼は、外交にも領内の政治にも特に秀れその上、戦上手でした。</p>
<p>甲斐は狭い山国だったので信玄は領土を広げようとして信濃国(長野県)に攻め入りました。<br />
そこで、この国の大名たちは越後の上杉謙信に助けを求めたのです。</p>
<p>謙信は、求めに応じて、兵を率い川中島(長野県の千曲川と犀川が合流する地点にある三角州)に出て決戦を交えました。</p>
<p>上杉謙信は、もと長尾景虎といって関東管領を名乗っていた上杉氏の家来でした。</p>
<p>後に、山内上杉憲政から上杉の苗字を貰い受け上杉景虎と改めました。<br />
彼はまた、謙信とも名乗っています。</p>
<p>謙信は、はじめ小田原の北条氏を攻める予定でしたが信濃の大名たちに救いを求められたので予定を代えて川中島まで出かけたのです。</p>
<p>彼は、人に頼まれれば、後には引けない性格だったのです。</p>
<p>謙信と信玄は、川中島で四度まで勝負を争いましたがどちらも強かったので、とうとう引き分けに終わってしまいました。</p>
<p>これを川中島の戦いといいます。</p>
<h2>毛利元就</h2>
<p>毛利元就は、安芸国(広島県の一部)の吉田の地頭で、はじめ、周防国(山口県の一部)の大名大内義隆に、従っていました。</p>
<p>しかし、義隆が家臣の陶晴賢に滅ぼされるとこの敵を討とうとして、謀を巡らし晴賢の軍を安芸の厳島(広島県)に誘き出して、打ち破ってしまいました。</p>
<p>元就は、こうして、大内氏に代わって周防・長門(山口県の一部)・安芸の三国を手にいれることになったのです。</p>
<p>元就は、さらに出雲国(島根県の一部)の守護尼子氏を責め滅し、中国地方で一番大きな大名に成り上がったのです。</p>
<p>元就は、子孫に、これ以上むやみに戦をせず領土を安全に守っていくようにと諭しました。<br />
それで、毛利家はこのあと長く無事に栄えました。<br />
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		<title>戦国大名とは？　全国統一されてからも栄えた領内の開発とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/785</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 12:00:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[連座]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は戦国大名とは？　領内の開発について、日本の歴史を紹介します。 戦国大名 応仁の乱をさかいに、それまで勢いの強かった守護大名は、相続く戦いの中で次々に倒れていきました。 これに代わって、その家来であったものが各地に領 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は戦国大名とは？　領内の開発について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h3>戦国大名</h3>
<p>応仁の乱をさかいに、それまで勢いの強かった守護大名は、相続く戦いの中で次々に倒れていきました。<br />
これに代わって、その家来であったものが各地に領国を打ち立てて、戦国大名となります。</p>
<p>しかし、中には守護大名が、そのまま戦国大名に、かわっていったものもいました。</p>
<p>主な戦国大名としては小田原(神奈川県の一部)の北条氏甲斐(山梨県)の武武田氏・越後(新潟県)の上杉氏、尾張(愛知県の一部)の織田氏、三河(愛知県の一部)の徳川氏、安芸(広島県の一身部)の毛利氏、薩摩(鹿児島。県の一部)の島津氏などがありました。</p>
<h3>領内の取り締まり</h3>
<p>このような戦国大名は、室町時代の初めの守護大名のように荘園の経済に頼ろうとはしませんでした。<br />
それどころか、かえって荘園制度を武力で押しつぶし農民たちを直接、自分の支配下におきました。</p>
<p>こうして領国を作り上げた戦国大名は他の誰からも指図を受けず完全な独立国の主人のようになりました。</p>
<p>しかし、それだけに、武力を強め立派な政治をしなければ、いつ自分が滅ぼされてしまうかわかりません。</p>
<p>そこで、戦国大名は、家臣(けらい)たちを力強く取り締まるとともに、鎌倉幕府の貞永式目の例にならって、領国の法律や家訓を定めました。</p>
<p>これを家法とか壁書などといっています。</p>
<p>大内氏の「大内家壁書」・伊達氏の「塵芥集」、今川氏の「今川仮名目録」、武田氏の回「信玄家法」、朝倉氏の「朝倉敏景十七箇条」・北条氏の「早雲寺殿廿一箇条」、長曽我部氏の「長曽我部元親百箇条」などが、それにあたります。</p>
<p>これらの家法や壁書によると領主である戦国大名の権力はたいへん強く家臣や領民の命や財産は、ひとりの領主に握られていたことがわかります。</p>
<p>領主の命令に背いたものは、例え殺されても領内から追い払われても、文句が言えません。<br />
領主の一族が結婚する場合も家臣が家を継ぐとき、いちいち領主の許しが必要でした。</p>
<p>鎌倉時代の貞永式目では女性の地位がかなり高く認められていましたが戦国大名の法律では、女性の地位は低いものでした。</p>
<p>財産もわけてもらえず、男性より低くみられ都合次第で、勝手に、他所へ嫁に出されてしまいます。</p>
<p>また、領内に騒ぎがおこるのを防ぐために喧嘩がおきても、言い分を聞かずに喧嘩両成敗と言って両方とも罰しました。</p>
<p>重い罪を犯した場合いにはその人だけでなく、一族や、その家来までも、罰せられました。</p>
<p>これを連座といいます。</p>
<p>刑罰のやり方も大層厳しくどしどし死刑が行われました。<br />
死刑にも、様々あって張り付け・のこぎりびき・串刺しなど名前を聞くだけで、ぞっとするような残酷なやり方をしています。</p>
<h3>領内の開発</h3>
<p>戦国大名は、領内の取り締まりを厳しくするとともに、その経済を豊かにするために産業の発達に力をいれました。</p>
<p>まず、荒地を切り開き、耕地を広げました。</p>
<p>それから、金山や銀山などの鉱物資源の開発にも力を入れました。<br />
また、領国の政治・経済・軍事の中心地である城下町を栄えさせるために、いろいろと、工夫を凝らしました。</p>
<p>まず、商工業者を荘園の領主であった貴族や神社・寺院から切り離して城下町に呼び集めるために、これまでの座とは違った、楽市・楽座の制をつくりました。</p>
<p>それまでの座の制度だと、商売ができるのは、座に入っている者だけでした。<br />
しかも、商売をするためには、いろいろな税を荘園領主に納めなければなりません。</p>
<p>それが、楽市・楽座では、税を治める必要もなく誰でも商売ができました。<br />
その他、いろいろと保護を加えたので商工業者は、喜んで城下町に集まってきました。</p>
<p>また、大名たちは神仏を信仰していたので近くにある神社や寺を城下町の一部に移して土地を与えました。</p>
<p>その結果、寺町まで出来ました。</p>
<p>これらの城下町は、その後織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のために全国が統一されてからもいよいよ栄え地方の代表的な都市として発展していきました。<br />
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		<title>下克上とは？　どんな武将でも すぐに下のものに 滅ぼされる世の中！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/784</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 11:21:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[下克上]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は下克上とは？　下克上の武将たちについて、日本の歴史を紹介します。 応仁の乱の後、それまで勢いを奮っていた守護大名を乗り越えて新しく伸びてきた大名たちがあります。 これを戦国大名と言います。 戦国大名は、実力でとった [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は下克上とは？　下克上の武将たちについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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応仁の乱の後、それまで勢いを奮っていた守護大名を乗り越えて新しく伸びてきた大名たちがあります。</p>
<p>これを戦国大名と言います。</p>
<p>戦国大名は、実力でとった自分の領地を、さらに広げようとして、お互いに隙を伺っては戦いを仕掛けました。</p>
<p>彼らは、また立派な城を築き、その周りに城下町をつくり領内の政治に力を入れました。</p>
<h2>下克上とは？</h2>
<p>室町時代の初めの頃から次第に下克上ということが、流行ってきました。<br />
下克上というのは、身分の下のものが上のものを実力で凌ぐことを言います。</p>
<p>いくら家柄が低くても、実力さえあれば地位の高いものを追い越して構わないという激しい生き方です。</p>
<p>この下克上という考え方は、その頃の社会に広く深く伝わり、土一揆にも応仁の乱にも、その他いろいろなところに見られました。</p>
<p>しかし、応仁の乱が終わり将軍の力が、全く衰え、いよいよ戦国の世となると下克上の考え方は、さらに全国的に広がっていきました。</p>
<p>例えば都では、将軍や管領の勢いは衰え、その家来の三好長慶や松永久秀などが実際の政治を行うようになります。</p>
<p>また、地方の国々でも関東公方の足利氏よりも、その家来の上杉氏の力の方が強くなりました。</p>
<p>守護は下役の守護代に、守護代は、またその下役の家老などに乗り越えられ全て実力本位の世の中になっていきました。</p>
<h2>下克上の武将たち</h2>
<p>戦国の世に活躍した武将たちは、みな、古い習わしなど、踏みにじって進むだけの元気と実力がありました。</p>
<p>例えば、応仁の乱のとき、西軍の大将だった山名宗全は、ある貴族の学者に、こう言ったという話があります。</p>
<p>「むかしは、こうだったなどと、昔のことばかり言っていて、時代が変わっていくのに気付かなかったからこそ貴族は貧乏になり、ついには武士に辱めれて天下を取られてしまったのです」</p>
<p>この言葉には、その頃の戦国武士たちの気持ちが、よくあらわれています。<br />
しかし、下克上の世の中では、どんな武将でも油断をしていたら、すぐに自分より下のものに、滅ぼされてしまいます。</p>
<p>三好長慶は、はじめ管領細川晴元の家来でした。</p>
<p>しかし、やがて主人より勢いが強くなりついには将軍さえも、自分の思う通りに動かせるようになった、下克上の見本のような武将です。</p>
<p>ところが、この三好長慶でさえも最後には、自分の家来の松永久秀の勢いに押されて死んでしまいました。<br />
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