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	<title>明治時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>明治時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>明治時代に流行ったスポーツとは？ 野球やテニスだけじゃない？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/914</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 16:27:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[野球]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は明治時代に流行ったスポーツと映画について、日本の歴史を紹介します。 西洋のスポーツが、日本に入ってきたのは明治時代になってからではなく江戸時代の中期には すでにラケットがつくられ江戸で売られていました。 当時はまだ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治時代に流行ったスポーツと映画について、日本の歴史を紹介します。</p>
<div class="m30-b"></div>
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西洋のスポーツが、日本に入ってきたのは明治時代になってからではなく江戸時代の中期には<br />
すでにラケットがつくられ江戸で売られていました。</p>
<p>当時はまだゴムまりが発明されていなかったので木のまりに鳥の羽根をつけて打ったということです。<br />
今日のバドミントンに似ていたようですが途中で廃れました。</p>
<p>ボートも、オランダから海軍教師がきて、こぐことを教えましたが、それは軍用としてで、まだ競技を楽しむまでには至りませんでした。</p>
<h2>野球</h2>
<p>西洋式のスポーツが盛んに行われるようになったのは明治になってからで最初に入ってきたのは野球です。</p>
<p>これはアメリカから入ったスポーツですが日本人の気性にあって、盛んになりました。</p>
<p>1873、74年(明治6、7年)ごろから東京神田にあった護持院治が原という草原で大学の先生として、雇われてきたアメリカ人教師たちがはじめたのです。</p>
<p>そこへ、アメリカに留学してこれを覚えてきた牧野伸顕・平岡燕という人が日本人の間に広めました。<br />
1890年ごろには試合もかなり行われるようになりました。</p>
<p>はじめは第一高等学校が強く1894年に7チームが参加した東京の連合野球大会で一高が優勝しました。<br />
ところが1902年ごろから慶応義塾と早稲田大学が強くなってきて1903年に早慶戦がはじまりました。</p>
<p>早慶戦は、イギリスのオクスフォードとケンブリッジ両大学のボートレース、アメリカのエールとハーバード両大学の諸競技と並んで世界の三大カレッジゲームといわれるまでに盛んになりました。</p>
<p>なお、日露戦争の真っ最中に早稲田大学の野球チームがアメリカに渡り西海岸の諸大学と試合をしました。</p>
<p>これが、日本が国際競技に海外遠征したはじめです。</p>
<h2>水泳</h2>
<p>水泳は日本にも昔からありましたが、やはり武術の一部として行われていたのです。<br />
これをスポーツとするようになったのは明治に入ってからです。</p>
<p>明治の中期には、横浜で外国人との間に、たびたび競泳が行われ、のちの水泳王国をつくる地盤ができました。</p>
<h2>テニス</h2>
<p>テニスは1884年ごろに移入されました。<br />
政府がまねいた体操教師が東京高等師範学校(今の教育大学)で教えました。</p>
<p>ここから各学校へ広まり婦人の間でも行われました。<br />
明治時代のテニスは軟球で硬球を使うようになったのは大正に入ってからです。</p>
<h2>ボートレース</h2>
<p>ボートレースは野球と同じく学生の間で行われました。<br />
東京の隅田川でのレースは年中行事として多くの観衆を集めました。</p>
<p>とくに東京帝国大学の各科対抗レース、一高と高商（今の一橋大)とのレースは有名でした。</p>
<h2>登山・スキー・スケート</h2>
<p>昔から宗教的な行事として山伏やその他の信者が富士山などに登っていました。<br />
それが、娯楽または体育となったのは日露戦争の前ごろからです。</p>
<p>本州中部の山脈が日本アルプスと呼ばれ有名になったのも明治時代です。<br />
スキー・スケートはスポーツの中では遅れて発達し明治の末になって盛んに行われるようになりました。</p>
<h2>剣道・柔道</h2>
<p>明治維新の結果、剣道は衰えましたが1877年ごろには復興の兆しが現れてきました。<br />
そして、日清戦争のころには剣道が学校体育の一部として採用され学生剣道がたいへん栄えました。</p>
<p>日本から海外に広まってしたのは柔道です。</p>
<p>ことに日露戦争当時のアメリカ大統領のセオドア＝ルーズベルトは自分の家に道場をつくり日本人を先生に迎えて自分も習い子弟にも覚えさせました。</p>
<p>柔道は今日ではオリンピックの種目の一つに加えられるようになりましたが、これについては嘉納治五郎の功績を忘れてはなりません。</p>
<p>そのほか、乗馬も行われるようになり女学生や婦人の間に広まりました。<br />
乗馬以上に普及したのが自転車です。</p>
<p>東京上野の不忍池のほとりで自転車競争が賞金つきで開かれて、多くの観客を集めました。</p>
<h2>映画</h2>
<p>映画は日清戦争後になってフランスとアメリカから、ほとんど同時に入り、活動写真と呼ばれました。<br />
東京神田の錦輝館で、はじめて公開されましたが本当の人物や風景をうつした写真が実物通りに動くのを見て人々は、びっくりしました。</p>
<p>映画館ができたのは1903年(明治36年)で、それまでは寄席や劇場で上映されていました。</p>
<div class="m30-b"></div>
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		<title>明治時代に世界から知られる学者とは？ 日本人の寿命が伸びた！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/913</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 16:21:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[北里柴三郎]]></category>
		<category><![CDATA[野口英世]]></category>
		<category><![CDATA[長岡半太郎]]></category>
		<category><![CDATA[社会科学]]></category>
		<category><![CDATA[朝河貫一]]></category>
		<category><![CDATA[新井鶴子]]></category>
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		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[自然科学]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は明治時代に世界から知られる学者について、日本の歴史を紹介します。 学問のほうはよその国の人にもわかりますし、また、優れた学者がでましたので、その仕事が早くから世界に知られました。 自然科学 明治時代になって、日本人 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治時代に世界から知られる学者について、日本の歴史を紹介します。</p>
<p>学問のほうはよその国の人にもわかりますし、また、優れた学者がでましたので、その仕事が早くから世界に知られました。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<h2>自然科学</h2>
<p>明治時代になって、日本人の寿命が伸び体格がよくなりました。</p>
<p>それは、医学が進みコレラやチフスのような伝染病が減り衛生思想がすすんで、みんなが病気に気を付けるようになったからです。</p>
<p>明治の中期から後期にかけて、幾つかの優れた研究が、その業績をあげました。<br />
北里柴三郎はドイツに留学して細菌学者コッホの門に入りました。</p>
<p>そして、破傷風の研究をはじめ、ついに破傷風菌の純粋培養に成功し翌年破傷風の血清療法を発見しました。</p>
<p>彼はまた、香港にペストという恐ろしい病気が流行ったとき現地に派遣され目覚しい働きをして立派な研究をまとめました。</p>
<p>野口英世は、子どものころ手に火傷をして指がくっついてしまったのを切開して、元通りになったのに感謝する気持ちから医者を志しました。</p>
<p>彼らはアメリカに渡って、みんなが気味悪がるヘビの毒を研究して、それを発表し、才能を認められました。</p>
<p>その後、やっかいな伝染病を研究し多くの学位や勲章をもらいました。<br />
高峰譲吉は、アメリカで有名になった人ですがアドレナリンやタカジアスターゼを発明しました。</p>
<p>物理学のほうでは先生と弟子の関係にある長岡半太郎と本多光太郎の両博士が有名です。</p>
<p>長岡半太郎は、20世紀に入った前後に早くも陽電子を帯びている原子核のあることを発見して、今日やかましくいわれている原子物理学を開拓した人です。</p>
<p>その弟子の本多光太郎は学問的研究ばかりでなく、それを応用してKS鋼・新KS鋼を発明しました。<br />
そのほか、自然科学の方面では木村栄のZ項の発見、池田菊苗の化学調味料(味の素)の発明、鈴木梅太郎のオリザニン(ビタミンB1)の研究、志賀潔の赤痢菌の発見などがあります。</p>
<h2>社会科学</h2>
<p>歴史学者朝河貫一はアメリカ一流の学校エール大学の教授となりました。<br />
地味な人で、世間から騒がれませんでしたが学界からは最高の尊敬をはらわれていました。</p>
<p>彼の封建制度に関する研究はヨーロッパ諸国の学界でも大いに認められています。</p>
<p>日本では、歴史は天皇制のもとでの政治に妨げられて自由な研究ができませんでしたが朝河博士は、アメリカでそんな心配も邪魔もなく自由にのびのびと研究できたので、これまでにみられない業績をあげました。</p>
<p>女で活躍した人に新井鶴子(のちに原と姓がかわる)がいます。</p>
<p>新井はニューヨークにあるコロンビア大学で心理学をおさめ、文学博士となりました。</p>
<p>当時の日本国内では女に学位を与える制度がありませんでしたので、これは明治時代でたったひとりの女博士です。</p>
<p>若くして死んだので、その仕事は今まであげた諸博士に比べて劣るかも知れません。<br />
しかしドイツの学者も認めて、その論文に彼女の研究について書いています。</p>
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		<title>明治時代頃の美術と音楽とは？ 西洋の影響を大きく受けて発展？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/912</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 16:16:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[美術]]></category>
		<category><![CDATA[フェノロサ]]></category>
		<category><![CDATA[岡倉天心]]></category>
		<category><![CDATA[伊沢修二]]></category>
		<category><![CDATA[滝廉太郎]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は明治時代頃の美術と音楽について、日本の歴史を紹介します。 美術 明治のはじめごろ、イタリアから油絵・水彩画・彫刻の先生がやってきて教えました。 そのため西洋美術は非常にすすみました。 哲学の教師としてやってきたアメ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治時代頃の美術と音楽について、日本の歴史を紹介します。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<h2>美術</h2>
<p>明治のはじめごろ、イタリアから油絵・水彩画・彫刻の先生がやってきて教えました。<br />
そのため西洋美術は非常にすすみました。</p>
<p>哲学の教師としてやってきたアメリカ人のフェノロサは「日本の絵画は非常に優れているのだから、それを大切にしなければいけないと演説しました。</p>
<p>そして、世の中から忘れられていた狩野芳崖・橋本雅邦などの優れた絵の値打ちを見出しました。<br />
また岡倉天心はフェノロサと力を合わせて日本画を盛んにするために努力しました。</p>
<p>1889年(明治22年)には東京美術学校（今の東京芸術大学美術学部) がつくられ岡倉天心が校長になりました。</p>
<p>彫刻は日本にあるのは奈良や鎌倉の大仏のような金彫か、あるいは寺にある仏像のような木彫か、石仏でした。<br />
そこへイタリア人教師がきて石膏像からはじめる西洋彫刻を教えました。<br />
その弟子たちがつくったのが東京の上野にある西郷隆盛や九段にある大村益次郎の銅像などです。</p>
<p>建築も、西洋館が数多くみられるようになりました。</p>
<h2>音楽</h2>
<p>アメリカ滞在中に洋楽を学んだ伊沢修二の勧めによって1879年(明治21年)文部省音楽取調掛ができ<br />
本格的な音楽教育がはじまりました。</p>
<p>そして、小学校の唱歌に西洋風の音楽を取り入れるなど新しい音楽教育、洋楽の普及が勧められました。<br />
1885年、文部省音楽取調所が東京音楽学校(今の東京芸術大学音楽学部)となりました。</p>
<p>ここから有名な人が数多くでました。</p>
<p>中でも天才といわれたのは24才の若さで死んだ滝廉太郎です。</p>
<p>「荒城の月」「箱根山」「鳩ポッポ」「すずめ、すずめ、きょうもまた」などは彼の作曲した歌です。<br />
このように明治時代の芸術は西洋の影響を受けて、今までになく新しい発展を遂げました。</p>
<p>しかし、絵画を除いては広く世界に知られるまでには至りませんでした。<br />
漱石らの小説や「荒城の月」が海外にまで知られるようになったのは昭和になってからです。</p>
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		<item>
		<title>近代文学とは？ 自然主義文学とは？ 紅葉と露伴・漱石と鴎外とは？　</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/900</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 16:09:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[近代文学]]></category>
		<category><![CDATA[坪内道遥]]></category>
		<category><![CDATA[二葉亭四迷]]></category>
		<category><![CDATA[尾崎紅葉]]></category>
		<category><![CDATA[山田美妙]]></category>
		<category><![CDATA[幸田露伴]]></category>
		<category><![CDATA[島崎藤村]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[自然主義文学]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は近代文学について、日本の歴史を紹介します。 近代文学の誕生 西南戦争が終わり、世の中が落ち着くと文学が年をおって盛んになりました。 その中で一番目覚しい発達を遂げたのは小説です。 1885年(明治18年)、坪内道遥 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は近代文学について、日本の歴史を紹介します。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<h2>近代文学の誕生</h2>
<p>西南戦争が終わり、世の中が落ち着くと文学が年をおって盛んになりました。<br />
その中で一番目覚しい発達を遂げたのは小説です。</p>
<p>1885年(明治18年)、坪内道遥は「小説神髄」という本を書き「新しい小説は世の中の姿や人間の生活をありのままにうつし、人情・心理を描くことを目的とすべきだ」と説きました。</p>
<p>この考えを受け継いで二葉亭四迷は「浮雲」という小説を書きました。</p>
<p>「浮雲」の文章は、それまでの古めかしい文章とは違って普段使っている言葉を、もとにしたものでした。</p>
<p>こうして、坪内道遥・二葉亭四迷らによって近代小説の道が開けていったのです。</p>
<h2>紅葉と露伴</h2>
<p>尾崎紅葉・山田美妙たちは硯友社という文化団体をつくり日清戦争前後に活躍くしました。<br />
紅葉の「金色夜叉」、幸田露伴の「五重塔」は、よく知られています。</p>
<p>そのほか女流作家として代表的な樋口一葉も「たけくらべ」など、すぐれた作品な発表しました。</p>
<h2>自然主義文学</h2>
<p>日露戦争後になると自然主義の小説が盛んになりました。</p>
<p>これは、文章の美しさや好みに捕われず世の中や人間の生きかたを、ありのままに見てどんな醜いことでもはっきり書きあらわそうとするものです。</p>
<p>島崎藤村・出山花袋・徳田秋声・国木田独歩などが広く知られています。</p>
<h2>漱石と鴎外</h2>
<p>自然主義文学はたいへん流行しました。<br />
これに反対の立場をとり独自の文学を打ち立てた作家に夏目激石と森鴎外がいます。</p>
<p>激石は「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」、鴎外は「青年」「雁」など多くの立派な小説を書きました。</p>
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<h2>詩・和歌・俳句</h2>
<p>小説ばかりでなく、詩・和歌・俳句も新しい形や考えかたでつくられるようになりました。</p>
<p>詩は、西洋の詩を真似た新体詩というものが大学の先生によって、明治の10年代から試験的につくられていました。</p>
<p>これを1900年ごろに島崎藤村・土井晩翠などの詩人があらわれて立派なものに仕上げました。<br />
藤村は「若菜集」二葉舟」「落梅集」などの詩集を発表しました。</p>
<p>晩翠は有名な「荒城の月」を書きました。</p>
<p>新しい短歌をつくることに勤めた人として与謝野鉄幹とその妻晶子・正岡子規・石川啄木などがあげられます。</p>
<p>鉄幹・晶子は「明星」という雑誌を発行し短歌のうえに大きな影響を与えました。<br />
正岡子規はまた、病気と戦いながらも俳句の改革に勤めました。</p>
<p>彼は、古い俳句を「月並」といって排斥し絵で教えられた写生ということにカを注いだ句をつくりました。</p>
<p>この俳句はのちにイギリス・フランス・アメリカの詩に影響して、イマジズム(写象詩)という新しい詩をおこしました。</p>
<h2>芝居</h2>
<p>芝居も江戸時代のものとは非常に変わってきました。<br />
坪内道逢が西洋の芝居を研究して古くからある歌舞伎劇を新しい時代に向くように作り替えました。</p>
<p>その後を追って岡本縞堂という作家がでて歌舞伎の発達に尽くしました。</p>
<p>また、壮士芝居というものがおこって当時のできごとを演じ、その目新しさが喜ばれました。<br />
また、小山内薫らの力によって、これまでの歌舞伎と全く違った西洋風の新劇がつくられました。</p>
<div class="m30-b"></div>
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		<title>社会主義とは？ 大逆事件とは？ 明治時代の農村の暮らしとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/899</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 12:48:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大逆事件]]></category>
		<category><![CDATA[万朝報]]></category>
		<category><![CDATA[平民新聞]]></category>
		<category><![CDATA[冬の時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[産業革命]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[農業資本家]]></category>
		<category><![CDATA[治安警察法]]></category>
		<category><![CDATA[日露戦争]]></category>
		<category><![CDATA[社会主義]]></category>
		<category><![CDATA[資本主義]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は社会主義とは？　大逆事件について、日本の歴史を紹介します。 社会主義とは？ これらの労働運動にはアメリカやヨーロッパの国々から帰国した人たちが大きな影響を与えましたが 社会主義の考えかたも、強く影響しました。 社会 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は社会主義とは？　大逆事件について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<h3>社会主義とは？</h3>
<p>これらの労働運動にはアメリカやヨーロッパの国々から帰国した人たちが大きな影響を与えましたが<br />
社会主義の考えかたも、強く影響しました。</p>
<p>社会主義というのは労働人たちの暮らしをよくするために資本主義の社会を改めようという考え方です。<br />
当時の社会主義者の代表的な人に片山潜・堺利彦・安部磯雄・幸徳秋水などがあげられます。</p>
<h2>戦争反対</h2>
<p>社会主義者は、戦争は労働者や農民を苦しめるだけだと考えました。<br />
そして日露戦争のときには「万朝報」や「平民新聞」を通じて戦争反対を叫びました。</p>
<h2>大逆事件</h2>
<p>こうした労働運動や社会主義運動の高まりに対し政府は、1900年(明治33年)に治安警察法という法律をつくったりして強い取り締まりを加えました。</p>
<p>しかし、それにも関わらず1906年(明治39年)には日本社会党働がつくられ社会主義を広める運動は根強く続けられていましたが翌年には、政府の圧力によって出来たばかりの日本社会党は解散させられました。</p>
<p>1910年には、有名な大逆事件がおこりました。</p>
<p>この年の6月宮下太吉・新村忠雄・古河力作・菅野スガの四人が明治天皇を殺そうと企てたとの理由で<br />
捉えられました。</p>
<p>彼らは幸徳秋水の教えを受けていた社会主義者たちでした。<br />
政府はこの事件をきっかけにして全国の社会主義者をそっくり捕まえてしまおうとにしました。</p>
<p>大勢の社会主義者が捉えられ秘密の裁判にかけられました。</p>
<p>そして、幸徳秋水をはじめ12人の社会主義者が天皇を殺そうとしたという罪で死刑になり、さらに12人が無期懲役になりました。</p>
<p>これが大逆事件です。</p>
<p>大逆事件以後、政府の取り締まりは、ますます厳しくなったため日本の労働運動と社会主義運動は明治の末から大正のはじめにかけて火が消えたようになり「冬の時代」に入ったといわれています。</p>
<p>こうして、労働者を保護する法律や制度は、なかなか進みませんでした。<br />
1911年(明治44年)には幼少年者や婦人の労働を保護することを中心とした工場法ができました。</p>
<p>しかし、これは手ぬるいもので実際に行うのは5年後と決められました。</p>
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<h2>地主と小作人</h2>
<p>明治の末には、工業の面では産業革命もほぼ終わりました。<br />
大企業も多くなり、三井・三菱などは財閥として形を整えるほどになりました。</p>
<p>これに比べて、農業の進歩はたいへん遅かったのです。</p>
<p>農業資本家が、労働者を雇い農業生産を行うという、近代的な農業経営はごく一部でしかできませんでした。</p>
<p>多くは、地主が自分は耕作や農業経営を行わず小作人に土地を貸して年貢米を取立てる方法、つまり地主制がますます固まっていきました。</p>
<p>そしてまた、日本の農業は家族の労働による、極めて小さな経営を中心とする仕組みに、固まっていったのです。</p>
<h2>農村の暮らし</h2>
<p>農業は、品種の改良、肥料の普及、農機具の発達などによって、ゆっくりした歩みながら進んでいきました。</p>
<p>魚のしめかすや、満州から輸入した大豆かすが肥料になり、やがて化学肥料も使われるようになりました。</p>
<p>そのため農作物のとれ高はだんだん多くなり、また生糸や絹織物の輸出が増えるにつれて養蚕が盛んになり・クワ畑も増えました。</p>
<p>しかし、農民の暮らしは、なかなか楽になりませんでした。<br />
とれた農作物の半分以上は小作料として地主に納めなければなりません。</p>
<p>その上、日用品も肥料も農具も農民がつくって売る農作物に比べて、ずっと値段が高かったのです。</p>
<p>暮らしに困った農民たちは娘を女工にしたり暇なときには、出稼ぎにいったりして暮らしのやりくりをしました。</p>
<p>しかし、それでも自分の土地を手放してしまうものが増え小作をする農民はますます多くなるばかりでした。</p>
<h2>農民の運動</h2>
<p>1900年(明治33年)頃になると都市の労働運動の影響を受けて農民たちの組合がつくられるようになりました。</p>
<p>そして農民たちの小作料を安くするためにカを合わせて地主に向かっていきました。<br />
こうして、地主と小作人とが全国各地で、激しく争いあうようになるのです。</p>
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		<title>資本家が生まれたのはいつ頃？ 労働運動の発展とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/898</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 12:42:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[労働者]]></category>
		<category><![CDATA[政商]]></category>
		<category><![CDATA[労働組合期成会]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[資本家]]></category>
		<category><![CDATA[三井]]></category>
		<category><![CDATA[三菱]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は明治時代の資本家と労働者について、日本の歴史を紹介します。 資本家が生まれる 明治政府の役人たちとうまく関係をつけ、それを利用して、儲けていった大商人たちを政商といいました。 三井・三菱はその代表です。 三菱は政府 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治時代の資本家と労働者について、日本の歴史を紹介します。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<h2>資本家が生まれる</h2>
<p>明治政府の役人たちとうまく関係をつけ、それを利用して、儲けていった大商人たちを政商といいました。</p>
<p>三井・三菱はその代表です。</p>
<p>三菱は政府の保護をうけ汽船会社として勢いをふるい西南戦争でも軍事輸送を一手に引き受けてたいへん儲けました。</p>
<p>三井組は古くからの豪商でしたが明治になると新政府の御用金をまかない官金を扱う為替方を命じられました。</p>
<p>1872年(明治5年)には小野組と共同で第一国立銀行を建てました。</p>
<p>このような政商が近代的な財閥資本家となったのは政府から官営工場の払い下げを受けたのがもとでした。</p>
<p>三菱は、長本崎造船所を払い下げてもらい、ここをもとにして、事業をもっぱら重工業にうつし三菱財閥として伸びていきました。</p>
<p>三井もまた、井上馨のつくった商事会社を受け継ぎ三井物産のもとをつくりあげました。<br />
その後官営の三池鉱山を手に入れ、これを足場にして近代産業を支配する大財閥となりました。</p>
<p>そのほか、浅野総一郎が官営深川セメント工場を譲り受けて浅野セメント(現在の日本セメント)をつくり浅野財閥のもとを築きました。</p>
<p>古河市兵衛は、足尾銅山を手に入れて古河財閥を築き上げました。<br />
住友は、古くから別子銅山を経営していましたがこれをもとに金属工業へ進出していきました。</p>
<p>これらの財閥は、多く銀行を経営し、その資本をもとにして産業界に支配の手を伸ばしていきました。</p>
<h2>労働運動の発展</h2>
<p>このように発資本家の勢いが強くなり、彼らの経営する大工場には多くの労働者が働くようになりました。</p>
<p>そうなると、いろいろな労働問題かおこり、その問題をめぐって労働運動もおこってきました。<br />
明治初年からはやくも労働問題が生じ1887年(明治20年)前後から労働運動もおこりはじめました。</p>
<p>1897年(明治30年)には「労働組合期成会」ができるなど労働組合をつくる動きも活発になり、大きなストライキもおこるようになりました。</p>
<p>労働者は、工場の設備をよくしてほしいとか安い賃金を高くしてほしいとかいう要求を出しました。<br />
日清戦争のあと労働組合もだんだん多くなりました。</p>
<p>日露戦争のあとには労働組運動が、いっそう激しくなりました。</p>
<p>1906、7年(明治39、40年)には大阪砲兵工廠や、足尾・別子の銅山などで労働者がストライキや、暴動をおこしました。</p>
<p>とくに足尾銅山の暴動はひどく軍隊の出動によって、ようやく鎮められました。</p>
<p>足尾の暴動が、他の鉱山労働者を刺激し生野・別子・夕張などでも暴動がおきました。</p>
<div class="m30-b"></div>
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		<item>
		<title>明治時代に重工業が発展？ 八幡製鉄所が生産開始したから？　金本位制とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/897</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 12:36:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[綿紡績業]]></category>
		<category><![CDATA[繊維工業]]></category>
		<category><![CDATA[八幡製鉄所]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[産業革命]]></category>
		<category><![CDATA[重工業]]></category>
		<category><![CDATA[金本位制]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/897</guid>

					<description><![CDATA[今回は重工業の成立と金本位制について、日本の歴史を紹介します。 重工業の成立 産業革命という場合は普通綿紡績業を中心とした繊維工業の近代化を指します。 しかし、やはり産業革命は重工業(製業・機械工業・造船業など)の基礎が [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は重工業の成立と金本位制について、日本の歴史を紹介します。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<h2>重工業の成立</h2>
<p>産業革命という場合は普通綿紡績業を中心とした繊維工業の近代化を指します。</p>
<p>しかし、やはり産業革命は重工業(製業・機械工業・造船業など)の基礎ができることによって完成することになります。</p>
<p>日本の重工業は明治のはじめに官営工場の形でスタートを切りました。</p>
<p>これらの官営工場は官営鉱山とともに陸海軍の兵器・軍艦などをつくる工場をのぞいて1880年(明治22年)ごろから、だんだん民間に、払い下げられていきました。</p>
<p>この払い下げは非常に安い値段で三井・三菱などに対して行われたので財閥というものができる大きなきっかけの一つになりました。</p>
<h2>八幡製鉄所とは？</h2>
<p>このようにして、造船業などを中心とした重工業が発展していきました。</p>
<p>日本の重工業の歴史にとって最も大きな出来事は、1901年(明治34年)政府が福岡県につくった官営八幡製鉄所(八幡製鉄株式会社)が生産をはじめたことです。</p>
<p>製鉄業は近代工業の基礎ですから、これは日本の重工業の発展にとってたいへん大切な出来事でした。</p>
<p>その他、工作機械・せんばん・機関車や船の汽かん大型の車両などもどしどし国内でつくられるようになりました。</p>
<p>こうして、明治の末には重工業の基礎も固まり日本の産業革命がほぼ完成したといえます。</p>
<h2>その後の産業の発展</h2>
<p>その後日本の産業は順調な発展を続けました。</p>
<p>とくに第一次世界大戦（1914～1918年) の頃は輸出が未だかつてなかったほど増えたことも厚く非常な発展を遂げました。</p>
<p>そして、日本の総生産額のなかで工業の産額が農業の産額(いずれもお金の高)を越えるようになりました。</p>
<h2>金本位制とは？</h2>
<p>こうして産業が発展し国と貿易を盛んにするためには西洋の国々と同じように日本も、通貨を金本位制(貨幣の値打ちを金によって決める制度)にしないと不便でした。</p>
<p>そのころ日本は銀本位制でしたが日清戦争にかつて、賠償金をとったのをきっかけにして1897年金本位制を実行しました。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<div class="m30-b"></div>
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]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>製糸業の産業革命とは？明治時代に日本は生糸の輸出で世界一となる？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/896</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 12:29:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[産業革命]]></category>
		<category><![CDATA[製糸業]]></category>
		<category><![CDATA[織物業]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は製糸業の産業革命について、日本の歴史を紹介します。 製糸業の産業革命とは？ 同じ糸をつくるエ業でも生糸をつくる製糸業は綿紡績業に比べると発達が遅れました。 しかしそれでも生糸は日本の特産品として外国の市場にも多く輸 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は製糸業の産業革命について、日本の歴史を紹介します。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<h2>製糸業の産業革命とは？</h2>
<p>同じ糸をつくるエ業でも生糸をつくる製糸業は綿紡績業に比べると発達が遅れました。<br />
しかしそれでも生糸は日本の特産品として外国の市場にも多く輸出されました。</p>
<p>生糸をつくる道具としては維新前には手びき明治のはじめには、座やりというものが使われていましたが<br />
中頃から、器械製糸へと発展していきました。</p>
<p>そして明治28年には器械製糸の生産高は座ぐりによる生産高を追い越しました。<br />
国また明治の末頃には日本は生糸の輸出では世界第一となりました。</p>
<h2>織物業の発達</h2>
<p>綿糸や生糸を使って織物をつくる織物業も明治の中ごろには、手おりから機械の力で動く力織機による生産へと発展していきました。</p>
<p>力織機としては最初はヨーロッパから輸入されたジャガード、パックンなどというものが使われました。</p>
<p>1897年(明治30年)には静岡県の豊田佐吉によって豊田式自動織機が発明され、これが日本の綿織物業な発展させました。</p>
<p>綿織物の輸出高は1909年(明治42年)に輸入高を越えるようになりました。<br />
また昭和のはじめ1930年代のはじめには日本の綿布の輸出はイギリスを追い越し世界一になりました。</p>
<p>綿織物業は、近畿・東海地方を中心に発達し大きな綿紡績会社が織布をかねて行うようになりました。</p>
<p>生糸を原料とする絹織物業は西陣・桐生・足利・八王子・伊勢崎・博多で主に国内むきのものがつくられ<br />
北陸地方では、主に輸出向きのものがつくられました。</p>
<p>このように、綿・絹を中心とした繊維工業は非常に早く発達し、生糸・絹織物・綿糸・綿織物は太平洋戦争前まで、日本の輸出の中心でした。</p>
<p>100年の調査によれば総工場数の70.7％、職工数の67％を占めていました。<br />
しかもその99％は製糸・紡績・織物で、占められていました。</p>
<p>繊維工業の中でも、綿紡績業は機械化がすすみ大工場がぞくぞくたてられました。<br />
それに比べて、中小工場でつくられ技術も立ち遅れていました。</p>
<div class="m30-b"></div>
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<div class="m30-b"></div>
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]]></content:encoded>
					
		
		
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		<item>
		<title>鹿鳴館時代とは？ 西洋の真似事が広まり国民の不満が高まる？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/894</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 09:06:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[保安条例]]></category>
		<category><![CDATA[大隈重信]]></category>
		<category><![CDATA[青木周蔵]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鹿鳴館時代について、日本の歴史を紹介します。 鹿鳴館時代とは？ 井上外相や政府はまた条約を改正するためには日本も外国に負けない文明国であるということを外国人に見せなければならないと考えました。 そこで、政府は盛んに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鹿鳴館時代について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<h2>鹿鳴館時代とは？</h2>
<p>井上外相や政府はまた条約を改正するためには日本も外国に負けない文明国であるということを外国人に見せなければならないと考えました。</p>
<p>そこで、政府は盛んに西洋の風ぞくを取り入れ東京には鹿鳴館という西洋風の立派な建物を建てました。<br />
ここで西洋風の贅沢な宴会やダンスの会を盛んにやり外国の公使や商人を招きました。</p>
<p>うわすべりのした西洋の真似事がこの鹿鳴館を中心にして広がりました。<br />
この頃のことを「鹿鳴館時代」といいます。</p>
<p>これに対して、国民の中には反対の声が高くなりました。</p>
<h2>三大要求</h2>
<p>政府は外国との条約の相談については固く秘密にしていましたが農商務大臣谷干城は、外国から帰ってきて井上外相の考えに、猛烈に反対しました。</p>
<p>「外相のやり方では治外法権は無くなるけれども日本の裁判が外国人の思う通りにされ日本の法律をつくるにも外国の指図を受けることになる。これでは、安政条約より悪い」谷はこういって、とうとう大臣をやめました。</p>
<p>このころから、政府のやり方が国民にもわかり、もとの自由党の人たちをはじめ政府の西洋かぶれに反対の人も一斉に政府を攻撃しました。</p>
<p>そこで井上も外相をやめ外国との条約改正の話も裏切りました。<br />
こののち国民の間には</p>
<ol>
<li>外国と完全に対等の条約を結べ</li>
<li>税金を安くせよ</li>
<li>国民に政治上の意見をいう自由を与えよ</li>
</ol>
<p>という三か条の要求をする</p>
<p>大きな国民選動がおこりました。</p>
<p>政府はこれを厳しく取り締まり政府に反対する人々を保安条例で東京から追い払いました。</p>
<h2>治外法権を無くす</h2>
<p>続いて、大隈重信が外務大臣となり外国人裁判官の数を減らすことなど井上外相の考えを少し改めて外国と談判しました。</p>
<p>それが国民に知れると、またも、激しい反対運動がおこり、この談判も中止されました。<br />
これから後は外国人裁判官を雇うという考えは政府も捨てました。</p>
<p>そして、青木周蔵・榎本武揚と代々の外相がいろいろ努力し1894年(明治27年)7月、陸奥宗光が外相のとき、ようやくイギリスとの間に治外法権を無くした新条約が結ばれました。</p>
<h2>条約改正の完成</h2>
<p>この頃までに、日本は憲法と議会を持ち国民の政治上の権利も前よりは強くなっており、また産業もかなり発達していました。</p>
<p>このような国の進歩が条約改正成こうさせる、いちばん大きな力になりました。</p>
<p>また、この頃イギリスとロシアの勢力争いが激しくなりイギリスは目覚しい勢いですすむ日本を味方にしたかったので日本人が、なによりも強く望んでいる条約改正をしようとしたのです。</p>
<p>日本もまた、このとき清国と戦争の準備をしており、そのためにはイギリスと仲良くしておかなければならなかったので条約改正の談判でも、いろいろとイギリスに譲りました。</p>
<p>このような世界の有様が日本とイギリスの話し合いを上手くすすめるのに役に立ちました。<br />
新日英条約にならって、つぎつぎに各国と条約が結ばれ、それらは、1899年、いっせいに行われました。</p>
<p>けれども関税自主権は、このときには、まだ持つことができませんでした。<br />
それは、1911年(明治44年)になって各国と新しい通商航海条約を結んだとき、はじめて認められました。</p>
<p>日本はこうしてアジアの国々の中で、はじめてヨーロッパやアメリカの国々と完全に対等の条約を持つ国となりました。</p>
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		<title>安政条約による国民の声と政府のやり方とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/893</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 08:55:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[冶外法権]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[安政条約]]></category>
		<category><![CDATA[自由党]]></category>
		<category><![CDATA[福沢諭吉]]></category>
		<category><![CDATA[馬場辰猪]]></category>
		<category><![CDATA[岩倉具視]]></category>
		<category><![CDATA[井上馨]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は安政条約による国民の声と政府のやり方について、日本の歴史を紹介します。 国民の声 このような不都合な条約は一日も早く改めなければならないと国民も政府も考えていました。 福沢諭吉は、明治の初めにそのことを国民に訴えま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は安政条約による国民の声と政府のやり方について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<h2>国民の声</h2>
<p>このような不都合な条約は一日も早く改めなければならないと国民も政府も考えていました。<br />
福沢諭吉は、明治の初めにそのことを国民に訴えました。</p>
<p>また馬場辰猪はやはり明治のはじめイギリスにいるとき英語の論文を書いてイギリス人たちが日本を苦しめていることを非難しました。</p>
<p>そして「日本人は、地球上で一番強い国とも平等の条を結んで、独立国の面目を守る」と叫びました。<br />
自由党も改進党も心に条約改正を唱えました。</p>
<p>自由党の人たちは「日本が外国と、平等になるには、まず日本国民に政治上の権利をあたえ議会と憲法をつくり国民の間の不平等をなくし全国民の力を一つにして外国と談判しなければならない。</p>
<p>政府のカだけでは強い外国に日本の要求を入れさせることはできない」と主張しました。</p>
<h2>政府のやりかた</h2>
<p>けれども政府は、国民の政治上の権利を認めるのを嫌がりとりわけ外交のことに国民がロ出しするのを嫌いました。</p>
<p>そうして政府の力だけで少しずつ条約を改めていこうとしました。</p>
<p>1871年(明治4年)政府は岩倉具視らを外国に遣わして条約を改める相談をしましたが、どの国も、少しも日本の要求を聞きませんでした。</p>
<p>その後も、政府はいろいろ努力しました。</p>
<p>1887年(明治20年)、外務大臣井上馨は外国の公使たちと会議を開き、まず冶外法権を無くすため、次のような条約案をつくりました。</p>
<ol>
<li>5年のちに治外法権をなくする。</li>
<li>その代わり外国人は、日本国中を自由に旅行し、どこにでも住み、商業や工業を自由にはじめ<br />
土地も買うことができる。(安政条約では、外国人はこの権利をもたない)</li>
<li>日本の裁判所に外国人の裁判官を雇い、外国人を裁判するときには日本人の裁判官よりも外国人の裁判官な多くする。</li>
<li>アメリカやヨーロッパの国々にならって新しい法律をつくり、それを外国に見せて賛成してもらってから実行する。</li>
</ol>
<p>といったものでした。</p>
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