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	<title>明治維新 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>明治維新 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>大正の文化とは？　教育の広まりと学問の発達とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/929</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 11 Oct 2014 06:57:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大正・昭和時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正]]></category>
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		<category><![CDATA[昭和]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は関東大震災について、日本の歴史を紹介します。 明治維新以来、我が国は西洋の文化を次々に取り入れてヨーロッパの国並みの文化を身につけようと一生懸命努力しました。 それは、長い間鎖国をしているうちに、すっかり世界の様子 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は関東大震災について、日本の歴史を紹介します。</p>
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明治維新以来、我が国は西洋の文化を次々に取り入れてヨーロッパの国並みの文化を身につけようと一生懸命努力しました。</p>
<p>それは、長い間鎖国をしているうちに、すっかり世界の様子が代わってしまい、このままでは、日本はとても独立国として立つことはできないと考えたからです。</p>
<p>そこで、なにもかも西洋と同じようになることはできないので、せめて形だけでも同じようにしたいと考え政治や経済の仕組みはもちろん文化の上でも、西洋文化をやたらに取り入れました。</p>
<p>ですから、そこには、行き過ぎもあり奇妙な姿かたちでてきたわけです。</p>
<p>しかもそれは、「日本橋の文明開化」などといわれたように都会では、新しい文化の姿があっても田舎では、昔と同じ姿が生活の中に残っていたわけです。</p>
<p>このような新しい文化が都会だけでなく全国にまで行き渡り、また日本の古い文化と溶け込んで借り物でなく、本当の日本の新しい文化が生まれるためには、何十年かの年月が必要だったのです。</p>
<h3>大正の文化</h3>
<p>文化が進むためには政治や経済などが進歩しなければなりません。<br />
文化には、こうした政治や経済の動きが、よく映し出されるのです。</p>
<p>大正の文化の特色は一口で言えば、日本の新しい文化がようやく固まって、民衆の文化となったということです。</p>
<p>民衆の文化となるためには、まず民衆の生活が、高まることが大切です。</p>
<p>明治以来幾度かの苦しい時代を通って日本は大正に入ると第一次世界大戦のときの好景気により一時的に日本の経済が豊かになりました。</p>
<p>民衆の生活は高まり民主主義の考え方が盛んに唱えられ、それに刺激されて日本で、はじめての本格的な<br />
政党内閣ができたり普通選挙が行われるなど確かに明るい空気がみなぎっていました。</p>
<p>もちろんそれは基礎のしっかりしたものではなかったため、そののち、暗い空気に変わってしまいましたがともかく、明治以来の努力が一応実って花を咲かせたときだったと言えます。</p>
<h2>教育の広まりと学問の発達</h2>
<p>この時代は、学校の数がたいへん増えました。<br />
とくに、中学校や女学校の増え方は著しく大正時代だけで、両方合わせて363校も増えました。</p>
<p>このことは、教育が一層広く国民の間に行き渡ったことを示しています。</p>
<p>また、大学・高等学校・専門学校(旧制)などの増えたことによって世の中に多くのインテリが生みだされ<br />
大正デモクラシーも、これらの人々によってより深く理解されました。</p>
<p>いっぽう教育の広まりとともに学問のほうも非常な発達を遂げ外国の真似から抜け出すようになりました。</p>
<p>とくに、化学・物理・工学など自然科学の研究は一段と進み、この時代の重工業や、化学工業の発達に<br />
たいへん役立ちました。</p>
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		<title>製糸業の産業革命とは？明治時代に日本は生糸の輸出で世界一となる？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/896</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 12:29:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[産業革命]]></category>
		<category><![CDATA[製糸業]]></category>
		<category><![CDATA[織物業]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は製糸業の産業革命について、日本の歴史を紹介します。 製糸業の産業革命とは？ 同じ糸をつくるエ業でも生糸をつくる製糸業は綿紡績業に比べると発達が遅れました。 しかしそれでも生糸は日本の特産品として外国の市場にも多く輸 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は製糸業の産業革命について、日本の歴史を紹介します。</p>
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<h2>製糸業の産業革命とは？</h2>
<p>同じ糸をつくるエ業でも生糸をつくる製糸業は綿紡績業に比べると発達が遅れました。<br />
しかしそれでも生糸は日本の特産品として外国の市場にも多く輸出されました。</p>
<p>生糸をつくる道具としては維新前には手びき明治のはじめには、座やりというものが使われていましたが<br />
中頃から、器械製糸へと発展していきました。</p>
<p>そして明治28年には器械製糸の生産高は座ぐりによる生産高を追い越しました。<br />
国また明治の末頃には日本は生糸の輸出では世界第一となりました。</p>
<h2>織物業の発達</h2>
<p>綿糸や生糸を使って織物をつくる織物業も明治の中ごろには、手おりから機械の力で動く力織機による生産へと発展していきました。</p>
<p>力織機としては最初はヨーロッパから輸入されたジャガード、パックンなどというものが使われました。</p>
<p>1897年(明治30年)には静岡県の豊田佐吉によって豊田式自動織機が発明され、これが日本の綿織物業な発展させました。</p>
<p>綿織物の輸出高は1909年(明治42年)に輸入高を越えるようになりました。<br />
また昭和のはじめ1930年代のはじめには日本の綿布の輸出はイギリスを追い越し世界一になりました。</p>
<p>綿織物業は、近畿・東海地方を中心に発達し大きな綿紡績会社が織布をかねて行うようになりました。</p>
<p>生糸を原料とする絹織物業は西陣・桐生・足利・八王子・伊勢崎・博多で主に国内むきのものがつくられ<br />
北陸地方では、主に輸出向きのものがつくられました。</p>
<p>このように、綿・絹を中心とした繊維工業は非常に早く発達し、生糸・絹織物・綿糸・綿織物は太平洋戦争前まで、日本の輸出の中心でした。</p>
<p>100年の調査によれば総工場数の70.7％、職工数の67％を占めていました。<br />
しかもその99％は製糸・紡績・織物で、占められていました。</p>
<p>繊維工業の中でも、綿紡績業は機械化がすすみ大工場がぞくぞくたてられました。<br />
それに比べて、中小工場でつくられ技術も立ち遅れていました。</p>
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		<title>日本の産業革命とは？ 綿紡績業の産業革命とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/895</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 08 Oct 2014 12:22:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[日清戦争]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[産業革命]]></category>
		<category><![CDATA[封建制度]]></category>
		<category><![CDATA[内綿紡績業]]></category>
		<category><![CDATA[臥雲辰致]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は日本の産業革命について、日本の歴史を紹介します。 18世紀の中ごろから、ヨーロッパで、いろいろな機械が発明されました。 そのため工業は大きく変化して、すばらしい発展を遂げました。 この変化を産業革命といいます。 今 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は日本の産業革命について、日本の歴史を紹介します。</p>
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18世紀の中ごろから、ヨーロッパで、いろいろな機械が発明されました。<br />
そのため工業は大きく変化して、すばらしい発展を遂げました。</p>
<p>この変化を産業革命といいます。</p>
<p>今まで道具に頼っていた工場制手工業に取って代わって機械に基づく近代的な機械制工場工業が現れたのです。</p>
<p>産業の発展に伴って世の中の仕組みも大きく変わりました。</p>
<p>中でも大きなことは工場を持つ資本家が賃金労働者を雇って商品の生産を行うという貸本主義の大もとになる関係が社会の隅々にまで行き渡るようになったことです。</p>
<p>そして、封建制度の仕組みが崩れ新しく生まれてきた資本主義の仕組みがすっかり出来上がるようになるのです。</p>
<p>産業革命は、どこの国よりも早く、まずイギリスで行われました。<br />
これが、少し遅れて西洋の他の国々にもおよびました。</p>
<h2>日本の産業革命とは？</h2>
<p>日本では、イギリスなど資本主義の先進国といわれている国に比べると一世紀以上も遅れた19世紀の末頃から産業革命がはじまりました。</p>
<p>前にも述べたように明治のはじめ、政府は富国強兵の政策を立てヨーロッパやアメリカから新しい産業の技術を取り入れました。</p>
<p>そして、各地に近代的官営の工場や鉱山をつくった外国との貿易を政府の力で保護したりしました。<br />
こうして、日本の産業革命のもとは明治政府の手によってはじまったのです。</p>
<p>しかし、それが実際に産業革命という姿を現してくるのは、やはり明治20年の終わり（19世紀の末)頃といえます。</p>
<h2>綿紡績業の産業革命</h2>
<p>産業革命は、どの国でも綿紡績業からはじまるのが普通ですが日本の場合もそうでした。<br />
日本の綿業は、江戸時代には、そうとう盛んでしたが、もちろんその技術は劣っていました。</p>
<p>幕末の開国以後には外国から安くて優れた綿製品が輸入されるようになると日本の綿製品は、これに太刀打ちできなくなりました。</p>
<p>明治維新後には、ガラ紡というものがあらわれ1877年(明治10年)ごろから今までの手工業に代わるようになりました。</p>
<p>これは、長野県の臥雲辰致という人が発明して当時の博覧会に出品して有名になったものです。<br />
臥雲式紡機というのが本当の名前ですがガラガラという音を立てるのでガラ紡と呼ばれました。</p>
<p>しかし、これでも外国の機械紡績に対抗できませんでした。</p>
<p>そこで政府は官営の紡績工場(幕末に薩摩藩がつくった工場を手に入れて官営工場にしたもの)を経営しました。</p>
<p>また、綿業の本場であるイギリスのマンチェスターから紡績機械を輸入して、これを民間に安く払い下げ<br />
全国10か所ばかりに機械紡績工場をおこさせました。</p>
<p>これらの工場は日本の機械紡績の基礎になったものですが規模からいえば、まだ小さく動力も水力に頼っていました。</p>
<p>1883年(明治16年)には大阪紡績会社(今の東洋紡績)が開業しました。<br />
これは蒸気力による大規模な機械紡績工場として最初のものです。</p>
<p>このあと、大きな機械紡績工場が相次いでつくられ製品の質も量も発展しました。</p>
<p>日清戦争のあと中国や朝鮮へ製品が大量に輸出されるようになり1897年(明治30年)には綿糸の輸出高が輸入高よりも多くなりました。</p>
<p>このことは、日本の綿紡績業の産業革命が成し遂げられた目印とされています。</p>
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		<item>
		<title>西南戦争とは？ 征韓論とは？ 士族の不満が高まる！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/865</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Jul 2014 05:43:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[西南戦争]]></category>
		<category><![CDATA[西郷隆盛]]></category>
		<category><![CDATA[征韓論]]></category>
		<category><![CDATA[韓国]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は西南戦争とは？　征韓論について、日本の歴史を紹介します。 士族の不満 新しい政治は、どんどん整っていきました。 しかし、士族の多くは、新しい政治にたいへん不満を持っていたのです。 1873年(明治六年)には仕事につ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は西南戦争とは？　征韓論について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>士族の不満</h2>
<p>新しい政治は、どんどん整っていきました。<br />
しかし、士族の多くは、新しい政治にたいへん不満を持っていたのです。</p>
<p>1873年(明治六年)には仕事についていない士族の数が189万人もありました。</p>
<p>今まで武士には、いろいろ特別の権稚利が与えられていたのですが、その権利は、すっかり無くなってしまいました。</p>
<p>多くの武士が役人になりましたがみんなが役人になるわけにはいきません。<br />
政府は、士族に農業や商業に従うことを勧めましたが慣れないことなので上手くいきません。</p>
<p>大抵失敗して「士族の商法」と笑われました。</p>
<p>士族は、軍隊の仕事だけは自分たちにやらせてもらえると思っていたのが、こえも徴兵令によって望みは無くなりました。</p>
<p>こうして、新しい政治が気に入らない士族たちは江戸時代の方がよかったという気持ちを持つようになりました。</p>
<p>こういう時におこったのが、征韓論です。</p>
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<h2>征韓論とは？</h2>
<p>明治のはじめ、政府は朝鮮半島の韓国に向かって国土国との交わりをしたいと申し込んで断られたことがありました。</p>
<p>このとき、韓国の無礼を懲らしめなければならないと言い出すものがありました。<br />
1873年(明治六年)になってこの間題が再びおこりました。</p>
<p>政府の中にも西郷隆盛・江藤新平・副島種臣たちは韓国を懲らしめようと主張しました。</p>
<p>この意見を征韓論と言います。</p>
<p>匠郷たちは、韓国を攻めることによって士族の不平や、不満を外に向かって吐き出させようという気持ちもありました。</p>
<p>しかし、岩倉具視・大久保利通たちは征韓論に反対でした。<br />
岩倉は、丁度ヨーロッパの国々を見て回って帰ったばかりでした。</p>
<p>そして、今の日本でまず第一にしなければならないことは、産業を盛んにして国を強くすることである。<br />
今、朝鮮と戦争をするべきではないと言いました。</p>
<p>征韓派と反対派は、互いに譲らず激しい議論を続けました。<br />
とうとう、岩倉たちの意見が勝ちました。<br />
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		<item>
		<title>四足平等とは？ 士農工商という封建時代の身分の区別を取りやめた？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/861</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Jul 2014 04:29:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[四足平等]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は四足平等について、日本の歴史を紹介します。 四足平等とは？ 1869年(明治二年)には士農工商という封建時代の身分の区別が取りやめになりました。 そして、今まで農工商の仕事をしていた人たちはみんな一緒に、平民と呼ば [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は四足平等について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>四足平等とは？</h2>
<p>1869年(明治二年)には士農工商という封建時代の身分の区別が取りやめになりました。<br />
そして、今まで農工商の仕事をしていた人たちはみんな一緒に、平民と呼ばれるようになりました。</p>
<p>農工商より下にわかれえた・非人と呼ばれて卑しめれていた人々も続いて平民になりました。</p>
<p>武士は士族と呼ばれ特に公卿や大名だった人たちには新しく華族という身分が与えられました。</p>
<p>このように、華族・士族・平民という区別はありますがそれでも、江戸時代の士農工商の区別から比べれば大きく前進したわけです。</p>
<p>明治政府は、封建時代の古い悪い習わしを、どしどし改めていくよう政治をすすめました。</p>
<p>その頃は、まだ仇討ちや武士に土下座をする習わしが残っていましたが政府はこれらのことも禁止しました。</p>
<p>またチョンマゲを切ってもよいという法令が、出されました。<br />
誰でも、自分の仕事や住所や職業を自由に変えることが出来るようになりました。<br />
また、国民がみんな苗字を付ても、よいことになりました。</p>
<p>それまでは、武士と、農工商のうち領主に許されたものだけに苗字が与えられていたのです。<br />
江戸時代には、身分が違えば結婚も出来ませんでした。</p>
<p>しかし、明治政府は国民が誰とでも結婚できるよう決めました。<br />
結婚や職業が自由になったということは身分の区別が完全になくなったことです。</p>
<p>士農工商という四つの身分が法律の上で、初めて平等に扱われるようになったのです。</p>
<p>国民は誰でも、その生まれた身分によって一生の暮らしを縛られることは無くなりました。<br />
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		<title>版籍奉還・廃藩置県とは？ 新しい政治を行うために行ったこととは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/860</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Jul 2014 04:26:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[版籍奉還]]></category>
		<category><![CDATA[廃藩置県]]></category>
		<category><![CDATA[三条実美]]></category>
		<category><![CDATA[木戸孝允]]></category>
		<category><![CDATA[大久保利通]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は版籍奉還・廃藩置県について、日本の歴史を紹介します。 版籍奉還とは？ 新しい、政治ができても、それぞれの地方は江戸時代と同じようにもとの大名が治めていました。 天皇は、徳川氏の持っていた領地を自分の領地にしただけで [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は版籍奉還・廃藩置県について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>版籍奉還とは？</h2>
<p>新しい、政治ができても、それぞれの地方は江戸時代と同じようにもとの大名が治めていました。<br />
天皇は、徳川氏の持っていた領地を自分の領地にしただけです。</p>
<p>これでは、新しい政治を行うことは出来ません。</p>
<p>そこで、政行の指導者たちは大名の土地と人民を朝廷にかえさせることが藩を取り締まる上に必要だと考えました。</p>
<p>1869年（明治二年）政府は薩摩・長州・土佐・肥前の四つの藩にすすめて土地と人民を天皇にかえさせました。</p>
<p>すると他の藩主もみなそれぞれの土地と人民を天皇にかえすことを申しでました。<br />
全国の藩、中でも特に小さい藩では維新の戦争で、お金に困っており人民を取り締まる力も失っていました。</p>
<p>そこで、これらの藩は、むしろ喜んで政府のすすめに応じました。<br />
政府は、今までの藩主を政府の役人と認めて藩知事に任命し、藩の政治を行わせました。</p>
<h2>廃藩置県とは？</h2>
<p>しかし、版籍奉還はしたもので、もとの藩主が藩知事(知藩事ともいう) という名前で、これまで通り藩を治めていたのですから本当に新しい政治に変わったとは言えません。</p>
<p>政府は藩の政治を付き崩し政府のカを高めようと勤めました。</p>
<p>けれども、藩知事の中には新しい政治を心から喜ばないものも多く、また人民の方もこの殿様に治められているので少しも新しい気持ちになれませんでした。</p>
<p>そこで、木戸孝允は大久保利通、西郷隆盛と相談して1871年(明治四年)、今までわかれていた藩をすっかり無くそうと考えました。</p>
<p>今度は反対する藩が出てくることも予想されました。<br />
そこで政府は、まず薩摩と長州の藩主を説き伏せました。</p>
<p>それから薩摩・長州・土佐の三つの藩の武士一万を東京に呼び寄せ政府の軍隊をつくりました。<br />
言うことを聞かない藩主があれば軍隊の力で、やっつけようというのです。</p>
<p>1871年7月14日、三条実美・岩倉具視以外の公卿は全部のぞいて、西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助・大隈重信を中心とする薩長土肥の出身者で固めた政府がつくられました。</p>
<p>そしてその日、天皇は東京にいる講藩知事を呼び集めて藩を取りやめ、県をおく命令を伝えました。<br />
こうして、大小様々の藩は無くなって三つの府と72の県ができました。</p>
<p>もとの藩主であった藩知事は役目をとかれ俸禄(給料)と華族の身分が約束されて住まいを東京に移されました。</p>
<p>変わって東京・京都・大阪の府には府知事が、県には県令がおかれました。<br />
府知事も県令も東京の政府が決めたものでほとんど、他藩から出たものが任命されました。</p>
<p>これらの仕事が廃藩置県と呼ばれているものです。<br />
廃藩置県が行われてから今まで藩が取立てていた年貢は政府の手に治めることになりました。</p>
<p>その代わりに政府は藩主と藩の武士への俸禄を出してやり藩が借りていたお金も代わりに払ってやることになりました。</p>
<p>これによって、旧藩主は借金から逃れ貸主である高利貸の資本家は踏み倒される危険を免れました。<br />
廃藩置県が行われたために日本の政治は、政府の命令通りに行われるようになりました。<br />
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		<title>明治政府とは？　五箇条の誓文とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/859</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Jul 2014 03:54:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[五箇条の誓文]]></category>
		<category><![CDATA[明治政府]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は明治政府とは？　五箇条の誓文について、日本の歴史を紹介します。 新政府の誕生 1867年(慶応三年)、一五代将軍徳川慶喜は将軍の位を天皇にかえしました。 江戸幕府の政治は、ようやく終を告げたのです。 そして、幕府を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治政府とは？　五箇条の誓文について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>新政府の誕生</h2>
<p>1867年(慶応三年)、一五代将軍徳川慶喜は将軍の位を天皇にかえしました。<br />
江戸幕府の政治は、ようやく終を告げたのです。</p>
<p>そして、幕府を倒すために手柄を立てた人たちが中心になって新しい政府がつくられました。</p>
<p>その頃の政府の主な人たちはもと公卿だった三条実美・岩倉具視、もと薩摩藩の武士だった西郷隆盛・大久保利通、もと長州藩の武士だった木戸孝允・伊藤博文・山県有朋たちでした。</p>
<p>そのほかの、かつての志士たちもそれぞれ新しい役に就きました。<br />
この人たちは、天皇を中心にして次々に新しい政治を行いました。</p>
<p>そして社会の仕組みも大きく変えられました。<br />
この改革が、明治維新と呼ばれています。</p>
<p>維新というのは全てが新しくなるという意味です。<br />
政府には、国民の大きな期待がかけられました。</p>
<h2>五か条の誓文とは？</h2>
<p>1868年には、慶応の年号が明治と改められました。<br />
明治天皇は公卿や国々の大名を集め新しい政治のやり方を神々に向かって約束しました。</p>
<p>約束は五つあり五か条の誓文と呼ばれています。</p>
<p>五か条の誓文には、政治に携わるものは、お互いに広く意見を出し合ってやっていこう封建時代の古い習わしをやめて世界の進んだ文化を取り入れていこうということなどが述べられています。</p>
<p>五か条の誓いには新しい改革をやっていこうという意気ごみがあふれています。<br />
しかし、国民の実際の生活についてはまだ新しいやり方が示されてはいません。</p>
<p>同じ日に出た五つの禁令では江戸時代とかわらず民衆の政治活動を制限することが示されていました。<br />
同じ年には、政体書がでてこれからの政治の大元がたてられました。</p>
<p>立法(国の法な作ること)、司法(法律に背いたものを裁判すること)、行政(政治を実際に行うこと)という<br />
国の大きな三つの仕事をそれぞれ独立させることが決められました。</p>
<p>幕府の時代には立法・司法・行政の三つがわかれていませんでした。</p>
<p>そのため大きな力を持ったものが勝手な命令をくだして自分と意見の合わないものや気にいらない人を、どしどし牢屋に入れたり、殺したりすることも出来たりでした。</p>
<h2>新しい都、東京</h2>
<p>新政府は、国民の心を新しくし政治の中心である天皇の権威を国民に知らせるために都を移すことを考えました。</p>
<p>大久保利通は、大阪に都を移そうという意見を差し出しました。<br />
いろいろ議論された上新しい都は江戸に決まりました。</p>
<p>江戸は東京と改められ1868年(明治元年)10月天皇は江戸城にうつりました。</p>
<p>徳川将軍家の膝下であった江戸は天皇の都として新たに生まれかわることになったのです。<br />
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		<title>明治時代のあらまし！ ざっくり言うと明治時代ってどんな時代？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/858</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Jul 2014 03:33:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[明治維新]]></category>
		<category><![CDATA[文明開化]]></category>
		<category><![CDATA[富国強兵]]></category>
		<category><![CDATA[廃藩置県]]></category>
		<category><![CDATA[四民平等]]></category>
		<category><![CDATA[あらまし]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は明治時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 新しい政治 1868年、年号は明治と改められ五か条の誓文をもとに新しい政治が行われるようになりました。 新政府は、廃藩置県・四民平等富国強兵の制作を実行しました [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は明治時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>新しい政治</h2>
<p>1868年、年号は明治と改められ五か条の誓文をもとに新しい政治が行われるようになりました。<br />
新政府は、廃藩置県・四民平等富国強兵の制作を実行しました。</p>
<p>しかし、このような新しい政治に対しては反対の意見もでました。<br />
国の財政を整えようと地租改正をしたときには農民が一揆をおこして反抗しました。</p>
<p>また、もと武士であったものは新しい政治によって自分たちの生活が苦しくなり出世の道が閉ざされていくことに不満でした。</p>
<p>これらの不満や反抗がすっかりきえるようになったのは政府のつくった新しい軍隊が西南戦争で勝利を得てからです。</p>
<h2>文明開化</h2>
<p>明治になってから西洋の文化がどんどん輸入されました。<br />
そして、大都市を中心に人々の生活の姿も大きく変わっていきました。</p>
<p>義務教育の制度が出来たこと交通・通信の設備が整ったこと新聞・雑誌が広まり暦は太陽暦が採用され新しい建築や服装がおこってきたことなど目まぐるしいほどの変わり方でした。</p>
<p>人々はこれを文明開化といってもてはやしました。</p>
<h2>議会政治の初まり</h2>
<p>明治になってから、次第に広まった自由平等・自由民権の考え方は、やがて「国会を開け」という運動になって盛り上がりました。</p>
<p>この結果、1889年(明治二二年)には我が国で初めての憲法がつくられ、翌年には、第一回の帝国議会が開かれました。</p>
<p>このときの憲法は天皇の強い権力を認めたものでした。<br />
また、議会は衆議院と貴族院にわかれ貴族院議員は天皇によって選ばれました。</p>
<p>今の憲法に比べればとうてい民主的なものとはいえません。</p>
<p>けれども我が国ではこれ以来憲法に基づいて政治を行い国民の選んだ代表者が国の政治について相談するという道が開かれたのです。</p>
<p>このことを考えれば日本の歴史の上で大きな進歩だったと言えます。</p>
<h2>伸びる国力</h2>
<p>やがて近代産業の目覚しい発達もあって国力は次第に充実してきました。<br />
特に、日清・口露の戦いに勝ったことは日本の実カを世界に知らせる結果になりました。</p>
<p>長い間、問題になっていた不平等条約の改正がこれ以来すらすらと進むようになったのも国力の充実が、土台にあったからだと言えます。</p>
<h2>明治の文化</h2>
<p>新しい時代に相応しい新しい文化も次々におこってきました。<br />
夏目漱石や森鴎外に代表される近代文学あるいは西洋音楽、新しい演劇、さらには医学や物理・化学などの新しい学問。</p>
<p>これらは、全て明治時代になってから急に進んだものです。</p>
<p>このほか生活の面でも野球・テニスなどの新しいスポーツが広まり映画の楽しみも味わえるようになりました。</p>
<p>このように考えてくると明治時代は、私たちの生活や社会の最も大きな基礎になった時代であったといえます。</p>
<p>しかもそれは西洋に比べて100年以上も遅れていた日本が一挙にその遅れを取り戻そうとしてがむしゃらに進んでいった時代でもあったのです。<br />
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