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	<title>江戸幕府 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>江戸幕府 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>隠れキリシタンとは？　幕府の取り締まりと隠れた信仰とキリシタンの復活とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/821</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 06 Jul 2014 02:06:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は隠れキリシタンとは？　幕府の取り締まりと隠れた信仰 キリシタンの復活について、日本の歴史を紹介します。 隠れキリシタンとは？ 江戸の幕府は家康以来どの将軍もキリスト教を禁じてきましたが島原の乱に懲りて一層取り締まり [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は隠れキリシタンとは？　幕府の取り締まりと隠れた信仰<br />
キリシタンの復活について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>隠れキリシタンとは？</h2>
<p>江戸の幕府は家康以来どの将軍もキリスト教を禁じてきましたが島原の乱に懲りて一層取り締まりを厳しくしました。</p>
<p>そして、信長を見つけ次第、情け容赦なく殺しました。<br />
一方、幕府のどんなひどい仕打ちにも関わらず信仰を捨てまいとする人々がいました。</p>
<p>昔から信者の多かった九州、特に西海岸の長崎の付近や五島・平戸の島々にかけての農民や猟師たちの信仰は熱心でした。</p>
<p>この人々を少しでもキリスト教徒らしい行いを見せると殺されるので、上辺は仏教の信者のように装って心の中でキリスト教を信じていました。</p>
<p>隠れキリシタンは、人が死ぬと見張りの役人のいる間は仏教の僧を呼んでお経をあげてもらい葬式が済んで役人が帰るとキリスト教の葬式でやり直しました。</p>
<p>信者たちはイエスやマリアの御像を拝みますが見つかると大変ですから観音様に似たマリアをつくったり十字架を壁に塗りこんだりしました。</p>
<p>また、信者どうし、人目を避けて、こっそり夜中に集まりラテン語でお祈りをしたりしました。</p>
<p>これらの人々の中には洗礼を授けたりマリアとジョアンとかの洗礼名をつける役、それを帳面につける役がありました。</p>
<p>さらに、日曜日とか信者に関係深い日などをふれ歩く役もありました。</p>
<p>これらの役は厳しい役人の見張りの中で信者どうしを固く結びつけ隠れた信仰が見つかるのを防ぎました。</p>
<p>いずれにしても、この信者たちは、世間に隠れて密かに信仰を続けていたので隠れキリシタンと呼ばれました。</p>
<p>彼らは、200年間も宣教師なしで秘密に信仰生活はを送ってきたので儀式やお祈りの文句ももとの形と少しずつ変わってきました。</p>
<p>御影も、ちょんまげをゆったキリストや元禄まげにゆったマリアが出てきたりするようになりました。<br />
明治になって、誰でも自由にキリスト教を信じてよいことになりました。</p>
<p>長崎付近の浦上（今は長崎市)やその他の隠れキリシタンは新しくフランスから来たカトリックの宣教師の言う事を聞いて、正式に教会へもどりました。</p>
<p>ところが、自分たちのものこそ本当のキリスト教だと言い張って、どうしても教会に戻らない人たちまでも長崎県下には五、六万あまりいるといわれています。</p>
<p>教会では、こういう人たちのことをカトリック教会から離れていった人たちという意味で「はなれ」とも呼びます。<br />
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		<title>江戸時代の農民の地位とは？　年貢と助郷とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/813</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2014 07:15:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
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		<category><![CDATA[百姓]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は江戸時代の農民の地位　年貢と助郷について、日本の歴史を紹介します。 農民の地位とは？ 江戸時代の村は、大体、今の村の大字にあたり戸数も30戸か40戸くらいでした。 幕府も藩も、秀吉のときより一層厳しく検地を行い、村 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代の農民の地位　年貢と助郷について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>農民の地位とは？</h2>
<p>江戸時代の村は、大体、今の村の大字にあたり戸数も30戸か40戸くらいでした。</p>
<p>幕府も藩も、秀吉のときより一層厳しく検地を行い、村の収穫高(村高)を決めて年貢をとるようにしましたので村が政治を行うときの一番小さな単位になっていました。</p>
<p>村に住む農民にもいろいろな身分がありました。<br />
年貢を納める責任をもつ農民を百姓といい農民のうちでは、いちばん上の身分でした。</p>
<p>本百姓には、地主もおれば小さな自作農もいました。</p>
<p>本百姓の下には、名子・被官などという身分の低い農民がいて地乏から、家来のように扱われていました。</p>
<p>また、時代が下るにつれて水飲み百姓も増えていきました。<br />
水飲み百姓というのは食べるものがなくて水だけしか飲めないような百姓ということです。</p>
<p>いちばん下の、貧しい農民でした。</p>
<p>自分の耕す土地ももてず小作や日雇いで、暮らしていました。<br />
しかし、江戸時代も中頃になると下っぱの農民の地位もだいぶ上がってきました。</p>
<p>それまで、地主の下で苦しんでいた貧しい農民たちが、だんだん一人前の農民になってきました。<br />
土地を開いたりいろいろな副業をしたりして暮らしも楽になってきました。</p>
<h2>村を治める仕組み</h2>
<p>幕府も大名も農民を治めることに、いちばん力を入れました。<br />
村を治める役人には郡代や代官がいましたが農民の中からも村役人がでて村を治めていました。</p>
<p>村役人には、今の村長にあたる庄屋(名主)や、組頭・百姓代もいました。</p>
<p>庄屋は、村の年貢を集めたり村の中や、他の村との問題などにはいつも村の代表となりました。<br />
庄屋には、主に地主や古い家柄の人が領主から言いつけられてなりました。</p>
<p>江戸時代も後になると村中の農民選挙で、決まるところもでてきました。</p>
<p>幕府や大名は、年貢をきちんととったり犯罪を防ぐために、全国の町や村に五人組をつくらせました。<br />
大体、5件の家を一組にしてお互いに力を合わせたり見張りをさせたりしました。</p>
<p>もし、1件の家で、年貢を納めないと残りの4件が、代わって納めさせられ、また悪いことをした家があると5件の共同の責任とされました。</p>
<h2>年貢と助郷とは？</h2>
<p>家康は「村々の百姓どもが、死なないように、また生きないように考えて年貢を取立てるように」といいました。</p>
<p>農民たちに、やっと耕作ができるだけの暮らしをさせて、できるだけ、たくさんの年貢を取立てるように心がけろ、といったのです。</p>
<p>年貢は、主に米で納める税で五公五民(とれた米のうち半分を年貢に納め半分を自分のものにすること)<br />
または、四公六民が普通でした。</p>
<p>しかし、中には八公二民という藩さえありました。<br />
その上、よい米だけを納めさせたのです。</p>
<p>この他、山・野原・海・川などでとれたものにもいろいろな税がかかりました。<br />
農民が副業でつくった品物にもかかりました。</p>
<p>農民たちは、年貢のほかいろいろな仕事を、言いつけられました。<br />
道路や川の堤を直したり領主のための人足にだされたりしました。</p>
<p>これらの仕事は、だんだんお金を代わりに納めるようになりましたが助郷だけは、そういきませんでした。</p>
<p>街道の宿場では幕府や大名の荷物を運ぶために人足や馬を、いつも備えておきました。</p>
<p>ところが、だんだん荷物が増えてくると、それだけでは、とても運びきれないので近くの村から、助けの人足や馬をださせました。</p>
<p>これを助郷といいます。</p>
<p>しかし、賃銭が安いうえに忙しいときでも、構わず呼び出されたので農民は非常に苦しみました。<br />
慶安のお触書幕府や大名は、農民から年貢をきちんと取り立てるためにいろいろな方法をとりました。</p>
<p>年貢を納める農民が耕地を離れて、隣りの村にいったりしては困るので、これを禁止しました。<br />
また耕地を売ったり質にいれたりすることも禁止しました。</p>
<p>耕地の少ない農家が分家して土地をわけると本家も分家も、共倒れになるので一町(約1へクタール)以下の農家が分家することを禁止しました。</p>
<p>阿呆(馬鹿) のことを、たわけ(田わけ)というのはこのことを指したものだと言われます。</p>
<p>そのほか、農民の着るもの食べるもの・住むところをはじめ普段の生活にも、いろいろ細かい取り締まりを加えました。</p>
<p>これらをまとめて、1649年(慶安二年)三代将軍家光のときに幕府が出した法令が「慶安のお触書」として知られています。</p>
<p>これには、「百姓というものは、馬鹿で先のことを考えることができないものだ」といっていろいろ教えさとしています。</p>
<p>「百姓は、麦・粟・ひえ・菜・大根などを作って食べ、米はできるだけ食べないようにせよ」ということは米は年貢に取立てるものであるから百姓に節約させ、食べさせないようにするためです。</p>
<p>また「百姓の着物は、木綿にかぎる。酒・茶・煙草をのむな」とも、言いつけています。</p>
<p>さらに、「夫と妻は仲良くし、カを合わせて仕事に精ださなければならない。</p>
<p>どんなにきれいな妻でも夫を大切にしなかったり、遊び好きでお茶ばかりのんでいるような怠け者は、離婚してしまえ」などと言いつけています。<br />
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		<title>江戸時代における身分の差別とは？　士農工商、低い女性の地位とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/812</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2014 06:41:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[士農工商]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は江戸時代における身分の差別とは？　士農工商、低い女性の地位について、日本の歴史を紹介します。 士農工商とは？ 江戸幕府は、信長・秀吉のとき以来、次第に作られてきた身分の差別をはっきり士農工商の四つの身分制度に仕上げ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代における身分の差別とは？　士農工商、低い女性の地位について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>士農工商とは？</h2>
<p>江戸幕府は、信長・秀吉のとき以来、次第に作られてきた身分の差別をはっきり士農工商の四つの身分制度に仕上げました。</p>
<p>とくに武士と農民・町人との差別を厳しくしました。<br />
そして武士の子は武士、農民の子は農民と、永久に決められました。</p>
<p>人間の値打ちが、その人の才能や努力と関係がなく、ただその生まれによって決められていたのです。<br />
支配者である武士は、総人口3000万ほどの内わずか7パーセントに過ぎませんでした。</p>
<p>しかし身分は一番高く、苗字を名のり常に両刃をさすことが許されており農民や町人が無礼なことをすると斬り殺しても構いませんでした。</p>
<p>しかし同じ武士でも、上は将軍や大名から下は足軽まで、たくさんの身分にわかれ下の者が上の身分になることはめったにできませんでした。</p>
<p>武士の他の人口の大部分は農民や町人で占められ、とくに農民は80パーセント以上にも上りました。<br />
そして、これらの中にも、身分の上下があり付き合いや結婚も、同じ身分同士でするように仕向けられていました。</p>
<p>しかし、士農工商の身分制度の一番下におかれていたのは、えた・非人でした。</p>
<p>えたのおこりは、よくわかりませんが一番卑しい身分と決められたのは江戸時代のことです。<br />
人々の嫌がる職業をさせられ住むところも、一般の農民や町人とはっきりわけられていました。</p>
<p>しかも、絶対に農民や町人になることが許されず同じ身分の者だけで、付き合ったり結婚したりしなければなりませんでした。</p>
<p>非人は、貧しいために落ちぶれた人や罪を犯した人の身分で大抵乞食をして暮らしていました。<br />
えたと違うところは、非人になっても10年以内なら、もとの身分に戻ることができたということです。</p>
<h2>主人と家来</h2>
<p>士農工商の身分を支えたものは主人と家来の関係でした。</p>
<p>これを主従関係といいますがこれはもともと武士の間で領地や俸禄(給料) のやりとりがもとになって発達したものです。</p>
<p>それが江戸時代になると、社会全体に広がりました。</p>
<p>農村の地主と小作人、商家の主人と奉公人職人の親方と弟子をはじめ社会のあらゆる面に主従関係ができあがっていました。</p>
<p>家の中でも、家族は主人の言いつけには絶対に従わなければなりませんでした。</p>
<p>だから、古い家柄や、昔からの仕来りが大切にされ、学問や芸事にまで本家や家元が生まれるようになりました。</p>
<h2>低い女性の地位</h2>
<p>家の中では、父親の力が重くみられ家族は皆、その家来のように扱われました。</p>
<p>とくに武士の家では、長男だけが家を継ぐことになっていましたので、同じ家族の中でも、後継の長男だけが大切にされ次男三男などは、かえってやっかい者扱いをうけました。</p>
<p>家族の中でも、一番地位が低かったのは女性でした。</p>
<p>新しく、よその家からきた嫁は姑がいなくなるまでは一家の主婦ではなかったのです。<br />
はっきりした理由もないのに家風にあわないというだけで離縁されても、しかたがなかったのです。</p>
<p>しかし、こういう家の中の関係は武士の間で一番強く、農民や町人の家では、それほどでもありませんでした。</p>
<p>武士と違って、土地や財産を長男だけでなく、次男や三男や娘にもわけることが多かったのです。<br />
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		<title>江戸時代の幕府と大名との関係とは？　武家諸法度と参勤交代とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/811</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2014 06:12:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は幕府と大名との関係、武家諸法度と参勤交代について、日本の歴史を紹介します。 大名の取り締まり 徳川氏も、もとは大名のひとりでした。 秀吉に従っていたころは他の大名と同じ仲間だったのです。 ところが、関ヶ原の戦いで徳 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は幕府と大名との関係、武家諸法度と参勤交代について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>大名の取り締まり</h2>
<p>徳川氏も、もとは大名のひとりでした。<br />
秀吉に従っていたころは他の大名と同じ仲間だったのです。</p>
<p>ところが、関ヶ原の戦いで徳川氏が勝利をおさめると徳川氏と大名の関係はすっかり代わってきました。</p>
<p>家康は、この戦いで西軍についた91人の大名の領地を取り上げ四人の領地をけずりとって、それを徳川氏の領地にしたり東軍に味方して、手柄を立てた大名にわけてやりました。</p>
<p>それだけではありません。大名の国替えを徹底的きに行いました。</p>
<p>幕府のお膝元の関東は、これまで通り、幕府の領地と旗本・譜代大名で固め東海道・中山道・近畿地方も<br />
大体、それと同じ方針をとりました。</p>
<p>関ヶ原の戦いまで、肩を並べていた大名は、なるべく東北・四国・九州などの遠いところに移しました。<br />
幕府の方針は、徳川氏と親しい大名と親しくない大名、また大きな大名と小さな大名とを隣り合うようにし、お互いに、抑え合うようにしたのです。</p>
<p>そうすれば、大名どうし力を合わせて幕府に背くことが、できなくなるからです。</p>
<p>大名が領地を取り上げられたり国替えされることは、この後、一層盛んに繰り返されましたが、それによって、大名は古い領地との結びつきを切られ、政府に背くことができなくなりました。</p>
<p>これを荻生狙徠という学者は「原野に、生えている草を引き抜いて植木鉢に植えるようなものだ」と言っています。</p>
<p>後には、将軍が代わったり大名が国替えする度に将軍の朱印状が与えられるようになりました。<br />
これは、全国の土地は将軍(幕府)のものであり、それを特別の御恩で大名にわけてやるのだという考えを<br />
大名たちに植え付けるためでした。</p>
<h2>武家諸法度と参勤交代</h2>
<p>幕府はまた法律の力で大名を抑えようとしました。<br />
豊巨氏が滅んだ1615年(元和元年)にだされた武家諸度がその代表的なものです。</p>
<p>これは家光のときに、はっきり整えられましたがその中には、幕府の許しがなくて城を築いたり大名の間で結婚をしたりしては、いけないと決められています。</p>
<p>しかし、一番大きな決まりは参勤交代です。</p>
<p>参勤というのは、戦国時代に家来が大名の城下町に勤めにでることから始まったのですが幕府は、はっきりこれを大名の義務にしてしまったのです。</p>
<p>大名は、一年領地に住むと次の一年は、必ず江戸に住むように決めらけれ大名の妻や子どもは、人質の形で、ずっと江戸に住むようにされました。</p>
<p>参勤交代で、江戸と領地を行き来するときは、たくさんの家来をつれて、長い行列をつくるのです。<br />
その費用は、たいへんなもので、そのため大名たちのカは非常に弱められました。</p>
<p>幕府は、この他にも江戸や名古屋の城を築いたり川の堤防を直したりするときにも度々、大名に手伝わせました。</p>
<p>こうして、大名は幕府から、いろいろな取り締まりを受けて幕府にどうしても背くことができないようにされました。</p>
<h2>大名と藩</h2>
<p>大名は幕府との関東から三とおりに区別されていました。<br />
幕府の親類の大名を親藩といい三家(紀伊・尾張・水戸の徳川家)や三卿(田安・一橋・清水の三家)があります。</p>
<p>徳川氏の三河時代からの家来であった大名を譜代といい、また関ヶ原の戦いの後から幕府に従うようになった大名を外様といいます。</p>
<p>そして、このような大名の家柄によって江戸城にいるときの部屋や席もわかれていました。<br />
大名たちは、幕府から領地をわけてもらい、それを自分たちのやり方で治めていました。</p>
<p>幕府の大切な法令はそれぞれの領地でも守らなければなりませんでしたが、その他は、自分の方針を立てて政治を行いました。</p>
<p>大名は、自分の領地では将軍(幕府)と同じような強い力をふるいました。<br />
江戸時代の大名の領地を藩といいます。</p>
<p>藩というのは中国の言葉で「かきね」という意味です。<br />
大名は幕府を守る「かきね」であるというのです。</p>
<p>大名の政治の仕組みは幕府とよく似ていますが形は、ずっと小さいものでした。</p>
<p>とにかく、こうして江戸時代の中ごろまでに幕府と藩の仕組みが出来上がり全国をしっかりと治めるようになりました。<br />
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		<title>江戸幕府の政治とは？ 旗本と御家人とは？ 幕府と皇室との関係とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/810</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2014 04:21:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[旗本]]></category>
		<category><![CDATA[御家人]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は江戸幕府の政治について、日本の歴史を紹介します。 旗本と御家とは？ 幕府に直接、仕えるえる家来を旗本・御家人といいました。 旗本と御家人の違いは旗本は将軍に挨拶ができましたが御家人には、その資格がなかったことです。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸幕府の政治について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>旗本と御家とは？</h2>
<p>幕府に直接、仕えるえる家来を旗本・御家人といいました。<br />
旗本と御家人の違いは旗本は将軍に挨拶ができましたが御家人には、その資格がなかったことです。</p>
<p>また旗本のほうは、一万石から100石ぐらいまでの領地か、米を貰っていましたが御家人は米を貰う者が多かったことです。</p>
<p>旗本も御家人も、将軍の家来として大変威張っていました。</p>
<p>その数は、約2万2500人ほどでしたが将軍に従って、戦に行くときには決められた人数を部下として連れていく義務がありました。</p>
<p>それを合わせると八万人に近くなり「旗本八万騎」といわれたのも、けっして、嘘ではありませんでした。</p>
<p>このように幕府の武力は、どの大名よりも大きく40人もの大名がカを合わせなければ敵わないほど、強力だったのです。</p>
<h2>幕府と皇室との関係</h2>
<p>江戸時代になると皇室や貴族は、どうなったのでしょう。</p>
<p>家康は、従夷大将軍の職を天皇からももらって武家政治を始めましたが、その一方、朝廷をできるだけカの無いものにしようとうと努めました。</p>
<p>関ヶ原の戦いのすぐ後に京都所司代をおいて朝廷の見張りをさせました。<br />
それだけでなく法律をつくって朝廷をさらに抑えようとしました。</p>
<p>1615年(元和元年)に禁中ならびに公家諸法度をさだめて朝廷にまもらせようとしました。<br />
それには、天皇は学問を第一にしなければならないと書いてあります。</p>
<p>天皇に学問や和歌の研究だけさせて政治から遠ざけようとしたのです。</p>
<p>また、公家の席順にロをいれ武士の官世は、幕府が申し出たときだけ朝廷から与えられるように決めました。</p>
<p>こうして、朝廷と大名とが結びつかないように気をくばりました。<br />
皇室の領地は、室町時代の終わり頃には、わずか3000石ぐらいに、減っていました。</p>
<p>秀吉のときに7000石になり家康も少し増やして一万石にしました。<br />
その後、また二万石を幕府がおくったので三万石になりました。</p>
<p>これに上皇の領地一万石と皇族や公家の領地などを合わせると約10万石ほどになりました。<br />
こうして朝廷は、大体十万石の大名くらいになったわけです。</p>
<p>しかも皇室の領地は幕府の代官が治めていたので朝廷の思う通りには、ならなかったのです。</p>
<p>だから、朝廷の生活がだんだん、行き詰ってくると旗本と同じくらいしか収入のなかった公家も暮らしに困る者が多くなりました。</p>
<p>そのため、公家たちは、いろいろな芸事の家元になって収入を増やそうとしたりカルタを作ったりして内職をしなければなりませんでした。</p>
<h2>神社と寺</h2>
<p>神社や寺も幕府から、厳しい取り締まりを受けて、その勢いは、たいへん弱くなりました。</p>
<p>大きな神社や寺は長いあいだ荘園領主として広い領地を持ち、たくさんの僧兵を抱えて勢いをふるっていました。</p>
<p>やがて信長が現れると武力で、それらの神社や寺を抑え領地をけずりました。<br />
江戸幕府も、それと同じ方針を受け継ぎ寺社奉行をおいて取り締まったりで神社や寺は、もう昔のような勢いを持たなくなりました。</p>
<p>中には、将軍の墓のある増上寺のように、だんだん領地を幕府から増やしてもらって一万石にもなった寺もありますが古くから続いた大きな寺は一般に衰えていきました。</p>
<p>幕府は神社や寺の勢いを弱くした上で、これを利用しようとしました。</p>
<p>とくにキリスト教の取り締まりに利用し全国の町や村の人々は、誰でも必ずその土地の寺の信者になりキリスト教の信者でないという証明をしてもらうことに決められました。</p>
<p>そればかりでなく奉公にでたり、お嫁にいったりするときにも同じ証明を貰うことになりました。<br />
このため、寺と檀家の繋がりができ僧の暮らしも、楽になりました。</p>
<p>しかしその一方、僧の中には修行も積まないで、堕落する者も現れ仏教も次第に葬式のときだけのものになっていきました。</p>
<p>この頃、新しくおこった仏教には黄葉宗という禅宗の一派がありました。<br />
これは江戸時代のはじめに隠元という僧が、明(中国)から渡り来て伝えたものです。</p>
<p>隠元は宇治に万福寺などを建て教えを広めました。<br />
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		<title>江戸幕府の政治の仕組みと領地との関係とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/809</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2014 03:52:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は江戸幕府の仕組みと領地との関係について、日本の歴史を紹介します。 幕府の仕組み 家康が開いた江戸幕府は、その孫の三代将軍家光の頃までに政治の仕組みもすっかり整いました。 その仕組みは、徳川氏がまだ三河の大名であった [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸幕府の仕組みと領地との関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>幕府の仕組み</h2>
<p>家康が開いた江戸幕府は、その孫の三代将軍家光の頃までに政治の仕組みもすっかり整いました。<br />
その仕組みは、徳川氏がまだ三河の大名であった頃のものをだんだん補い、広げたものです。</p>
<p>家康・秀忠の時代にはまだ老中・若年寄などの職はなく家老・年寄と呼ばれた家来が政治を行なっていました。</p>
<p>これは、どの大名でも同じだったのです。</p>
<p>ことに家康の頃にはこの他に、商人・僧・学者などが、たくさん家康のそば近くに仕えて、いろいろな仕事を受け持っていました。</p>
<p>例えば、後藤庄三郎・茶屋四郎次郎などの大商人もおれば天海・崇伝などの僧もおり林羅山のような学者もいました。</p>
<p>家康に一番信用された本多正信は徳川氏の古くからの家来ですが途中、家康に背いて追い払われ、また家康に使えるようになったのです。</p>
<p>とにかく家康や秀忠の頃は役人の仕事の分担がはっきりせず、役に立つ人ならば武士でなくても、どしどし、重く用いられて幅の広い仕事をしたのです。</p>
<p>ところが家康の死んだあと徳川氏の古くからの家来で大名になった譜代大名の勢いが、次第に強くなって幕府の政治を動かすようになりました。</p>
<p>政治の仕組みも、だんだん整えられ三代将軍家光のとき1635年(寛永21年) に老中・若年寄・大目付寺社奉行・江戸町奉行・勘定奉行などの役人と仕事の内容が、大体決まりました。</p>
<p>これらの重要な役人には譜代大名がなり政治の方針を決めました。</p>
<p>老中は、一番上の役人で将軍の下で政治の全責任を負いました。<br />
四人が１ヶ月ごとに代わる代わる政治をとり大事なことは相談して決めました。</p>
<p>後に、老中の上に大老がおかれましたが、これは必要なときだけの臨時の役でしたから、やはり老中が一番、重い役だったのです。</p>
<h2>幕府の領地</h2>
<p>幕府も大名も、自分の領地の中に直接治めるところを持っていました。<br />
落府の場合はそれを天領といい約400万石もありました。</p>
<p>一番大きな大名であった前田氏の領地のおよそ四倍もあったのです。</p>
<p>それに、幕府の直々の家来である旗本の領地300万石を加えると幕府の領地は、約700万石で全国の石高の四分の一ちかくになります。</p>
<p>天領は全国に散らばっていましたがとくに関東・近畿・北陸地方に、たくさん集まっていました。<br />
幕府は天領に郡代や代官をおいて年貢をとったり、農民の取締をさせたりしました。</p>
<p>幕府は、その他に、全国の大切な都市や鉱山を、自分のものにしました。<br />
江戸のほかに大坂・京都・長崎・山田(三重県)などの都市がそれです。</p>
<p>鉱山は、佐渡の金山石見(島根県)の銀山などです。</p>
<p>幕府はもこのように貿易や交通・産業のうえで大切なところはほとんど、自分のものにしていたので金銀や貿易などの儲けを独り占めにすることができました。</p>
<p>幕府だけが握っていた大きな力はそれだけではありません。<br />
貨幣を発行することも独り占めにしていました。</p>
<p>江戸時代の初め頃までは、かなり多くの大名が貨幣を発行していました。<br />
幕府は、だんだんそれを禁止して、幕府だけが貨幣を発行するようにしました。</p>
<p>金座・銀座・銭座をおいて金貨・銀貨・銭貨の三種を作って全国に行き渡るようにしたのです。<br />
幕府は、こうして自分の好きな時に貨幣な発行して財政を補ったり物価の釣り合いをとったりしました。</p>
<p>だから幕府の力は1人や、2人の大名がかかっても、とうてい歯がたたないほど大きかったのです。<br />
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		<item>
		<title>関ヶ原の戦いとは？ 徳川家康が率いる東軍と石田三成の西軍との戦いとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/807</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 14:09:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[関ヶ原の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[石田三成]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は関ヶ原の戦いについて、日本の歴史を紹介します。 関ヶ原の戦いとは？ 秀吉が死ぬと、世の中は、また乱れそうになりました。 秀吉の子の秀頼は、まだ小さかったので家康が秀吉の次に政権を握るだろうと考える大名が多くなりまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は関ヶ原の戦いについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>関ヶ原の戦いとは？</h2>
<p>秀吉が死ぬと、世の中は、また乱れそうになりました。</p>
<p>秀吉の子の秀頼は、まだ小さかったので家康が秀吉の次に政権を握るだろうと考える大名が多くなりました。</p>
<p>家康も、大名たちを自分に従わせるためにいろいろな手を打ちました。</p>
<p>そこで、秀吉のお気にいりだった石田三成は政権が家康に移るのを防ぐために秀吉の恩を受けた大名たちを集めて家康と戦うことになりました。</p>
<p>1600年(慶長五年)三成は兵をあげて家康に従う大名たちが大阪に残した妻や子を人質として抑えようとしました。</p>
<p>このとき、細川忠興の妻お玉(明智光秀の娘。キリスト教徒としての名はガラシャ夫人)は人質にされる前に、忠興の言いつけを守り家来に首を討たせたと言われています。</p>
<p>家康の率いる東軍と、三成方の西軍とは関ヶ原(岐阜県)で天下分け目めの戦いを初めました。</p>
<p>西軍もよく戦いましたが勝利は家康の手に入りました。<br />
こうして徳川氏が、豊臣氏に代わって天下を治めることになったのです。</p>
<p>関ヶ原の戦いから三年後の1603年(慶長八年)家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きました。</p>
<p>信長も秀吉も、全国統一の仕事を進めましたが幕府を開こうとはしませんでした。<br />
それだけ家康の武家政治に対する考えは2人より深かったことがわかります。</p>
<p>家康は、武家政治を初めた源頼朝をたいへん尊敬し自分は鎌倉幕府を引き継いだ室町幕府の後継であると、固く信じていました。</p>
<p>しかし家康は、わずか二年で将軍の職を子の秀忠に譲り、駿府(静岡市)に引っ込んで「大御所」と仰がれました。</p>
<p>そして、相変わらず幕府の政治を動かしました。<br />
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		<item>
		<title>徳川家康ってどんな人？ 関東の江戸を根拠地にしたのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/806</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 13:20:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[江戸幕府]]></category>
		<category><![CDATA[鷹狩り]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/806</guid>

					<description><![CDATA[今回は徳川家康について、日本の歴史を紹介します。 家康の関東入国 徳川家康は、尾張(愛知県の一部)と隣り合わせている、三河(愛知県の一部)の小さな大名の家に生まれました。 家康の家は、初めは松平氏を名乗っていました。 父 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は徳川家康について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>家康の関東入国</h2>
<p>徳川家康は、尾張(愛知県の一部)と隣り合わせている、三河(愛知県の一部)の小さな大名の家に生まれました。</p>
<p>家康の家は、初めは松平氏を名乗っていました。</p>
<p>父の広忠の時までは、西に織田氏東に今川氏という、強い大名がいたため勢いを伸ばすことができませんでした。</p>
<p>家康も、わずか6才のときから22年もの長い間、織田氏や今川氏の人質となって、苦労をしました。</p>
<p>その間に、父の広忠は、家来に殺されましたが人質になっていた家康はどうすることもできませんでした。</p>
<p>1560年(永禄三年) 今川義元が織田信長に桶狭間(愛知県)で討たれると、家康は、やっと自由の身になりました。</p>
<p>三河に帰った家康は、信長の全国統一の仕事を後ろから助けながら、三河を従えました。<br />
そして、さらに今川氏への領地である駿河(静岡県の一部)・遠江(静岡県の一部)にまで勢いを伸ばしました。</p>
<p>信長に代わって、豊臣秀吉が全国の統一を続けていくと秀吉に従い、とうとう三河・駿河・遠江甲斐（山梨県)・信濃（長野県）の五か国を自分の領声地にしてしまいました。</p>
<p>1590年(天正一八年) 小田原(神奈川県)の北条氏が、秀吉に滅ぼされると家康は秀吉の言いつけで北条氏の領地であった関東に移りました。</p>
<p>家康の家来たちは、この国替えは秀吉が徳川氏の力を弱くするためであると考えて慌てたり騒いだりしましたが家康は、あまり困った様子を見せませんでした。</p>
<p>家康は、江戸を根拠地にして新しい領地を治めるためにいろいろ努力しました。</p>
<p>江戸の近くの国々に、身分の低い家来に与える土地と徳川氏の領地を集めました。</p>
<p>有力な家来は、なるべく江戸から遠いところにおき、関東の周りの大名たちに、備えさせました。<br />
こうして江戸(東京)を中心にして関東の領地を、しっかり固めようとしたのです。</p>
<p>また江戸の城下町を整えることにカを尽くしました。</p>
<p>家康が江戸に入ったころは北条氏の家来が作った小さな城の周りに漁村が散らばっているだけの寂しい土地でした。</p>
<p>今の日比谷の交差点のあたりから南は江戸湾が入り込みカヤの生えた沼地が広がっていました。<br />
海では、クジラがゆうゆうと泳いでいたということです。</p>
<p>家康は，その城を直して住み沼地を埋め立てて堀をつくりいろいろ必要な品物な船で城の近くまで運ばせるようにしました。</p>
<p>また商人や職人の頭を集めて町をつくらせ、領一内の商工業を取り締まらせました。</p>
<p>封建制度の世の中を治める武士たちの生活は農民の年貢で支えられていましたので農民を上手く支配することが一番大切な仕事でした。</p>
<p>家康は、秀吉のやった検地の方針を受け継ぎ領地の事情とにらみ合せて、行き過ぎのないようにしました。</p>
<p>そして、地主に雇われて田畑を耕している者の権利を認めながら、地主の利益を守ってやるようにしてやりました。</p>
<p>家康は鷹狩りが、たいへん好きでした。</p>
<p>暇があると、江戸の近くへ鷹狩りに出かけて村々の様子を見て回りました。<br />
田畑からのとれ高を増やして年貢をたくさん治めるように言いつけ言うことを効かない農民は遠慮なく罰しました。</p>
<p>こうして家康は、秀吉に従う大名の中では一番強い力を持つようになりました。<br />
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		<title>江戸時代のあらまし！ ざっくり言うとどんな時代？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 Jun 2014 12:43:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[参勤交代]]></category>
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		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は江戸時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。 1603年、征夷大将軍になった徳川家康は江戸幕府を開き、武士による全国支配の仕組みを、さらに強カに作り上げようとしました。 この江戸幕府の土台は、三代将軍家光の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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1603年、征夷大将軍になった徳川家康は江戸幕府を開き、武士による全国支配の仕組みを、さらに強カに作り上げようとしました。</p>
<p>この江戸幕府の土台は、三代将軍家光の頃までに、しっかりと出来上がりました。<br />
全国250あまりの大名を親藩・譜代・外様の三つにわけ、お互いに、抑え合うように配置替えをしました。</p>
<p>また、武家諸法度を作って大名や武士を取り締まったり参勤交代の仕組みをつくって諸大名の力を抑えたりしました。</p>
<p>しかも、幕府自身は全国の四分の一という広い領地を持ち、主な都市や鉱山も支配して巨大な財力を蓄えました。</p>
<p>さらに、キリスト教が広まり政治の土台が揺らぐことを恐れた幕府は思い切って国を閉ざし外国との付き合いを止めてしまうようなこともしました。</p>
<p>そのためにこれれまで盛んだった外国との貿易は衰え、世界の進歩に遅れることになりましたが一方、国内には200年あまりも太平が続くことになりました。</p>
<p>江戸時代になって、特に変わったことの一つは士農工商という身分の順、また主人と家来との身分の区別がはっきりしたことでした。</p>
<p>農民を武士の次にしたのは武士との生活が、農民の納める年貢で支えられていたからです。</p>
<p>それだけに、農民は、「生きぬように、殺さぬように」という方針のもとに、苦しい生活をさせられました。</p>
<p>そのために、自分が米を満足に食べることができないようなこともありました。</p>
<p>しかし、農民たちは新しい作物を作ったり農業技術を改善したり、新田を開発したりして農業の発達に努力しました。</p>
<p>それに対して、職人や商人は農民ほどの厳しい取り締まりは受けませんでしたが、やはり武士の命令には<br />
絶対に従わなければなりませんでした。</p>
<p>武士の酷いやり方に対しては農民も一揆をおこして反抗しました。<br />
しかし、武士にとっての第一の強敵は商人でした。</p>
<p>江戸時代に入って、商業がますます盛んになると商人は次第に大きな財力を蓄えるようになりました。<br />
一方、武士は華やかな生活に慣れ商人には頭を下げて、お金を借りるようなこともおこりました。</p>
<p>しかも、商人や職人は次第に豊かになった生活の中から、新しい町人の文化を生みだしていきました。<br />
歌舞伎・浮世絵・小説・徘徊・川柳などはその代表的なものと言えます。</p>
<p>幕府の政治は次第に行き詰ってきました。<br />
享保の改革・寛政の改革・天保の改革などが次々に行われました。</p>
<p>いずれも成功しませんでした。</p>
<p>また、国学や洋学の広まりとともに幕府の政治に反対する声は高まるばかりでした。<br />
そしてアメリカのペリーが開国を求めて浦賀にきて以来、開国と攘夷を巡って国内は乱れました。</p>
<p>ついに幕府は、薩摩や長州などの連合軍の努力によって倒され、武家政治は終わりをつげました。<br />
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