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	<title>源頼朝 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>源頼朝 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>源頼朝が死んだのはいつ頃？　北条時政と政子とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/744</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 23:52:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[源実朝]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[源頼朝]]></category>
		<category><![CDATA[北上時政]]></category>
		<category><![CDATA[北条政子]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は源氏が滅びたころの日本の歴史を紹介します。 1198年(建久九年)の暮れ、御家人のひとり、稲毛重成が相模川(神奈川県)に橋をかけその落成式が行われました。 その式に出席した頼朝は、帰り道で馬から落ち、それがもとで、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は源氏が滅びたころの日本の歴史を紹介します。<br />
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1198年(建久九年)の暮れ、御家人のひとり、稲毛重成が相模川(神奈川県)に橋をかけその落成式が行われました。</p>
<p>その式に出席した頼朝は、帰り道で馬から落ち、それがもとで、あくる年の1199年(正治元年)、53才で亡くなりました。</p>
<p>頼朝に続いて長男の頼家が将軍になりました。</p>
<p>しかし、そのとき、頼家は18才の若者でしたのでたくさんの御家人たちを率いる、充分な力がありません。</p>
<p>北条時政と政子のカ強くなったのは、このときからでした。<br />
政子は頼家の母で、時政の娘です。</p>
<p>頼朝が死んだ後、政子は政治の上に大きな力を持つようになりました。</p>
<p>頼家が将軍となって3日も経たない内に、政子は頼家の手から裁判権を奪い北条時政たち12名の重臣が集まって相談する仕組みに移してしまいました。</p>
<p>これに対し頼家は、黙って引っこんではいませんでした。<br />
自分の気に入った者を身近において、思う通りに政治を執ろうしました。</p>
<p>頼家を中心とする一派と、自分たちの言い分を通そうとする御家人たちの一派とが対立しました。<br />
時政と政子は計略を用い、有力な御家人、梶原景時・比企能員を倒してしまいました。</p>
<p>比企能員は頼家の妻の父です。<br />
こうして、時政と政子は、次第に幕府の実権を握るようになったのです。</p>
<p>頼家は和田義盛・新田忠常らに時政を討つよう命じました。<br />
ところが義盛は時政側についてしまい、忠常は殺されました。</p>
<p>時政はさらに頼家が病死したと偽って、弟実朝を将軍にたてました。<br />
頼家は伊豆国(静岡県の一部)修善寺の寺に閉じ込められてしまいました。</p>
<p>そして1204年(元久元年)7月、入浴中に時政の差し向けた兵によって殺されてしまいました。年はわずか23才でした。</p>
<p>1203年(建仁三年)、将軍となった実朝は、まだ12才の少年にすぎませんでした。</p>
<p>時政は自分の家へ実朝を引き取り、大江広元とともに政所の長官となり実朝の後見として政治な執るようになりました。</p>
<p>こうして、北条氏の政権の基礎が固められました。</p>
<p>幕府には、頼朝の頃から仕えている豪族の武士がたくさんおり北条氏の勝手な振る舞いを許しませんでした。</p>
<p>しかし、北条氏は機会を見て、これらの豪族を滅ぼそうと考えました。<br />
まず、時政は平氏との戦に手柄のあった畠山重忠を殺しました。</p>
<p>時政の子の義時は父に代わって政治を執るようになり、執権という役につきました。<br />
執権というのは、将軍の後見として、政所や侍所の長官となって政治を執る職をいいます。<br />
義時は、侍所の別当(長官)和田義盛を殺しました。</p>
<p>こうして北条氏に反対する御家人は倒され、義時は侍所の長官を兼ね執権政治を確立したのです。<br />
義時以後、鎌倉幕府は、その子孫が代々執権という役めをつとめました。</p>
<p>こうなると、実朝は、将軍といっても名ばかりのものでした。<br />
政治から逃れて、和歌や蹴鞠に日を送る有様で、武士としてよりも歌人将軍として有名です。</p>
<p>実朝は和歌を京都で名高い歌人、藤原定家に学び定家が驚くほどの優れた歌人となりました。<br />
そして「金槐和歌集」という、立派な歌集を残しました。</p>
<p>実朝は幕府の政治も自分の思うようにならないことから官位のあがることで、わずかに心を慰めていました。</p>
<p>大納言・左近衛大将・内大臣などを経て、ついに27才の若さで右大臣にまで昇りました。<br />
1219年(承久元年)正月の雪の夜、鶴岡八幡宮で実朝が右大臣の位に就く式が行われました。</p>
<p>式が終わって、実朝が社前の石段を降りてきたとき八幡宮の別当の公暁が大イチョウの陰から踊り出て、実朝を切り殺しました。</p>
<p>公暁もすぐ捕えられて殺されました。公暁は頼家の子どもです。</p>
<p>こうして源氏の将軍は頼朝から、わずか三代で滅んでしまいました。<br />
実朝には子どもがなかったので、政子がしばらく政治を執っていました。</p>
<p>やがて、頼朝とわずかに血の繋がりのある、京都の公家左大臣九条道家の子で当時わずか2才の三寅が将軍となりました。</p>
<p>三寅は後に藤原頼経といいました。</p>
<p>政子は三寅の後見人として政治な執ることになり、人々から尼将軍と呼ばれました。</p>
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		<title>源頼朝と源義経の関係とは？ 勧進帳とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/742</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 22:27:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[源頼朝]]></category>
		<category><![CDATA[源義経]]></category>
		<category><![CDATA[勧進帳]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は源頼朝と源義経の関係について、日本の歴史を紹介します。 1184年(元暦元年)、後白河法皇は義朝に断らないで、左衛門尉検非違使という役につけました。 その後、壇ノ浦で平氏を滅ぼした源義経は、輝かしい凱旋将軍として京 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は源頼朝と源義経の関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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1184年(元暦元年)、後白河法皇は義朝に断らないで、左衛門尉検非違使という役につけました。<br />
その後、壇ノ浦で平氏を滅ぼした源義経は、輝かしい凱旋将軍として京都へ帰ってきました。</p>
<p>頼朝は、義経の名声が高まっていくのを快く思いませんでした。<br />
そのうえ、義経が平時忠の娘を妻にしたことも、頼朝に疑いの目で見られる原因となりました。</p>
<p>義経は頼朝の怒りを解こうと、鎌倉の近くの腰越(鎌倉市腰越)までいって手紙を頼朝のもとへ送りました。<br />
しかし、頼朝は義経が鎌倉へ入ることさえ許さなかったので義経はしかたなく京都へ引き返しました。</p>
<p>頼朝は土佐坊昇俊という者を、京都へ遣わして、義経を殺そうとしました。<br />
そこで義経はついに心を決め、後白河法皇から頼朝を滅ぼせという命令を出してもらいました。</p>
<p>しかし、義経のもとに集まる武士はあまりいませんでした。</p>
<p>そのため、義経と義経に味方した源行家とは、法皇から九州と西国の地頭にしてもらい、わずか200騎の軍勢をつれて京都を立ち去りました。</p>
<p>頼朝は、むろん法皇のやり方を怒りました。<br />
法皇は頼朝の怒りをなだめるために、今度は頼朝に義経たちを滅ぼせという命令を出しました。</p>
<p>義経と行家の一行は大物浦(尼崎市) から船に乗ったところ突然の大嵐のため、船が転覆してしまい、部下はちりぢりになり義経は和泉の浦(大阪府)に流れ着きました。</p>
<p>行家は和泉国で頼朝方に捕まって、殺されてしまいました。<br />
義経は、極わずかの友と共に、大和国(奈良県)の吉野に身を隠しました。</p>
<p>その後義経は、北陸道を通って奥州平泉（岩手県)の藤原秀衡のもとへ逃げていきました。</p>
<p>その途中、加賀(石川県の一部) の安宅関で、偽山伏姿の義経一行が、弁慶の働きと富樫左衛門の情けで、危ないところを助けられる物語は「勧進帳」として有名です。</p>
<p>奥州(東北地方)の藤原氏は、清衡・基衡・秀衡の三代の間、非常に栄えました。<br />
藤原氏が住んでいた平泉(岩手県)には都にも劣らない、にぎやかな町が出来ていました。</p>
<p>その藤原氏に義経が頼っていたので、頼朝にとっては、兵を奥州へすすめる口実が出来たわけです。<br />
義経はまだ小さい頃、秀衡の世話になったことがありました。</p>
<p>秀衡は今度も義経は今度も義経を快く迎え、密かに頼朝との戦いの用意さえしました。<br />
ところが、秀衡が死に子の泰衡が後を継ぎました。</p>
<p>1189年（文治5年）泰衡は頼朝の勢いを恐れ、衣川の屋形の義経を襲いました。<br />
義経はついに自殺し、30年の短い一生を閉じました。（諸説あり）</p>
<p>同じ年の7月、頼朝は義経を匿っていた罪を理由にして藤原氏を攻め滅ぼし東北地方を手に入れました。</p>
<p>平氏を滅ぼして九州の西の端まで従えた頼朝は、泰衡を殺して東北地方を支配することになり、全国を統一をほぼ成し遂げました。</p>
<h2>勧進帳とは？</h2>
<p>勧進帳は、有名な歌舞伎の一つで義経主従が、苦労して安宅閑(石川県小松市安宅町)を越える様が、描かれている芝居です。</p>
<p>兄の頼朝に追われた義経は、山伏姿の弁慶ら、四人の家来を連れて、奥州(東北地方)の藤原氏へ落ち延びる途中、安宅関に差し掛かりました。</p>
<p>頼朝から義経を捕えよとの命令を受けていた関守の富樫左衛門は山伏すがたの義経一行を止めます。</p>
<p>弁慶は、我々は戦いで焼けた東大寺を立て直すための勧進(寺社を建てるために金品を寄付するよう、々に勧めること)をして周る山伏だと名のります。</p>
<p>富樫は、山伏に限り、一人も通すことはできない、たって通るなら命をもらうと聞き入れません。</p>
<p>このうえは仕方ないと、弁慶たちは最後のつとめをして大人しく殺されようとお祈りを始めました。</p>
<p>その感心な心掛けに富樫は感服して、まことに東大寺勧進の山伏なら勧進帳をもっているだろう。<br />
それを妙ではないかと迫ります。もとより勧進帳はありません。</p>
<p>しかし弁慶は落ち着いて一巻の巻物を取り出し、勧進帳と見せかけ、読みあげます。</p>
<p>これを聞いた富樫は、今は疑いが晴れたが、ついでに2,3訊きたいと山伏の服装の言われなどについて、訊ねます。</p>
<p>この問いにも弁慶は鮮やかに答えます。<br />
ここに、疑いは全く晴れ、義経の一行は通り抜けようとします。</p>
<p>ところが、義経が富樫の家来に見とがめられます。</p>
<p>これは見破られたか、一大事とばかり、弁慶は涙を呑んで義経を、金剛杖で、散々に打ちます。<br />
弁慶の苦しい心の内を察した富樫は、その通行を許します。</p>
<p>富樫の目を誤魔化すためとはいえ、主君を打つなんて、恐ろしいとをしたと弁慶は義経に泣いて詫びます。</p>
<p>義経は、怒るどころか、弁慶の手をとって、危ういところを助かったのは弁慶のお蔭と喜びます。<br />
一行が、経とうとするところへ、富樫が酒を持ってきて、弁慶たちにすすめます。</p>
<p>弁慶は喜んで酒を飲み、舞を舞います。</p>
<p>そして、義経主従は富樫に別れを告げ、安宅関を後にします。<br />
これは、もちろん物語ですが、義経主従の苦心がよく伺えます。</p>
<p>義経は今も人気があり、判官贔屓という言葉の語源になったのもこの義経です。</p>
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		<item>
		<title>源平の戦いとは？　源頼政と源頼朝ってどんな人？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/738</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Feb 2014 19:54:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[源頼朝]]></category>
		<category><![CDATA[源頼政]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は源平の戦いについて、源頼政と源頼朝を中心に、日本の歴史を紹介します。 源頼政は源頼光の子系です。 年をとってから三位にのぼりましたので源三位頼政といいました。 保元の乱のときには、平清盛らとともに崇徳上皇の軍を破り [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は源平の戦いについて、源頼政と源頼朝を中心に、日本の歴史を紹介します。<br />
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源頼政は源頼光の子系です。</p>
<p>年をとってから三位にのぼりましたので源三位頼政といいました。<br />
保元の乱のときには、平清盛らとともに崇徳上皇の軍を破りました。</p>
<p>その後、しばらく清盛と親しくしていましたが、人々が平氏に背くようになったのを見て、今こそ平氏を討つべきだと決心しました。</p>
<p>源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王から、平氏を滅ぼせという命令を貰いました。<br />
この命令は、全国に散らばっている源氏に伝えられました。</p>
<p>さらに源頼政は、延暦寺や興福寺などの僧兵と相談し宇治の平等院にこもって戦いました。<br />
しかし、戦は頼政に不利でした。<br />
平氏の大軍に破られ、ついに以仁王も源頼政も戦死しました。</p>
<p>しかし、この戦をきっかけとして、源氏の武士は各地で立ち上がり平氏と戦い初めました。<br />
そこで清盛は、1180年(治承四年6月、都を摂津の福原(神戸市)に移しました。</p>
<p>しかし、急に移ったために、皇居の準備も出来ていなかったので、貴族たちは、福原の都を嫌いました。<br />
貴族たちの気持ちをなだめるため、清盛は、また同じ年の11月に都を京都へかえしました。</p>
<p>人々は、いよいよ不平を言うようになりました。<br />
おまけに、飢饉や悪い病気さえ流行しました。</p>
<p>世の中の動きは、ますます平氏に不利になっていくばかりでした。</p>
<p>1180年(治承四年)8月、平治の乱の後に、伊豆国(静岡県の二部)に流されていた源頼朝は、妻、政子の父北条時政の助けを受けて、立ち上がりました。</p>
<p>しかし、平氏方の大庭景親の軍と戦って敗れました。<br />
頼朝は、このとき大木の洞穴に隠れたのを敵方の梶原景時に助けられたと伝えられています。</p>
<p>やがて頼朝は、房総半島に渡り、関東の豪族たちの助けを得て勢力を、盛り返しました。<br />
そして、同じ年の10月、相模国の鎌倉(鎌倉市)に入り、ここを根拠地と定めました。</p>
<p>鎌倉は、もともと、八幡太郎義家の父、源頼義が源氏の氏神の八幡を京都の石清水から由比郷へ移したところで、源氏とは深い繋がりがありました。</p>
<p>また自然の地形も、三方が山に囲まれていて、攻め難く、守り易い土地でした。</p>
<p>そして頼朝は、鎌倉が東北地方と京都とのほぼまん中にあり、源氏の力を伸ばすのに都合がよいと考えたのです。</p>
<p>頼朝が立ち上がったことを聞いた清盛は孫の維盛を大将として頼朝を討つよう命じました。<br />
頼朝は平氏の大軍を迎え撃つために黄瀬川に兵をすすめました。</p>
<p>このとき、京都の鞍馬寺から東北地方の平泉(岩手県)の藤原氏のもとに行っていた義経も兄の頼朝のところへ駆けつけました。</p>
<p>源氏と平氏の両軍は、駿河(静岡県の一部)の富士川を挟んで向かい合いましたが維盛の軍勢は、夜中に水鳥の飛び立つ音に驚いてろくに戦もしないで京都へ逃げ帰りました。</p>
<p>平氏の意気地の無さに呆れ、日増しに盛んになる頼朝の勢いを見て国々の武士や僧兵たちは、次々に平氏に背くようになりました。</p>
<p>1181年(養和元年)清盛は、激しい熱病にかかって死にました。</p>
<p>平氏の勢いは、これから一日一日と、衰えていきました。</p>
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