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	<title>織田信長 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>織田信長 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係とは？ キリスト教の取り締まりとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/817</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 05 Jul 2014 03:43:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ会]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。 信長とキリスト教 信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>信長とキリスト教</h2>
<p>信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見ていました。</p>
<p>なぜなら、信長にとって本願寺や、廷賦寺のような大きな仏教勢力は天下を統一していく上でたいへん邪魔になりました。</p>
<p>そこで信長は、この仏教勢力と対抗させるためにキリスト教を認めたのです。</p>
<p>それに、その頃の僧たちが行いの良くないのに比べて宣教師たちは、不自由をしのんで立派に教えを広めていました。</p>
<p>このような宣教師の態度を見てすっかり感心しました。</p>
<p>しかし何よりも信長をキリスト教に惹きつけたのは宣教師と外国貿易とが固く結びついていることでした。</p>
<p>宣教師たちはキリスト教を許せば貿易船がやってくると言って大名たちから、キリスト教を広めてもよい許しを得ていました。</p>
<p>そこで、信長も、宣教師がくれば外国の貿易船も来て時計や望遠鏡など、いろいろ珍しい品物を手に入れることが出来るしまた、西洋の進んだ知識も取り入れることが出来ると考えました。</p>
<p>このように、天下統一の大事業を進めて信長にとって、キリスト教の勢力など問題になりませんでした。<br />
宣教師たちは九州から近畿地方にかけて自由に旅行し、教えを広めました。</p>
<p>そして、至るところに大小の天主堂ができました。</p>
<p>また、安土や有馬(神戸市)長崎・府内(大分市) には学校がつくられ、そこでは、ラテン語やポルトガル語・油絵・エッチング(銅版画)や時計の造り変えまで教えていました。</p>
<p>信長の死んだ1582年(天正10年) には信者の数は、10万人にもなっていたと言われます。</p>
<h2>秀吉とキリスト教</h2>
<p>信長の跡を継いだ秀吉も宣教師と親しく交わり天主堂を訪ねて、西洋音楽を聞いたり牛肉やぶどう酒のごちそうになったりしました。</p>
<p>秀吉の周りには小西行長(オーガスチン)・黒田孝高(シメオン)高山右近(ジュスト)・内藤如安(ジョアン)など多くのキリシタン大名がおり、また城内にも熱心なキリシタンが何人かおりました。</p>
<p>秀吉は1587年(天正15年)島津征伐のために九州へ行って見て驚きました。<br />
長崎の町は、全く、教会のものとなり町の周りには、砦や堀まで築いてあったのです。</p>
<p>秀吉は、このようなキリスト教の勢力の盛んな有様を見てこれは、油断が出来ないと思いました。<br />
そう思うと、気になることがいろいろ出てきました。</p>
<p>特に、キリスト教の教えや習わしは封建社会を整えていく上で大きな妨げとなりました。</p>
<p>例えば、封建社会でもっとも重んじられた主従の関係もキリスト教では、神(デウス)に対する尊敬の方が重んじられたのです。</p>
<p>そのために、信者が領主の命令通りにならないということがしばしばありました。<br />
この年(1587年)秀吉は博多の宿で、突然キリスト教を禁じる命令を出しました。</p>
<p>宣教師たちは、20日以内に日本を立ち退かなければいけないことになりましたが実行は無理でした。<br />
秀吉にすればキリスト教は禁じても儲けの多い貿易は止めたくありませんでした。</p>
<p>信者は、それに漬け込んで宣教師をかばい、宣教師たちはこっそり、教えを広め続けていたのです。</p>
<p>その上、1584年(天正21年)ルソンから、スペインの商船が平戸について以来、新たにスペイン系のフランシスコ会の宣教師が来るようになりました。</p>
<p>秀吉は、ルソンを通してスペインと貿易をしようと思っておりましたので、このフランシスコ会の宣教師たちに布教(教えを広めること)の許可を与えました。</p>
<p>こうなると秀吉のキリスト教禁止の命令はあっても無いようなことになりました。<br />
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		<item>
		<title>織田信長とは？　長篠の戦いと本能寺の変とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/794</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 11:46:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[長篠の戦]]></category>
		<category><![CDATA[本能寺の変]]></category>
		<category><![CDATA[明智光秀]]></category>
		<category><![CDATA[安土城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長とは？　長篠の戦と本能寺の変について、日本の歴史を紹介します。 長篠の戦い 信長は新しい兵器として、鉄砲を早くから利用していましたが、この鉄砲の威力が最もよく示されたのが長篠の戦いです。 1575年（天正3 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長とは？　長篠の戦と本能寺の変について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>長篠の戦い</h2>
<p>信長は新しい兵器として、鉄砲を早くから利用していましたが、この鉄砲の威力が最もよく示されたのが長篠の戦いです。</p>
<p>1575年（天正3年）に、信長と徳川家康の同盟軍が武田勝頼(信玄の子)の軍と三河(愛知県の一部)の長篠で戦いました。</p>
<p>このとき武田軍は、天下無敵と言われた騎馬隊で突撃してきましたが信長軍が3000丁もの鉄砲で狙い撃ちしましたので散々に敗れました。</p>
<p>では信長は、なぜこんなに多くの鉄砲を持っていたのでしようか。</p>
<p>それは、このころの主な鉄砲の産地は堺の町と近江国(滋賀県の一部)でしたが信長は近畿地方を平定して、この産地を自分の領地にしていたからです。</p>
<h2>安土城</h2>
<p>近畿地方の勢力を固めた信長はその根城として、近江の安土に立派な城を造りました。</p>
<p>そして城下町に、部下の大名や侍を移り住ませ、商人や職人も呼び寄せましたので安土の町は、たいへん栄えました。</p>
<p>安土城は20メートルもある高い石垣の上に七重の天守閣が建ててありました。<br />
屋根瓦には金を塗り、建物の中にも金のふすまには狩野永徳らの描いた美しい絵がたくさんありました。</p>
<p>このように立派な城は、日本には、これまでなかったものです。</p>
<h2>本能寺の変</h2>
<p>信長は近畿地方と中部地方の大部分を平定して天下統一のもといを固めましたが、その他の地方には、まだまだ信長に従わない大名が残っていました。</p>
<p>中国で勢力を奮っていた毛利氏もその1人です。</p>
<p>信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将に命じて、これを撃たせ、自分も出陣しようとして安土城を出発し京都の本能寺に泊まりました。</p>
<p>このとき、家来の明智光秀が謀反を起し、ついに、責め殺されてしまいました。</p>
<p>1582年(天正10年)のことでした。</p>
<p>信長は、秀れた武将で室町時代の古い仕来りをどしどし打ち破りましたが、その一方で比叡山や一向一揆の焼き討ちのように残酷なやり方であったので、このような思いがけない死にあったのでしょう。</p>
<p>さて、織田信長についてもう少し紹介します。</p>
<p>信長の肖像画として最も正しいとされる三河（愛知県の一部）の長興寺に伝わる絵を見ますと信長は、うりざね顔の整った顔立ちをしています。</p>
<p>しかし、どこか神経質で癇癪持ちといったところもあります。</p>
<p>実際に信長に会ったキリスト教の宣教師ルイス＝フロイスという人は信長について「尾張の主は、痩せていて、ヒゲが薄く、キンキン声をし回りくどい話が嫌いで神や仏を信じない」と言っています。</p>
<p>子どもの頃は手に負えない乱暴な変わり者で「大うつけもの（大馬鹿）」と言われましたが大きくなるにつれて武芸・学問に励み、全国統一という大事業に手をつける武将にまでなったのです。</p>
<p>信長には残酷な一面があり僧や農民でも手向かう者には容赦なく武力を使いました。<br />
比叡山を焼き討ちしたり一向一揆と戦ったりしたのは、そのよい例です。</p>
<p>また、憎んでいた人を捕まえて、その首を「はくだみ（漆付）」とし酒盛りの度に、それを眺めたという話もあります。<br />
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		<title>織田信長とは？　室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺には！？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/793</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 10:25:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[室町幕府]]></category>
		<category><![CDATA[比叡山]]></category>
		<category><![CDATA[石山本願寺]]></category>
		<category><![CDATA[一揆]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。 室町幕府を滅ぼす 足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛ん [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長が室町幕府を滅し、比叡山と石山本願寺との関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>室町幕府を滅ぼす</h2>
<p>足利義昭は、長の力で将軍になったので、はじめの内は信長を父と呼んで尊敬していましたが信長の勢いが日増しに盛んになるのを見て、たいそう不安に思うようになりました。</p>
<p>また義昭は、将軍として信長の上に立とうとしましたが信長はそれを認めようとしませんでしたので義昭は、ついに信長の敵の大名たちの力を借りて信長を倒そうとしました。</p>
<p>信長は幾度も義昭を諌めましたが、その気持ちを改めようとしないので1573年(天正元年)に、とうとう義昭を京都から追い払いました。</p>
<p>200年あまり続いた室町幕府もこれで滅びたわけです。</p>
<h2>比叡山と石山本願寺</h2>
<p>しかし全国統一を目指す信長の前には、まだまだ、たくさんの強い敵がありました。</p>
<p>越後(新潟県の一部)の上杉謙信や甲斐の武田氏をはじめ越前(福井県の一部)の朝倉、近江(滋賀県)の浅井、中国の毛利、四国の長曽我部氏など、どれも強い大名でしたが、寺や農民もまた、しばしば信長を苦しめました。</p>
<p>京都のすぐ北にある比叡山延暦寺は近江(滋賀県)に持っていた領地を信長の家来に横取りされたので強い反感を持っていました。</p>
<p>僧兵たちは、浅井・朝倉などの大名と手を結んで信長に反抗しました。</p>
<p>そこで、おこった信長は1571年(元亀二年)突然比叡山を取り込んで寺を焼き払い、多くの僧や女子どもまで皆殺しにしました。</p>
<p>大坂石山の本願寺も、大きな力を持っていました。</p>
<p>本願寺は一向宗の総本山ですが寺のある石山は大阪湾にのぞみ海に囲まれた攻めにくい城になっていました。</p>
<p>そのうえ一向宗の信者には地方の農民や農民の頭として土地に住み着いている武士たちが多かったので、本願寺が指図をすると、ほうぼうで一斉に一揆をおこしました。</p>
<p>一揆は信長の敵側の大名たちと結んで信長の軍を苦しめ、このために信長の弟が戦死したこともありました。</p>
<p>そこで信長は、厳しく一揆を押さえつけました。</p>
<p>1574年(天正二年)に伊勢(三重県) の長島一揆を攻めたときには、降伏を許さず城の中に男女2万人を閉じ込めて、焼き殺しました。</p>
<p>その翌年には、越前の一揆を攻め農民も一向宗の僧も、見つけ次第に殺されました。<br />
「府中の町(福井県)は死体でいっぱいで、空き地もない」と信長自身が手紙を書き送っています。</p>
<p>信長は、最後に残った本願寺を責め立てましたので本願寺側は、とうとう1580年(天正八年)に石山城を明け渡し、信長に従うことになりました。</p>
<p>これで近畿地方は信長の勢力で固まりました。</p>
<p>信長が、比叡山や一向宗の僧を、残酷なほど厳しく責め立てたのは、この頃の仏教が宗教の立場を離れて、政治にくちばしを入れたり国内統一の邪魔をしたりしたからです。</p>
<p>このような仏教のカを弱めるために信長はキリスト教を保護したりしました。</p>
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		<item>
		<title>織田信長とは？ 桶狭間の戦いとは？ 信長と堺の町との関係とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/792</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 09:50:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[桶狭間の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[木下藤吉郎]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は織田信長、桶狭間の戦いと堺の町について、日本の歴史を紹介します。 尾張の織田氏 応仁の乱の後、ほぼ100年あまりの間は各地で多くの大名たちが勢力を争い戦の絶え間がありませんでした。 しかし、やがて16世紀の半ばごろ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長、桶狭間の戦いと堺の町について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>尾張の織田氏</h2>
<p>応仁の乱の後、ほぼ100年あまりの間は各地で多くの大名たちが勢力を争い戦の絶え間がありませんでした。</p>
<p>しかし、やがて16世紀の半ばごろになると統一と平和を望む気持ちが高まってきました。<br />
そのうちで、真っ先に天皇や将軍のいる京都にのぼり天下統一の糸口を開いたのが、織田信長でした。</p>
<p>信長は、尾張国(愛知県の一部)の大名です。</p>
<p>家柄は、尾張国の守護代(守護のすぐ下で守護を助ける役目)であった織田氏の家来です。<br />
武士の頭である将軍から見れば家来の家来の、そのまた家来にあたります。</p>
<p>戦国時代の習わしであった下克上によって信長の父の信秀のときには尾張で最も勢いが強くなっていました。</p>
<p>しかし、父が死んだ後、信長が家を継ぐと、再び領内が乱されました。</p>
<p>また、その周りには、駿河(静岡県の一部)の今川義元、甲斐(山梨県)の武田信玄、美濃(岐阜県の一部)の斎藤道三のような強い大名が、隙を狙って、取り囲んでいました。</p>
<p>若い信長は、このような苦しい立場にありながら血みどろの戦いを重ね、ついに、もと守護の斯波氏や守護代の織田氏などの主人を滅して、尾張国を統一しました。</p>
<h2>桶狭間の戦い</h2>
<p>丁度このころ東海地方で大きな勢力をふるっていた今川義元が、京都に上ろうとして大軍を率いて尾張に攻め込んできました。</p>
<p>信長はこれを桶狭間の戦いで破り大将の義元も討ち取ったので、その武名は、たいそう高くなり勢いも強くなりました。</p>
<p>やがて東隣りの三河国(愛知県の一部) の徳川家康と手を結び、後ろを安全にした後、美濃国の斎藤氏を滅ぼして1568年(永禄11年)には、京都に上ることに成功しました。</p>
<p>では、信長は、なぜ他の大名よりも早く京都に上り、全国を治める糸口を掴むことができたのでしようか？</p>
<p>それには、まず第一に、信長の根城であった尾張が京都に近いことが非常に有利でした。<br />
その上、この地方が、木曽川の流れる豊かな平野であったことも信長の力を強くしました。</p>
<p>また信長は、身分の低い者でも農民の子でも、優れた者は、どしどし取立てました。<br />
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉) も信長に取立てられた1人です。</p>
<p>さらに、信長の戦いの仕方は長槍や鉄砲をもった足軽隊を中心にした新しいものでした。<br />
馬に乗り、弓や刀で一騎打ちをするような戦いの仕方よりは、ずっと進んだやり方です。</p>
<p>これが、信長を成功に導いたのでした。</p>
<h2>信長と堺の町</h2>
<p>京都に入った信長は足利義昭を将軍の位につけ、また天皇を頂いて、さらに勢いを強め次々に大名たちを従えていきました。</p>
<p>しかし戦争をするにはたくさんのお金が要ります。</p>
<p>そこで信長は大きな寺や神社や商人たちにも寄付金を出すことうぃ命じました。<br />
このころ外国貿易で栄えていた堺の町の商人には二万貫の大金を割り当てました。</p>
<p>しかし、堺の商人たちは、これをきっぱり断り、町の周りの堀を深くし、やぐらを築いて信長の軍を迎え撃つ気構えを見ました。</p>
<p>その上、翌年には、信長の敵に力を貸したりしましたので、信長は、たいへん怒り「命令に従わないと町を焼き払い、男も女も皆殺しにするぞ」と脅しました。</p>
<p>このため堺の町の商人たちも、とうとう信長に従うことになりました。</p>
<p>堺の町の他にも、町の住民の自治によって栄えていた町は、いくつもありましたが、このような町民の自治の政治は大名が力を伸ばすのに、邪魔になったために、どれも堺の町と同じょうに征服されていきました。<br />
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