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	<title>聖徳太子 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>聖徳太子 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>山背大兄王の変とは？　蘇我氏の勢いについて</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/690</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 22:07:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[蘇我氏]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[山背大兄王]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は山背大兄王の変について、日本の歴史を紹介します。 622年、聖徳太子は自分の始めた新しい政治の結果をよく見ないうちに亡くなってしまいました。 すると、これまで一応大人しくしていた蘇我氏がまたまた自分勝手な振る舞いを [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は山背大兄王の変について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>622年、聖徳太子は自分の始めた新しい政治の結果をよく見ないうちに亡くなってしまいました。<br />
すると、これまで一応大人しくしていた蘇我氏がまたまた自分勝手な振る舞いをするようになりました。</p>
<p>624年、蘇我馬子はそこのろ皇室の領地だった大和の葛城県（奈良県の一部）を頂きたいと申し出ました。</p>
<p>推古天皇はたいへん困りましたが葛城県は自分一人の土地ではないからと言って断りました。<br />
蘇我馬子は聖徳太子がなくなるとすぐにこんな要求を持ち出してきたのです。</p>
<p>628年、推古天皇は後継を決めないまま亡くなりました。<br />
これは蘇我氏に遠慮したためで、後継は蘇我氏の好きな人をたてるようにと考えたからでしょう。</p>
<p>そのころ天皇の後継として山背大兄王と田村皇子の2人が有力でした。<br />
このうち山背大兄王の方は父が聖徳太子、母は蘇我馬子の娘ですから蘇我氏にはすごく繋がりの近い人でした。</p>
<p>ところが山背大兄王の叔父にあたる蘇我蝦夷は王が天皇になることを喜びませんでした。<br />
というのも聖徳太子がたいへん偉い人だったので、さすがの蘇我氏も聖徳太子には頭が上がりませんでした。</p>
<p>その上、今度は聖徳太子の子供でもあり人々の信用もかなりある山背大兄王のような人に天皇になられては都合が悪いと考えたからでしょう。</p>
<p>こんな訳で蘇我蝦夷は全く血のつながりのない田村皇子を次の天皇にしようとはかり皇族（天皇の親戚）や豪族などの集まりを開きました。</p>
<p>この集まりでは山背大兄王の見方をする人も多かったのですが、蘇我蝦夷は無理矢理に田村皇子を天皇にしてしまいました。</p>
<p>これが舒明天皇です。</p>
<p>山背大兄王は不満だったに違いありませんが蘇我氏の勢いの前にはどうすることもできませんでした。<br />
641年、舒明天皇が亡くなりました。</p>
<p>山背大兄王は今度こそ天皇になれると思ったことでしょう。</p>
<p>ところが蘇我蝦夷はあくまで王が天皇になることに反対したらしく次の年に舒明天皇の皇后だった宝皇女が天皇になってしまいました。</p>
<p>こうして山背大兄王はまたも当てが外れてしまいました。<br />
王は蘇我氏の振る舞いにひどく腹を立てたに違いありません。</p>
<p>蘇我蝦夷の子に、蘇我入鹿という人がいました。</p>
<p>蘇我入鹿は父以上に力を奮いわがままな行いが多かったようです。<br />
山背大兄王の私有民を平気で勝手に使ったりしました。</p>
<p>そればかりではありません。</p>
<p>蘇我入鹿は人々に人気のある王を目の上のこぶのように邪魔者扱いにし、とうとう王を殺してしまおうと決心しました。</p>
<p>643年、蘇我入鹿は軍隊を遣わし不意に山背大兄王の屋敷を囲んで責め立てました。<br />
王は一度は山の中に隠れました。</p>
<p>お付きの人は王に<br />
「東国へ逃げて、そこで兵を集め蘇我入鹿と戦いなさい」<br />
と勧めました。</p>
<p>しかし、王はこれを断り<br />
「自分のために人々を殺したくない。自分の命を蘇我入鹿に与えれば済むのだ」<br />
と応えて家族と一緒に自殺してしまいました。</p>
<p>この事件を山背大兄王の変といいます。</p>
<p>これは先に崇峻天皇が蘇我馬子に殺された事件につぐ大事件でした。</p>
<p>そして、日本の歴史は続いていきます。</p>
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		<item>
		<title>飛鳥時代の大陸との関係とは？　任那の滅亡や遣隋使の行き来があった？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/689</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 20:49:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[遣隋使]]></category>
		<category><![CDATA[小野妹子]]></category>
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					<description><![CDATA[飛鳥時代の頃の日本は他国（大陸）とどのような関係にあったのか、日本の歴史を紹介します。 ５世紀にあらわれた五人のヤマトの大王（倭の五王）は百済の後押しをして高句麗や新羅と戦いました。 しかし、百済の力が段々と衰えてきまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>飛鳥時代の頃の日本は他国（大陸）とどのような関係にあったのか、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>５世紀にあらわれた五人のヤマトの大王（倭の五王）は百済の後押しをして高句麗や新羅と戦いました。<br />
しかし、百済の力が段々と衰えてきましたので、その後押しをしていた日本の立場も段々苦しくなってきました。</p>
<p>倭の五王がしばしば中国に使いを遣わしたのは一つには、中国の優れた文化を取り入れるためでしたが、もう一つには中国の皇帝から日本の立場を認めてもらって朝鮮半島ににらみを効かせようと考えたからです。</p>
<p>ですから熱心に中国にお世辞を使っています。<br />
けれどもそのくらいのことで高句麗や新羅が大人しくなるはずはありませんでした。<br />
やがて高句麗は百済の北の方を占領してしまいました。</p>
<p>百済は仕方なしに南隣りにある任那の地方に領土を広げようとしました。<br />
そして、日本に頼み込んで任那の四県をわけてもらうことにしたのです。</p>
<p>ところがこれがもとで任那の人々は日本を信用しなくなってしまいました。</p>
<p>その上、任那の日本府に遣わされていた日本の役人たちも良くない人が多かったので日本の信用は下がるばかりでした。</p>
<p>そして、ついに任那の人々のうちには東の新羅と手を結ぶものさえ現れてしまったのです。<br />
日本が朝鮮に持っていた植民地任那は非常な危険に陥りましたが、もうどうにもなりません。</p>
<p>562年、新羅は任那の全てを占領してしまいました。<br />
このため日本は朝鮮から大きく一歩引き下がることになったのです。<br />
これは新羅が強くなったことも原因です。</p>
<p>けれども、それとともに任那に対する日本の政治のやり方が不味かったことや国内での豪族たちの勢力争いも原因だと言えます。</p>
<p>そのために任那の守りが手遅れになってしまったのでした。<br />
この後任那の日本府を取り戻すことが代々の天皇の目標、つまり日本の大目標となりましたがついに成功しませんでした。</p>
<p>聖徳太子も摂政になった頃は新羅を征伐して任那の日本府を取り戻そうと考えていました。<br />
けれども、とても成功しそうにもないので、きっぱりと諦めてしまいました。</p>
<p>その頃、中国では長い間の南北の対立がなくなり、久しぶりに全土が統一されたところでした。<br />
これが隋の国です。</p>
<p>隋は政治の仕組みも整っており、特に文化は目覚しく発達し国力は日の出の勢いで伸びていました。<br />
聖徳太子は隋の目覚しい文化に強く心を惹かれたのです。</p>
<p>そこで聖徳太子は新羅征伐を諦めるとすぐに隋と交わりを開くことにしました。<br />
607年、聖徳太子は小野妹子を使いとして隋に遣わし、国交を開くことを求めました。</p>
<p>このとき小野妹子が持っていた聖徳太子の手紙（国書）には次のように書いてありました。</p>
<p>「日出処の天子、書を日没する処の天使に致す。つつがなきや」</p>
<p>これは「東の方の太陽が昇るところにある日本の天皇が西のほうの太陽の沈むところにある隋の皇帝に手紙を差し上げます。おかわりありませんか？」という意味です。</p>
<p>少しもへりくだったお世辞がなく堂々とした対等の文章です。<br />
隋の皇帝煬帝は、生意気なやつと思いました。</p>
<p>けれども丁度、隋はそのころ高句麗征伐を計画していたので、日本とは仲良くしておいた方がよいと考えました。</p>
<p>そこで、煬帝は聖徳太子の求めに応じて国交を開くことにしたのです。<br />
次の年、小野妹子は再び隋に渡りました。</p>
<p>そのときの国書にも大国隋に対して少しも引け目をとらない、聖徳太子の逞しい心を感じることができます。</p>
<p>このとき小野妹子に従って八人の留学生が隋に渡りました。<br />
この人々は中国に二、三十年のあいだ留まっていろいろな中国文化を学び取りました。</p>
<p>ところが聖徳太子はこの人々が日本へ帰ってくる前に亡くなってしまったのです。<br />
けれども留学生たちの知識は645年から始まった大化の改新の政治のときにたいへん役立ったのです。</p>
<p>これを見ても聖徳太子が目先のことだけにとらわれない優れた政治家だったことがよくわりますね。<br />
この後、614年に犬上三田耜（いぬがみのみたすき）が隋に遣わされました。</p>
<p>しかし、618年に隋が滅びその後に唐がおこったので、遣隋使はこれで終わり代わって遣唐使が始まりました。</p>
<p>飛鳥時代の文化は遣隋使や遣唐使の行き来によって、ますます発達しました。</p>
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		<item>
		<title>飛鳥時代の文化とは？　ギリシャ、ペルシャ、朝鮮・中国からの影響を受けている？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/688</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 05:30:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[飛鳥文化]]></category>
		<category><![CDATA[法隆寺]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は飛鳥時代の文化について、日本の歴史を紹介します。 聖徳太子のころ都は代々飛鳥地方（奈良盆地）にありました。 それでこの時代を飛鳥時代とも言います。 この時代の文化はいろいろな影響から外国から受けています。 近くは朝 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は飛鳥時代の文化について、日本の歴史を紹介します。<br />
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聖徳太子のころ都は代々飛鳥地方（奈良盆地）にありました。<br />
それでこの時代を飛鳥時代とも言います。</p>
<p>この時代の文化はいろいろな影響から外国から受けています。<br />
近くは朝鮮・中国から遠くはギリシアうあペルシア（イラン）の影響も見られます。<br />
また、飛鳥文化は仏教文化と言われるほど深く仏教の影響を受けています。</p>
<p>まず学問について言えば、中国や朝鮮から優れた僧や博士がやってきて大陸や半島のいろいろな学問を伝えました。</p>
<p>602年、百済の僧観勒がやってきて暦や天文や地理などの学問を伝えました。<br />
610年には高句麗の僧曇徴が絵の具・墨・水うす（水力で回すうす）の作り方を伝えました。<br />
また、聖徳太子は高句麗の僧恵慈からお経を百済の博士覚哿から中国の学問を学んでいます。</p>
<p>これらの学問や技術が文化の発達に役立ったことは言うまでもありません。</p>
<p>美術の方でも新しい動きが見られます。<br />
それまでの家は柱を建てそこに板やかやで屋根をふいた粗末なものでした。</p>
<p>ところがこの時代になると土台に石を並べ屋根に瓦を乗せる新しい建築法が伝わってきました。<br />
こうして盛んに寺が建てられ法隆寺のような優れた建物が生まれたのです。</p>
<p>仏像ももちろん大陸から伝えられたものです。<br />
今まで見たこともない金色に輝く優しい仏像の姿に人々は目を見張りました。<br />
しかも法隆寺の柱の側面には膨らみ（エンタシス）があり、ギリシア建築の影響が見られます。</p>
<p>↑ギリシアのパルテノン神殿（上）と法隆寺中部（下）の柱に見られるエンタシスまた天馬（ペガサス）の模様を彫り付けた銅の水差しがありますが、この模様はペルシア（イラン）で盛んに使われていたものです。</p>
<p>そのほか物を入れる器や仏像の光背などに使われているツタの絡んだような模様は唐草模様と言って<br />
やはり西南アジアから伝わってきたものです。</p>
<p>つまり、この時代の文化はただ朝鮮や中国から影響を受けただけではなく遠くヨーロッパうあ西南アジアから中国や朝鮮を通って日本に伝わってきたものも入っているのです。</p>
<p>飛鳥文化は国際的なにおいが豊かだったと言えますね。<br />
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		<title>聖徳太子と法隆寺の関係とは？　仏教を信じて研究していたのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/687</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 04:51:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[法隆寺]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は聖徳太子と法隆寺について、日本の歴史を紹介します。 六世紀に百済から仏像やお経が伝わって来てからも最初の内は仏教は中々広まり難かったようです。 というのも仏教を信じるか信じないかで、蘇我氏と物部氏の争いがあったり敏 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は聖徳太子と法隆寺について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>六世紀に百済から仏像やお経が伝わって来てからも最初の内は仏教は中々広まり難かったようです。<br />
というのも仏教を信じるか信じないかで、蘇我氏と物部氏の争いがあったり敏達天皇のように仏教に熱心でない天皇がいたりしたからです。</p>
<p>しかし、585年には聖徳太子の父であり仏教に熱心な用明天皇が位に就きました。</p>
<p>また587年には仏教に反対だった物部守屋が滅ぼされました。<br />
そのためこの頃から仏教が非常な勢いで広まって行きました。</p>
<p>聖徳太子が摂政になったのは丁度こういうときでした。<br />
聖徳太子は父の用明天皇と同じように厚く仏教を信じ、また研究もしていました。</p>
<p>しかも太子は自分一人で仏教を信じているだけでは満足しませんでした。<br />
仏教の力を借りて社会の不安を沈め人々の心を和らげて住みよい国土をつくりあげようと考えていたのです。</p>
<p>七世紀のはじめ太子は大和（奈良県）の斑鳩の地に法隆寺を建てました。</p>
<p>寺を建てたばかりでなく仏教の研究にも力を入れ天皇にお経の話をしたり、三経義疏（さんぎょうぎしょ）というお経のことを説明してそれを自分のものにしていたということがわかります。</p>
<p>仏教の平和を尊ぶ考えは摂政としての太子が最も大切にしたものでした。</p>
<p>推古天皇以前にも蘇我氏の建てた法興寺のように寺はありましたが、聖徳太子は皇室でも寺を建てて仏教を広めようとしました。</p>
<p>寺を建てるにはその建築や彫刻などにたくさんの費用がかかります。<br />
しかし、寺を建てるということはその頃としては立派な文化事業でした。</p>
<p>ですから皇室が寺を建てるということは皇室が文化を推し進めているということになり、都合がよかったわけです。</p>
<p>聖徳太子の建てた法隆寺はその優れた建築や彫刻で有名ですが今残っている建物は670年に一度焼けてから建て直したものです。</p>
<p>その金堂（寺の中心となる仏を祀っておく建物）は七世紀の終わり頃に、また五重塔は八世期の初め頃に建て直されたものと思われます。</p>
<p>しかし、その建て方は焼ける前のものとほぼ同じだと言われていました。<br />
ですから今の法隆寺を見れば大体の聖徳太子の建てた法隆寺を思い浮かべることが出来るのです。</p>
<p>また、例え建て直したものだとしてもこれが世界一古い木造建築であることは確かです。<br />
さらに寺にある釈迦三尊像や薬師如来像・四天王像などの彫刻もその頃につくられたものでしかも第一級の美術品です。</p>
<p>その頃の豪族や人民は聖徳太子が建てた法隆寺を見て文化を導くものは皇室だという感じをはっきりともったことでしょう。</p>
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		<title>聖徳太子とは？　冠位十二階と憲法十七条とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/686</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 19 Jan 2014 03:38:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は聖徳太子について、日本の歴史を紹介します。 推古天皇は位に就いた次の年に甥の聖徳太子を皇太子にたてました。 また摂政として政治を行わせるようにしました。 摂政というのは中国で始まった制度で天皇の代わりに政治を行う役 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は聖徳太子について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>推古天皇は位に就いた次の年に甥の聖徳太子を皇太子にたてました。<br />
また摂政として政治を行わせるようにしました。</p>
<p>摂政というのは中国で始まった制度で天皇の代わりに政治を行う役です。<br />
天皇がいるのに何故わざわざ摂政などという役をつくったのでしょう。</p>
<p>これは天皇が直接政治を行うと勢いの強い蘇我氏と衝突しそうになるからです。<br />
そうなっては天皇の位が危なくなります。</p>
<p>そこで天皇は直接政治を行わずに皇太子が政治の責任を負うようにしたのだと考えられています。<br />
聖徳太子は優れた人で生きている内から太子についての伝説のような話が生まれたくらいです。</p>
<p>太子が摂政になった頃は蘇我氏の勢いが盛んになときでしたから、うっかりしていると皇室でも安心していられないという有様でした。</p>
<p>太子はこのような皇室の衰えを見て天皇を中心とする皇室の勢いをしっかりと固めようと決心したのです。</p>
<p>これまでの大和朝廷の大王を天皇と書き表すようになったのも太子の時代からでした。<br />
皇室の勢いを固めるためにはまず、太子の手足のように真面目に尽くしてくれる役人が必要となります。</p>
<p>そこで、太子はそういう役人をつくりだすために冠位十二階という制度を決めました。<br />
603年のことです。冠位十二階制度というのは12の冠によって位をわける制度のことです。</p>
<p>12の位とは、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智のことです。</p>
<p>この冠にはそれぞれ色がついていて、それを被っているとその人がどの位なのかすぐわかるようになっています。</p>
<p>これを授けて豪族を新しい役人に仕立てようと考えたわけです。<br />
また、家柄を表す姓（かばね）が動かせないのに比べてこの制度では努力や手柄次第で位が上がれることになっていました。</p>
<p>つまり、優れた人なら姓が低くてもどんどん出世できるようにしたのです。<br />
冠を授けられた人はもっと高い位に昇るために一生懸命働くことになるので太子の狙いは成功したわけです。</p>
<p>こうして太子には忠実な役人を次第に増やしていきました。<br />
これは突き詰めて言えば天皇に忠実な役人が増えていくことになります。</p>
<p>けれども蘇我氏のような強大な豪族が冠位をもらったかどうかは怪しいものです。<br />
強い豪族は冠位をもらって天皇の役人になることを臨まなかったに違いありません。</p>
<p>全ての豪族に冠を授けて天皇の勢いに従わせるということは、その頃ではまだ難しかったようです。<br />
太子はまた、皇室の勢いを強めるために604年、憲法十七条をつくりました。</p>
<p>これは太子が豪族たちに皇室の尊いことなどを教え聞かせたものです。</p>
<p>例えば天皇の命令を受けたら必ずかしこまって聞くようにとか、国に2人の主人はいない、土地や人民はみな天皇のものだから勝手に税をとってはいけないなどと書いてあります。</p>
<p>また、役人はよく働くようにとか、人々を使うときはその人たちのことを考えて気をつけるようになどとも書いてあります。</p>
<p>仏教の教えも言っていて、仏・法・僧の三宝を大切にしなさいなどとも書いてあります。<br />
憲法十七条は憲法とは言っても今日の憲法とは違います。</p>
<p>何かの決まりをつくるというよりは教えを聴かせるという気持ちが強いのです。<br />
しかし、古い時代の法律には多かれ少なかれ教え聴かせるという気持ちが入っているものです。</p>
<p>だから、憲法十七条も法律の一種と考えてもよいでしょう。<br />
どちらにしても憲法十七条は豪族たちのわがままを抑えるのに役にはたったようです。</p>
<p>もちろんこれは聖徳太子が優れた人だったせいもあります。<br />
なお、憲法の文章は儒教などの中国の本や仏教のお経から色々な言葉を借りてきて上手に組み合わせてあります。</p>
<p>これを見ると太子が実にたくさんの本をよく読んで頭にいれていたことがわかります。<br />
また、大陸の文化が大量に日本に流れこんでいたこともわかります。</p>
<p>このように大陸文化が流れ込んできたからこそ飛鳥文化も生まれることができたのでしょう。<br />
聖徳太子は架空の人物であるという説があります。</p>
<p>聖徳太子はイエス・キリストのことではないのかという説があります。<br />
馬小屋で生まれたりしたなど類似のエピソードがあるみたいです。</p>
<p>聖徳太子だと言われている肖像画も本人ではないようです。<br />
服装が当時のものとは違うてんやヒゲのあるなしで疑わしいところがあります。</p>
<p>あの肖像画の正体は坂本龍馬のことだという説もあります。</p>
<p>聖徳太子は今で言うとある意味、宮本武蔵のようなニュアンスに近いかなと思います。<br />
バガボンドを読めば宮本武蔵が美化されていて共感や憧れ、尊敬などを覚えるでしょう。</p>
<p>同様に聖徳太子も後の時代に起こった「太子信仰」の中で作られた創作の逸話により美化されているのかもしれませんね。<br />
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