﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>豊臣秀吉 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<atom:link href="https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/tag/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 May 2019 21:44:20 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.3</generator>

<image>
	<url>https://wakariyasuku-rekishi.com/wp-content/uploads/2018/07/cropped-rekishi-favi-32x32.png</url>
	<title>豊臣秀吉 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/><site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">148332681</site>	<item>
		<title>織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係とは？ キリスト教の取り締まりとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/817</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 05 Jul 2014 03:43:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[キリスト教]]></category>
		<category><![CDATA[フランシスコ会]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/817</guid>

					<description><![CDATA[今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。 信長とキリスト教 信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は織田信長・豊臣秀吉とキリスト教の関係について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>信長とキリスト教</h2>
<p>信長は、生まれつき信心の出来るような人ではありませんでしたが宣教師と友達になり家来がキリスト教の信者になっていくのを平気で見ていました。</p>
<p>なぜなら、信長にとって本願寺や、廷賦寺のような大きな仏教勢力は天下を統一していく上でたいへん邪魔になりました。</p>
<p>そこで信長は、この仏教勢力と対抗させるためにキリスト教を認めたのです。</p>
<p>それに、その頃の僧たちが行いの良くないのに比べて宣教師たちは、不自由をしのんで立派に教えを広めていました。</p>
<p>このような宣教師の態度を見てすっかり感心しました。</p>
<p>しかし何よりも信長をキリスト教に惹きつけたのは宣教師と外国貿易とが固く結びついていることでした。</p>
<p>宣教師たちはキリスト教を許せば貿易船がやってくると言って大名たちから、キリスト教を広めてもよい許しを得ていました。</p>
<p>そこで、信長も、宣教師がくれば外国の貿易船も来て時計や望遠鏡など、いろいろ珍しい品物を手に入れることが出来るしまた、西洋の進んだ知識も取り入れることが出来ると考えました。</p>
<p>このように、天下統一の大事業を進めて信長にとって、キリスト教の勢力など問題になりませんでした。<br />
宣教師たちは九州から近畿地方にかけて自由に旅行し、教えを広めました。</p>
<p>そして、至るところに大小の天主堂ができました。</p>
<p>また、安土や有馬(神戸市)長崎・府内(大分市) には学校がつくられ、そこでは、ラテン語やポルトガル語・油絵・エッチング(銅版画)や時計の造り変えまで教えていました。</p>
<p>信長の死んだ1582年(天正10年) には信者の数は、10万人にもなっていたと言われます。</p>
<h2>秀吉とキリスト教</h2>
<p>信長の跡を継いだ秀吉も宣教師と親しく交わり天主堂を訪ねて、西洋音楽を聞いたり牛肉やぶどう酒のごちそうになったりしました。</p>
<p>秀吉の周りには小西行長(オーガスチン)・黒田孝高(シメオン)高山右近(ジュスト)・内藤如安(ジョアン)など多くのキリシタン大名がおり、また城内にも熱心なキリシタンが何人かおりました。</p>
<p>秀吉は1587年(天正15年)島津征伐のために九州へ行って見て驚きました。<br />
長崎の町は、全く、教会のものとなり町の周りには、砦や堀まで築いてあったのです。</p>
<p>秀吉は、このようなキリスト教の勢力の盛んな有様を見てこれは、油断が出来ないと思いました。<br />
そう思うと、気になることがいろいろ出てきました。</p>
<p>特に、キリスト教の教えや習わしは封建社会を整えていく上で大きな妨げとなりました。</p>
<p>例えば、封建社会でもっとも重んじられた主従の関係もキリスト教では、神(デウス)に対する尊敬の方が重んじられたのです。</p>
<p>そのために、信者が領主の命令通りにならないということがしばしばありました。<br />
この年(1587年)秀吉は博多の宿で、突然キリスト教を禁じる命令を出しました。</p>
<p>宣教師たちは、20日以内に日本を立ち退かなければいけないことになりましたが実行は無理でした。<br />
秀吉にすればキリスト教は禁じても儲けの多い貿易は止めたくありませんでした。</p>
<p>信者は、それに漬け込んで宣教師をかばい、宣教師たちはこっそり、教えを広め続けていたのです。</p>
<p>その上、1584年(天正21年)ルソンから、スペインの商船が平戸について以来、新たにスペイン系のフランシスコ会の宣教師が来るようになりました。</p>
<p>秀吉は、ルソンを通してスペインと貿易をしようと思っておりましたので、このフランシスコ会の宣教師たちに布教(教えを広めること)の許可を与えました。</p>
<p>こうなると秀吉のキリスト教禁止の命令はあっても無いようなことになりました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">817</post-id>	</item>
		<item>
		<title>太閤検地とは？ 封建制度の世の中で、一番大切な産業は農業だった？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/797</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 13:28:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[太閤検地]]></category>
		<category><![CDATA[検地]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[封建制度]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/797</guid>

					<description><![CDATA[今回は太閤検地について、日本の歴史を紹介します。 封建制度を整える 織田信長や豊臣秀吉が推し進めた全国の統一は、ただ大名たちを武力で従わせたというだけではありません。 封建制度をしっかりと完成させるために、いろいろな新し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は太閤検地について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>封建制度を整える</h2>
<p>織田信長や豊臣秀吉が推し進めた全国の統一は、ただ大名たちを武力で従わせたというだけではありません。</p>
<p>封建制度をしっかりと完成させるために、いろいろな新しい政治を行いました。<br />
鎌倉時代や室町時代には、武士が政治の中心でしたが、まだ天皇や公家にも政治のうえでの力が残っていました。</p>
<p>しかし、信長や秀吉の政治では、それがすっかり取り払われ本当に武士だけが政治を動かすようになり、天皇や公家は、昔からの文化を伝える飾りものにされてしまったのです。</p>
<h2>太閤検地とは？</h2>
<p>封建制度の世の中で、一番大切な産業は農業です。<br />
武士は農民が納める年貢米をお金に替えて暮らしを立てています。</p>
<p>ですから、封建制度をしっかりと作り上げるにはなるべく、たくさんの年貢米を取立てられるようにしなければなりません。</p>
<p>このために行われたのが検地という土地調べです。</p>
<p>検地では、田畑の広さや、そこから米がどれたけ採れるか、またその土地を持っている農民は誰かを、詳しく調べて帳面に書きつけます。</p>
<p>これを検地帳といいます。</p>
<p>そしてこの帳面をもとにして農民に年貢米や、領主のための力仕事などが割り当てられました。<br />
それでは、検地によって農民の暮らしは、どう変わったのでしょうか。</p>
<p>農民が納める年貢は、取れ高の半分からそれ以上という高い割合になり、この年貢が納められないと隣り近所や、村の人たち全体の責任になるというように取り締まりが厳しくなりました。</p>
<p>しかし、一方農民に都合のよいこともありました。</p>
<p>これまで、村の中には貧しい百姓たちに農地を耕かさせていた地主がいましたが、検地によって、その農地を耕している者が土地の持ち主として認められたのです。</p>
<p>このため、村の仕組みも変わってきました。</p>
<p>秀吉が行った、このような検地を太閤検地と呼んでいます。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">797</post-id>	</item>
		<item>
		<title>文禄の役とは？ 慶長の役とは？ 朝鮮への出兵したのはなぜ？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/796</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 13:02:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<category><![CDATA[文禄の役]]></category>
		<category><![CDATA[慶長の役]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/796</guid>

					<description><![CDATA[今回は文禄の役・慶長の役について、日本の歴史を紹介します。 文禄の役 関東・東北地方の平定が済むと国内の戦争は、ほぼ治まりました。 しかし秀吉は、その翌年、関白の職を甥の秀次に譲り、またまた戦争の準備を大名たちに命じまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は文禄の役・慶長の役について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>文禄の役</h2>
<p>関東・東北地方の平定が済むと国内の戦争は、ほぼ治まりました。<br />
しかし秀吉は、その翌年、関白の職を甥の秀次に譲り、またまた戦争の準備を大名たちに命じました。</p>
<p>朝鮮半島に出兵するためです。</p>
<p>では秀吉は、なぜ国外にまで出兵しょうとしたのでしょう。<br />
彼は英雄の持ちやすい大きな夢を、早くから持っていました。</p>
<p>朝鮮や明を責めとって都を北京に移し天皇をはじめ、自分も大名たちも大陸に渡って、大国家を造ろうという計画だったのです。</p>
<p>それが出来ないとしても、室町時代の末から途絶えていた明との貿易だけは、再び開きたい考えでした。</p>
<p>しかし、これは町が認めようとしないので秀吉は譜面に思っていたのです。<br />
また国内の統一がすんで武士の気分が緩むのを引き締めようという目的もあったでしょう。</p>
<p>このような訳で、まず朝鮮を攻めることになったのです。</p>
<p>秀吉は九州の名護屋(佐賀県)を根拠地に定め1592年(文禄元年)四月に、15万8千もの大軍で朝鮮に攻め込みました。</p>
<p>これを文禄の役といいます。</p>
<p>日本軍は、鉄砲などの秀れた武器な多くもち、また朝鮮はこのころ国内の政治が乱れていたので、はじめは勝ち戦が続きました。</p>
<p>都の京城も落とし、加藤清正の軍は豆満江を越えて満州にまで攻め込んだほどでした。</p>
<p>しかし、そのうちに明の軍が助けに来たり朝鮮の民衆も日本軍に反抗して戦いはじめたので戦争は上手くいかなくなりました。</p>
<p>さらに日本の海軍は、明の海軍のために、しばしば敗れ、出陣した武士たちの間にも戦争を嫌がる者が出始めたので秀吉もとうとう仲直りをすることになりました。</p>
<h2>慶長の役</h2>
<p>ところが、その会議のとき明の使者の持ってきた手紙が秀吉を怒らせました。<br />
このため秀吉は、1597年(慶長二年)再び朝鮮に大軍を送りました。</p>
<p>これが慶長の役です。</p>
<p>しかし、今度の戦争は上手くいかず日本軍は各地で、たいそう苦しい戦いを続けなければなりませんでした。</p>
<p>そうしている内に、翌年の春秀吉は病気で死にました。<br />
このため日本軍は、戦いを止めて朝鮮から引き上げ、ようやく戦争は終わりました。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">796</post-id>	</item>
		<item>
		<title>豊臣秀吉とは？ 山崎の合戦とは？ 全国統一までの流れとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/795</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jun 2014 12:18:55 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[安土・桃山時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[豊臣秀吉]]></category>
		<category><![CDATA[大阪城]]></category>
		<category><![CDATA[山崎の合戦]]></category>
		<category><![CDATA[聚楽第]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/795</guid>

					<description><![CDATA[今回は豊臣秀吉とは？　山崎の合戦と統一の完成について、日本の歴史を紹介します。 山崎の合戦 羽柴秀吉は、備中国(岡心県の一部)高松城の毛利軍を水責めにしているとき信長が本能寺で殺された知らせを受け取りました。 秀吉は、こ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は豊臣秀吉とは？　山崎の合戦と統一の完成について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<h2>山崎の合戦</h2>
<p>羽柴秀吉は、備中国(岡心県の一部)高松城の毛利軍を水責めにしているとき信長が本能寺で殺された知らせを受け取りました。</p>
<p>秀吉は、この事件が毛利軍に知られないうちに素早く仲直りをし、軍を引き返して明智光秀を京都の山崎で討ち滅ぼしました。</p>
<p>秀吉が、他の大名に先駆けて光秀を滅し主君の敵をとったりで、その地位は自然に重くなりました。<br />
これを妬んだ柴田勝家などの信長の部下の大名と、秀吉の間に争いがおこりました。</p>
<p>秀吉は勝家を滅し、反対の大名たちを抑えて信長の残した天下統一の仕事を受け継ぎ推し進めることになりました。</p>
<h2>大坂城</h2>
<p>秀吉は、統一の仕事を進める根拠地として1582年から、もと石山本願寺のあった大阪に信長の安土城より、もっと立派な城を建て初めました。</p>
<p>大坂は近畿地方の中心にあり京都にも近く、瀬戸内海を通って中国・四国・九州などの西国地方との連絡には非常に重要な位置になっています。</p>
<p>ここに気づかれた大阪城は、城の周りが、およそ13キロメートル(今の大阪城の4倍、皇居の3倍ほど)もあり九層の天守閣がそびえ立っていました。</p>
<p>城の中も、金銀や外国から輸入した贅沢な布などを、ふんだんに使って飾られ見る人の目を見晴らせる、素晴らしいものでした。</p>
<h2>統一の完成</h2>
<p>充分に力を蓄えた秀吉は、大軍を動かして、まだ命令に従わない地方を討ちました。</p>
<p>1583年(天正22年)には長曽我部元親を攻めて四国を従わせ、1587年には島津義久を攻めて九州を平定しました。</p>
<p>最後に残ったのは関東の北条氏でしたが、これも1590年には滅ぼされ、秀吉は信長が死んでから、わずか8年で全国の統一を成し遂げたのです。</p>
<p>秀吉の戦争の仕方は、信長とも違っていました。</p>
<p>関東の北条氏を攻めたときは20万の大軍で取り囲み、食料として3万トンの米を小田原に近い港に集めたといわれます。</p>
<p>そのうえ、黄金を馬10頭に積み東海地方の穀物を買い占めました。<br />
これに対して北条軍は、わずか3、4万の軍勢で城に立てこもったのですから、敵うはずがありません。</p>
<p>このように秀吉は、段違いに秀れた戦力で敵を責め立てましたが、降伏した者には割合い緩やかでした。</p>
<p>長曽我部氏も島津氏も自分のもとからの領地は、そのまま認められました。</p>
<p>このようなところが、残酷なほど厳しかった信長と違い秀吉が全国の統一を成し遂げた原因の1つであったともいえます。</p>
<p>1585年(天正二二年)に秀吉は関白となり、その翌年には太政大臣になりました。<br />
太政大臣は、朝廷で一番高い身分です。</p>
<p>尾張(愛知県の一部)の農民の子に生まれた秀吉は、ついに日本全国の支配者になったのです。</p>
<p>秀吉はまた、京都に聚楽第というたいそう立派な屋敷を建てました。<br />
そして、1588年(天正一六年)には後陽成天皇をこの屋敷に招き同時に全国の大名たちも集めました。</p>
<p>このとき秀吉は「子孫に至るまで皇室を大切にし、また関白の命令には、どんなことでも従います」と誓わせました。</p>
<p>身分や家柄を貴んだ封建制度の時代に実力一つで身をたてた秀吉は天皇を上にいただいて諸大名を抑えようとしたのです。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">795</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
