﻿<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>貴族 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<atom:link href="https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/tag/%E8%B2%B4%E6%97%8F/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 May 2019 18:10:30 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.3</generator>

<image>
	<url>https://wakariyasuku-rekishi.com/wp-content/uploads/2018/07/cropped-rekishi-favi-32x32.png</url>
	<title>貴族 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
	<link>https://wakariyasuku-rekishi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/><atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/><atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/><site xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">148332681</site>	<item>
		<title>平安時代に武士が生まれたのいつ頃？　豪族と武士との関係とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/731</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Feb 2014 00:34:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[武士]]></category>
		<category><![CDATA[豪族]]></category>
		<category><![CDATA[貴族]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/731</guid>

					<description><![CDATA[平安時代に武士が誕生したころについて、日本の歴史を紹介します。 12世紀にできた本に、「新猿楽記」というのがあり、この中に田中豊益という大地主の話が載っています。 (田中豊益は大百姓である。農業より他には、何もしない。  [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>平安時代に武士が誕生したころについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
12世紀にできた本に、「新猿楽記」というのがあり、この中に田中豊益という大地主の話が載っています。</p>
<p>(田中豊益は大百姓である。農業より他には、何もしない。<br />
前もってその年の気候な考え、スキやクワやカラスキも使っくいる。</p>
<p>つつみやほりや用水路をつくるときも、種まきや土おこしや田植えのときも、農民や手伝い女を上手に指図する。</p>
<p>田には・わせ・おくて・もち米などをつくり、畑には、大豆・小豆・ササゲ・粟・キビ・蕎麦・胡麻などをつくっている。</p>
<p>とれ高は、年ごとに増え、一粒の種から、万倍の実りを取り入れ、種まきから取り入れまで、少しの手違いもない)田中豊益のような優れた大地主は、この頃には、至るところに出てきました。</p>
<p>これらの地主の田や畑は、その地主の名前をとって、「何々名」と呼ばれましたので、彼らのことを、名主と呼ぶようになりました。</p>
<p>また、名主の内でも特に、たくさんの田畑なもち、大勢の農民を使い、豪族と呼ばれるような勢いの強い者もあらわれました。</p>
<p>豪族は下に、幾人もの名主を従えていました。</p>
<p>朝廷の命令で、地方へ行った国司の中にも、そのままその土地に住みついて、豪族になるものもあらわれました。</p>
<p>平将門や藤原秀郷などがそれです。<br />
また、古くから地方に住んでいる古い家柄のもので、豪族になるものもありました。</p>
<p>しかし、世の中は、ますます物騒になるばかりです。<br />
豪族たちは、泥棒の用心もしなければなりません。</p>
<p>そのうえ隣の豪族が、自分の土地を広げようと、無理に、攻め込んでくることもありました。</p>
<p>こういうときに、実力で手向かうために豪族たちは、自分の手下の農民の中から、カの強いもの、気の利くものなどを選んで、武器を持たせました。</p>
<p>これが郎等と呼ばれる人たちです。<br />
豪族たちは、何か争いがあると、20人、30人もの郎等を引き連れて、戦うようになりました。</p>
<p>このような豪族やその家来を、武士といいます。</p>
<h2>貴族と芋粥</h2>
<p>都のある貧乏な貴族が、「芋粥を腹いっぱい食べてみたい」と言いました。</p>
<p>これを聞いた藤原利仁にという敦賀(福井県)の豪族が、自分の国へこの貴族を連れて来ました。<br />
利仁の家に泊まった貴族は、夜中に１人の男が、屋敷の裏山で大声をあげて叫んでいるのを聞きました。</p>
<p>「この近所の家来ども、よく聞け！　明日の朝早く、切りロ三寸(約9センチ)、長さ五尺(約150センチ)の山芋を、一本ずつ持ってこい」と叫んでいるのでした。</p>
<p>よく朝、貴族が起きてみると、大きな山芋が、のきに届くほどたくさん積んであり、20人ほどの男や女が大釜で、芋粥を作っていました。</p>
<p>貴族はこれを見ただけで、腹がいっぱいになり、小さな茶碗に一善しか食べられず、利仁に割られました。</p>
<p>「今昔物語集」という本に書かれている話です。</p>
<p>豪族がどんなにたくさんの家来を持っていたか、また、その勢いが強かったかがわかりますよね。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">731</post-id>	</item>
		<item>
		<title>平安時代の貴族の衰え！広まる迷信とは？武士の世に変わっていく流れとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/729</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 02 Feb 2014 23:21:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[平安時代]]></category>
		<category><![CDATA[貴族]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/729</guid>

					<description><![CDATA[今回は平安時代の貴族の衰えと貴族の生活と 迷信について、日本の歴史を紹介します。 あれほど盛んであった貴族の勢いも、やがて衰えるときがきました。 その一番大きな原因は、貴族が怠け者になってしまったことでしよう。 貴族たち [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は平安時代の貴族の衰えと貴族の生活と<br />
迷信について、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script><br />
あれほど盛んであった貴族の勢いも、やがて衰えるときがきました。<br />
その一番大きな原因は、貴族が怠け者になってしまったことでしよう。</p>
<p>貴族たちは、荘園からの収入で贅沢な暮らしができました。<br />
文化が進んだのも、そのおかげです。</p>
<p>しかし、政治の仕事は、下のものに任せきりでした。<br />
文化も生活を楽しむための文化ばかり進み、物の生産を高める技術のほうは、あまり進みません。</p>
<p>また、宮中での仕事といえば、毎年繰り替えされる年中行事を行うだけです。<br />
その上、貴族の中でもそれぞれの家筋によって、役がらがだいたい決まってしまいました。</p>
<p>例えば、摂政や関白には、藤原氏北家の中でも藤原道長の子孫だけ、文章博士(大学の詩や歴史の先生) には大江氏と常原氏、外記(書記役)には中原氏、医者には和気氏と丹波氏という具合です。</p>
<p>これでは、貴族たちも努力のしがいがありません。<br />
貴族はだんだん気力を失い怠け者になり、迷信深くなっていきました。</p>
<p>平安時代の貴族たちは、迷信に捉われながら毎日の生活を送っていました。<br />
貴族たちは、日柄の良い悪いによって、朝廷へ出勤したり家に閉じこもったりしました。</p>
<p>このように、日柄が悪くて家に閉じこもることを「ものいみ」といいます。</p>
<p>その日は、家の門を閉め、ものいみと書いた札を立てて、人の出入りな禁じました。</p>
<p>また、ものいみには、少しは人にあってもよい、軽いものいみと、絶対に人にあってはならない、思いものいみとがありました。</p>
<p>重いものいみの日には、どんなに大切な用事で人が訪ねてきても、あいませんでした。<br />
もし、ものいみの日に人にあえば、大きな災難を受けると信じていたのです。</p>
<p>天皇や摂政・関白のような人のものいみの日などは、政治が出来た異様な有様でした。<br />
迷信深くなればなるほど、ますます、自分頼りなくなって、仏や神に頼るようになります。</p>
<p>そのため、天台宗や真言宗の寺は、たくさんの貴族たちからお祈りを頼まれて、ますます、繁盛しました。</p>
<p>そして、繁盛する寺は荘園も多くなり、僧もたくさん集まりました。</p>
<p>寺は、自分の勢力を守るために身分の低い僧に武術を習わせたり、荘園の農民を兵士にしたてたりしました。</p>
<p>僧兵というのは、こうして生まれました。<br />
寺は、貴族が神や仏を頼りにしているのをよいことにして、だんだんわがままを言い出すようになりました。</p>
<p>そのわがままな貴族がきいてくれないと、寺にある鎮守の神のみこしを僧兵たちにかつがせて、京都に暴れこませました。</p>
<p>貴族たちは、理屈に合わないと知りながら、神のみこしと僧兵の勢いを恐れて、寺の言うことを聞き入れました。</p>
<p>そればかりではありません。<br />
僧たちは、お互いに喧嘩をし、戦までするようになりました。</p>
<p>特に、比叡山の延寺と、延暦寺からわかれた大津の園城寺(三一井寺)との喧嘩はものすごく、園城寺はこの喧嘩のために、何回も焼き討ちに合いました。</p>
<p>人を助け、世の中を救うはずの僧たちが、かえって人を苦しめ、世の中をおかしくするのです。<br />
それでも、貴族たちは何もできません。<br />
「世の末」が来たと言って、嘆いているばかりです。</p>
<p>このように、気力を失くした頼りない貴族の世の中がやがて若々しい新しい力をもった武士の世の中に、変わっていったのも、当然のことと言えますね。</p>
<p>十世紀の中頃、右大臣藤原道長の祖父が書きのこした子孫への戒めを見ると、平安時代の貴族が、いかに迷信深かったかがわかります。</p>
<p>それには、守るべきこととして、次のようことが書かれています。<br />
「朝起きると、まず自分の星の名を低い声で七回唱えよ。</p>
<p>(その頃、人は生まれつき北斗七星の内のどの星かに自分の運命が支配されていて、その星をまつれば、幸福になれると信じていた。)</p>
<p>次に歯をみがき、手を洗って西に向かい仏名(仏の名)を唱え、また、普段信仰している神に祈れ。<br />
次に機能の日記をつけてから、粥を食べ、髪を櫛でとく。<br />
髪をとくのは、男なら三日に一度でよい。</p>
<p>次に手足の爪を切るが、丑の日には手の爪、寅の日には足の爪を切れ。<br />
日を選んで、だいたい五日目ごとに風呂に入れ……」</p>
<p>だいたい、こんな具合です。<br />
何から何まで、迷信に支配されている様子がよくわかりますね。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">729</post-id>	</item>
		<item>
		<title>奈良時代の都の生活・暮らしとは？　お金がつくられた？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/702</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 18:51:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[貴族]]></category>
		<category><![CDATA[和同開珎]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/702</guid>

					<description><![CDATA[今回は奈良時代での都の生活・暮らしについて、日本の歴史を紹介します。 都には、・役人や坊さんばかりでなく、商人や手工業をする人も、たくさん集められました。 町の東西には賑やかな市がたちました。 左京に東市、右京に西市が、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良時代での都の生活・暮らしについて、日本の歴史を紹介します。<br />
<script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WPー上改 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="3914141462"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<p>都には、・役人や坊さんばかりでなく、商人や手工業をする人も、たくさん集められました。<br />
町の東西には賑やかな市がたちました。</p>
<p>左京に東市、右京に西市が、おのおの八条の地に開かれました。<br />
市の広さは、おのおの東西一七四メートル、南北二六一メートルもあり、多くの商人が市に集まり、地べたにいろいろな商品を広げて売っていました。</p>
<p>商品は米・麦・大豆などの穀類、大根・つけ菜・栗・柿などの野菜や、果物類、塩・酢・味噌・油などの調昧料、その他、筆・墨・紙・鍋・ひつ・鎌・薪・炭などの雑貨類、武器・馬具・玉・鍵などに至るまで、様々なものがありました。</p>
<p>また、絹や麻などの織物は、種類も多くあったことは、次の歌からも、伺われます。</p>
<p>西の市にただひとりいでて目ならず<br />
買いにし絹の商じこりかも</p>
<p>(ひとりで西の市にきて、絹を買おうとしたら、あまりにいろいろあるので、目移りがして、つい詰まらない品物を買ってしまった。)</p>
<p>また、座って売る人ばかりでなく、歩きながら物を売る商人もいました。</p>
<p>市場での買物には、お金が支払われました。<br />
日本で初めてお金が造られたのは、708年(和銅元年) だと言われます。</p>
<p>これは和同開珎(和同開珎とも読む)と名づけられ、銀と銅の両方が造られましたが、銀銭はまもなく廃止されました。</p>
<p>和同開珎から、958年(天徳二年)の乾元大宝まで、12種銭が造り代えられたので、この間のお金を、皇朝十二銭といっています。</p>
<p>和同開珎がでた始めの頃、人々は銭の使い方がわからず使おうとしませんでした。<br />
そこで、政府は銭を貯めた人に位をあたえたり、役人の給料に物でなく銭をあたえたりしました。</p>
<p>また政府は、田の売買には必ず銭を使うよう命令しました。<br />
こうして都やその周りの土地で、銭が使われるようになりました。</p>
<p>ところが、悪い人が勝手に銭を造って、政府を困らせるようなことがおきてきました。<br />
政府はこれらの人々を、厳しく罰しましたが、中々なくなりませんでした。</p>
<p>そのために、お金の値打ちが下がり、物の値段がどんどん上がったので、人々はたいへん困りました。<br />
また、地方の有力者のなかには、多くの銭を蓄え、政府や寺に寄付して高い位をもらう者もあらわれてきました。</p>
<p>奈良時代の都の人ロは約20万人位いたようでさす。<br />
役人だけでも一万人、その家族や召し使い・奴婢(どれい)また全国から集められた衛士(兵士)や仕丁(税金のかわりに役所で働かさされる人)も何万人といたはずです。</p>
<p>坊さんも数千人いました。</p>
<p>そのほか商売なする人や大工・職人もたくさんいました。<br />
なお当時の日本の全人口は5、6百万人と推定されます。</p>
<p>都に住む多くの人々のなかで、貴族は、とくに贅沢な暮らしをしていました。<br />
広々とした都大路を、美しい着物を着た貴族たちは、馬に乗ったり、ゆうゆうと歩いたりしていました。</p>
<p>ももしきの大宮人の暇あれや<br />
梅をかざして今日も集える</p>
<p>(宮廷の貴族たちは、暇なのだろうか、今日も頭に梅の枝をさして集まっている。)</p>
<p>この歌からも、当時の貴族たちの華やかな生活を送っている様子が、目に浮かんできます。<br />
奈良時代には、朝廷をはじめ民間でも、毎年決まった日に、決まった行事が行われるようになりました。</p>
<p>正月の元日には、役人たちは年賀のために宮中へいきました。<br />
同じ正月の半ばには、人々が歌を歌いながら足拍子を鳴らして歩く、踏歌の節会が催されました。</p>
<p>そのほか、三月には曲水の宴、四月に仏生会、五月にしょうぶの節句、七月に相撲や、七夕、お盆などの行事が続きました。</p>
<p>曲水の宴は、庭に細い水の流れをつくりそれに酒の入った盃を流し、盃が自分の前にこないうちに、歌をつくるあそびです。</p>
<p>また仏生会というのは、シャ力の誕生日を祝う花まつりです。<br />
この時代には、貴族たちの間で、唐から伝わったあそびが、盛んに行われました。<br />
青年らしい、勇ましい遊戯として、・打球がありました。</p>
<p>馬に乗った競技者が2組にわかれ、馬上から杖を使って、まりを自分のゴールに入れる遊戯です。<br />
室内の遊戯としては、碁・すごろく・弾碁（たぎ）・投壷（とうこ）などがありました。</p>
<p>碁は、今と同じように、縦横19の・線を入れた361の目の上で黒白の石を戦わせるのです。</p>
<p>すごろくは、長方形の盤の中央に太い線と左右に21の目を入れ、その上に黒白おのおの15個の石を置き、2つのさいを振り、出た数だけ石を進め、早く敵陣にいれた方が勝ちです。</p>
<p>弾碁は、すごろくの盤に似た21の目の盤の上に、数個の黒白の石を撒き散らしておき、指で弾いて、当て合いをするあそびです。</p>
<p>投壺は、左右に耳のついた壺に少し離れたところから矢を投げこんで、数を争う遊戯です。</p>
<p>これらの遊戯は今でも遊んだりしますよね。</p>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><!-- 日本の歴史WP下 --><ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="8503767943"
     data-ad-format="rectangle"
     data-full-width-responsive="true"></ins><br />
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
<div class="m30-b"></div>
<p><script async src="//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script><br />
<ins class="adsbygoogle"
     style="display:block"
     data-ad-format="autorelaxed"
     data-ad-client="ca-pub-4809320509292962"
     data-ad-slot="6073045728"></ins><br />
<script>
     (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
		<post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">702</post-id>	</item>
	</channel>
</rss>
