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	<title>足利尊氏 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>足利尊氏 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>南北朝時代とは？　足利尊氏と天龍寺との関係とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/761</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Feb 2014 00:58:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[南北朝時代]]></category>
		<category><![CDATA[足利尊氏]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は南北朝時代について、日本の歴史を紹介します。 尊氏に押し込められた後醍醐天皇は、隙を見て京都を抜け出し、吉野(奈良県)に移って、ここに皇居を定めました。 この結果、吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は南北朝時代について、日本の歴史を紹介します。<br />
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尊氏に押し込められた後醍醐天皇は、隙を見て京都を抜け出し、吉野(奈良県)に移って、ここに皇居を定めました。</p>
<p>この結果、吉野の朝廷(南朝)と、尊氏の建てた京都の朝廷(北朝)とニつの朝廷が出来てしまいました。<br />
そして、これからおよそ60年間、ニつの朝廷は争い続けるのです。</p>
<p>そのため、この時代を南北朝時代ともいいます。<br />
しかし、これは実際には、南朝と北朝というニつの朝廷の間の戦いではないのです。</p>
<p>つまり、天皇中心の公家政治に戻そうという古い力と武家治を推し進めようという新しい力の戦いだったのです。</p>
<p>1336年(建武三年)足利尊氏は建武式目を定め二年後には、征夷大将軍になって幕府を開きました。<br />
そして、足利氏の幕府は勢いを強めていったのです。</p>
<p>それに反して、南朝の方では、新田義貞・北畠顕家らが次々と戦死し後醍醐天皇も吉野でなくなり、その勢いが振るわなくなりました。</p>
<p>しかし、そののち南朝側も、かなり勢いを取り戻しました。</p>
<p>というのも、吉野では北畠親房や楠木正成の子の正行が、南朝のために力を尽くし、また、九州では懐良親王が活躍したからです。</p>
<p>しかも、丁度そのころ、尊氏と直義との仲が悪くなり足利氏に内輪もめがおこりました。<br />
このような乱れに漬け込んで南朝の軍が京都の近くにまで勢いを盛り返したこともありました。</p>
<p>しかし、それも長くは続かず、頼みとする楠木正行は四条畷(大阪府)で戦死してしまい北畠親房も吉野の奥の賀名生(奈良県)で死んでしまいました。</p>
<p>そして・南朝の勢力は、吉野・熊野地力たけにしか及ばないようになってしまったのです。<br />
この南北朝の戦いに漬け込んで武士たちことに守護たちは勢いを伸ばしていきました。</p>
<p>彼らは、公家や神社・寺院などの荘園を勝手に奪い取り自分の預かっている国の武士たちを家来にして、ぐんぐん勢カを伸ばしていきました。</p>
<p>これぼ、荘園の持ち主たち、つまり公家や神社・寺院にとっても困ったことでした。</p>
<p>またも足利氏にしても、困ることです。</p>
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<p>足利氏は、このような有様を抑えるためにも南朝と仲直りしたいと考えていました。<br />
そして、ついに1392年(明徳三年)、尊氏の孫の義満のとき南北朝の仲直りが出来たのです。</p>
<p>南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松会天皇へ天皇の印を表す三種の神器が譲られて、朝廷が一つにまとまりました。</p>
<p>こうして、60年近く乱れた世の中はやっと治まりました。</p>
<p>そしてこの後、朝廷や公天家は政治の上では、全く力が無くなり鎌倉時代から続いてきた、公家(天皇や貴族) と武家の政治の争いは終わって武家政治一本になったのです。</p>
<h2>足利尊氏と天龍寺</h2>
<p>太平洋戦争のころ、足利尊氏はたいへんな悪人のように言われていました。</p>
<p>というのも、尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからです。<br />
しかし、本当は気立ての優しい正直な人だったようです。</p>
<p>後醍醐天皇に背き、天皇を寂しく吉野で死なせたことが尊氏には悪いことをしたように思え、気になってならなかったのです。</p>
<p>そこで、尊氏は夢窓疎石という宗の僧と相談して天皇の魂を慰めるために天龍寺という寺を京都の嵐山の近くに建てることにしました。</p>
<p>しかし、その頃は戦いの続いた時代だったので寺を建てる費用も充分ではありません。<br />
そこで元(中国) に天龍寺船という貿易船を送ってその儲けを天龍寺建築の費用にあてたりしました。</p>
<p>また昔、褒美に貰った荘園を寄付したりしました。<br />
尊氏は夢窓疎石と2人で、天龍寺の土台工事の土運びをしたとも伝えれています。</p>
<p>今も、尊氏の描いた地蔵様の絵が残っていますが、これは、自分の犯した罪をくいて、描いたものと思われます。<br />
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		<title>建武の新政とは？ 中先代の乱とは？ 足利尊氏と新田義貞との競い合い！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/760</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Feb 2014 00:23:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[室町時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[征夷大将軍]]></category>
		<category><![CDATA[足利尊氏]]></category>
		<category><![CDATA[中先代の乱]]></category>
		<category><![CDATA[建武の新政]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は建武の新政について、日本の歴史を紹介します。 後醍醐天皇はまもなく京都に帰り公家(貴族)と武家とを一つにまとめて新しい意気込みで天皇中心の政治を行おうとしました。 次の年、年号を建武と改めたので、この新しい政治を建 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は建武の新政について、日本の歴史を紹介します。<br />
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後醍醐天皇はまもなく京都に帰り公家(貴族)と武家とを一つにまとめて新しい意気込みで天皇中心の政治を行おうとしました。</p>
<p>次の年、年号を建武と改めたので、この新しい政治を建武の新政といいます。<br />
後隠醐天皇は、摂政や関白をおかず、自ら政治を行おうとしました。</p>
<p>そのため、記録所と雑訴決断所・恩賞方という役所を設けました。<br />
記録所は一般の政治を扱うところ雑訴決断所は、主に土地についての訴えを裁判するところまた恩賞方は人々の手柄を調べ、どのような褒美を与えたらよいかを決めるところです。</p>
<p>これらの役所の役人には、公家も武家も同じように用いました。</p>
<p>また、京都を守る武者所の長官には新田義貞が征夷大将軍には護良親王がなりました。<br />
地方の国々には、国司と守護の両方をおき、これまでと同じように地頭もおきました。</p>
<p>そして、手柄のあった人々には褒美として、これらの役を与えました。</p>
<p>また、関東や東北地方には特に力を入れ、後醍醐天皇の皇子と一緒に、関東には尊氏の弟足利直義を東北には北畠親房の子の顕家をつかわして治めさせました。</p>
<p>このようにして、新政は盛んな意気込みで出発したのでした。<br />
しかしこの新政は、わずか二年半しか続かず失敗してしまいました。</p>
<p>後醍醐天皇の狙いは政治を平安時代中頃の天皇中心の政治に戻すことでした。<br />
しかし、時代は武家政治が、だんだん固まっていく方に流れていました。</p>
<p>この時代の流れを逆にして、遠い昔に戻そうとするのは元々無理なことです。</p>
<p>新政が失敗した最大の原因はここにあるのです。<br />
しかも、その他にもいろいろ原因がありました。</p>
<p>鎌倉幕府を倒すとき、味方についたものには褒美の土地をやると、天皇は約束していました。<br />
武士の中には、この褒美を目当てに味方になったものが少なくなかったのです。</p>
<p>ところが土地をやろうとしても、北条氏から取り上げた土地しかないのでとても足りません。<br />
その上、公家の方が武士に比べて、多くの土地を貰い土地の裁判でも公家の方が武士より有利でした。</p>
<p>そこで武士たちは当てが外れ新政に不満を持つようになりました。<br />
天皇は、公家と武家とを仲良く一つにまとめようと考えていました。</p>
<p>しかし、これまで長い間、睨み合ってきた公家と武家とは、そう簡単には仲良くならず、お互いに馬鹿にし合っていました。</p>
<p>しかも、同じ武士の間でも、いろいろな睨み合いがありました。</p>
<p>足利尊氏と新田義貞は、お互いに勢いを競い合いまた古い家柄の武士たちは、新しく出世した楠木正成や名和長年らを快く思っていませんでした。</p>
<p>ことに、足利尊氏は自分が征夷大沢将軍になれなかったことを不満に思っていました。</p>
<p>こうして武士たちは、足利尊氏を中心として新政に不満を持つ組と護良親王や新田義貞を中心として新政に力を合わせていこうという組との二つにわかれてしまいました。</p>
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<p>これでは新政が上手くいくはずがありません。<br />
その上、天皇は皇居をたてようとして、武士に重い税をかけました。</p>
<p>このため、武士は一層不満を抱き、もとの幕府の武家政治の方が、ずっとよかったと思うようになりました。</p>
<p>このような武士たちの気持ちを上手く掴んで征夷大将軍になろうとしたのが足利尊氏です。</p>
<p>1335年(建武二年)、北条高時の子の時行が兵をおこし鎌倉に攻め込んで、足利直義の軍を負かしてしまいました。</p>
<p>そこで尊氏は、「自分を征夷大将軍にして、関東に応援にやらせてください」と天皇に頼みましたが、天皇は許しませんでした。</p>
<p>ところが尊氏はこれを聞かず、勝手に関東へ下ってしまったのです。<br />
これを見た、新政に不満を武士たちはわれがちに尊氏についていってしまいました。</p>
<p>関東に下った尊氏は、弟の直義とカを合わせて時行の軍を破りました。<br />
この事件を中先代の乱といいます。</p>
<p>このあと尊氏は、多くの武士たちを従えて、ぐんぐん勢いを強めていきました。<br />
後醍醐天皇は、この勢いを見て、新田義貞に尊氏兄弟を討てと命令しました。</p>
<p>ところが、義貞の軍は、箱根山(神奈川県)の戦で負けて逃げ帰り、逆に、尊氏の軍がこれを追いかけて京都に攻め上っててきました。</p>
<p>そこで、後醍醐天皇は、いちじ比叡山(京都府・滋賀県)に移り尊氏の軍が、代わって京都に入りました。</p>
<p>ところが、今度は北畠顕家が東北地方の軍勢を率いて応援に来たので尊氏兄弟の軍は敗れて遠く九州まで逃げました。</p>
<p>しかし、尊氏兄弟の軍は、まもなく九州・四国・中国地方の武士を従え勢いを盛り返して、海と陸からまたも都へ攻め上ってきました。</p>
<p>天皇側は、新田義貞と楠木正成の軍がこれを迎えて、勇ましく戦いました。<br />
けれども、戦いは尊氏の軍の勝ちとなり、正成は兵庫の湊川(神戸市)で討ち死にしてしまいました。</p>
<p>こうして京都は、再び尊氏のものとなったのです。</p>
<p>そこで足利尊氏は、後醍醐天皇を花山院に押し込めて光明天皇を位につけ、幕府を開いて再び武家政治を初めました。</p>
<p>こうして、建武の新政は、わずか二年半続いただけで、失敗に終わってしまったのです。</p>
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