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	<title>農民 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>農民 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>江戸時代の農民の暮らしとは？　農民の楽しみとは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/814</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Jul 2014 09:38:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[農民]]></category>
		<category><![CDATA[入会地]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は江戸時代の農民の暮らし　農民の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。 江戸時代の農民の暮らし 農民は、暮らしに必要なものは大抵、自分でつくりました。 そのために、水田をつくるための用水や薪をとったり、草を刈ったり [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は江戸時代の農民の暮らし　農民の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<h2>江戸時代の農民の暮らし</h2>
<p>農民は、暮らしに必要なものは大抵、自分でつくりました。</p>
<p>そのために、水田をつくるための用水や薪をとったり、草を刈ったりする山林や野原などは、村中、またはいくつかの村で共同で利用しました。</p>
<p>こういう山林や野原を入会地といいます。</p>
<p>耕地が狭いうえに、年貢が重いので収穫を多くするために、これまでよりも、さらに激しい労働を繰り返さなければなりませんでした。</p>
<p>だから村の人たちは、どうしても助け合わなければなりませんでした。<br />
近い者同士が、助け合う仕組みを「ゆい」といいます。</p>
<p>田植えや取り入れのときなどにゆいの仲間が、1件1件、手伝うのです。<br />
また、苦しい家計を助け合うためにお金を積立てて使う講や無尽がたくさんつくられました。</p>
<p>江戸時代も後になると農村にも、だんだん、お金が行き渡るようになりましたが初め頃は、お金でものを買うことはありませんでした。</p>
<p>鉄でつくった農具や塩・薬などどうしても自分で作れないものの他は町の人のように、お金を出して好きなものを手に入れることも中々、出来なかったのです。</p>
<p>年貢の割り当てや村の費用を決めるときなど大事なことは、寄り合いを開いて話し合いました。</p>
<p>しかし、その場合でも座る順序が決まっており村役人や地主は、いちばん上座に座りその意見が大きな力をもっていました。</p>
<p>村の申し合わせに背いた村人は村から追い出されたり、村八分にされて村人から、付き合いを断られたりしました。</p>
<p>村八分にされると手伝いがないので、葬式も出せなかったのです。</p>
<p>とにかく、村では、農民が自分の家だけでは暮らしていけないように出来てていたことがわかります。</p>
<h2>江戸時代の村の楽しみ</h2>
<p>このように、農民たちの暮らしはたいへん苦しく、また同じ仕事を繰り返してているので、毎日退屈でした。</p>
<p>だから、楽しいことがあれば思いきり楽しもうとしました。<br />
村の楽しみで、いちばん大きいのはやはり鎮守様の春秋2回のお祭りでした。</p>
<p>その時は、操り人形の芝居を呼んだり自分たちで芝居をしたり相撲をとったりして楽しみました。<br />
この他、正月・盆・節句などの行事には餅をつき、酒を飲みみんなで一緒に踊ったりしました。</p>
<p>幕府や藩では、農民が遊びすぎて耕作を怠け、年貢がとれなくなることを心配して、抑え付けようとしました。</p>
<p>交通が開けてくると農民も、神社や寺にお参りしたり名所を見て歩くようになり、ことに伊勢神宮にお参りすることを一生の願いとしていました。</p>
<p>しかし農民の多くはそのお金がないので講を作って掛金を蓄え、その代表者がお参りに出かけました。<br />
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		<title>鎌倉時代の農民の生活と農業技術は？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/750</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Feb 2014 22:33:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[農民]]></category>
		<category><![CDATA[二毛作]]></category>
		<category><![CDATA[荘園]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代の農民の暮らしと 当時の農業技術について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。 荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し年貢を取立てたり、いろい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代の農民の暮らしと<br />
当時の農業技術について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。</p>
<p>荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し年貢を取立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしました。</p>
<p>荘園の農民の内、自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。<br />
彼らは農民ではありますが、戦のときは武器をとってこれらの武士に従いました。</p>
<p>名主たちは、自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが残りは小作地として他の農民たちに耕させ、それから地代(土地を借りたために地主に払う代金)を取立てました。</p>
<p>農民たちは、採れた米の三割から四割を年貢として荘園の支配者である武士に差し出しました。<br />
多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。</p>
<p>年貢の他に武士の屋敷な作ったり、橋をかけたり、荷物を運んだりただ働きの仕事も、しなければなりませんでした。</p>
<p>税として、米の他にも、畑からは麦・粟・大豆などを産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを納めました。</p>
<p>重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。</p>
<p>このような農民の暮らしは、たいへん苦しくその住まいは、多くが一間きりの土間であったようで、そこに、むしろでも敷いて暮らしていたものと思われます。</p>
<p>地頭や名主は、所従や下人の生活はもっとひどく住まいは掘っ立て小屋程度で、苧と呼ぶ麻の着物を着て<br />
米でなく、麦や雑穀を食べていました。</p>
<p>農業技術は、平安時代の終わり頃から、非常に進んできました。</p>
<p>田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜な使ったり、くわやすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが鎌倉時代には、農具がたんだん鋭いものになってきました。</p>
<p>また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が次第に豊かな農民たちにまで行き渡るようになってきました。</p>
<p>二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですがこれは、鎌倉時代に始まったと言われています。</p>
<p>まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、農業技術が進むに連れて、開墾も次第に行われてきました。</p>
<p>関東平野も、幕府の指図で、その多くが開墾され田畑が増えました。</p>
<p>延暦寺の僧で、山の上から近江(滋賀県) の琵琶湖を眺めてこの広い湖を開拓して田をつくり、米の増産を計ったらよい、と述べたものがいたと伝えられています。</p>
<p>平安時代には、ところによっては、直播き(種もみを耕した田に直接まく) も行われましたが鎌倉時代には、ほとんど苗代がつくられました。</p>
<p>苗代に種もみもまく前に、ある時間、水に漬けておいて発芽させる方法も平安時代に引き続いて、広く行われるようになりました。</p>
<p>農民にとって、田に水を絶やさないことも大きな心配でした。<br />
九世紀の半ば頃から、水車の使用が盛んになり鎌倉時代になると、水車をつくる技術ほかなり高いものになりました。</p>
<p>米では、ウルチとモチの区別、わせとおくての区別は平安時代からありましたが鎌倉時代には、なかてが広くつくられるようになりました。</p>
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		<title>奈良時代の農民の暮らしとは？　条里制と重い租税とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/704</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Jan 2014 21:28:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[農民]]></category>
		<category><![CDATA[租税]]></category>
		<category><![CDATA[条里制]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は奈良時代の農民の暮らしについて、日本の歴史を紹介します。 当時の日本では、全人口の内ほとんどが農民でした。 町らしい賑やかなところは、奈良の都しかなく、そこに住む貴族・僧・商人・職人は農民に比べ、ごくわずかでした。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は奈良時代の農民の暮らしについて、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>当時の日本では、全人口の内ほとんどが農民でした。<br />
町らしい賑やかなところは、奈良の都しかなく、そこに住む貴族・僧・商人・職人は農民に比べ、ごくわずかでした。</p>
<p>条里制は、農民に口分田を与えるための基準となるもので、土地の区分の仕方です。<br />
土地は、一条・二条というたての区分と、一里・二里という横の区分とで、一辺が約522メートルの正方形（一里という)を幾つかつくります。</p>
<p>その正方形を、縦横それぞれ約87メートルずつに六等分します。<br />
87メートル四方の土地を一坪と呼び、一坪は一町歩(いまの約0.76へクタール) の面積があります。</p>
<p>一里は、約27.25へタタールで、36坪あります。<br />
条里制によって、村や田の位置は正確に決められるようになりました。</p>
<p>現在残っている一番古い条里の地図(田図)は、香川県の弘福寺の領地を測った地図で、735年(天平七年)につくられたものです。</p>
<p>条里制は、たぶん七世紀の末頃には、始まっていたでしょう。<br />
条里制の地図によって、口分田は六年目ごとに、人々にわけあたえられる決まりでした。</p>
<p>税も、この制度と、六年に一度つくられる戸籍と、毎年つくられる計帳によって、取立てられました。<br />
八世紀になると、農民で貧乏に苦しむ者が増えてきました。<br />
当時の米の収穫高は、どれくらいあったのでしよう。</p>
<p>もっともよく肥えた上田一段(7.6アール)から約150キロ、中田から約210キロ、下田から約90キロという有様です。</p>
<p>律令によって男子ひとりニ段の割り当てをすると、上田で300キロの収穫です。<br />
しかし、全てが上田ではありません。中田・下田が少なくありませんでした。</p>
<p>人は今でも一年に約150キロは食べますから、男二段・女一段210歩では、取っても足りなかったでしよう。</p>
<p>しかもその中から、租税と来年の種もみは、とっておかなければなりません。<br />
税の一種で、とくに農民を苦しめたのに雑徭（ぞうよう）があります。</p>
<p>雑徭というのは、弁当は自分もちで60日以内、その地方の国司の命令で力仕事をするものです。</p>
<p>故郷を遠く離れたところで、土木工事をやらされたり、都へ庸や調として、重い布を運んだりするのは、<br />
農民にとって、大変辛い仕事でした。</p>
<p>そのほか、農民のつとめとして仕丁役と兵役があります。<br />
仕丁役は、50戸ごとに2人が出て、中央の役所で働くものです。</p>
<p>兵役は、兵士として、遠いエゾ地や九州の大宰府や皇居の守りにつくものです。<br />
貧しい農民たちは、一家の働き手を取られてしまって、たいへん困りました。</p>
<p>租税の中で農民を苦しめた、もう一つの大きな税は、出挙（すいこ）です。</p>
<p>秋に取り入れた米を春までに食べてしまい、種もみを蓄えることのできない農民が少なくありませんでした。</p>
<p>このような農民に、国司が種もみを貸与え、稲の取り入れが終わってから、五割の利子をとって返させました。</p>
<p>これを出挙といいます。出挙の制度は、もともと貧しい農民を救うために、つくられたものです。<br />
745年(天平一七年)からは、国司に出挙の利子が一部あたえられることになりました。<br />
そこで、国司は、無理に種もみを貸付、収入を増やそうとしました。</p>
<p>後には、出挙は国にとって、租庸調よりも大切な財源となりましたが、農民の生活は、一層苦しくなりました。</p>
<p>この頃の農業では、日照りやや大雨が続いたり、イナゴの群れが襲ってきたりすると、たちまち、飢饉になり、飢え死にする人も、たくさんいました。</p>
<p>流行病も非常な勢いで広まりました。<br />
政府は神や仏に祈ったり、飢えた人々に米を与えたりしましたが、飢饉で困った農民の中には、子どもを売る者さえありました。</p>
<p>重い租税が辛いため、故郷を逃げだして、他の土地へ移り住む者もかなり出る有様でした。<br />
この時に農民たちが使った農具として、くわ・すき・鎌・うす・きねなどがありました。</p>
<p>貴族や大きな寺の田では、これらの農具が用意されていて、働きにくる農民たちに、貸してやりました。<br />
鉄でつくった農具は、奈良時代のはじめは、まだ貴重品でしたが、終わり頃になると、新しい農具が市場に出回るようになりました。</p>
<p>くわ一丁がお金で45文、物々交換だと米7～8升で取り替えられました。<br />
しかし、鉄のくわは荒れ地を開いたり、畑を耕したりするのに使うだけで、沼地を開いた田では、木のすきが使われていました。</p>
<p>田植えは、一部で始められていましたが、多くは、直播きで、肥料は草が主に使われていました。<br />
実った稲は、鉄鎌で刈り取りました。</p>
<p>弥生時代以来、穂だけを刈り取る方法が行われていましたが、この頃には今のように根元から刈る方法が行われていたようです。</p>
<p>刈り取った穂は倉庫へばらづみし、また、脱穀は、たてぎねとうすを使っていたようです。<br />
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