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	<title>鎌倉時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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	<description>日本の歴史や世界史・偉人やお城をわかりやすく解説します。</description>
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	<title>鎌倉時代 &#8211; 歴史をわかりやすく解説</title>
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		<title>住まいの歴史とは？　鎌倉時代から昭和時代の住居の変化とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/777</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Jun 2014 05:18:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[住まいの歴史]]></category>
		<category><![CDATA[住居]]></category>
		<category><![CDATA[住まい]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は住まいの歴史　鎌倉時代から昭和時代の住居について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉時代以後になると、華やかな生活をしていた貴族が衰え武士が政治をとるようになりましたので暮らしの上にも大きな変化がありました。 これまで [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は住まいの歴史　鎌倉時代から昭和時代の住居について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉時代以後になると、華やかな生活をしていた貴族が衰え武士が政治をとるようになりましたので暮らしの上にも大きな変化がありました。</p>
<p>これまでの貴族の住宅は、風通しのよい夏向きのものでしたが鎌倉時代から室町時代になると、家の周りに戸や、明り障子を建てるようになりました。</p>
<p>家の中も、いくつかの部屋に仕切って、ふすま障子や、唐紙障子・杉戸などを建てました。<br />
後には、畳を敷くようになり今の日本の民家の大体の姿となったのです。</p>
<p>鎌倉時代の武士の住まいは「法然上人行状絵図」などを見てもよくわかりますが、網代あみの竹垣で、屋敷を囲み切妻づくりの草ぶき屋根の母屋や納屋・蒲屋・馬屋などがあります。</p>
<p>母屋の左隅に細長い家をつきだした遠侍がありますが、ここは、家来の住むところで武家住宅の特色になっています。</p>
<p>室町時代以後になると、武士の住まいは貴族や僧の影響を受けて、床の間・違い棚・書院・玄関などがつくられるようになりました。</p>
<p>それらを一つの形式にまとめたものが書院づくりで安土・桃山時代ごろに完成しました。</p>
<p>しかも全国統一という時代の影響を受けて大がかりで、華やかな絵ぶすまや秀れた彫刻や金具などで、飾り立てたものもありました。</p>
<p>いま京都の西本願寺にある飛雲閣は名高い聚楽第（じゅらくだい）の一部だったと言われます。<br />
武士の住まいに、天井を張り雨戸を建てるようになったのも、このころからです。</p>
<p>しかし、荒々しい武士の気風は大きく立派な書院づくりを好む一方白木づくりで自然の美しさを求めた茶室風の数寄づくりを、桃山時代から江戸時代にかけて流行させました。</p>
<p>江戸時代の初め頃から城下町が栄えるようになり武士の住宅は城の周りに建てられました。</p>
<p>参勤交代で江戸に出るときは多くの家来が従いましたので大名屋敷を中心に、下士たちの住む長屋がありました。</p>
<p>一般の人々の住まいは、商業が発達するにつれて都市では農本住宅から、道路沿いに店づくりの家が多くなりました。</p>
<p>幕府は火事を防ぐために、瓦ぶきや、土蔵つくり・ぬりやづくりを進め二階建ては許しませんでした。<br />
貧しい人たちは、長屋の一間を借りて住んでいました。</p>
<p>農家の住まいは、贅沢にならないように厳しく取り締まられ、広い土間と、床張りの小さな部屋が四間ぐらいあったようです。</p>
<p>明治になって外国との交わりが多くなるとヨーロッパ風のレンガや石づくりの建築が取り入れられました。</p>
<p>まず、銀行やホテルなどの洋館が建てられ東京の銀座が、レンガづくりの町になったのをはじめ有名な鹿鳴館などもできました。</p>
<p>またこれとともに、ヨーロッパ風と日本風の良い点を、両一方とも取り入れた建築も行われました。</p>
<p>明治の終わり頃から大正時代にかけて新しく鉄筋コンクリートの高いビルディングが建てられるようになりました。</p>
<p>昭和時代になると、しばらく日本風の建築が盛んになりました。<br />
太平洋戦争の後都市には、続々ビルが建てられ燃えない集団アパートがたくさんできました。</p>
<p>そして家庭生活の電化とともに都市や農村の住宅も次第に住みよく改善されつつあります。<br />
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		<title>鎌倉幕府が衰えてきたのはいつ頃か？ 縁切り寺・駆け込み寺とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/757</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 20:52:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[鎌倉幕府]]></category>
		<category><![CDATA[縁切り寺]]></category>
		<category><![CDATA[徳政令]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉幕府が衰えてきたころの日本の歴史を紹介します。 二度にわたる元の来襲と、海岸の守りのために幕府の財政はだんだん苦しくなっていきました。 同時に御家人の生活も苦しいものになりました。 商業が発達し、いろいろな物が [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉幕府が衰えてきたころの日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>二度にわたる元の来襲と、海岸の守りのために幕府の財政はだんだん苦しくなっていきました。<br />
同時に御家人の生活も苦しいものになりました。</p>
<p>商業が発達し、いろいろな物が出回ってくると御家人たちの生活は、自然と贅沢になり生活費がかさみました。</p>
<p>御家人の中には、農産物を安く売ってお金を手にいれたり、高利貸しから借りる者もありました。（借上）</p>
<p>その上、元との戦いがおこり物入りが多くて生活はますます苦しくなりました。<br />
御家人の中には、自分の領地を売り払うものも少なくありませんでした。</p>
<p>そこで、御家人はそれまでのように、幕府の言いつけ通りに尽くすことな疎かにするようになりました。<br />
御家人は、幕府を支えている力です。</p>
<p>その御家人が暮らしに困って、土地を売るような状態では幕府のカも弱くなるわけです。<br />
1297年(永仁五年)幕府は困っている御家人を救うために徳政令をだしました。</p>
<p>徳政令は、御家人が土地を売ったり、質に入れたりすることを禁止し、すでに売り払ったり、借金のかたに取られたりした土地は、ただで御家人に返させるという命令です。</p>
<p>これには例外があって、買いとられた土地を買い主のものとして幕府が認めてしまった場合や、土地が今の持ち主の手に移って20年以上もたった場合には、返さなくてもよいという決まりでした。</p>
<p>徳政令には、そのほか裁判について、不服を申し立てたり、お金を借りた者が、返さないからという訴えは一切受付ない、という決まりもありました。</p>
<p>徳政令のおかげで御家人の生活はしばらくの間、楽になりました。<br />
ところが、今度は、誰も御家人に金を貸そうとしなくなりました。</p>
<p>そのため、御家人の暮らしはかえって苦しくなりました。<br />
幕府はわずか一年たらずで、徳政令を引っ込めました。</p>
<p>御家人に比べて、名主の力は次第に大きくなっていきました。</p>
<p>勢いの強い名主は農民たちを率いて、武器を持ち地頭や荘園領主に手向かいしました。</p>
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<p>鎌倉時代も終わりになると、名主は幕府の力では抑えることができないほど強くなりました。<br />
名主や農民たちの反抗は、特に商業の発達した近畿地方に多くおこりました。</p>
<p>幕府に不満を持つ御家人や名主たちが、幕府に手向かいするようになると、やがて鎌倉幕府そのものが、崩れていくようになりました。</p>
<p>執権北条氏の内部にも、いろいろの騒動がおこり、自然とその力な弱めていきました。<br />
1284年(弘安七年)、時宗が死に、その子貞時が14才で執権となりました。</p>
<p>その頃、北条氏の主な家来、安達泰盛と、長崎頼綱の2人が争っていました。<br />
ついに頼綱は貞時の命令だと言って泰盛を討ちました。</p>
<p>その後、頼綱は権力を独り占めにして、自分の子を将軍の位につけようと企んで殺されてしまいました。<br />
1316年(正和五年)、貞時の子の高時が、14才で執権となりました。</p>
<p>高時は、政治家としては、つまらない人間で、都から田楽法師を招いたり犬を集めて闘犬をやらせたりして遊んでばかりいました。</p>
<p>田楽というのは、もともと農民が田植えのときに行った踊りのことですが次第に田楽を専門とする法師が現れるようになったのです。</p>
<p>高時は、田楽のほか、何もしないと言われるほど夢中だったと言われます。</p>
<p>こんな有様でしたので、政治の実権は、長崎円喜とその子高資がにぎり賄賂を取ったりして悪い政治を行ったので、幕府の信用は無くなるばかりでした。</p>
<p>世の中は、ますます乱れ御家人の内輪もめがおこったり武力を持って集団で暴れまわる悪党や、農民の騒ぎがおこっても幕府には、もう抑える力がありませんでした。</p>
<p>こうして元の来襲以来、急に衰えてきた執権北条氏の世の中も、いよいよ、滅びるときが近づいてきたのです。</p>
<h2>縁切り寺</h2>
<p>鎌倉市にある東慶寺は、縁切り寺とか、駆け込み寺とも呼ばれ執権北条時宗の妻であった覚山禅尼が建てたものです。</p>
<p>時宗が亡くなった後、子の貞時が執権となりました。</p>
<p>このとき、禅尼の兄や従兄弟が、幕府を倒そうという計画をたてそれがわかって、一族が皆殺しになるという悲しい事件がおこりました。</p>
<p>板ばさみになった禅尼は、お経を写すことに悲しみを紛らわしましたが「仏の道を治めるということは、自分だけでなく全ての人を救うためでなければならない」という言葉に強く心を打たれました。</p>
<p>このころ武士の家では、女も男と同じように財産をわけてもらうことが出来ましたが、まだまだ男女平等というわけにはいきません。</p>
<p>禅尼は同じ女として、困っている女性を救おうと思いました。<br />
こうして、建てられたのが、松が丘東慶寺です。</p>
<p>夫にいじめられている女性が、この寺に駆け込んで足かけ3年、仏の道なおさめれば、夫と離縁できると言われ女性を救う寺として、長く江戸時代の末頃まで続きました。</p>
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		<title>元との戦いとは？ 文永・弘安の役とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/756</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 17:57:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[元]]></category>
		<category><![CDATA[北条時宗]]></category>
		<category><![CDATA[文永の役]]></category>
		<category><![CDATA[弘安の役]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は元との戦い、文永・弘安の役について日本の歴史を紹介します。 一三世紀の初め頃、中国の北方のモンゴル高原に住んでいた モンゴル族からテムジンという英雄があらわれました。 彼はモンゴル地方を統一し、チンギスハン(ジンギ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は元との戦い、文永・弘安の役について日本の歴史を紹介します。<br />
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一三世紀の初め頃、中国の北方のモンゴル高原に住んでいた<br />
モンゴル族からテムジンという英雄があらわれました。</p>
<p>彼はモンゴル地方を統一し、チンギスハン(ジンギスカン)と名乗りました。<br />
チンギスハンは強大な武力を持ち、その勢いを、どんどん広げていきました。</p>
<p>そして、20年ほどの間に東は満州から、西は中央アジア、南ロシアにまで領土を広げました。<br />
チンギスハンの死後も、モソゴルは勢力を伸ばし西南アジア・東ヨーロッパへも進出しました。</p>
<p>1260年、チンギスハンの孫クビライが位につき、都をモンゴルのカラコルムから、燕京(北京)に移しました。</p>
<p>そして1271年、国の名な元とあらためました。</p>
<p>クビライは、中国の宋を攻め滅ぼしてついに中国全土なその手に治めました。<br />
ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な元帝国がここに出来上がったのです。</p>
<p>燕京にはヨーロッパ人がたくさんやってきて、たいへん賑わいました。<br />
イタリアのマルコ＝ポーロもその1人です。</p>
<p>元の国では貿易が盛んに行われて、都市も栄え南京や松江(上海)などは人口100万に近い大都会になりました。</p>
<p>元は日本を従えようとして、1268年(文永五年)日本に使いを送ってきました。<br />
当時の鎌倉幕府の執権は北条時宗でした。</p>
<p>時宗はまだ18才の若さでしたが、元の使いを追い返し返事を出しませんでした。</p>
<p>そして、幕府は元の来襲に備えて、筑前・筑後(福岡県) や瀬戸内海に面した国々に、厳しい警戒をするよう命じました。</p>
<p>クビラィイはその後も、たびたび使いを送ってきましたが幕府が返事を出さないので、たいへん腹を立て、日本を攻める用意をしました。</p>
<p>ついに1274年(文永11年)10月に、元は高麗の軍を交えた2万3000の軍隊900の軍船でもって攻め寄せてきました。</p>
<p>元軍が1万5000人、高麗軍が8000人でした。</p>
<p>まず、対馬と壱岐を襲い、肥前国(佐賀県・長崎県の一部)の島々を荒らして10月19日に博多湾に攻め込み、20日には上陸を始めました。</p>
<p>幕府の軍は、主に九州の武士たちでした。<br />
彼らは、おおいに戦いましたが敵の勢いは強く大宰府まで退いてしまいました。</p>
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<p>元の兵たちは、長い槍、毒の矢や、てつはうと言って、今の焼夷弾のようなものなど優れた武器をもって集団で攻めてくるので一騎打ちの戦いになれていた日本軍は、とうてい敵いませんでした。</p>
<p>ところが、20日の夜に大嵐がおこり、元の船はほとんど沈み1万3000人の兵が死にました。<br />
残りの兵は高麗へ引き上げました。</p>
<p>これが文永の役です。</p>
<p>元は、一度の失敗によって諦めたわけではありませんでした。<br />
早くも翌年（1275年)には、元に従えというクビライの手紙をもった使者がやってきました。</p>
<p>しかし時宗は、これを鎌倉の竜のロで斬り殺させました。<br />
竜のロは、死刑を行う場所でした。</p>
<p>時宗は、元が再び攻めてくるのに備えて北九州や長門国(山口県の一部)の守りを固めさせました。<br />
博多湾の周りは、すっかり石垣で固められました。</p>
<p>1281年(弘安四年)元軍は再び攻め寄せてきました。<br />
東路軍と江南軍の二手にわかれた元軍は14万人あまりで4300そうという大軍でした。<br />
東路軍は対馬・壱岐を襲い、博多港に攻め込んで志賀島を占領しました。</p>
<p>幕府軍も良く戦い、夜になると武士たちは小ぶねに乗り込んで敵船に攻め入りました。<br />
東路軍は鷹島(佐賀県)に引き上げ、江南軍のつくのを待って、全軍で博多を攻める計画を立てました。</p>
<p>ところがまたも大嵐がおこり、元の軍軍船は4000あまりが沈んでしまいました。</p>
<p>この戦いが弘安の役です。</p>
<p>元はそれでもまだ、日本を従えど大嵐が吹いたこと元の軍が海での戦いになれていなかったこと、日本側が、石の砦を築いて、勇敢に守ったことなどによって大国の元軍を破ることが出来たのです。</p>
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		<title>法然と親鸞ってどんな人？ 禅宗・日蓮・時宗とは？ 鎌倉時代に生まれた新しい仏教とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/754</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 15:45:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[時宗]]></category>
		<category><![CDATA[日蓮]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[仏教]]></category>
		<category><![CDATA[法然]]></category>
		<category><![CDATA[親鸞]]></category>
		<category><![CDATA[禅宗]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は法然と親鸞　禅宗、日蓮、時宗　鎌倉時代に生まれた新しい仏教について、日本の歴史を紹介します。 平安時代の末、源氏と平氏の激しい戦いが続きました。 人々はこうした騒がしい世の中に安心して生きていられる心の拠り所を仏教 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は法然と親鸞　禅宗、日蓮、時宗　鎌倉時代に生まれた新しい仏教について、日本の歴史を紹介します。<br />
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<p>平安時代の末、源氏と平氏の激しい戦いが続きました。<br />
人々はこうした騒がしい世の中に安心して生きていられる心の拠り所を仏教に求めました。</p>
<p>ところが、多くの僧たちは政治と結びつき、自分たちの勢力を伸ばすことたけを考え世の中の人を救おうとはしませんでした。</p>
<p>しかし、まじめな僧は寺を離れて、山村などで厳しい修行を積み仏の道に励みました。<br />
鎌倉時代の新しい仏教は、そうした僧の間から生まれたのです。</p>
<p>そして、貴族ではなく武士や一般の人々に迎えられました。<br />
平安時代の末、法然いう僧がでて、浄土宗を開きました。</p>
<p>一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、救われるという教えです。</p>
<p>浄土宗の信者は、貴族や武士から一般の人々にも行き渡り、東海・北陸地方にまで、広がっていきました。</p>
<p>古い仏教の僧たちが浄土宗を非難したので、朝廷も黙っておれず、浄土宗を厳しく押さえつけました。<br />
そのために、法然は讃岐国(香川県)に4年ほど流されました。</p>
<p>法然の弟子親鸞も、越後国(新潟県)に流されましたが、5年ほど経って許されました。<br />
その後、親鸞は常陸国(茨城県)の稲田に住み、教えを広めました。</p>
<p>親鸞の教えは、法然の浄土宗を一歩すすめたもので、浄土真宗、またはたんに真宗とも言われます。<br />
それまで、僧は肉を食べたり、妻を持つことは許されませんでした。</p>
<p>ところが親鸞は、肉な食べてもいい妻を持ってもいいとして自らも結婚しました。<br />
彼は、民衆と同じ立場にたって、その上で、仏の道に励もうとしたのです。<br />
親鸞は武士や一般の人々の心に、深い理解を持っていました。</p>
<p>彼らの中には、自分の犯した罪のために、とうてい救われないだろうと思っている人もありました。</p>
<p>武士が戦いに出て人を殺したり、猟師が生きものを殺したり商人が金儲けのために安い物を高く売りつけたりする罪を、親鸞は生きていくためには仕方の無いことだとしました。</p>
<p>そして、自分こそは本当の悪人だと深く悟れば救われると説きました。</p>
<p>親鸞の教えは、彼の書いた「教行信証」や、弟子が親鸞の言葉を集めて作った「歎異紗」などに載っています。</p>
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<p>禅宗は宋(中国)から伝えられたもので、栄西が伝えた臨済宗と、道元が伝えた曹洞宗のニつがあります。<br />
栄西は二度も宋に渡り、5年間修行して、1191年(建久二年)日本へ帰ってきました。</p>
<p>そして、博多に留まって臨済宗の教えを説きました。<br />
栄西はまた、幕府の助けを借りて、京都に建仁寺を建てました。</p>
<p>道元は建仁寺に栄西を訪ね、教えをこいました。<br />
そして、1223年(貞応一年)宋に渡り、厳しい修行の後、日本へ帰ってきました。</p>
<p>道元は、1243年(寛元元年)、越前国(福井県の一部)に移り、永平寺を建てて教えな広めました。<br />
道元は立派な社会をつくる理想を持っていました。</p>
<p>そこで、僧たちの行いを厳しく取り締まり、仏の教えを、しっかりと守らせました。</p>
<p>禅宗の教えや修行は、非常に厳しいため武士たちの生活に良く合い、広く信じられました。<br />
臨済宗は北条時頼や北条時宗のような上流武士にまで広がり、曹洞宗は、主に地方の豪族の間に迎えられました。</p>
<p>日蓮は鎌倉や比叡山で仏の道に励んでいましたが法華経たけが本当の教えだと信じるようになりました。<br />
日蓮は「南無妙法蓮華経」を唱えて、法華経を世に広めたらこの世の人を救うことができると考えました。</p>
<p>日蓮は、.禅宗や浄土宗を間違った教えだとして、これらの教えの広がっている国々は、必ず災いが起こると予言しました。</p>
<p>そのため、日蓮は他の宗派のものや幕府から圧迫を受け襲われたり、島流しにされたりしました。<br />
佐渡へ流された日蓮は、そこでも多くの信者を得ました。</p>
<p>1274年（文永11年)、許されて帰った日蓮は、法華宗(日蓮宗)を広めました。</p>
<p>法華宗の信者は、初めは上流の武士が多かったのですが領主のすすめで、農民にも信者が増えていきました。</p>
<p>商人や職人の間に日蓮の教えが信仰されるようになるのは、室町時代になってからです。<br />
浄土教の1つである時宗を始めた智真は、一遍上人の名で知られています。</p>
<p>一遍は、シャカが定めた僧としての行いを厳しく守り住所も定めず、ほうぼうを歩き周りました。<br />
一遍は、全てを捨て、命を投げ出して一般の人々を救おうと決心しました。</p>
<p>そして、自分の家や田を手放して、全国いたるところ、足の向くまま歩き周り、人々に念仏をすすめました。</p>
<p>一遍の信者は次第に増え、彼とともに念仏を唱えながら集団となつく各地をまわりました。<br />
こうして、信者は武士・農民・商工業者のべつなく広がりました。</p>
<p>鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて、浄土教のいろいろな宗派の中では、時宗がもっとも勢力がありました。<br />
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		<title>鎌倉時代の建築と彫刻、肖像画と絵巻物とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/753</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 14:43:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[唐様]]></category>
		<category><![CDATA[金剛力士像]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[運慶]]></category>
		<category><![CDATA[天竺様]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代の建築様式と肖像画や絵巻物といった美術品について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉時代の建築には、天竺様と唐様の二つの建て方がありました。 奈良時代に建てられた東大寺は1180年(治承四年)平清盛の子の重衡の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代の建築様式と肖像画や絵巻物といった美術品について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉時代の建築には、天竺様と唐様の二つの建て方がありました。<br />
奈良時代に建てられた東大寺は1180年(治承四年)平清盛の子の重衡のために焼かれてしまいました。</p>
<p>しかし、翌年には東大寺の再建が朝廷を中心として始められました。<br />
そして、寺を造るお金を広く一般の信者から集める勧進職がおかれました。</p>
<p>この役には、浄土宗を開いた源空の弟子、重源が就きました。<br />
重源は東大寺の再建にあたり、宋(中国) から持ち帰った天竺様という立て方を用いました。</p>
<p>天竺様は力強く、自由な変化にとんでいて大きな建物を少ない材木でつくるには最もよい方法です。<br />
しかし、この建て方は、後の人々の好みに合わなかったのか同じ頃でた唐様ほど発展しませんでした。</p>
<p>天竺株の代表的な建物には、東大寺の南大門、兵庫県の浄土寺阿弥陀堂があります。<br />
唐様は、禅宗にともなって、宋から入ってきた建築の方法です。<br />
鎌倉の円覚寺舎利殿は、唐様の代表的な建物です。</p>
<p>唐様は天竺様の男性的な力強さと違い、手のこんだ美しさを備えています。<br />
鎌倉時代には、肖像画が盛んになりました。</p>
<p>藤原隆信の描いた神護寺にある源頼朝の像や平重盛の像は名作として知られています。<br />
平安時代に引き続いて、この時代も絵巻物が喜ばれました。</p>
<p>題材を神社や寺に伝わる伝説や物語などのほかに平治の乱や、元(蒙古)の来襲などからもとりました。<br />
「平治物語絵巻」や「蒙古襲来絵詞」がそれです。</p>
<p>また、「一遍上人絵伝」や「法然上人絵伝」などのように宗派な開いた人の伝説を絵巻物にして、その宗派を広めるために使うことなどもありました。</p>
<p>奈良・平安時代に建てられた奈良や京都の多くの寺は1180年(治承四年)の源平の戦いによって、そのほとんどが焼かれました。</p>
<p>しかし、鎌倉時代に入ると、これらの寺の復興が盛んに行われるようになりました。</p>
<p>このため、これらの寺におさめる仏像がたくさん必要になり康慶・運慶・湛慶・康弁・快慶・定慶などの優れた彫刻家が次々とあらわれてその需要を満たしました。</p>
<p>彼らは武士の世にふさわしい逞しくて力強く活き活きとした木像彫刻を作り上げました。</p>
<p>運慶と快慶が、それぞれ一体ずつ彫り上げた東大寺南大門の金剛力士(仁王)像をはじめ興福寺に残る天燈鬼像・竜品燈鬼像・無著像・世親像慶や京都の三十三間堂にあるおびただしい仏像などはこの時代の代表的な作品です。</p>
<p>運慶は奈良の仏師(仏像の彫刻家)康慶の子で、鎌倉時代の最も優れた彫刻家です。</p>
<p>彼は、小さいときから父の教えを受けて彫刻家への道を歩みましたが当時の気力のない仏像彫刻に飽き足らず苦心の末力に溢れた新しい仏像彫刻の様式を生みだしました。</p>
<p>鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡（あづまかがみ）」によると奥州の藤原基衡は毛越寺を建てるとき、運慶に仏像づくりを頼みました。</p>
<p>そこで運慶は、薬師如来像と十二神将像を作り上げました。<br />
基衡は、その立派な出来を喜んで馬50頭、アザラシの皮60枚あまり、美しい布数千反、そのほか、たくさんの品物を送ったということです。</p>
<p>和田義盛など多くの武将たちも、彼に製作を頼み運慶は、大彫刻家として名を挙げました。</p>
<p>また運慶は、東大寺南大門の金剛力士（仁王)像をつくりましたが、これは後世の仁王像の手本にされるとともに彼の名声から多くの寺に仁王像が、運慶作とされるようにさえなりました。</p>
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		<title>鎌倉時代の文学の特色とは？ 金沢文庫ってなに？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/752</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Feb 2014 14:04:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[文学]]></category>
		<category><![CDATA[金沢文庫]]></category>
		<category><![CDATA[新古今和歌集]]></category>
		<category><![CDATA[金槐和歌集]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代の文学の特色について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉幕府ができてから、政治は武士が動かすようになりました。 そのため、文化の上でも、武士の世らしい力強さがあらわれました。 もちろん、平安時代の貴族の文化が無 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代の文学の特色について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉幕府ができてから、政治は武士が動かすようになりました。<br />
そのため、文化の上でも、武士の世らしい力強さがあらわれました。</p>
<p>もちろん、平安時代の貴族の文化が無くなってしまったりではなくまだかなり強く残っていました。<br />
武士は、貴族の文化を取り入れながら、武士独特の文化を作り出していったのです。</p>
<p>また、鎌倉文化の特色の一つとして、建築や仏教の上に元や宋(中国)の文化の影響が見られます。<br />
鎌倉時代になると、武士や戦争のことを書いた軍記物語があらわれました。</p>
<p>その代表的な作品には「保元物語」「平治物語」「平家物語」「波平盛衰記」などがあります。</p>
<p>「平家物語」は軍記物語の中で、もっとも優れたもので源氏と平氏の戦いの様子や、平氏が滅んでいく姿が美しい文章で描かれています。</p>
<p>その作者は、はっきりわかっていません。</p>
<p>軍記物語は、びわ法師という坊さんが語って歩いたもので何度も語られていくうちに、段々整っていき、立派な文学となりました。</p>
<p>軍記物語には、儒教や仏教の思想が流れています。</p>
<p>人間の生きる世の中は、常に変わっていくもので儚いものだという考えを元にして、武士の勇ましい行いや死を恐れない姿とか、主人と家来の深い繋がりなどが、活き活きと書かれています。</p>
<p>また武士の勢いに押されて、衰えていく貴族の哀れな姿も描かれています。</p>
<p>「平家物語」に内容がよく似ている「源平盛衰記」は、四八巻もありますが文学としてはあまり秀れた作品とは言えません。</p>
<p>多くの武士たちは、歌人として有名な貴族から、歌を教えてもらいました。<br />
藤原俊成とか、藤原定家など優れた歌人が出ました。</p>
<p>承久の乱で有名な後鳥羽上皇は、歌人として秀れていました。<br />
上皇は多くの歌人に言いつけて「新古今和歌集」という歌の本を作らせました。</p>
<p>この歌集には貴族の歌が多く、その歌風は農村風な素朴さを示す「万葉集」に対して、都会的な美しさを持っているといえます。</p>
<p>また、旅の歌僧としての一生を送った西行の歌も、たくさん選ばれています。<br />
鎌倉幕府の三代将軍源実朝は、京都の文化に憧れ、歌人としても優れていました。</p>
<p>「金槐和歌集」は、実朝の歌集で、700あまりの歌が収めてあります。<br />
金槐の金は鎌倉の「鎌」のへん「槐」は中国で大臣のことですから鎌倉右大臣という意味です。</p>
<p>「金槐和歌集」には、貴族的な歌が多いのですがやはり武士らしく「万葉集」の歌に似た力強いものも見られます。</p>
<p>この頃、争い続きの世の中を悲しく思い、寂しくなって世を捨て自分の気持ちを思いつくままに書いた随筆集があらわれました。</p>
<p>その代表的なものと言われる「方丈記」は鴨長明が「徒然草」は吉田兼好(兼好法師ともいう)が書いたものです。</p>
<p>武上の政治が安定し、文化が高まってくると武士の中からも北条実時のように、図書館をつくる人物もでてきました。</p>
<p>実時は義時の孫で、若い頃から学問が好きで儒学を学び多くの書物を集めました。<br />
年をとった実時は、政治から離れ、武蔵国金沢(今の横浜市金沢区)に引きこもって図書館を建て、自分の持っていた本をそこに蔵めました。</p>
<p>これが金沢文庫です。</p>
<p>実時の子どもの顕時や貞顕も学問を愛したので、本は次々と増えていきました。</p>
<p><strong><span style="font-size:large;">・琵琶法師とは</span></strong><br />
鎌倉時代の初め頃、農村を回っていろいろな軍記物語を語って歩いた、盲の坊さんがあらわれました。<br />
これが、琵琶法師です。</p>
<p>粗末な衣を着て、大きな琵琶を肩に背負い、村々を周りました。</p>
<p>そして、神社や寺の境内など、人のたくさん集まるところで、琵琶を弾きながら簡単な節をつけて様々な物語を語り、物ごいをして生活をたてていました。</p>
<p>文字も読めず、新聞やラジオもないこの頃の人々にとって琵琶法師は、たいへん喜んで迎えられました。</p>
<p>人々は戦の場面や、強い武士の姿に手を叩き滅んでゆく貴族や武士の哀れな様子に涙を流しました。</p>
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		<title>鎌倉時代に盛んになった市や行商人とは？ 商店が立ち並ぶ！</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/751</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Feb 2014 23:47:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[市]]></category>
		<category><![CDATA[行商人]]></category>
		<category><![CDATA[職人]]></category>
		<category><![CDATA[奉行人]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代に盛んになった市と行商人について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉の町は頼朝が住むようになってから、段々賑わってきました。 町の中心は鶴岡八幡宮に通ずる若宮大路で、幕府の建物はその近くにありました。 幕府の屋 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代に盛んになった市と行商人について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉の町は頼朝が住むようになってから、段々賑わってきました。<br />
町の中心は鶴岡八幡宮に通ずる若宮大路で、幕府の建物はその近くにありました。</p>
<p>幕府の屋敷の周りには、畠山氏・和田氏・三浦氏・北条氏など幕府の主だった家来の館が、立ち並んでいました。</p>
<p>武士の家は、たいてい東御門・西御門・雪の下・小町・大町・二階堂・浄明寺などの山の手にありました。</p>
<p>これに対して材木座・由比ガ浜・坂ノ下などが下町でした。<br />
当時の鎌倉の様子は、京都から鎌倉へ来た人が書いた「海道記」に詳しく載っています。</p>
<p>商業が盛んになり、ほうぼうに商店が立ち並んでいました。</p>
<p>幕府は1251年(建長三年)に、大町・小町・米町・和加江・大倉辻・気和飛坂・亀が谷辻の七か所のほかでは、店を開かせないことに決めました。</p>
<p>由比が浜には、数百そうの船が、いつも入っていて、たいへん賑わいました。<br />
武士の館や商人の家など、多くの家が軒を並べていたので鎌倉には火事が多かったようです。</p>
<p>鎌倉には鶴岡八幡宮のほか、多くの神社や寺が建てられました。<br />
幕府は鎌倉の町を治めてくために、「保」(町な四つ垂あわせた区わけ) の奉行人をおきました。</p>
<p>奉行人は泥棒を捉えたり、相手から無理に安く値切って買いとる押買いを取り締まったり、酒の売買を禁じたり、博打や人身売買を取り締まったりしました。</p>
<p>その他、保の人々には橋や・道路を直し、掃除する義務がありました。</p>
<p>鎌倉時代の代表的な都市は、鎌倉と京都の二つでしたがこの間の行き来が盛んになり、街道すじは、賑やかになっていきました。</p>
<p>市も次第に盛んになり、付近の農民や行商人らが、たくさん市に集まってきました。<br />
農民の中でも、名主は自分の土地を持ち、これを小作にだして、他の農民に耕させていました。</p>
<p>これらの名主の手には、農業技術の進歩も手伝って年貢を出した後の余った農作物が残るようになりました。</p>
<p>名主たちは、これらの農作物を市にだすようになりました。</p>
<p>そして、余ったものばかりでなく、市にだす目的で農作物・衣類・農具などをつくり、どんどん金を儲けました。</p>
<p>勢いの強い名主は、御家人の土地を買ったり、彼らに金を貸したりするようになりました。</p>
<p>こうして、九州地方や東北地方まで、いたるところに市がたち、いろいろな品が出回りました。<br />
市は神社や寺の門の前、大きな道路の交差点、荘園の役所の近くなどに開かれました。</p>
<p>日を決めないで開かれることもあり月に三度か五度くらい、日を決めて市のたつこともあり三日市とか五日市とか呼ばれました。</p>
<p>領主や地頭は、市の商人に税をかけ、その代わりに市の商売を保護しました。<br />
市には、行商人もたくさんいました。</p>
<p>彼らは、各地で市の開かれる日を知っていて、市に集まりまた、その付近を歩いて盛んに商売をしました。</p>
<p>商業の発達につれて、職人の種類も多くなりました。<br />
材木を切り出す人を山人、薪をとることを職業とする人をきこりといいます。</p>
<p>また、草かりもいて、牛馬の餌や草肥の材料に草を刈りました。<br />
そのほか、炭焼きやいかだ師、船を造る船大工もいました。</p>
<p>山人に対して、漁業をしている人を浦人といいました。<br />
海で働く人には、そのほか海女や塩をつくる塩くみ男・塩かき男がいました。</p>
<p>金や銀を掘り出すもの、薄打ちといって金などな叩いて、薄くする者もいました。<br />
鍛冶屋は主に農具や日用の道具をつくりました。<br />
日用品としては、そのほかにおけ屋・傘屋・扇屋などがいました。</p>
<p>武士の世の中に相応しく、刀鍛冶・弓つくり・矢細工・鎧つくり・革屋など職人はかなり忙しかったようです。</p>
<p>革屋の家の天井や壁には、いろいろな革製品や材料の毛皮などが吊るしてありました。<br />
仏教関係でも、いろいろな職人がいました。</p>
<p>仏像をつくる人を仏師、数珠をこしらえる人を念珠挽といいました。<br />
経師は、お経を折本や巻物などに貼る仕事をしていました。</p>
<p>仏教関係の職人はみな、僧に似た姿で仕事をしていました。<br />
大工、左官などの職人もあり大工のことを番匠といい、左官を壁塗りといいました。</p>
<p>番匠たちは、手斧・さしがね・すみなわなどを使って仕事をしました。<br />
番匠のほかに、家具をつくる職人もいました。</p>
<p>彼らは畳をつくったり、すだれを編んだりしました。</p>
<p>そのほか、陶器をつくる人、まき絵をつくる人、刀を研ぐ研ぎ屋、獲った魚を料理する料理人などの職人が、それぞれの業に励んでいました。</p>
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		<title>鎌倉時代の農民の生活と農業技術は？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/750</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Feb 2014 22:33:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[農民]]></category>
		<category><![CDATA[二毛作]]></category>
		<category><![CDATA[荘園]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代の農民の暮らしと 当時の農業技術について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。 荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し年貢を取立てたり、いろい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代の農民の暮らしと<br />
当時の農業技術について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。</p>
<p>荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し年貢を取立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしました。</p>
<p>荘園の農民の内、自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。<br />
彼らは農民ではありますが、戦のときは武器をとってこれらの武士に従いました。</p>
<p>名主たちは、自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが残りは小作地として他の農民たちに耕させ、それから地代(土地を借りたために地主に払う代金)を取立てました。</p>
<p>農民たちは、採れた米の三割から四割を年貢として荘園の支配者である武士に差し出しました。<br />
多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。</p>
<p>年貢の他に武士の屋敷な作ったり、橋をかけたり、荷物を運んだりただ働きの仕事も、しなければなりませんでした。</p>
<p>税として、米の他にも、畑からは麦・粟・大豆などを産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを納めました。</p>
<p>重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。</p>
<p>このような農民の暮らしは、たいへん苦しくその住まいは、多くが一間きりの土間であったようで、そこに、むしろでも敷いて暮らしていたものと思われます。</p>
<p>地頭や名主は、所従や下人の生活はもっとひどく住まいは掘っ立て小屋程度で、苧と呼ぶ麻の着物を着て<br />
米でなく、麦や雑穀を食べていました。</p>
<p>農業技術は、平安時代の終わり頃から、非常に進んできました。</p>
<p>田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜な使ったり、くわやすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが鎌倉時代には、農具がたんだん鋭いものになってきました。</p>
<p>また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が次第に豊かな農民たちにまで行き渡るようになってきました。</p>
<p>二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですがこれは、鎌倉時代に始まったと言われています。</p>
<p>まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、農業技術が進むに連れて、開墾も次第に行われてきました。</p>
<p>関東平野も、幕府の指図で、その多くが開墾され田畑が増えました。</p>
<p>延暦寺の僧で、山の上から近江(滋賀県) の琵琶湖を眺めてこの広い湖を開拓して田をつくり、米の増産を計ったらよい、と述べたものがいたと伝えられています。</p>
<p>平安時代には、ところによっては、直播き(種もみを耕した田に直接まく) も行われましたが鎌倉時代には、ほとんど苗代がつくられました。</p>
<p>苗代に種もみもまく前に、ある時間、水に漬けておいて発芽させる方法も平安時代に引き続いて、広く行われるようになりました。</p>
<p>農民にとって、田に水を絶やさないことも大きな心配でした。<br />
九世紀の半ば頃から、水車の使用が盛んになり鎌倉時代になると、水車をつくる技術ほかなり高いものになりました。</p>
<p>米では、ウルチとモチの区別、わせとおくての区別は平安時代からありましたが鎌倉時代には、なかてが広くつくられるようになりました。</p>
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		<title>鎌倉時代の武士の生活とは？　武芸の道とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/749</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 19 Feb 2014 22:04:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[武士]]></category>
		<category><![CDATA[武家造]]></category>
		<category><![CDATA[武芸]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は鎌倉時代の武士の生活について、日本の歴史を紹介します。 この時代に武士と言われる人たちは農村の地主でした。 もちろん、彼らは幕府の御家人ですから、鎌倉の幕府へ出かけたり幕府の指図するところへ出かけたりしますが、やは [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は鎌倉時代の武士の生活について、日本の歴史を紹介します。<br />
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この時代に武士と言われる人たちは農村の地主でした。</p>
<p>もちろん、彼らは幕府の御家人ですから、鎌倉の幕府へ出かけたり幕府の指図するところへ出かけたりしますが、やはり彼らの根拠地は農村でした。</p>
<p>鎌倉武士たちが、武芸の道に励むことが出来たのは都から遠く離れて田舎に住んでいたからだとも言えますね。</p>
<p>武士たちは農村で生活し、農村を治めながらまさかのときに役立つ武芸を練習していました。<br />
馬に乗ったり、狩りをしたり、刀や弓矢の使い方を練習したりして武芸の道に励んだのです。</p>
<p>武士たちが持っている、農村の領地は彼らにとって、大切な暮らしの土台でした。<br />
彼らは治めている土地の名前を自分たちの名字にするようになりました。</p>
<p>そして守護や地頭の武士たちと、領地内の農民の間は、たいへん深く結ばれていました。<br />
武士の屋敷は農村の中で村全体を見渡せる高台とか、交通の便利な平地などにありました。</p>
<p>広い屋敷の周りには、深い掘りや垣根が巡らしてあったので人々はこれを堀の内とか垣の内と呼びました。</p>
<p>武士の家は、普通の農民の家とは違っていて、その造りは武家造りと言います。<br />
家来のいる部屋・倉庫・馬小屋などに取り巻かれた屋敷のほぼ中央に主人の住む母屋があります。</p>
<p>屋根は、ほとんど板ぶきか、茅ぶきで、床は板じきが多く、畳のあるところは、わずかな部分という、質素なものでした。</p>
<p>夜になると、庭では、家来たちが夜通し、警戒にあたり、当番でない者も、枕元に武器を置いて、いざというときには、飛び出せるようにしていました。</p>
<p>広い屋敷の周りには、田畑があり、屋敷内に住む家来たちが、耕作していました。<br />
武士たちは、自分の領地を守り、それを広げていかなければなりません。</p>
<p>そのために、常日頃から武芸を磨き、周りの敵と戦う用意を怠りませんでした。</p>
<p>武芸の道は、武士の生活にとって、欠くことのできないもので農村の人々が暮らしを立てていくために、獣を獲ったり、田を耕したりするのとは生活のためという点で、代わりはありません。</p>
<p>同じ狩りをするにしても、武士はこれで武芸を磨き農民はこれを生活の足しにしていたのです。</p>
<p>吉見二郎という武士がいましたが、彼は詩歌を作ったり、音楽を好んだりして武勇を軽く考えたばかりに上京の途中遠江国(静岡県の一部)で山賊に殺されてしまいました。</p>
<p>弟の男衾三郎（おぶすまさぶろう）は「武勇の家に生まれたからには、武芸の道に励むべきだ！歌を作り、琴を弾き、笛を吹いたところで、なんの役にも立たない。自分の家の者は女や子どもに至るまで、荒馬を乗りこなし、弓矢を弾く練習を怠るな」と、日頃から武芸に励んだので、山賊は男衾三郎を避けて通したと言われます。</p>
<p>このように武芸は非常に重んじられ、やぶさめ・かさがけ・犬追物や、狩りなどが行われました。</p>
<p>かさがけは走る馬上から、かきの形をした的を射るもの、やぶさめもまた走る馬上から板の的を射るものです。</p>
<p>犬追物は馬に乗って、走る犬を射るものです。狩りはの武士の間にしばしば行われました。</p>
<p>頼朝が那須野(栃木県)や富士の裾野で行った巻狩りは有名ですが、これも、武士たちの武芸を磨くために、幕府を中心として行われたものです。</p>
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		<title>封建制度とは？ 主従の繋がりと固い団結が結ばれる？ 鉢の木物語とは？</title>
		<link>https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/748</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[管理人]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 05 Feb 2014 01:24:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[鎌倉時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[日本史]]></category>
		<category><![CDATA[封建制度]]></category>
		<category><![CDATA[鉢の木物語]]></category>
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					<description><![CDATA[今回は封建制度について、日本の歴史を紹介します。 鎌倉に住み、武士たちに号令する主君頼朝は、鎌倉殿と呼ばれ頼朝に仕える武士は関東の御家人、あるいは鎌倉殿の御家人と呼ばれました。 この呼び名は北条氏にまで受け継がれました。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今回は封建制度について、日本の歴史を紹介します。<br />
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鎌倉に住み、武士たちに号令する主君頼朝は、鎌倉殿と呼ばれ頼朝に仕える武士は関東の御家人、あるいは鎌倉殿の御家人と呼ばれました。</p>
<p>この呼び名は北条氏にまで受け継がれました。<br />
鎌倉幕府の中で、源氏が滅び、北条氏がその実権を握るようになりました。</p>
<p>それまで、鎌倉幕府は源氏の将軍の幕府でしたが、北条氏が執権となってその勢いを強めるにつれ、幕府も北条氏の幕府に代わっていきました。</p>
<p>そして、北条氏も中頃から鎌倉殿と呼ばれるようになりました。</p>
<p>つまり、鎌倉殿と言えば、もともと源氏の将軍を指していたのですが北条氏が民執権の地位を固めてくるに従って、鎌倉殿とは執権北条氏を指すようになったのです。</p>
<p>御家人というのも、初めは源氏の将軍の家来でしたが、後には幕府の家来を一般に鎌倉殿の御家人というようになりました。</p>
<p>鎌倉殿が源氏の将軍から執権北条氏に代わっても、御家人たちは北条氏を中心に固く団結して、鎌倉幕府を守り抜きました。</p>
<p>御家人は土地を鎌倉殿から貰って、その領地を鎌倉殿に認めてもらいそのかわりに武力をもって鎌倉殿に尽くしたのです。</p>
<p>領地を認めてもらうことを御恩と呼び、この御恩に対して御家人たちは鎌倉殿に奉公するという関係が、鎌倉殿と御家人の繋がりでした。</p>
<p>「鉢の木物語」は、御家人たちの団結と、鎌倉殿への奉公を示すものとして有名です。<br />
この頃の武士たちは、主従の間が、固く結ばれて他に一族の団結も非常に強いものでした。</p>
<p>1247年(宝治元年)関東で最も大きかった豪族の三浦泰村が北条氏のために鎌倉で滅ぼされました。</p>
<p>そのとき泰村の妹の婿である上総介秀胤も、上総国の一宮(千葉県)のやかたで北条氏の兵に取り巻かれました。</p>
<p>秀胤はかねて用意していた薪をやかたの周りに積み上げて火をつけ攻撃を防ぎました。<br />
しかし、奮戦も虚しく、とうとう破れ、秀胤はじめ、その子どもたちはみな自殺しました。</p>
<p>秀胤の弟に下総次郎時篇という人がいました。</p>
<p>彼は死んだ父の残していた領地、垣生庄を治めていましたが秀胤のために取り上げられてしまいました。<br />
そのために、日ごろ秀胤を恨みに思っていました。</p>
<p>ところが、その一族に対する北条氏の攻撃のときには、時常も秀胤の軍に加わりおおいに戦い、秀胤とともに自殺しました。</p>
<p>一族の団結は、このように固いものでした。</p>
<p>下総次郎時常の話からもわかるように、御家人である武士の一族は固く団結していました。</p>
<p>彼らは、初めは源氏の将軍から、後には北条氏の執権から領地を認めてもらうことで、固く結びついていました。</p>
<p>こうした、土地を仲立ちとした主従の繋がりを封建制度といいます。<br />
このように、御家人が将軍や執権から受ける御恩と御家人が鎌倉殿に対して尽くす奉公とは土地をもとに結びついていました。</p>
<p>御家人が、将軍や執権と結びつくだけではありません。<br />
御家人とその家来たちの間も、同じように固く結ばれていたのです。</p>
<p>その結びつきを示すのに、次のような話があります。<br />
工藤行光という武士に勇敢な三人の家来がいました。</p>
<p>そして、彼らの勇敢な働きを聞いた将軍頼家が、その内の一人を召し抱えたいと申し出ました。<br />
ところが、工藤行光は言うことを聞きません。</p>
<p>「いままで多くの戦いに出ましたが、三人のお蔭で命を救われたことはたびたびありました。今頼りにするのは、この三人だけです。」と、頼家の申し出を、きっぱり断ったそうです。</p>
<p>主人と家来たちが、土地を仲立ちとして結ばれており、しかも、上から下まで主人と家来という繋がりで固く結ばれている世の中のことを、封建制度の世といいます。</p>
<p>封建制度は、頼朝の時代に始まって、次第に社会の全体に行き渡っていきました。</p>
<p><strong><span style="font-size:large;">鉢の木物語</span></strong><br />
上野国(群馬県)の佐野というところに佐野源左衛門常世という落ちぶれた御家人がいました。<br />
ある大雪の夜、常世は道に迷った旅の僧を泊めてやりました。</p>
<p>しかし、囲炉裏にくべる、薪さえ無かったりで、大事な鉢植えの木を切って僧を温めてやりました。<br />
そして、常世は、「落ちぶれてはいるものの、鎌倉殿の御恩は、決して忘れてはいません。</p>
<p>もしも鎌倉に一大事が起これば、第一番に駆けつけるつもりです」と語りました。<br />
やがて春になり、鎌倉から、関東の御家人一同集まるようにと命令が出ました。</p>
<p>常世も、痩せ馬に鞭打って急ぎました。</p>
<p>御家人一同が幕府の役所の庭に集まったとき、常世は執権北条氏の前に呼び出されました。<br />
常世が顔を上げると、執権の傍に、いつぞやの旅僧がいました。</p>
<p>この僧こそ、前の執権の最明寺入道北条時頼だったのです。</p>
<p>時頼は、言葉通り駆けつけた常世を御家人の手本であるとたいへん褒め多くの領地を与えました。<br />
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