今回は書物が作られた奈良時代の頃について、日本の歴史を紹介します。
この時代の大きな出来事の一つは、
「古事記」「日本書紀」「万葉集」「懐風藻」などの書物がつくられたことです。

壬申の乱に勝って天武天皇は位につくと、天皇の権威を歴史の上からも強く裏付けようと考えて、日本の歴史をつくろうと思いたちました。

この仕事が受け継がれ、奈良時代になって「古事記」「日本書紀」というニつの書物として実を結んだのです。

奈良時代の初め元明天皇のときに、太安万侶が稗田阿礼の助けを借りて、712年(和銅五年)に、三巻の書物を作り上げました。

これが「古事記」で今、日本に残されている書物の中で、一番古い歴史の書物です。

「日本書紀」は、元正天皇の720年(養老四年)に、舎人親王を中心とした大勢の学者が集まってつくったもので、

30巻と系図一巻からなっています。
「古事記」も「日本書紀」も、日本の国がどのようにして出来たのか、皇室は先祖からどんなに立派なものであったかということを、人々にわからせようしたのです。

しかし、皇室のことばかりでなく、古くから民衆の間に伝わってきた、さまざまのおもしろい物語も書かれています。

「古事記」がつくられた翌年に、朝廷は国々へ、土地の有様や動植物・鉱物・土地の名前の言われや、老人の伝える古い話などを書いて出すように命じました。

こうして、かなり長い間かかって出来上がったのが「風土記」です。
「風土記」は「古事記」や「日本書紀」に載っていない地方の物語がたくさん載っていて、古代人の生活や、古くから伝わる神話や伝説な知る上で大切な書物です。

奈良時代の終わりには、4500あまりの歌を集めた「万葉集」がつくられました。
仁徳天皇の歌から759年(天平宝字三年)の作品にいたるまでの歌がおさめてありますが、奈良時代の作品が多く載っています。

作者は天皇・皇后・大臣・役人・僧などから、地方の名も無い農民にいたるまで、いろいろの身分の人にわかれとています。

「万葉集」の歌を選んだ人はまだわかっていません。
はじめは朝廷の公の仕事として集められたものが、もとになっているようです。

しかし、終わり年のほうは、大伴家持のノートがもとになっている部分が多いので、恐らく大伴家持が整理したのではないかと考えられます。

奈良に都が移る前の歌人で秀れているのは、天智天皇・天武天皇・持続天皇・額田王・柿本人麻呂などで、それ以後では、山上憶良・大伴旅人・山部赤人・大伴坂上郎女・大伴家持などがいます。

奈良時代には、大陸の制度や宗教とともに、中国の書物な学び、漢文で文章を書くことが盛んになりました。

三国語で文章を書くにしても、漢字しか無かった当時のことですから漢字を使用するほか無かったのです。

大学では役人になろうとずる貴族の子弟に、中国の古典を教えていました。
漢文学が貴族の間に広がっていくと貴族たちは、漢詩をつくってみようという気になりました。

天智天皇の頃から漢詩以をつくる人があらわれてきました。
そこでこれらの漢詩を集めてできたのが「懐風藻」という日本最初の漢詩集です。

「懐風藻」は751年(天平勝宝三年)につくられました。
大友皇子から天平時代まで、64人の漢詩120編がおさめてあり、「万葉集」とならんで、奈良時代の文学の代表的作品です。

稗田阿礼と太安方侶

稗田阿礼は天武天皇に仕えていた人で、たいへん記憶力に優れていました。

天皇は、日本の歴史を書物にまとめたいと考えていたため、阿礼に、これまで語部などによって伝えられていた、長い皇室の歴史や、いろいろな物語・伝説を覚えさせておきました。

一方、太安方侶は、壬申の乱に手柄をたてた品治の子といわれ、有名な学者でした。

710年(和銅三年)平城京に都を移した元明天皇は、天武天皇いらいの、歴史書の編集を安万侶に命じました。

安万侶は早速、仕事にかかり阿礼の暗唱する話を、どんどん文字にしていきました。

しかし、この頃は、まだ平仮名やカタカナがありませんでしたので、文は全て漢字で書かなければなりません。

安万侶は苦心しながら阿礼の語る日本語に、漢字の音を当てはめて文にしました。
こうして出来上がったのが、日本で最も古い書物である「古事記」三巻です。

「古事記」には、神話も含まれていて、古代の人々のものの考え方や信仰なども、汲み取ることができますね。

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