今回は衣服の歴史について、日本の歴史を紹介します。


日本人の文化の歴史の内で、一番古い時代といわれる無土器時代の衣服の様子は、まだ資料が足りなくて、はっきりわかりません。

縄文時代になると、土器の表面に繊維による模様があることから、織物がつくられていたことがわかります。

この頃の土偶をみると、全身にぴったりする、詰襟で、筒袖の上着と今のズボンのようなものを履いていたようです。

これは、草原が多くて、季節によって、暑さ寒さの違いの激しい大陸の北方から伝わった衣服といわれています。

弥生時代の衣服は、銅たくの面に刻まれている人問の姿から、一枚の広い布の中央に穴をあけ、頭をつっこんできる貫頭衣であったであろうと考えられています。

南方の暖かくて、わりあい湿り気の多い地方の民族から伝えられた衣服で、麻や、その他の繊維で作られました。

これが後に前で裂け、袖がついて和服になったといわれます。
大和時代になると、五世紀頃から絹が輸入されました。
これで今の詰襟のような形に似た上衣をつくり衣(きぬ)といって男も女も着ました。

下衣は、男は袴といわれる、幅広いズボンのようなものを履き、女は裳といわれる長いスカートのようなものを履いていました。

この頃の衣服は、植物の根で、赤・青・黄などの色に美しく染められ、縫い取りもされていたようです。
これらの服装は、埴輪を見るとよくわかります。

奈良時代には、盛んに中国の文化が取り入れられました。
衣服なども、そのままの形を真似て用いられ、身分による違いがありました。

朝廷の儀式などのときには礼服、身分の高い役人の普段着は朝服、また普通の役人や、一般の人たちが、公の催しのときには、制服を用い、その他、普段に着る平服というように、四種類の階級をあらわす服装がありました。

平安時代の初め頃までは、中国の真似をした唐風文化でしたが、中頃になると、日本人の気持ちに合うように暮らしの様子が変わってきました。

美しい、全く日本風の文化が作り上げられたのですが、それも次第に型にはまったものとなりました。
貴族の男の礼服は、衣冠束帯といい、普段着るものには、直衣とか狩衣・水干・直垂などが用いられました。

これらは全て、丸襟で袖口が広く、足もともたっぷりしていて、普段着るものでも非常に動き難い戎服でした。

貴族の女性は、唐衣裳を着ていました。

後に十二単といわれるようになったもので、いろいろな色のものを何枚も重ねて着ました。

しかし、形式に捉われずぎて、非常に着苦しいものでした。

貴族と、一般の人たちでは衣服も違い、この頃の絵巻を見ると水干を着た人々や、袖なしとか小袖の着物を着た子どもなどの様子もわかります。

鎌倉時代から江戸時代にかけては、これまでの貴族に変わって武士を中心とした生活の文化が栄えました。

鎌倉士の生活は、たいへん質素なものでした。
平安時代の一般の人々の喪服であった、垂れ襟の直垂を正式の服にし、丸襟の狩衣を礼服として用いました。

室町時代になると、武士の気風も、貴族の時代のような形式を重んじる習わしになり、誰でも身分に応じた衣服を着るようになりました。

形式ばった儀式などのときには、頭に烏帽子をつけ、上半身には鎌倉時代と同じように直垂をきました。
身分の低い武士たちは、直垂と同じ形ですが、粗末な布地でつくった大紋というものを着ました。

これはもと貴族たちの家柄をあらわした織文(もよう)の布地を真似て、大きな家紋をつけることが流行したためです。

また、直垂よりも粗末な衣服として、素襖というものがありました。
これは形は直垂と違いませんが、上衣と袴が同じ色で袴には、こし板がついています。

さらに直垂から形のかわってきた衣服に十徳というものがあります。
これは、今の羽織のもとになるものといわれ、前を紐で結びました。

これは、始め一般の人たちの間で着ていたのですが、だんだん上武士も着るようになったのです。
南北朝時代には、武士の普段着として、袖をつけない直垂が用いられ、肩衣といわれました。

.室町時代から安土・桃山時代にかけて、もと貴族の下着であった小袖が、表着として着られました。
美しい絵模様を自由に染め出したものや、刺繍を使ったものなどが喜ばれ、小袖とともに帯が用いられるようになりました。

また明(中国)やヨーロッパから伝えられた、金らん・どんす・しゅらん・サラサ・ラジャ・ピロードなども、華やかな衣装に用いられています。

一般の人たちも、この頃から、綿でつくった木綿を衣服に取り入れるようになりました。
江戸時代には室町時代頃、武士の普段着であった肩衣ばかまが礼服となり上下と呼ばれるようになりました。

しかも、身分は衣服であらわされ、身分の高い人は長上下、身分の低い人は麻の上下を用いました。
武家の女性は、夏は腰巻、冬はうちかけという姿で、唐衣のなごりを留めていました。

一般の女性は小袖の袖が次第に長くなり、美しい模様を染め出した振袖姿が流行するようになり、帯も広く長くなりました。

羽織は武士や金持ちの商人が用いましたが、農民や町人は半天を着ました。
職人は腹巻・ももひきをつけ、その上に半天を着ていました。

長い間の鎖国から解放されて明治時代になると、ヨーロッパ文化が取り入れられ、礼服として洋服が用いられました。

まず、文.老人や役人の制服が洋服になり、しかも働きやすいことから一般の人々にも、広く着られるようになりました。

女性も上流婦人は、裾の長い華やかな洋服を着ましたが、一般にはあまり受け入れられず女学生は和服に袴をつけ、靴を履いて学校に通いました。

洋服が、広く女性に取り入れられたのは1923年(大正12年) の関東大震災などで、和服の不便なことがわかってからです。

昭和になると、女学生のセーラー服や、スカート・ワンピースなども広まりました。
太平洋戦争中には女性は、もんぺ姿で活躍しましたが、戦後はいろいろな職業につくようになり、ズボンなども、履くようになりました。

こうして経済的で便利な洋服は、毎日の生活になくてはならないものとなり、和服は家庭着や式服などに限られるようになりましたよね。