都では、毎日のように、強盗や殺人がおこっていました。
このように、世の中が乱れても、貴族には、
これを抑える勇気も力もありません。
貴族たちは、地方の武士をよび、自分たちの生命や財産を守らせようとしました。
武士もまた、貴族たちに仕えることを、名誉と考えました。
武士のことを「侍」とも言うのは、武士が貴族に、さむらう(傍について奉仕するという意味)ことからでた言葉です。
平将門や平忠常のように、朝廷に手向かいするものが出てきても、これを鎮めるためには、武士の力に頼らなければなりませんでした。
1051年(永承六年) 東北地方の豪族である安倍氏が、反乱をおこしました。
安倍氏はエゾ(蝦夷)の州長でしたが、十世紀頃には、今の岩手県のほとんど全部を支配するようになりました。
そして、国司の命令に従わず、租税も納めないようになりました。
そこで、陸奥国(青人森県・岩手県・宮城県・福島県)の国司が、数千の兵を率いて、攻めましたが、かえって負けてしまいました。
朝廷では、源頼信の子の頼義を将軍にして、安倍氏を討たせることになりました。
頼義の強いことを知っていた安倍氏は、たちまち、降参しました。
ところが、頼義が京都へ帰ろうとしたとき、ちょっとしたことから、頼義と安倍氏が、再び戦いを始めました。
エゾ(蝦夷)の州長である清原氏の助けで、ようやく勝つことができました。
1062年(康平五年)のことです。この戦いを、前九年の役といいます。
安倍氏をたいらげた手柄によって、源頼義は伊予守、源義家は出羽守になりました。
また源氏を助けた清原武則は、鎮守府将軍になり、安倍氏に代わって、東北地方で大きな勢いを奮うようになりました。
ところが、前九年の役から20年ほど経って、清原氏に内輪もめがおこりました。
義家は、その一方の清衡を助け、五年かかって、やっとこの争いを鎮めました。
これを、後三年の役といいます。
しかし、朝廷は、この争いは清原氏の内輪もめであり国に手向かった者をとり鎮めたのではないから、
と言って、義家にも褒美をくれません。
義家はしかたなく、自分の財産を投げ出して手柄を立てた部下に、褒美を与えました。
そのため、部下たちは、ますます源氏に従うようになりました。
平忠常の乱を鎮めてから、源氏は平氏に代わって東国に勢いを広めていきました。
前九年の役、後三年の役の二度の戦いでは、大勢の東国の武士が源頼義や源義家の部下になって戦いました。
この戦いは数年ずつ続き、しかも源氏にとっては苦しい戦いでした。
この苦しい戦いに勝ち抜いた源氏と東国の武士との繋がりは、一層強くなったのです。
また、義家は、部下を非常に大切にしたので、多くの人々に敬われ百姓たちも、その部下になろうと、田畑を我先に、寄付するほどでした。
義家の武力や評判には、貴族たちさえ恐れたほどです。
義家は、頼義の長男(長男のことを太郎といった)で、鎌倉の鶴岡八幡宮で元服(成人式)をしたため、八幡太郎とも呼ばれました。
後三年の役で、義家が味方となって助けた清衡は、もともと清原家の人ではありませんでした。
母は安倍氏の娘であり、父は藤原経清といいました。
経清は、前九年の役に、安倍氏の部将のひとりとして、源頼義らを苦しめましたが、後に捕えられて、殺されました。
夫を失った清衡の母は、幼い清衡をつれて、清原氏に嫁ぎました。
こうして清衡は、清原氏の家族のひとりとして育ち、後三年の役の後は、藤原氏を名のり、清原氏に代わって、奥州(東北地方) を支配するようになりました。
奥州の主になった藤原氏は、初代の清衡、二代の基衡、三代の秀衡と、およそ100年間栄えました。
そして、この三代に渡って、京都の文化を取り入れようと努力しました。
清衡の建てた中尊寺、基衡の建てた毛越寺、秀衡の建てた無量光院は、いずれも京都の寺に劣らぬ立派なものでした。
その有様は、いま平泉(岩手県)に残る中尊寺の金色堂から忍ぶことができます。
この金色堂には、清衡・基衡・秀衡の遺体が葬られており、ミイラとなって今に残っています。
金色堂のような、金をいっぱい使ったお堂ができたのも奥州が金の産地であり、藤原氏が非常に豊かであったからでした。