今回は宇宙時代とは? 日米安全保障条約の改定について、日本の歴史を紹介します。


宇宙時代と二つの世界

ソ連はアメリカに一歩さきんじて1957年、人工衛星の打ち上げに成功し1961年には、人間衛星の打ち上げをも成し遂げました。

ウォストーク一・二号に続いて翌六二年には同じく三、四号を打ち上げ六三年には五、六号を打ち上げました。

さらに六四年10月ちょうど東京オリンピックの真っ最中に三人乗りの人間衛星船ウォスホート(日の出)号の打ち上げにも成功したのです。

いっぽうアメリカでもソ連に負けまいとやっきになって人工衛星打ち上げの実験を繰り返し1961年に、人間の宇宙飛行に成功しました。

以来、ソ連を追いかけるように打ち上げを試みて、しだいにその差を縮め今ではある面ではソ連がある面ではアメリカが優れているといわれています。

とにかく、科学技術の開発に懸命に勤めている両国の争いは、いよいよ激しくなっていくことでしょう。
もはや、世界は科学時代というよりも宇宙時代にまで進んだのです。

このような時代に地球の上でたくさんの国々がひしめき競いあっているのは馬鹿らしいという考えが強くなってきました。

また、原子力兵器の発達はたちまち戦争を大きくして人類を滅しきってしまうだろうと予想されます。
そこで、平和をもとめる声がいちだんと強くなってきました。

日米安全保障条約の改定

それにも関わらず、現実はまだ国と国との間がしっくりせず侵略に怯えているところがあります。

アメリカは、日本との協力により共産王義諸国の勢力を封じ込めるための陣営を強めるために日米安全保障条約を改定することをもとめてきました。

前に定めた条約では条約の期限がはっきりせず、また日本とアメリカがお互いに受け持つ義務が漠然としていましたが、これらの点をはっきりさせて、いっそう同盟の形を明らかにしようとしたのです。

その改定は、1960年(昭和35年) に行われました。

しかし、このような条約を結んでは共産主義の国を刺激して世界の平和を乱し戦争に巻き込まれことになる

と考える国民の間に、激しい反対運動がおこりました。

これに対して岸信介内閣は共産主義の侵略を受けないようにしっかりと守りを固めるためには条約改定はぜひ必要だとして国会内外の強い反対を押し切って、この条約の改定を実現させました。

しかし、反対の声を無視して、この条約を成立させた岸内閣に対する批判は厳しく、ついにその年の7月には総辞職し池田勇人内閣に代わりました。

経済成長とその歪み

安保改定をめぐる騒動がおこったころ一方でも、日本経済が大きく成長するようになりました。
輸出がいちだんと増えて各企業の利益が増し、国民生活にもゆとりがでてきました。

ことに交通の開発は著しく進んで鉄道も、自動車もスピードアップが際立ってきました。
高速自動車道路も各所に開通するようになりました。

池田内閣になってからはとくに経済の成長が著しく政府は貿易促進政策を推し進める一方自衛隊の力を充実させました。

また民間の企業では、生産を高めるためにしきりに、設備の拡大をはかり労働者を増やすことに努めました。

しかし、このために必要な資本の多くは借金でまかなわれていたため商品の売れゆきが少しでも滞ると
企業は倒産の憂き目をみます。

1963年(昭和18年)頃から現れはじめた不景気は佐藤内閣に代わった1964年(昭和39年)になっても収まらず中小企業の倒産や物価高の傾向はますます激しくなっていきました。