今回は土一揆とは? 一向一揆・山城国一揆について、日本の歴史を紹介します。

土一揆とは

室町時代の農民たちは、次第に強く、まとまってきましたが、その結果領主の無理な命令に対してはカを合わせて手向かうようになりました。

例えば、年貢の割り当てが多すぎたり課役(領主から割り当てられた一種の税)が重すぎたりすることがあります。

すると、農民は、まず自分たちの困っている有様を訴えてでます。
それで駄目だと、みんなで村から逃げ出したりしました。

しかし、やがて大勢の力を頼りに力強く談判し、言うことを聞いてもらえないと手に手に、鎌や刀などを持ち集団で領主に手向かうようになってきました。

これを土一揆と言います。

土一揆は、すでに14世紀ごろからおこっていましたが1428年(正長元年)に、近畿地方におこった正長の土一揆が、最初の大規模なものだと言われています。

この一揆は、京都、奈良にまで攻め込みました。

土一揆の出した要求の中には、年貢を減らしてほしいとか徳政令を出してほしいというものが多く入っていました。

このうち徳政令を要求した一揆のことを徳政一揆といいます。

その他、馬借・車借などという交通の仕事をしている労働者の一揆もおこり、これは馬借一揆・車借一揆と呼ばれました。

これらは、しばしば土一揆と一緒になって大きな一揆を引き起こしました。

土一揆は、応仁の乱の後、年事に激しさを増し、しばしば都にも攻め込んで寺院や、金貸しを襲いました。

山城国一揆とは

1485年(文明17年) つまり応仁の乱のすぐ後に山城国(京都府の一部)の南部で大きな土一揆がおこりました。

これを、山城国一揆と呼んでいます。

その頃、南山城では、守護の畠山政長と畠山義就との間で、長い間、戦いが続けられていました。
そのため、一般の人々はたいへん迷惑していました。

これを見て、国人と呼ばれる勢いの強い名主たちが国内の土民を呼び集め、両畠山軍に戦を止めて山城国から出ていくように、申し入れました。

もし、止めなければ、実力で追い出すぞというのです。
長い戦いで疲れていた両畠山軍は、しかたなく国外に退きました。

そのあと、七年あまりもの間、山城国では五十六人衆と呼ばれる国人たちの話し合いの政治が行われたのです。

これを国支配といいます。

この山城国一揆に加わったものの大部は生活に目覚めた農民たちでしたが、その他に馬借や車借も入っていたようです。

一向一揆とは

この頃の一揆には、この他に一向一揆とか法華一揆のような宗教団体の一揆もありました。
一向一揆は一向宗の信者のおこした一揆です。

また、法華一揆は、法華宗の信者がおこした一揆です。
この内、最も激しかったのは、一向一揆でした。

一向宗の大元の寺は、大谷本願寺といって、はじめ京都の大谷にありましたが応仁の乱で焼けたため、越前(福井県)の吉崎続いて京都の山科に移りました。

この頃、蓮如という僧がでましたがこの人は気の強い人で、一向宗を広めるために、たいそう苦心しました。

その結果、越前国(福井県の一部)加賀国(石川県の一部)など北陸地方にたくさんの信者ができました。
そのうちに、山科の本願寺も焼かれたので今度は摂津の石山(大阪市)に本願寺を築きました。

石山本願寺は、いざというときには戦も出来る大名の城のような寺でした。

一向宗は一筋に、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行けるという教えですから、難しい理屈のわからない、一般の人々にも広く信じられたのです。

また、信者(門徒)の間の結びつきは、信仰を中心にして繋がっているだけに普通の人々の結びつきとは、比べ物のに、ならないほど固いものでした。

1488年(長享二年)、応仁の乱のすこし後で加賀(石川県の一部)におこった一向一揆は能登(石川県の一部)、越力中(富山県の一部)にまで広がりました。

一揆の人数は20万に達したと言われ、ついに、加賀国の守護の富樫政親の軍勢を破り政親を自殺させてしまいました。

それから、100年近くの間、加賀国では本願寺門徒が権力を握り僧と土地の豪族と農民の代表者による話し合いの政治が行われました。

そのため加賀国は、本願寺の領国だとさえ言われました。

一向一揆は、土一揆が沈められてから後も、なお強い力をもっていましたが、やがて織田信長や豊臣秀吉に征伐されてしまいます。



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