今回は最澄と空海について、日本の歴史を紹介します。
平安時代の初め頃、最澄と空海という、2人の偉い僧があらわれました。
最澄は、近江国(滋賀県)の生まれ、空海は、讃岐国(香川県)の生まれです。
2人とも、桓武天皇のときの遣唐使に従って、唐(中国)に渡り、新しい考えの仏教を学んで帰りました。
桓武天皇は、僧が政治に口出しすることを嫌いましたが神や仏の力を借りて、国を守ろうという考えをもっていました。
平安京をつくると、いち早く左京と右京に、東寺・西寺という大きな寺を建てたのも、その考えのあらわれです。
天皇は、最澄や空海の力を借りて、仏教を立て直そうと考えたのです。
最澄が唐で学んできた仏教は、天台宗という教えです。
これまで、日本に伝わった仏教は、南都六宗といって、六つの流派がありましたが、その中で一番盛んであったのは、法相宗でした。
法相宗では、人間は家柄によって、仏になることが出来るものと出来ないものとがあると教えました。
ところが、天台宗では、人間は誰でも仏になることができる。
人間のほか、この世の中の全てのものが、仏になることができると説きました。
最澄は、この教えを唐で学んで、日本に広めたのです。
また最澄は、これまでの僧が都の中の寺に住み、普通の人々と交わって、充分な修行をしなかったのを見て、これを改めなければならないと思いました。
そこで、京都の東北にある比叡山の山中に寺を建て、修行の場所にしました。
この寺を延暦寺といいます。
最澄はこの寺にこもり、僧は人々の手本になり、人々のために尽くさねばならない、そのためには、一心に学問に励み、修行を積まねばならぬと弟子たちに教えました。
こうして、天台宗からは立派な僧がたくさんでました。
最澄は、822年(弘仁22年)に比叡山で死にましたが、後々までも人々に敬われ、朝廷から伝教大師という名を送られました。
空海が唐で学んだ仏教を真言宗といいます。
真言宗では、人聞は生きたまま仏になれると教えていまず。
さらに空海は、お祈りやまじないによって、病気を治したり、災いを除いたりすることができると教えました。
このように、お祈りやまじないを重んじる仏教を密教といいます。
けれども、僧は人々のために尽くさねばならないという考えは空海も最澄と同じでした。
空海は、和歌山県の高野山に、金剛峯寺を建てました。
しかし、山の中にこもって修行するよりも、あちこちを歩き回って、人々のために尽くそうと心がけました。
そして、各地に橋を掛けたり、用水池をつくったりしました。
今でも讃岐平野の大切な用水地である万濃池は、空海が前からあった池を修理して大きくしたものです。
また、空海は大勢の人々に学問を広めようとして京都に、綜芸種智院という学校を建てました。
空海は、最澄より少し後の835年(承和2年)に死にました。
そして、最澄と同じように人々から敬われ、朝廷から弘法大師という名を贈られました。