今回は第一次世界大戦 強まる軍部の力について、日本の歴史を紹介します。


アジアの緊張

対外的には、日米協カの関係はいよいよ深められました。

第一次世界大戦後、正式国交を回復しなかった大韓民国との間にも日韓基本条約を1965年(昭和40年)に
取り交わすところまで進みました。

しかし朝鮮は、南北に二分したまま南の大韓民国と、北の朝鮮民主主義人民共和国とは対立を深めています。

したがって、その一方の大韓民国とだけ国交をはかることは非常に問題を残すのではないかと国会では野党の強い批判を受けました。

アジアではまた南ベトナムで、北ベトナム系の民族解放戦線(ベトコン)が激しく政府軍を攻撃し続けていましたが、これに武力介入をしたアメリカはしきりにベトコン・北ベトナム攻撃に力を入れだしました。

1965年(昭和40年) 頃からそれが本格的になると安保条約を結ぶ日本の米軍基地もなにかと騒がしくなりました。

ことに沖縄は、本来日本民族の居住するところで住民は早く祖国に復帰したいと願ってきましたが、まだアジアに勢力を保っておこうとしているアメリカにとっては、手放せないもののようです。

沖縄とともに、第二次世界大戦後アメリカ軍に管理されていた小笠原諸島は1968年(昭和43年)6月に
東京都に復帰しました。

沖縄の日本返還要求は最近急に強くなってきましたが、それを可能にさせる条件は、ベトナムの平和回復
アジアの国に際関係の安定です。

1968年4月にアメリカのジョンソン大統領はベトナムの平和回復をはかる交渉をはじめるという宣言をし
フランスのパリで会談がはじめられました。

そのほか、ソ連との間に溝を大きくして独自に共産主義国としての発展に努めている中国と、アメリカとの関係はまだまだ穏やかならぬものがあり、アジアの緊張は中々緩みそうもありません。

現在の日本の姿

マスコミュニケーションの広がりで国民大衆一般の文化水準は、近年高まっています。
家庭の中に、テレビが備えられる率もぐんぐん上がり、出版・報道機関の活動も盛んです。

交通・通信の発達が仕事の能率を急速に高め人々は、国際的な視野で物事を判断するようになりました。

1964年(昭和39年)には世界の人類をひとつに結ぶスポーツの祭典、第一八回オリンピック競技大会が東京で開かれ94か国から5500人あまりの選手が集まりました。

そしてこれを機会に、国内の観光事業は交通機関の発達とともに多いに整備されてきました。

また、日本の技術の素晴らしさがオリンピックのような機会に時かに世界の人々に認められるようになりました。

そして、そのもとになる科学的頭脳もいろいろな学界の交流活動で世界に知られるようになりました。
1965年(昭和40年)には湯川博士について朝永振一郎博士がノーベル物理学賞をうけました。

しかし、科学技術の進歩、文明の開発の著しい反面には、激しい交通戦争が人命をそこねることがあったりして問題になっています。

また、大都市の急速な伸びが自動車の排気ガス、工場の煙などによる公害問題を大きくしています。
国民の社会生活にはまだなにかと矛盾が多く釣り合いの取れていないところがあるのです。