今回は江戸時代に発達した農業について、日本の歴史を紹介します。

新田開発

村や字に、新田という名のついたところがあります。
これは、新しく開墾した土地という意味です。

江戸時代には、多くの新田がつくられました。
農村の人口が増えると田畑を多くしなければ生活できなくなります。

また、工業などは産物に比べてそれほど盛んではなかったので農産物が産物の大部分を占めていまいた。
そこで、将軍や大名たちも新しい田畑を開いて産物を多くしようとしました。

そして、新しい田畑には3年間は税をかけないとか税を軽くするとかして開墾を奨励しました。
また、用水路を掘って多くの田に水が行き渡るようにしました。

このため,17世紀になってから田畑は急に増え、16世紀の末に150万ヘクタールほどあった田畑は18世紀の半ばに、300万へクタール19世紀の末には450万ヘクタールに増えました。

今、新田という名の付いているところは大抵、江戸時代に開かれたところです。

農業の研究

田畑が増えて、多くの作物がとれるようになったほかこの時代には、新しい肥料が使われるようになりました。

江戸時代の初め頃は灰や下肥えを使ったり草をすきこんだりしていました。

やがて、鰯を干した干鰯(ほしか)や菜種から油をしぼりとった後の油かすなどを肥料として使うようになりました。

そのため、同じ田畑から今までよりずっと多くとれるようになりました。

肥料がよく効いていると台風や寒さにも耐えるカがありますから風害や冷害も少なくすることができました。

この頃、イナゴなどの害虫の被害も度々ありました。

吉宗が将軍であった1732年(享保17年)には中国・四国・九州地方でイナゴの被害で、ほとんど米がとれず多くの人が餓死にしました。

その後、クジラの油を田に蒔いてイナゴの幼虫を殺すことが考ただされたので虫害で死人がでるようなことはなくなりました。

新しい農具

農具が便利になると仕事もはかどります。
イネを刈り取ったあともみを取り、そのもみの殻を取ったのが玄米で、それをついて白米にします。

稲からもみを取るのがたいへんな仕事で江戸時代の初期まで、こきはしという脱穀用具が使われていました。
長さ10.5尺~2尺の竹の棒二本を左手で垂直に立て右手に持った稲の穂を二本の竹の間に挟んでこき下ろすものです。

竹の棒はだんだん短くなってニ寸(一寸は3.03センチ)くらいのものが使われるようになりました。
ところが17世紀の末、元禄の頃に千歯こきという道具が発明されてからこきはしは衰えました。

干歯こきが使われるようになって脱穀はずっと捗りました。

千歯こきは、はじめ竹歯のものでしたが後に鉄歯にかわり歯並びが前方に倒されるなどの改良が加えられ大正の頃、足踏み式脱穀機ができるまで広く使われました。

もみをついたり精米したりするにも水車が用いられるようなり、あちこちに水車小屋が見られるようになりました。

新しい作物

江戸時代には、新しい作物が多く作られるようになりました。
綿が広く作られ多くの人々が木綿の着物を着ました。

また、いろいろな作物が外国から伝わり栽培されました。

カボチャはカンボジアからジャガタライモ(バレイショ)はジャカルタから伝えられたもので、まもなく全国で作られるようになりました。

サツマイモは、北九州で琉球イモといい薩摩(鹿児島県の一部)では唐イモとも言いますが、これも琉球(沖縄)から伝わってきたものです。

サツマイモは、青木昆陽の力で栽培がすすめられ痩せ地でも出来るし日照りで米が取れない年などには
たいへん助かりました。

養蚕の広まり江戸時代以前も、蚕を飼って糸を取り絹をおることは行われていました。
しかし、まだそれほど盛んではなく中国から生糸や絹織物を輸入していました。

江戸時代になると養蚕は非常に盛んになり全国に広がっていきました。

慶長のころ養蚕・絹織物は東北地方を覗いた22ヵ国で行われていたのが200年後の19世紀の初めには東北地方を含む41ヵ国に広がりました。

特に養蚕の盛んなのは信濃(長野県)上野(群馬県)・陸奥の南(福島県)の地方でした。

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