今回は日本の宗教の歴史について、日本の歴史を紹介します。
人間は、いろいろわからないことを、わかるまで調べようとするものです。
何千年という長い間の人間のこの努力のために科学や技術が進み、文明も栄えてきたのです。
しかし、人間の頭の中には、まだわからないことがなにか残っているような感じです。
例えば、人間が生きる、または死ぬということを人の知恵では説明できない、不思議なことだという人もいます。
死ぬことを恐れている人はたくさんいます。
このような人たちの気持ちは、科学や技術だけでは満足できません。
人間の命の問題や、生活の不安などを、どのように考えたら安心できるだろうかといったことを教えるものが宗教です。
このようにして、宗教は文明の発達した国々においても人々に求められ、信じられているのです。
大昔には、人間の知恵が発叢していませんでした。
そのため、自分の周りの山・川・草・穂・石など、全ての自然物に神が宿っていると考えました。
そして、人々は神の言葉通りに動き自分たちの体や生活が安全であるよう神に祈りました。
農業が始まると、水の神・田の神などという、農業の神が考えだされ、人々はそれに祈ることによって農業が盛んになるように願いました。
神水の神や田の神は、本家や分家の集まりによって祀られました。
そうした神が氏神です。
氏神には、山の神や、先祖の魂や、他にもいろいろの神がありました。
やがて、大陸から仏教が伝わりました。
人々は丁度、氏ごとに氏神を拝んでいたように、氏寺を建てたり、氏ごとに寺の行事をしたりしたのです。
仏教が盛んになったのは、聖徳太子の頃からでした。
しかし時代によって、いろいろ性質が違ってきます。
奈良時代の仏教は、国の政治に力をつける教えと考えられました。
仏教を信仰することが、そのまま国の守りとなり国を平和にするものだと言われるようになったのです。
奈良に大仏がつくられたり、諸国に国分寺や国分尼寺が建てられたのもそういう考えかたがもとになっていました。
また、寺は学問のための大学であるとも考えられていました。
一方、神社のそばに神宮寺が出来たり、寺の鎮守の神が祀られたりしたように、神と仏とは接近していきました。
平安時代には最澄・空海が天台宗や真言宗を広めました。
この僧たちは、もっと人々の暮らしの中で、仏教の教えを生かそうと考えいろいろのまじないや、お祈りをするようになりました。
ところが、平安時代も半ばを過ぎると、貴族は生活に段々自信が持てなくなりました。
荘園の収入は充分でなく、また同じ貴族でも、藤原氏の本家ばかりに力があって、分家や藤原氏以外の貴族はたいして良い位にもつけません。
そういう貴族は、だんだん、この世が嫌になるのです。
この不安な気持ちを救ってくれるのが、浄土の教えでした。
浄土教というのは源信や空也によって、広められた教えです。
念仏を唱え、阿弥陀を信じれば、死んでから極楽にいって、不安の無い暮らしができるという教えです。
これが平安時代の末に、おおいに流行りました。
鎌倉時代には、この浄土教をもとにして法然が浄土宗を、その弟子、親驚が浄土真宗をおこしました。
浄土真宗は民衆の間にも広まっていきました。
元が攻めて来た頃、日蓮が今までの宗教はみな間違っている、もっと法華経を信仰せよと鎌倉の町々な説教して周り、法華宗を初めました。
また、鎌倉時代には、禅宗がたいへん喜ばれました。
禅宗は行事や学問に頼ったりせずに、じっと座禅を組んでで自分のカで、心の迷いを捨てよ、といった教えでした。
このように、鎌倉時代には、いろいろの仏教が新しくおこりました。
これらの仏教は、天台宗や真言宗と違ってあまり、お金が無くても信仰できましした。
そのために、広く民衆の間にも、広まっていきました。
とくに、親鸞の浄土真宗は、室町時代には、民衆の力を集めてたいへん大きな勢いを持つようになりました。
鎌倉・室町の時代は、仏教が広まった時代といえます。
そのため神社の方でも、このままではいけないと考えるようになりました。
神社とは何か? 神とは何か? と言うようなことをもっと深く考え直そうという人たちが現れててきたのです。
また、仏教と神道とは、どんな繋がりがあるかということも議論されました。
初めは、神は仏が姿を変えたものだという考えもありました。
やがて、神が仏に変わったのだという意見が強くなりました。
日本の神道は、こうして次第に形を整えてくるのです。
室町時代にはフランシスコ=ザビエルが日本へキリスト教を伝えました。
それ以後、キリスト教を信仰する人は、段々増えていきとくに西日本では、熱心な信者がたくさん現れました。
キリスト教は次第に江戸幕府の政治の上に邪魔になってきました。
幕府は、張り付けや火炙りなどの刑罰をもってキリスト教を押さえつけました。
さらに、キリスト教を禁じるために、外国との付き合いをしていては駄目だということになり将軍徳川家光のときに鎖国が行われました。
幕府はキリスト教の取り締まりのため、檀家の制度をつくり、寺と民衆を結びつけました。
これは、誰でもどこかの寺に名前をおきその寺へお参りしなければならないという制度です。
この制度で安心した寺は、仏教を広め人々の信仰を強くするような努力をあまり行わなくなりました。
寺は戸籍を預かり、葬式をするだけのものになっていきました。
江戸時代の前まで仏教と結びついた、いろいろな芸術や学問が盛んでしたが江戸時代から後は、仏教と芸術との繋がりも切れてしまいました。
ところが、江戸時代も末になると、世の中は非常に不安になりました。
例えば、百姓一投などがおこり幕府はだんだん弱くなりました。
こういう不安な世の中で、金光教とか天理教などの新しい神道の宗派がおこりました。
明治の初めには、神道が盛んでした。
明治維緋の力となった学問が、神道と深く繋がっていたからです。
しかし、文明開化の世になると、キリスト教が流行しました。
やがて、憲法で信仰の自由が謳われましたが、本当の自由は、太平洋戦争後の憲法によって決まったのです。
太平洋戦争に負けた後、人々は大きな不安に落ち込みました。
江戸時代の末に新しい宗教が生まれたようにこのときにも、新しい宗教がぞくぞく生まれました。
古くからの宗教が形だけ整っていて、人間の心に触れるものが無くなるとこうした多くの新興宗教が栄えるのです。