今回は学校の歴史について、日本の歴史を紹介します。
みなさんの学校は、小学校とか中学校と呼ばれています。
ところが、みなさんの叔父さん、叔母さんなどの中には国民学校で勉強した人もいます。
お父さんやお母さんの中には尋常小学校や高等小学校、女学校で学んだという人もいます。
国民学校・尋常小学校・高等小学校、女学校などとし名前の学校は、今はみんな無くなってしまいました。
貴族の学校
日本で、いちばん古い学校は701年(大宝元年) にわかれた大学・国学という学校です。
ヨーロッパでは、今から二千三、四百年前ギリシア時代にあったと言われていますから、日本より、1 000年以上も古いわけです。
しかし、昔の学校は今とはたいへん違っていました。
特に違うところは、特別のことを教えるために学校がつくられていたということです。
大学・国学
日本でいちばん古い学校である大学や国土は役人をつくるための学校でした。
そしてその頃、役人になれるのは貴族の家柄の人に限られていましたから、学校に入れるのも貴族の子どもに限られていました。
学校で教えられた学問は中国から伝わった儒学という学問や歴史・文学・法律などでした。
また、特に身分の高い貴族は私立の学校をつくって、一族の子どもたちに学問をさせました。
藤原氏の勧学院・橘氏の学館院などがそれです。
綜芸種智院
このように、古代の学校は位の高い人、身分の高い貴族たちのものであり普通の農一民などは勉強をする機会はありませんでした。
ただ空海(弘法大師)が京都に開いた芸種智院だけは一般の人のための学校でしたが30年ほどで潰れてしまいました。
武士の学校
貴族に代わって、武士が政治をするようになった鎌倉・室町時代には武士のための学校が、つくられました。
神奈川県の金沢文庫や栃木県の足利学校はこの頃つくられた武士の学校で今も載っています。
この頃になると、鎌倉や京都では寺子屋のようなものがおこりはじめました。
武士や貴族の子どもを教育するだけで普通の人たちは、家で父母から必要なことを少しばかり教わるだけでした。
江戸幕府の学校
江戸時代になると、学問がたいへん盛んになりました。
江戸幕府は、昌平坂学問所をつくり幕府の武士や武士の子どもを教育しました。
藩校
地方の大名は、藩の学校をつくって家来の武士や武士との子どもを教育しました。
これが藩佼と呼ばれるもので水戸(茨城県)の弘道館・熊本の時習館鹿児島の造士館などが、有名な藩校です。
町人の学校
江戸時代の中頃になると町人の勢いが強くなり、彼らの学校として寺子屋が生まれました。
寺子屋には、6、7オから入り四、五年の間に習字やそろばんなど普段の生活に必要なことを勉強しました。
先生には、僧や、浪人があたりました。
江戸時代の終わり頃には寺子屋は、ますます盛んなりました。
明治の学校
明治になると、遅れていた日本の文化を進めるために盛んに、西洋の文化が取り入れられました。
学校のやり方についてもそうでした。
義務教育
政府は1872年(明治五年)新しい学制を決めました。
これによって小学校がつくられることになり上等小学校と下等小学校にわけられ学年はそれぞれ四年間でした。
そして、下等小学校の四年間は国民の義務として誰でも受けなければならないと決められました。
1886年には、尋常小学校、高等小学校となり、さらに1907年には尋常小学校は6年になりました。
明治時代は、小学校が増えたうえに中学校や大学も出来て、その後の教育のもとが出来たときです。
太平洋戦争中の学校
その後、制度や、義務教育の年数に度々、変化がありました。
教育の仕方や、教科書なども何回か代わり、やがて、満州事変、日華事変と戦争が続きました。
学校にも、次第に戦争向きの教育が行われるようになりました。
1941年(昭和16年)太平洋戦争のはじまった年、政府は今までの尋常小学校・高等小学校を国民学校と改めました。
そして初等科六年、高等科二年の八年間を義務教育にする計画をたてました。
それまでは、小学校の六年だけが義務教育で高等小学校の二年は義務教育ではなかったのです。
しかし、この計画も戦争がますますひどくなったため実行されず太平洋戦争は終わりました。
戦後の学校
1945年、太平洋戦争が終わると日本を占領した連合軍の手によって、次々と日本の社会は民主化されました。
学校も民主主義の建前に沿って全く変わったやり方になり六三制の教育制度がつくられました。