縄文時代の「衣食住」について紹介します。

たて穴式(竪穴式)住居

この頃の住まいは水の得やすい丘の上に南向きに建てられてきました。
差渡し4,5メートルの地面を浅く掘り下げ、その中に4~6本くらいの大きな柱を建て、その上に木や草などで屋根をこしらえただけの簡単な住まいでした。

これをたて穴(竪穴)式住居と呼んでいます。
住まいの大きさはつくられた年代によって違い、また床の形も円形・楕円形・四角形などと様々です。

床のほぼ中央には炉がつくられ周りの土の上には、草などが敷かれていました。

炉の火は住まいを暖めるとともに中を明るくするのに役立ちました。
炉の隅には釜戸があって食事の支度もここでされたようです。

火を起こすときには、木と木を激しくこすり合わせました。

千葉県市川市の姥山貝塚には、たてあな(竪穴)式住居の跡が残っています。
夫婦らしい男女、幼女ひとり、若い女ふたりの骨が一緒になってこの住まいの跡から発見されました。

一つの住まいに一つの家族が住んでいたことがこのことから大体想像できます。

狩りと魚とり

この頃の人々はまだ農業や牧畜を知りませんでした。
そのため獣や魚・会・木の実などをとって暮らしていました。

海や川のほとりでは骨でつくった釣り針やモリでいろいろな魚をとり網を使うこともありました。
魚の他に、タコ・ウニなどもとっていたようです。

貝はいろいろな種類のものをとっていたらしく200種類以上の貝殻が貝塚から発見されています。
野山では木の実をとり、鳥やウサギを捕まえ、クマ・イノシシ・シカなどの大きな獲物をとるときは大勢で出かけたようです。

衣服

縄文時代の人々は詰襟の学生服のような形の上着を着てズボンのようなものを履いていたようです。

それも体にぴったりくっついたものであったと考えられています。
これはその頃つくられた土偶という土人形から想像されます。

土偶に関しては未来人や大昔に地球に訪れた宇宙人だという説もあります……。

ただ、土偶は信仰のためにつくられたものですから、これだけでそこの頃の衣服の様子を言い当てるのは無理かもしれません。

動物の皮でつくったもっと簡単なものもあったと思われます。
衣服の材料もはっきりしたことはわかりませんが、晩期の縄文式土器に織物の模様がついているのがあります。

縄文時代の終わり頃には、もう織物がつくられていたのでしょう。
また土器の底に繊維を編んだものの跡がたくさん見られるので繊維の編み物も衣服に利用されていたと思われます。

いろいろな習わし

この頃の人々は体にいろいろな飾りをする習わしを持っていました。
耳や唇に穴をあけてボタンのような飾りを差し込んだり、動物の骨、木の実などを細工して首や手足につけたりしていました。

貝殻に穴をあけて腕輪を作ることもありました。
これらの飾りは貝殻からたくさん発見されています。

また人々は大人になった印や体を守る呪いとして刺青をすることもありました。
土偶の顔に色を塗った部分があるのはその証拠と考えられています。
この他、ある年齢になると特定の歯を抜き取る習わしもありました。

これも呪いの一種として行われたものでしょう。

死体は、手足を折り曲げて直に土の中に埋める変わった習わしもありました。
これは死人の魂が体から離れないようにという気持ちから行われたものと考えられます。

人々は死人の魂が身体から離れると、いろいろな災いをすると信じていたようです。
しかし、縄文時代の終わりごろになると次第に手足を伸ばして埋めるようになってきました。

部落の暮らし

たてあな(竪穴)式の住まいが幾つか集まって部落が作られました。
縄文時代の初め頃にはその数はまだ少なく、5、6戸くらいでしたが中頃からは十数戸の部落もつくられました。

部落の真ん中には広場がつくられました。

人々はこの広場で共同で仕事をしたりお祭りをしたのでしょう。
女の人は家の周りで木の実を拾ったり、土器をつくったりしていました。

男の人は遠くの方へ獲物を獲りに出かけました。
それも大きな獲物を獲るときには部落の人々が何人か共同で出かけたことでしょう。

共同で出かけたほうが危険も少なく仕事も楽になるからです。

そして獲物も公平にわけられ豊の人と貧しい人との違いもほとんどなかったというのが定説です。

また、人々の上に立って治めるような人も治められるような人もいませんでした。
小さな部落の中で、お互いに助け合いながら、ほとんど差のない暮らしをしていたことと思われます。

信仰

この頃の人々は太陽や月、雨や風、山や川など人々の生活に恵をもたらす自然を敬いました。
同時にときには大きな破壊力を持つ自然の力を大変恐れました。

そして恵をより多く受けて、自分たちの生活が一層豊かになるように祈りました。
土偶という土で作った人形はその祈りの目当てとして作られたもののようです。

この土偶は縄文時代の初めから見られますが盛んに作られるようになったのは中頃から終わり頃に掛けてで女の人をかたどったものがたくさん見つかっています。

人々は狩りの獲物がたくさん獲られるように、木の実などが豊かに実るように、災いがおきないように
また丈夫な子供がたくさん生まれるように、この土偶にお願いし祈りを込めたのでしょう。

また土偶の他にも土面・土版といわれるものが盛んに作られました。
いずれも粘土を焼いて作ったもので図案化した目や口などを表しています。

これも土偶と同じように一種のお守りのようなものとして使われていたようです。
この他、石ぼうという棒のような形をした石器も発見されています。

日あたりのよい丘の上などで、大きな石を建てたり、並べたりした移籍(環状列石)も残っています。
しかし、これらはどんな目的で使われたのか今のところまだ、はっきりわかっていません。

日本の歴史は奥が深いですね。

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