今回は大和時代(古墳時代)の頃の天皇と豪族の関係について、日本の歴史を紹介します。

仁徳天皇陵を見てもわかるように五世紀頃の天皇の力はかなり強いものでした。
しかし、後に皇室の中で天皇の位をめぐって内輪もめが起こったため次第に天皇の力は衰えていきました。

一方ではこの隙に豪族が力を伸ばしてきて皇室の内輪もめを利用しました。
その結果、天皇の地位も力の強い豪族の助けがなくては危ないような時代がやってきました。

まず葛城氏が仁徳天皇の3人の子どもを次々に天皇にして勢いを奮いました。
これが履中・反正・允恭(いんぎょう)の三天皇です。

やがて平群氏(へいぐりうじ)がこれに変わって勢いを奮いました。
平群真鳥・鮪(しび)父子などは武烈天皇に負けないくらいの勢いをみせました。

武烈天皇がなくなると皇室にはこれまで続いた内輪争いのために後継がなくなってしまいました。
豪族たちは誰を後継にしたらよいのかと集まっていろいろ相談をしました。

その結果、大伴金村という人の努力で遥かに遠い皇室の親戚を天皇にしました。
この天皇は五代も前に皇室から別れ、そのころ越前国(福井県)に住んでいたのかを探し出したのです。

これが継体天皇で六世紀の初め頃のことです。
この大伴金村の努力がきっかけとなって大伴氏の勢いはにわかに伸びてきました。

ところがこの勢いもまもなく衰えてしまいます。

というのも金村が百済(朝鮮半島の国)の願いを聞き入れて任那(みまな)の一部をわけてやってしまったからです。

任那の人々は大伴氏の勝手なやり方に腹を立てました。
そればかりか朝廷の中でも物部氏などが大伴氏をせめました。

任那をわけてやったのは大伴金村が百済から賄賂をもらったからだと言うのです。
このため金村はたまらなくなって、ついに難波(大阪)に引っ込んでしまいました。

こうして大伴氏の勢いもわずかな間に衰え、物部氏がこれに代わって勢いを増してきました。
この頃、わが国では大陸や朝鮮半島との交通が益々盛んになり、朝廷の財政も次第に大規模になってきました。

そのためこれを扱うのは読み書きや計算がよくできる人でなければなりませんでした。
それでこういうことにはなれた帰化人が大勢用いられるようになりました。

こういう帰化人を率いて朝廷の倉庫の取り締まりをしたのが蘇我氏です。
蘇我氏は膨れ上がる朝廷の財政を握り次第に実力を蓄えていきました。

このため大伴氏が衰えた後は蘇我氏と物部氏が朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合うようになったのです。

蘇我氏と物部氏はその性格がたいへん違っていたので仲の悪いことも一通りではありませんでした。
物部氏は古くから朝廷に仕える武将の家柄でどうしても古くからのしきたりを大切にします。

蘇我氏の方は家柄も新しいし、しかもその頃としては進んだ職業に就いていたので新しい考えを持っていました。

こういう正反対の性格を持つ二つの豪族が仲良く手を取り合って政治をやっていくことはとても臨めません。

そこへこの二つの豪族のにらみ合いを一層激しくするような事件が起こりました。
それは538年、百済の聖明王が朝廷に仏像を奉ったこと、つまり仏教の伝来です。

そのときの天皇は仏教を反対し進歩的な蘇我氏は賛成しました。
このため朝廷の議論はまっ二つに割れてしましました。

物部氏と蘇我氏の争いに仏教が巻き込まれてしまったというわけです。
587年、用明天皇がなくなるとその後継のことで蘇我氏と物部氏の間に争いが起こりました。

蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推し、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推したのです。

争いの結果、蘇我馬子は穴穂部皇子と物部守屋を殺して臨み通り泊瀬部皇子を位に就けました。
これが崇峻天皇(すしゅんてんのう)です。

これから後はもう朝廷の中で蘇我氏と張り合う豪族は一人もいなくなりました。
馬子はますます権力を奮いました。

やがて天皇と仲が悪くなるとこれを襲って殺してしまいました。
592年、蘇我氏の後押しで推古天皇が位に就きました。

推古天皇は蘇我馬子の親戚で女の天皇でした。
男の天皇では争いが起きやすいので女の天皇をたてたのでしょう。

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