今回は聖徳太子と法隆寺について、日本の歴史を紹介します。

六世紀に百済から仏像やお経が伝わって来てからも最初の内は仏教は中々広まり難かったようです。
というのも仏教を信じるか信じないかで、蘇我氏と物部氏の争いがあったり敏達天皇のように仏教に熱心でない天皇がいたりしたからです。

しかし、585年には聖徳太子の父であり仏教に熱心な用明天皇が位に就きました。

また587年には仏教に反対だった物部守屋が滅ぼされました。
そのためこの頃から仏教が非常な勢いで広まって行きました。

聖徳太子が摂政になったのは丁度こういうときでした。
聖徳太子は父の用明天皇と同じように厚く仏教を信じ、また研究もしていました。

しかも太子は自分一人で仏教を信じているだけでは満足しませんでした。
仏教の力を借りて社会の不安を沈め人々の心を和らげて住みよい国土をつくりあげようと考えていたのです。

七世紀のはじめ太子は大和(奈良県)の斑鳩の地に法隆寺を建てました。

寺を建てたばかりでなく仏教の研究にも力を入れ天皇にお経の話をしたり、三経義疏(さんぎょうぎしょ)というお経のことを説明してそれを自分のものにしていたということがわかります。

仏教の平和を尊ぶ考えは摂政としての太子が最も大切にしたものでした。

推古天皇以前にも蘇我氏の建てた法興寺のように寺はありましたが、聖徳太子は皇室でも寺を建てて仏教を広めようとしました。

寺を建てるにはその建築や彫刻などにたくさんの費用がかかります。
しかし、寺を建てるということはその頃としては立派な文化事業でした。

ですから皇室が寺を建てるということは皇室が文化を推し進めているということになり、都合がよかったわけです。

聖徳太子の建てた法隆寺はその優れた建築や彫刻で有名ですが今残っている建物は670年に一度焼けてから建て直したものです。

その金堂(寺の中心となる仏を祀っておく建物)は七世紀の終わり頃に、また五重塔は八世期の初め頃に建て直されたものと思われます。

しかし、その建て方は焼ける前のものとほぼ同じだと言われていました。
ですから今の法隆寺を見れば大体の聖徳太子の建てた法隆寺を思い浮かべることが出来るのです。

また、例え建て直したものだとしてもこれが世界一古い木造建築であることは確かです。
さらに寺にある釈迦三尊像や薬師如来像・四天王像などの彫刻もその頃につくられたものでしかも第一級の美術品です。

その頃の豪族や人民は聖徳太子が建てた法隆寺を見て文化を導くものは皇室だという感じをはっきりともったことでしょう。