今回は飛鳥時代の文化について、日本の歴史を紹介します。


聖徳太子のころ都は代々飛鳥地方(奈良盆地)にありました。
それでこの時代を飛鳥時代とも言います。

この時代の文化はいろいろな影響から外国から受けています。
近くは朝鮮・中国から遠くはギリシアうあペルシア(イラン)の影響も見られます。
また、飛鳥文化は仏教文化と言われるほど深く仏教の影響を受けています。

まず学問について言えば、中国や朝鮮から優れた僧や博士がやってきて大陸や半島のいろいろな学問を伝えました。

602年、百済の僧観勒がやってきて暦や天文や地理などの学問を伝えました。
610年には高句麗の僧曇徴が絵の具・墨・水うす(水力で回すうす)の作り方を伝えました。
また、聖徳太子は高句麗の僧恵慈からお経を百済の博士覚哿から中国の学問を学んでいます。

これらの学問や技術が文化の発達に役立ったことは言うまでもありません。

美術の方でも新しい動きが見られます。
それまでの家は柱を建てそこに板やかやで屋根をふいた粗末なものでした。

ところがこの時代になると土台に石を並べ屋根に瓦を乗せる新しい建築法が伝わってきました。
こうして盛んに寺が建てられ法隆寺のような優れた建物が生まれたのです。

仏像ももちろん大陸から伝えられたものです。
今まで見たこともない金色に輝く優しい仏像の姿に人々は目を見張りました。
しかも法隆寺の柱の側面には膨らみ(エンタシス)があり、ギリシア建築の影響が見られます。

↑ギリシアのパルテノン神殿(上)と法隆寺中部(下)の柱に見られるエンタシスまた天馬(ペガサス)の模様を彫り付けた銅の水差しがありますが、この模様はペルシア(イラン)で盛んに使われていたものです。

そのほか物を入れる器や仏像の光背などに使われているツタの絡んだような模様は唐草模様と言って
やはり西南アジアから伝わってきたものです。

つまり、この時代の文化はただ朝鮮や中国から影響を受けただけではなく遠くヨーロッパうあ西南アジアから中国や朝鮮を通って日本に伝わってきたものも入っているのです。

飛鳥文化は国際的なにおいが豊かだったと言えますね。