今回は山背大兄王の変について、日本の歴史を紹介します。

622年、聖徳太子は自分の始めた新しい政治の結果をよく見ないうちに亡くなってしまいました。
すると、これまで一応大人しくしていた蘇我氏がまたまた自分勝手な振る舞いをするようになりました。

624年、蘇我馬子はそこのろ皇室の領地だった大和の葛城県(奈良県の一部)を頂きたいと申し出ました。

推古天皇はたいへん困りましたが葛城県は自分一人の土地ではないからと言って断りました。
蘇我馬子は聖徳太子がなくなるとすぐにこんな要求を持ち出してきたのです。

628年、推古天皇は後継を決めないまま亡くなりました。
これは蘇我氏に遠慮したためで、後継は蘇我氏の好きな人をたてるようにと考えたからでしょう。

そのころ天皇の後継として山背大兄王と田村皇子の2人が有力でした。
このうち山背大兄王の方は父が聖徳太子、母は蘇我馬子の娘ですから蘇我氏にはすごく繋がりの近い人でした。

ところが山背大兄王の叔父にあたる蘇我蝦夷は王が天皇になることを喜びませんでした。
というのも聖徳太子がたいへん偉い人だったので、さすがの蘇我氏も聖徳太子には頭が上がりませんでした。

その上、今度は聖徳太子の子供でもあり人々の信用もかなりある山背大兄王のような人に天皇になられては都合が悪いと考えたからでしょう。

こんな訳で蘇我蝦夷は全く血のつながりのない田村皇子を次の天皇にしようとはかり皇族(天皇の親戚)や豪族などの集まりを開きました。

この集まりでは山背大兄王の見方をする人も多かったのですが、蘇我蝦夷は無理矢理に田村皇子を天皇にしてしまいました。

これが舒明天皇です。

山背大兄王は不満だったに違いありませんが蘇我氏の勢いの前にはどうすることもできませんでした。
641年、舒明天皇が亡くなりました。

山背大兄王は今度こそ天皇になれると思ったことでしょう。

ところが蘇我蝦夷はあくまで王が天皇になることに反対したらしく次の年に舒明天皇の皇后だった宝皇女が天皇になってしまいました。

こうして山背大兄王はまたも当てが外れてしまいました。
王は蘇我氏の振る舞いにひどく腹を立てたに違いありません。

蘇我蝦夷の子に、蘇我入鹿という人がいました。

蘇我入鹿は父以上に力を奮いわがままな行いが多かったようです。
山背大兄王の私有民を平気で勝手に使ったりしました。

そればかりではありません。

蘇我入鹿は人々に人気のある王を目の上のこぶのように邪魔者扱いにし、とうとう王を殺してしまおうと決心しました。

643年、蘇我入鹿は軍隊を遣わし不意に山背大兄王の屋敷を囲んで責め立てました。
王は一度は山の中に隠れました。

お付きの人は王に
「東国へ逃げて、そこで兵を集め蘇我入鹿と戦いなさい」
と勧めました。

しかし、王はこれを断り
「自分のために人々を殺したくない。自分の命を蘇我入鹿に与えれば済むのだ」
と応えて家族と一緒に自殺してしまいました。

この事件を山背大兄王の変といいます。

これは先に崇峻天皇が蘇我馬子に殺された事件につぐ大事件でした。

そして、日本の歴史は続いていきます。




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