今回は中大兄皇子と中臣鎌足について、日本の歴史を紹介します。
入鹿の振る舞いを見て、苦々しく思う人は少なくなかったのですが、蘇我氏の力が強いのでうっかりしたことはできません。
舒明天皇の子どもの中大兄皇子も、蘇我氏に強い反感をもっていました。
また、豪族のうちでも、中臣鎌足のように、蘇我氏を打ち倒そうと思っている人がいました。
鎌足は、中大兄皇子が若いながらもしっかりした人であると聞いて、なんとか皇子に近づこうと狙っていました。
皇子にあって、自分の本心を打ち明け、カをあわせて、蘇我氏をほろぼそうと考えたからです。
たまたま、法興寺でけまりの会があり、中大兄皇子も、これに出席していました。
けまりというのは、皮でつくったまりを地面におとさないように、足でけるあそびです。
このけまりの会にでていた中大兄皇子はまりを蹴ったはずみに、履いていた靴が抜けて飛んでしまいました。
鎌足は、すぐさま、そのくつを拾って、うやうやしく皇子に捧げました。
これをきっかけに、ふたりは知りあいになり、蘇我氏な倒す相談をするようになりました。
ふたりは、蘇我氏に疑われることを恐れました。
そこで、相談は、中国帰りの先生南淵請安のところへ勉強にいく道で、行いました。
蘇我氏を倒すのには、まず有力な豪族を仲間にいれなければなりません。
そこでふたりは、入鹿のいとこでありながら、入鹿とは仲の悪い蘇我倉山田石川麻呂を選びました。
中大兄皇子は、石川麻呂の娘と結婚し、石川麻呂は黒皇子たちの計画の仲間になりました。
皇子たちは、このほかにも数人の仲間をつくって、機会を待ちました。
しかし、入鹿は、非常に用心深かったので、おびきたすのはたいへんでした。
六四五年、朝鮮の使者が、朝廷に貢物をもってきました蘇我入鹿もこの貢物を届ける式にでてきました。
中大兄皇子は、この式の最中に、自ら剣をふるって、入鹿を殺してしまいました。
このため入鹿の父の蝦夷も、自分の家に火をつけて、自殺してしまいました。
これで、あれほど勢いをふるった、蘇我氏の本家も滅びてしまったのです。