今回は壬申の乱について、日本の歴史を紹介します。
667年、中大兄皇子は、都を琵琶湖のそばにある大津にうつし、つぎの年には天皇の位につきました。
これが天智天皇です。
天皇は、国内の政治に力をいれましたが、中でも日本で最初のまとまった法律といえる、近江令をつくりました。
670年には、はじめての大がかりな戸籍をつくりました。
これは庚午年籍とよばれ、広く九州から関東地方にまでおよび、後々までも重くみられました。
壬申の乱
六七一年、天智天皇が亡くなると、その後継のことで、朝廷のなかに争いがおこりました。
もともと、天智天皇は自分の子供の大海人皇子がなるはずでした。
けれども天智天皇は、自分の子どもの大友皇子が大きくなるにつれて、この皇子に、あとを継がせたいと考えてきたようです。
大海人皇子には、天皇の気持ちがわかったようです。
皇子は天皇のあとを継ぐのを遠慮して、吉野(奈良県)の山奥へ引っ込んでしまいました。
このまま、都にいたのでは、憎まれ命も危なくなるのではないかと思ったのでしょう。
しかし、大友皇子と大海人皇子の仲は、このままではおさまりませんでした。
天智天皇が亡くなった次の年には、ついに、大友皇子を中心とする近江側と、大海人皇子を中心とする吉野がわとの間に、大きな戦いがおこってしまいました。
戦いは、地方の豪族も加わり、近畿地方を中心として、約一か月つづきました。
そしてついに、大海人皇子の率いる吉野がわが勝ち、大友皇子は自殺してしまいました。
この乱を壬申の乱とよびます。
壬申の乱の結果、近江がわについた、古くからの豪族たちの勢いはは、すっかり衰えてしまいました。
そして、このあと天皇の力が、いっそう強まりました。
壬申の乱のあと、大海人皇子は、都を飛鳥浄御原(奈良県)にうつし、即位して天武天皇となりました。
天皇は、自分のことを「明神」(生きている神)と呼び、天皇中心の考えを行き渡らせようとしました。
そのため、飛鳥浄御原律令という法律をつくって、律令制を整えたり、歴史の本をつくることを命じたりしましした。
四世紀あたりからはじめられた、天皇による日本の統一も、このごろになって、ようやく、一区切りついたと言えますね。