今回は白村江の戦いについて、日本の歴史を紹介します。
654年、孝徳天皇が亡くなると、まえの皇極天皇が、もういちど位につきました。
今度は、斉明天皇といいます。中大兄皇子は、これまで通り皇太子として政治をとりました。
この頃になると、改新政治も、いちおう成功し、その勢いで、国の力を外に伸ばそうという気分が強くなつくきました。
阿倍比羅夫が七世紀の中ごろ、日本海えん岸のエゾを征伐したのは、そのあらわれでした。
エゾと言うのは、そのころ北陸から東北地方にかけて住んでいた、文化の遅れた人々です。
都の人々は、エゾのことをまるで外国人のように思っていました。
阿倍比羅夫ほ、180そうの水軍な率いて、越国 (北陸道)を出発し、海岸づたいに北へすすみました。
そして、あぎ田(秋田市)から淳代(能代)・津軽(弘前市付近)-)のエゾを従え、さらに海を渡って海道にまでいったといいます。
これは、そのころとしては、たいへん目覚ましい戦だったことでしょう。
しかし、このエゾ征伐も、一方から言えば、激しい改新治なここちよく思っていなかった人々の気持ちを、外にそらそうという狙いもあったようです。
また、阿倍比羅夫は、中大兄皇子から嫌われて、都から遠い地方にやられたのだ、という見かたもありまず。
六白村江の戦い
660年、百済は唐と新羅の連合軍にせめられて、日本に助けを求めてきました。
斉明天皇は、つぎの年、自ら九州まで出かけて軍隊の指図をしましたが、まもなく、そこで亡くなってしまいました。
そこで、中大兄皇子が、代わって指図をし、大軍を朝鮮に送りました。
663年、日本と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍と白村江(南朝鮮の錦江)で戦い、さんざんに打ち負かされてしまいました。
この結果、長年のあいだ、日本と親しくしてきた百済は滅んでしまい日本と朝鮮との関係は一旦、断ち切られてしまいました。
そればかりか、いつ唐と新羅の軍が日本に押し寄せてくるかもしれません。
中大兄皇子は、対馬・壱岐・北九州・瀬戸内海・大和の主なところに、城なつくって備えました。
そして一方では、あらためて国内の政治にカないれることにしました。