今回は飛鳥時代に栄えた仏教文化について、日本の歴史を紹介します。


天武天皇は、神をまつる儀式や制度を整えることにも熱心でしたが、また仏教をも深く信じていました。

壬申の乱のとき、大和地方の寺から助けてもらったこともあって、天皇は、大大官大済寺(百済寺)・飛鳥寺・川原寺などに、財産を寄付したりなどして、厚い保護を加えました。

そのため、寺は目覚しい勢いで発展しました。
天皇は、また仏教の教えを尊び、その教えをもとにして、いろいろな命令をだしました。

例えば、人々に悪いことなしてはいけない、肉を食べてはいけないという命令をだしたり、家ごとに仏像やお経をおいて、拝ませたりしました。

天武天皇が、686年に亡くなると皇后がその跡を継いで、持続天皇となりました。
持続天皇も、天武天皇のように、非常に仏教を大切にしたので、この二代のあいだに、仏教は、たいへん栄えました。

それで、この時代の文化は、前の飛鳥文化に劣らない、すばらしいものとなりました。
この文化な白鳳文化と呼び、この時代をとくに白鳳時代ともいいます。

この時代の文化には、前の飛鳥時代と違って、新しく唐(中国) の影響を受けた仏像や絵画が、あらわれてきました。

仏像でいえば、飛鳥時代の仏像が平たく、体の釣り合いが、崩れているのにくらべ、白鳳の仏像は、体つきが生きた人間に似て、厚みや膨らみや、釣り合いを持っているてんに特徴があります。

奈良の薬師寺にある薬師三尊像(薬師如来と、わきじの日光・月光両菩薩像)は、学者によっては反対する人もいますが、普通には白鳳の仏像の傑作と言われています。

これを飛鳥の像と比べてみれば、違いがわかるでしよう。

また、このごろの仏像について、もう1つの大きな特徴を挙げると、金銅製の仏像が、だんぜん多いということです。

金銅製というのは、銅でつくった像を金メッキしたという意味です。

これは後の天平(奈良時代)の仏像一が、そ像とか、かんしっ像とかいって、土やうるしや布で作られたものが多いのにくらべてこの時代の彫刻の特徴と言っていいでしょう。

また、あまり財産のない人々が大勢集まり、カを合わせて仏像をつくることがはやり始めたのも、この頃です。

そういうものには、あまり大きな仏像はないようですが、小さいものが、数多くつくられたところにも、
仏教の広まりがみられます。

建築は、政府や天皇が寺を盛んに建てたことや、豪族がこれに見習ったことなどから、すばらしい発達を遂げました。

中でも、川原寺や薬師寺・大官大寺などは有名ですが、この他にも、筑紫(福岡県)の観世音寺や、近江(滋賀県)の崇福寺などがあります。

このうち、今でも残っているのは薬師寺だけですが、その建物の柱の膨らみは、前の時代の、法隆寺のものに比べて、ゆるやかになっています。

外国の建築技術の影響も次第に、薄くなってきたことがわかります。

絵画としては、法隆寺の金堂の壁画が有名でしたが、1949年(昭和二四年)の火事で、すっかり傷んでしまいました。

しかし、そこに描かれた仏像の描き方は、インドから中国をへて、日本に伝えられたものだといわれますから、そこにも大陸文化の強い影響をみることができますね




関連記事