今回は律令による政治のさなか、それによる罪と罰。学校と教育はどのように行われていたのか、日本の歴史を紹介します。


成年男子の三分の一は、兵士とならねばなりませんでした。

そのうち、一部のものは、都へつ遣わされて、皇居を守る衛士となり、あるいは大宰府(福岡県)へ下って、外国から攻めてくる敵な防ぐための防人(さきもり)となりました。

衛士は一年、防人は三年で故郷に帰れることになっていましたが、実際には、なかなか、その通りには帰れませんでした。

罪としては、国や天皇や目上の人に背いた罪が重く罰せられました。

また、刑罰としては、笞(むちでうつ)・杖(つえでうつ)・徒(はたらかせる)・流(遠くの国や島に流す)・死の五種類がありました。

裁判をするのは、地方では郡司・国司、中央では刑部省・太政官などですが、他の役所でも、自分のところの役人の罪を裁くことができました。

これは、裁判所だけが裁判をやるという今日のやりかたとは、大分違っています。
中央には大学、地方には国学という学校がありましたが、これに入れるのは、貴族など一部の人々でした。

普通の人々は、教育を受けることができませんでした。

大学や国学なでると試験を受けて役人になることができましたが、貴族の子どもは学校へいかなくても25才になると、自然に位がもらえたので、あまり勉強をしませんでした。

こんなわけで、大学や国学はあまり発達しませんでした。権力は努力では越えられないものなのでしょうか……。



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