今回は裁判の歴史について、日本の歴史を紹介します。


律令の時代から武士の法律と江戸時代の法律をまず紹介します。
大昔は、神を怒らせることが罪とされました。

日本人は清潔を好み、汚れたものを嫌いましたから、神も汚れを嫌うと考えました。
清らかなことがよいことであり、汚れたことが悪いことだったのです。

人々の行いや自然の出来事によって、汚れたことがおこると、神の怒りをなだめるために、汚れを清めるお払いをしなければなりませんでした。

裁判でも、罪のあるなしや、言ったことが、嘘か本当かな、神に見分けてもらうことになっていました。
こういう裁判のやりかたとして、くかだち(盟神探湯)がありました。

くかだち(盟神探湯)では、沸かした湯の中に小石な入れ、手を入れてこれを取り出させ、火傷をしたものが裁判に負けるのです。

神は、正しい人には、火傷をさせない、と考えられていたのです。
やがて、七世紀の末頃、中国から律令が取り入れられました。

これはその頃としては、立派な法律です。
これで日本の法御制度は、大いに整えられました。

刑罰には、死刑・流刑(遠くの国や島に流す)・徒刑(はたらかせる)杖刑(つえでうつ)・笞刑(むちでたたく)の五つがありました。

死刑は、絞(首をしめてころす) と斬(首をきってころす)とのニ種で、斬のほうが重いのです。
首と体とが離れてしまったら、死んだ人の魂は生き返れない、と考えられたからです。

裁判のやりかたは、丁寧で、死刑や流刑は天皇の許しがなければ行えませんでした。
人の死に急いではいけないというので、死刑の命令な伝える使いは馬をゆっくり歩かせ、罪を許す使いは、これと反対に馬を跳ばしていくことになっていました。

律令は、奈良時代には、よく行われましたが、平安時代になると、次第に廃れてきます。
そして、仏教が盛んであったことと、日本人の世質が穏やかなことから、刑罰は軽くなりました。

810年(弘仁元年)から1156年(保元元年)に保元の乱で源為義などが斬られるまで、350年近く、朝廷では死刑を行いませんでした。

このように長いあいだ死刑をやめていた国は、世界の歴史でも、ほかに、ほとんどありません。
鎌倉時代になると律令とぼ別に、鎌倉幕府の法律制度が、幕府の治めた区域内にしかれるようになやました。

北条泰時が、1232年(貞永元年)に定めた貞永式日がそれです。
刑罰では、絞首の刑が無くなって斬首だけになりますが、指を切り落としたり、焼き印を押したりする刑がはじまります。

武士は、自分の土地を命がけで守ろうとしたので、土地の争いが多くおこりました。
そのため、幕府は土地の裁判に力をいれました。

室町時代になると、幕府を中心とした武士の法律が、朝廷の法律の代わりに、勢いを増してきました。
室町幕府が衰えてくると、行地に戦国大名がおこり、それぞれ法律を作って、自分の領内を治めました。

これを家法といいます。家法としては、武田氏の「信玄家法」、伊達氏の「塵群集」、今川氏の「今川仮名目録」などが有名です。

このごろは戦国の世の中でしたから、刑罰は日本の歴史のうちで、最も酷たらしいものになりました。
死刑には、はりつけ・火あぶり・車ざき・釜茹でなどがあり、指や手をきり、鼻や耳をそぎとる刑もありました。

喧嘩や、斬り合いがおこる上、全然調べずに両方を死刑にしてしまうという、喧嘩両成敗で、両方を罰する習わしがみられました。

江戸時代に入ると、江戸幕府や藩は最初は戦国時代のなごりで、酷たらしい刑罰を行なっていました。
けれども、平和な時代が続くにつれて、法律も次第に、穏やかなものになってきます。

八代将軍吉宗は、法に興味をもち、いろいろと法律を整理しました。

1742年(寛保二年)にできた公事方御定書という法律は、吉宗がつくらせたものです。
これは上下二巻ですが、その下巻は御定書百ケ条とよばれ犯罪にする刑罰を定めた刑法です。

藩は、だいたい幕府の法を真似ましたが、なかには中国の法を参考にしたところもあります。
罪としては主人殺しが一番重く、のこぎり引きにしてから、はりつけにしました。

その次が親殺しで、縛って人の多いところに晒した上、はりつけにしました。
主人と親に手向かうのが最も重い罪だったのです。

放火したものは、火あぶりにされました。
武士に対する死刑としては、切腹がありました。

死刑の次には、遠島(島流し)追放(江戸などから追い払う)があります。
また、指や鼻をそぐかわりに、いれずみ(腕にいれずみをいれる)、たたき(むちでたたく)の刑が取り入れられました。

親や兄が殺されるると、子や弟は、自分で相手を探し出して仇討ちをしました。

仇討ちをするときには、その前に幕府に届けを出しておかなければなりませんでした。
裁判は、白州とよばれる庭で行われました。

百姓・町人は庭の砂利の上に、僧や神主は縁側に、武士は座敷に座らせるというように、身分によって席が違いました。

裁判官は、奉行や官と呼ばれましたが、実際に取り調べをしたのは、部下である与力や留役です。
同心とか目明しというのは、今の警察官にあたり、十手を使って犯人を捕まえました。

牢屋の中でも武士と百姓・町人とでは、入る場所が違っていました。
また、本人が白状しなければ、罪にしないことになっていました。

そこで、むちうち・石だき・吊り責めなどのような拷問もおこなわれました。