犯罪者を教え、しこむため、松川定信は1791年(寛政三年)に、江戸(東京)の佃島に人足寄場というものを作りました。
ここでは、刑を終わっても帰る先のない者などを集めて働かせました。
借金をはじめ、日常の揉め事とは、当人同士で相談して片付け、できるだけ役所に世話を焼かせないようにしました。
そのため、訴えでても中々奉行所で取り上げてくれません。
また、裁判が始まっても、役人は、両方とも譲りあって、早く争いを止めるようにと勧めました。
弁護士はいませんでんしたが、裁判のために遠くから出てきた人々を止める宿屋があり、そこの主人や番頭が法触りことを教えたり、一緒に奉行所にいってやったりなどしました。
これを公事宿といいます。
女子の地位は低く、夫は離縁状さえ書いて渡せば妻と別れることができました。
最も女子もあま寺に逃げこみ足掛け三年、寺にいれば夫婦の縁を切ることができました。
これを縁切り寺といい、東慶寺(鎌倉)と満徳寺(群馬県新田)が縁切り寺とされました。
明治維新を迎えて政府は、古い制度を止めて、新しくヨーロッパのいろいろな制度をとりいれようとしました。
これは、外国と対等の付き合いや貿易をするためにも必要だったのです。
それで、法律制度もヨーロッパに習って、すっかり改めようとしました。
はじめ,日本はフランスの法律を模範にしましたが、明治の中ごろ、からはドイツを模範にしました。
わずかのあいだにョーロッパの法や法律学を学び取りました。
そして、明治時代の終わりまでに、憲法・民法・商法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法など、六法といわれる大きな法律は全て出来上がりました。
民法をつくるのに力を尽くした、梅謙次郎のような偉い、法学者もでました。
刑罰では、死刑は絞首(首をしめる)だけになり、また刑務所がつくられ、刑罰の中心は懲役刑(刑務所ではたらかせる刑)となりました。
こうして、日本の法制度は近代的になりました。
しかし、家族制度は、江戸時代の家族制度が、そのまま引き継がれました。
これは、家中心の制度で、主人の許しが無ければ、家族のものは自由に住まいを決めることも、結婚することも出来ないものでした。
このため、日常生活で最も大切な家族生活に、封建的なものが残されました。
太平洋戦争が終わったあと、日本の法律は、連合国、とくにアメリカに習っていろいろと民主的に改められました。
そのため、アメリカやイギリスの法律の考えかたが、かなり入ってきていますね。